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憂鬱な転生【カノンの場合】

1.ヒロインの光と影

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 ――水の音が聞こえる。

 水が流れ、そして時折その飛沫が跳ねる音。この音はなんの音だっただろうか。
 ――あぁ、そうか水槽のフィルターから流れる水の音か……。
 このあいだ、お父さんがまた水槽を増やしていた。あんなに大きな水槽……、世話が大変だろうに青にオレンジに黄色、またたくさんの熱帯魚を買ってきていた。
 ということは、きっとまたリビングで寝てしまったのだろう、と彼女は思った。こんな所で寝ていたら、また母親にネチネチと言われるだろう。
 母親の口癖が耳にこだまする。
『もっと常識的に考えて』『あなたのことを思って言っているの』
 ……また口うるさく言われる前に、母親が気が付く前に部屋に戻らなくては。

「ん……」

 気怠い身体をなんとか動かそうと、手足に力を込めてみる。それでも身体は重しがついたように動かなかった。
 なぜか、水音は先ほどよりも激しくなったように、耳元で更に大きく響く。

 ――あぁ、早く起き上がらなくちゃ……。

 とぷん、と水に沈むように、彼女の意識はそのまま、深く落ちていった。


 ◇◇◇◇◇


 そして次に目が覚めた時、そこは覚えのない教室の机の前だった。

「ん……?……ん??」

「カノンちゃーん?大丈夫?なんか今寝ちゃってたんじゃない?」
「は……?」

 覚えのない人に、覚えのない名前で呼ばれて、困惑を返すことしかできない。
 しかも周囲も自分も制服を着ている。
 ――制服って…!?さっきまで家で寝ていたはずなのに。
 頭の中が?マークでいっぱいになる。なんなんだろう、ここは。

「今日編入試験の合格発表の日でしょ? 昨日眠れなかったの? もうそろそろ先生が持ってきてくれる頃だよね~! 私まで緊張してきちゃったよぉ」
「へんにゅう……?」
「やっだ、寝ぼけてるのぉ? だいじょうぶ?」
「いや……、大丈夫っていうか……」
「?」

 その時ガラッと勢いよく教室の引き戸が開けられた。「おーい舞宮―」初老の男性がそう呼んでいる。
 困惑と混乱から抜け出せない頭の中、その男性が誰かの名前を呼びながら、自分のことを見ていたから、どうやら自分のことを呼んでいるらしいということはわかった。微かな声でなんとか「はい……?」とだけ返した。
 ――なんなんだここは、夢の中なの?それにしてもリアルすぎる。

「ほら届いたぞ、試験の結果」
「はぁ……」

 封筒を手渡される。その白地に青の縁取り、麗華音楽学園の文字、――何か見覚えがある。そして、そこに記された『舞宮カノン様』という名前……!?

「これって……!!」

 見覚えのあるこのシーン、この封筒、このクラスメイト、この担任……!
 ただし見たのは、画面の外から第三者として、だけど。

「カノンちゃん……!?」
「おい! 大丈夫か!?」

 グラリ、と大きな眩暈がし、今度こそ彼女はその意識を手放した。


 ◇◇◇◇◇


「カノンー、ママもう行くからね。今日から学校ガンバってね~!」
「はーい。私ももう出るー」

 洗面所のドアから顔をだしたスーツ姿の母親はひらひらと手を振って、玄関を慌ただしく出て行った。
 カノンは、もう出なければならない時間は迫っているのに、なかなか身支度が終わらないでいた。

「うーん……、やっぱりこっちにしようかな……」

 悩んだ末、髪留めを手に髪をハーフアップに結ぶことにした。鏡の前でくるりと回って後ろ姿もチェックする。
 甘い香りのする透明なリップグロスを、小指につけて薄く唇にまとった。
 わずかな化粧、でもそんなものがなくても、彼女の肌は艶々と健康的な色にきらめき、ぱっちりとあがったまつ毛とともに、朝の光に照らされてその輪郭はキラキラと薄く発光するかのように輝いていた。

 初めて着る制服はどこか居心地が悪く感じたが、これを着た姿を鏡に映すと、見覚えのあるあのゲームの主人公の姿そのものだ。
 緊張なのか期待なのか不安なのか、ドキドキする鼓動を抑えることができない。

「よし…っ」

 そう呟いて、小さな星が散りばめられたデザインのブローチを左胸につけた。
 ――今日から始まる。そう、今日から私にとっての戦いが始まるのだ――。

 ◇◇◇◇◇


 この世界で主人公に、舞宮カノンになっていると知った時に、まず初めに感じたのは戸惑い、困惑、そして憤り。喜びには、ほど遠い。

 もともと彼女は旧態依然とした厳格な祖父、単身赴任で不在の父親、祖父の目を恐れいいなりになる母親のもとで育った。
 母親の好まないことをすると、ひどくヒステリックに騒ぎ立てられた。学生時代は特にうるさく、成績が落ちても、門限の時間を少し遅れただけでも説教。言いつけを破った時の説教は深夜まで続くこともざらだった。
 穏便に暮らすために、母親の機嫌をうかがうことが普通になっていた。
 そうしている内にいつからか、母親の望まないことをするのが怖くなっていった。

 地元の大学を卒業後は母親に勧められるがまま、実家から通えるからという理由で、地元の市役所に就職した。気が付けば、日々になんの楽しみも見いだせないまま、いつの間にか28歳になろうとしていた。

 それは先月のことだった。
 普段はネットショッピングばかりだけど、いつものように真っ直ぐ家に帰るのもつまらなくて、たまたま入った本屋のなかをぶらぶらとしていた。
 そんなとき、平積みにされた雑誌のなかに“10周年!不朽の名作、新作ドラマCD発売!!”と銘打った見覚えのあるキャラクターが目に入った。
 表紙に描かれたのは白い地の高校の制服を着た、黒い髪、濃紺の瞳の男の子、ふわふわとした赤い髪の猫のような大きな瞳の男の子のイラスト。
 そして何よりも、大きく描かれたヴァイオリン。
 それはよく覚えている、彼女が高校生の時に発売されたゲームだった。
 アルバイトも禁止されていたため、携帯ゲーム機もソフトも、親の許しなしには買うことが出来なかった。すごく興味を惹かれたけれど、買うことを諦めて、そのままその存在そのものすら忘れていたゲーム。

 その表紙の男の子たちはまだ、あの頃の自分と同じ高校生だ。

 気が付いたら、その本の前から動けなくなっていた。
 縫いとめられたように、表紙から視線を外すことができない。
 ……そうしてそれを眺めていると、これまで自分の諦めていたものが、諦めたという自覚すらなかったものが、ぶわっとフラッシュバックした。
 続けたかったヴァイオリン、あの時欲しかったスカート、あの時行ってみたかったコンサート、あの時読むことのできなかった手紙――。

 こみ上げる衝動に従い、本屋に併設しているゲーム売り場に、そのままの足で立ち寄った。
 そうして初めて買ったゲームが『聖なる音を紡ぐ鐘』だった。

  
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