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百年前(二)
蹄の音が霧の経ちこめる早朝の静寂を次々と打ち砕いていく。
「ジェイジェイ、もっと急いでくれ!」
『急いでいる。これ以上は無理だ』
冷たい空気が肌を突き刺し吐く息は白く煙る。
ジェロモンは怒りで顔を赤くさせながら小高い丘の上の神殿に駆け込み、ガランとした神殿内で叫んだ。
「神よ、私を試したのですか!」
暫くして現れたマルセラン神が放った言葉はジェロモンが予想だにしない内容だった。
「君はもう神の世界に入ることはできない」
「なんだって!? 約束した通り帝国の民は豊かで幸せな生活を送っている!」
あと一年でその約束を果たすことができるのだ。
それなのにいったいどういうことかと、ジェロモンは神にくってかかった。
「君の精神性では無理なのだ。裏切り、不貞を犯す邪な醜い心を持つ者は神の世界に入ることはできない。諦めよ」
「な……聞いてない……そんなことは聞いていません! それにあれは神の仕業でしょう? 私に罠をかけたも同然だ! 何故あんなことを!? 初めから仰って下されば俺だって……!」
いつの間にかマルセラン神の横に立っていたアルマン神が小刻みに震える彼に言った。
「したらいけないと言われたことをしないのは当然の事。神の世界に入れる精神性は、何も制限されない状態での心の有りようで決まるんだよ。君は自分自身をコントロールできず欲望に負けた。それは君の精神性がそこまでということを示している。立派に帝国を治めていたことは認めよう。それだけに本当に残念だよ」
「……だとしてもあのやり方は酷い!」
「なら聞こう。デジールを愛していたのか?」
「そんなことはありません! ですが、あれではどんな男でも……」
言ってからジェロモンは自分の愚かさに気付いた。
こんな反論、自分の精神性が低いと言っているのと同じだ。
「人間とはまことに煩悩にまみれた欲深い生き物だ」
人間の煩悩は消すことなどできない。
しかし彼は神の血を引いているため普通の人間よりも自己をコントロールする力は優れているはず。
だからこそ神殿に入れるよう生まれついたのに、神の世界に入るための最も重要な要素である“愛”――高次の精神――が、“煩悩”――低次の欲――に負けてしまったのだ。
ジェロモンは五年も経たずして神の世界に入れないことが決定した。
コラリーヌに会わせてくれ、もう一度チャンスをくれと何度も懇願したが全く取り合ってもらえない。
「もう終わったのだ。諦めよ」
マルセラン神の冷たく感情のない言葉は彼にもう望みは無いと悟らせるのに十分だった。
神殿に長い沈黙が続く。
ジェロモンの脳裏には彼女の最期の言葉がぐるぐる廻っている。
瞑った目から涙が滲み出てきて沈黙が終わる。
彼は声を振り絞って言った。
「コラリーヌに、愛していると伝えてください。そして許してくれと……」
震える声は神にも聞き取れないほどの小ささだったが、神は頷いた。
出口へと力なく歩きはじめたジェロモンにマルセラン神が言った。
「今日の日没を持って皇帝の神殿に入る能力は失われる。今後は皇帝としての務めを果たすことだけに尽力せよ」
※※※
ジェロモンが神殿に入れなくなったその次の年、天候不順により農作物が不作となった。
不作への施策は各領主が適切に対応してどうにかなったものの、ジェロモンは徐々に皇帝としての務めを貴族任せにして政務にも関心を示さなくなった。
貴族らは、これを神殿に入れなくなったことによる一時的な精神的ショックからくるものと思っていた。
その後、勧められるままに貴族の娘レリアンと結婚。
彼女は多くの子息から結婚を申し込まれるほどの可愛らしい女性だ。
この結婚によって皇帝も元気を取り戻すだろうと彼女は皆から期待を寄せられた。
しかしジェロモンは彼女に全くの無関心で、結婚前となんら変化はなかった。
そのせいで、なんの役にも立たない期待外れの皇后だと陰口を叩かれるようになる。
真面目で繊細なレリアンはなんとか皇帝とのコミュニケーションを図ろうとするがそれも悉く失敗に終わり、心が疲弊してしまった。
追い打ちをかけたのが、世継ぎを急かされたことだ。
彼女は精神的に追い詰められていく。
部屋から出ず塞ぎ込んで一日中ベッドで過ごすようになってもジェロモンが彼女を心配することは無い。
日差しが心地よくうららかなある春の日、数か月振りに部屋から出たレリアンはサンザシの花を髪に飾って機嫌よく一日を過ごした。
突然のその行動に、不審がるものは誰もいない。
その日の夜、内扉から皇帝の部屋に入ったレリアンは眠る皇帝の顔をじっと見つめた。
その気配に目を覚ましたジェロモンは、追い返そうと眠い目を擦り起き上がった。
これまでもこういうことは何度もあったのだ。
だが今回は違った。
彼女の手元に鋭く光るものが目に入り一気に緊張が走る。
「何をしている」
刃先はジェロモンには向いていない。
彼女は皇帝のベッドの上で命を絶つつもりだ。
「馬鹿なことは止めろ、おい」
「陛下は……私の名前を御存知ですか……」
彼女の瞳から涙が溢れ出しナイフが胸に振り下ろされた。
その瞬間、止めようとしたジェロモンと彼女は揉み合いになり……。
肉を貫く鈍い音。
激しい痛みと真っ赤に染まる胸。
ジェロモンはこの世にいらないのはお前の方だと宣告された気がした。
薄らいでいく意識の中、かすれていく瞳が最後に映したのは泣き叫ぶ彼女の顔だった。
