一度でいいから、抱いてください!

瑞月

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憂鬱な転生【カノンの場合】

12.雨のまえ

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「――お母さん、本当にヴァイオリン辞めなきゃだめ……?」

 西向きの窓から射す赤い光が、キッチンの影を濃く落としている。
 キッチンに立つお母さんに向かって、必死に声を絞り出してそう告げたけれど、夕飯を用意しているお母さんは、こちらを見てくれることはなかった。
 しんと静まった部屋のなか、ぐつぐつと何かを煮込む音と、シャッシャッと魚の鱗をとる音だけがキッチンに響いている。

「……」

 しばらく経っても、ここから立ち去ることも出来ず、何も言わないお母さんをじっと見つめていた。私の声が聞こえなかったのかと思い、もう一度口を開こうとしたとき、「あぁもう、鯛は鱗が面倒くさいわね」そう言って、やっとお母さんが顔を上げてくれた。
 私は魚は食べないから、きっとおじいちゃんの分だろう。おじいちゃんは毎食なにか魚料理がないとお母さんを怒鳴りつける。

「あの、おかあさ――…」
「もう決まったことなのに、何言ってるの。おじいちゃんが、家でヴァイオリンの音が鳴ってるのはもう嫌だっていうんだから仕方ないでしょう。うるさいって、お母さんが怒られたのよ。それよりも、今日返ってきたテストの結果なに? お父さんもこんな成績じゃあ心配するわよ」

 私はヴァイオリンケースをぎゅっと抱きしめた。やっと弾ける曲が増えてきたのに……。教室の先生も才能あるって言ってくれたのに。
 お母さんは私が何か言うとすぐ、勉強しなさい、恥ずかしいって言う。でも、今日のテストだって一番ていう訳じゃないけど、そんなに悪くはなかったはずなのに。

「……あの……、勉強、もっと頑張るから、ヴァイオリンは続けてもいい……?」
「はぁ……」

 大きく吐き出された溜め息に、身体がビクッと強張る。

「これから中学受験だってあるっていうのに、まだ言ってるの? ヴァイオリンなんて続けたって、貴方がヴァイオリニストになんてなれる訳ないでしょ。やるだけ無駄よ。
 それよりとにかく、もう塾も申し込んだんだから勉強をちゃんとしてちょうだい。
 受験に失敗するなんてことになったら、お母さん恥ずかしくて外歩けないわよ。あんまり我がまま言わないでちょうだい」

「……」

 私は何も言い返せなくなってしまった。
 確かに、私がただヴァイオリンのことが好きなだけで、将来ヴァイオリニストになんてなれっこない。なれる訳がないんだから、これは私のわがままだ。

 滲む涙をぐっと堪えた。泣いたりしたら、きっとまたうるさいって怒られてしまう。
 涙がこぼれないように眉間に力をこめた。そうして懸命に涙を堪えながらキッチンを離れようとしたその時、お母さんは私に向かって「ちょっと」と声を掛けてきた。
 ちらっとお母さんの方を振り返る。夕陽が逆光になって、お母さんの表情はよく見て取れない。眩しさに目を細めて、お母さんの言葉を待った。

「音楽教室で一緒の綾ちゃん。――あの子、ちょっと粗雑で、言葉遣いが下品なところがあるでしょう? もうあの子と付き合うのはやめなさいね」

「――!!」

 今度こそ、目の前の光景が水に沈んだ。揺れる視界のなか、お母さんの姿が滲み、黒い影が小さくゆらゆらと揺らめいていた。
 鼻の奥がツンと痛んだ。そして元気に笑う、綾ちゃんの顔が思い浮かぶ。
 綾ちゃんは男の子みたいに元気で、髪も短いけれど、ピアノが大好きな、私の大事なお友達だ。

 ――綾ちゃんは、下品なんかじゃない、優しい子なの。

 私が言いたかった言葉は音になることはなく、吐き出した空気がポコポコと泡になって消えていくだけだった。


 ◇◇◇◇◇


 ピピッ

「さんじゅう、はちど……」

 カノンは体温計をベッドの脇に置くと、もう一度重い身体を引きずるようにして、寝返りをうった。結局、体調不良は日々の疲れによる風邪のようだった。
 熱のせいかギシギシと関節が痛む。寝苦しさに眉間に皺が寄るのを感じた。
 こうして浅い眠りを繰り返しながらベッドに横になっていると、とりとめもなく以前の自分の、しかもこれまで見ることはなかった幼いころの夢を見た。

 ――綾ちゃん、か……。大好きだったな……。

 彼女のことは、全く忘れてしまっていた。でも、今日の彩音のことがあったからだろうか、彩音とはどこも似ていないのに、夢の中にいつも笑顔だったあの子がたくさん出てきた。
 あの時母親はああやって言ったけれど、あの子は優しい子だった。音楽教室で他の生徒に嫌がらせをされた時も、あの子はすぐに庇ってくれた。
 あの子とあの後どうしたのかは、思い出せない。
母親の言うとおり付き合いを辞めてしまったのか、音楽教室を辞めたことで自然と疎遠になってしまったのか。
 あの頃から母親は自分の交友関係に口をだし、時に強行手段に出て、管理するようになっていったように思う。
 あの後、母親の言うとおり音楽教室を辞め、塾に通い始めた。
 そして、母親の望む私立の中高一貫校に入学することができたけれど、そこで母親が選別した『お友達』とは、うまく付き合えなかった。
 そんな苦い感情までも、つられて記憶の底から浮かび上がってくる。

 もう一度固く目を瞑り、まだ熱い息を吐いた。夢現を漂うカノンには、その吐息も泡になって消えていくような気がした。

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