「ジェイジェイ、もっと急いでくれ!」
『急いでいる。これ以上は無理だ』
冷たい空気が肌を突き刺し吐く息は白く煙る。
ジェロモンは怒りで顔を赤くさせながら小高い丘の上の神殿に駆け込み、ガランとした神殿内で叫んだ。
「神よ、私を試したのですか!」
暫くして現れたマルセラン神が放った言葉はジェロモンが予想だにしない内容だった。
「君はもう神の世界に入ることはできない」
「なんだって!? 約束した通り帝国の民は豊かで幸せな生活を送っている!」
あと一年でその約束を果たすことができるのだ。
それなのにいったいどういうことかと、ジェロモンは神にくってかかった。
「君の精神性では無理なのだ。裏切り、不貞を犯す邪な醜い心を持つ者は神の世界に入ることはできない。諦めよ」
「な……聞いてない……そんなことは聞いていません! それにあれは神の仕業でしょう? 私に罠をかけたも同然だ! 何故あんなことを!? 初めから仰って下されば俺だって……!」
いつの間にかマルセラン神の横に立っていたアルマン神が小刻みに震える彼に言った。
「したらいけないと言われたことをしないのは当然の事。神の世界に入れる精神性は、何も制限されない状態での心の有りようで決まるんだよ。君は自分自身をコントロールできず欲望に負けた。それは君の精神性がそこまでということを示している。立派に帝国を治めていたことは認めよう。それだけに本当に残念だよ」
「……だとしてもあのやり方は酷い!」
「なら聞こう。デジールを愛していたのか?」
「そんなことはありません! ですが、あれではどんな男でも……」
言ってからジェロモンは自分の愚かさに気付いた。
こんな反論、自分の精神性が低いと言っているのと同じだ。
「人間とはまことに煩悩にまみれた欲深い生き物だ」
人間の煩悩は消すことなどできない。
しかし彼は神の血を引いているため普通の人間よりも自己をコントロールする力は優れているはず。
だからこそ神殿に入れるよう生まれついたのに、神の世界に入るための最も重要な要素である“愛”――高次の精神――が、“煩悩”――低次の欲――に負けてしまったのだ。
ジェロモンは五年も経たずして神の世界に入れないことが決定した。
コラリーヌに会わせてくれ、もう一度チャンスをくれと何度も懇願したが全く取り合ってもらえない。
「もう終わったのだ。諦めよ」
マルセラン神の冷たく感情のない言葉は彼にもう望みは無いと悟らせるのに十分だった。
神殿に長い沈黙が続く。
ジェロモンの脳裏には彼女の最期の言葉がぐるぐる廻っている。
瞑った目から涙が滲み出てきて沈黙が終わる。
彼は声を振り絞って言った。
「コラリーヌに、愛していると伝えてください。そして許してくれと……」
震える声は神にも聞き取れないほどの小ささだったが、神は頷いた。
出口へと力なく歩きはじめたジェロモンにマルセラン神が言った。
「今日の日没を持って皇帝の神殿に入る能力は失われる。今後は皇帝としての務めを果たすことだけに尽力せよ」
※※※
ジェロモンが神殿に入れなくなったその次の年、天候不順により農作物が不作となった。
不作への施策は各領主が適切に対応してどうにかなったものの、ジェロモンは徐々に皇帝としての務めを貴族任せにして政務にも関心を示さなくなった。
貴族らは、これを神殿に入れなくなったことによる一時的な精神的ショックからくるものと思っていた。
その後、勧められるままに貴族の娘レリアンと結婚。
彼女は多くの子息から結婚を申し込まれるほどの可愛らしい女性だ。
この結婚によって皇帝も元気を取り戻すだろうと彼女は皆から期待を寄せられた。
しかしジェロモンは彼女に全くの無関心で、結婚前となんら変化はなかった。
そのせいで、なんの役にも立たない期待外れの皇后だと陰口を叩かれるようになる。
真面目で繊細なレリアンはなんとか皇帝とのコミュニケーションを図ろうとするがそれも悉く失敗に終わり、心が疲弊してしまった。
追い打ちをかけたのが、世継ぎを急かされたことだ。
彼女は精神的に追い詰められていく。
部屋から出ず塞ぎ込んで一日中ベッドで過ごすようになってもジェロモンが彼女を心配することは無い。
日差しが心地よくうららかなある春の日、数か月振りに部屋から出たレリアンはサンザシの花を髪に飾って機嫌よく一日を過ごした。
突然のその行動に、不審がるものは誰もいない。
その日の夜、内扉から皇帝の部屋に入ったレリアンは眠る皇帝の顔をじっと見つめた。
その気配に目を覚ましたジェロモンは、追い返そうと眠い目を擦り起き上がった。
これまでもこういうことは何度もあったのだ。
だが今回は違った。
彼女の手元に鋭く光るものが目に入り一気に緊張が走る。
「何をしている」
刃先はジェロモンには向いていない。
彼女は皇帝のベッドの上で命を絶つつもりだ。
「馬鹿なことは止めろ、おい」
「陛下は……私の名前を御存知ですか……」
彼女の瞳から涙が溢れ出しナイフが胸に振り下ろされた。
その瞬間、止めようとしたジェロモンと彼女は揉み合いになり……。
肉を貫く鈍い音。
激しい痛みと真っ赤に染まる胸。
ジェロモンはこの世にいらないのはお前の方だと宣告された気がした。
薄らいでいく意識の中、かすれていく瞳が最後に映したのは泣き叫ぶ彼女の顔だった。
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