あなたの檻の扉をひらいて

瑞月

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7.薬指への置き土産

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「……ん……える……?」

 放たれた呟きは、静まり返った室内にぽつりと浮かんで、消えていった。
 返事を求めて薄く目を開けると、カーテンの隙間から漏れる薄明りが、いつもの起床時間よりもまだ随分と早いことを物語っている。
 ──そういえばエルは出張って言ってたっけ……。
 ぼんやりとカーテンの水玉模様を見つめながら、私は夢うつつの頭でようやくそれを思い出す。
 今日の朝早くに、トーリアに発たねばならないと言っていたんだっけ。

『行きたくない。離れたくない。リコもスーツケースに詰めていきたい』

 駄々っ子のように私を離そうとしなかった昨夜のエルの様子が思い浮かぶ。

 リコを刻みつけたいとか言って、あんなに激しく執拗にセックスしたのにきちんと起きていけたなんて、すごいな。
 もしかしたらエルのことだから、眠らないで行ったのかもしれない。
 だって寝付いた時には汗みずくだった私の身体はきちんと清められ、部屋着を着せられている。
 頬もぷるぷるだ。
 エルが、眠った私の世話を甲斐甲斐しく焼いていったことは想像にかたくない。

(1ヶ月はかかると言っていたっけ……)

 ここ最近は週末の度に逢っていたから1ヶ月でもすごく長く感じてしまう。だって、最近の私はエルと会える週末を楽しみに日々を過ごしていたから。
 甘やかされながら美味しいものを食べて、たくさん話をして。
 給餌は本能だから、とかなんとか言って、エルはたくさん私に食べさせたがるから困る。

(このままだと太っちゃうな)

 私はそんなことを思いながら、毛布を手繰り寄せ、エルの寝ていた方へごろりと寝返りを打った。
 深く息を吸い、まだ残っているエルの匂いを感じながら眠りを引き寄せようとした時、何かが意識に引っかかった。
 ──いま、なにか……?
 さっき、何かが視界の端でチラリと光を反射した気がする。
 私は、恐る恐る左手を目の前に掲げた。

「え!? ……これって」

 左手の薬指には、大きな石のはめ込まれた金色のリング、眠る前にはなかったものだ。
 一気に目が冴えて、私は目を見開いた。
 ――綺麗……だけど、この石の大きさといい、薬指といい、もしかして、これは……。
 確かに25の時ひとりだったら結婚しようって言われていて、それでエルは7年ぶりに私の前に現れた。
 そうして再会してかれこれ3ヶ月。
 このタイミングでの指輪っていうのは、きっと婚約指輪とか………きっとそう考えても勘違いではないと思う。
 でも、私は未だにエルに好きだと言ったこともなければ、恋人だと言ったこともない。
 実際の関係からすれば、そんなの関係ないのかもしれないけれど。
 それでも、どこかでエルを恋人だと認めるのに、逃げを打つ自分がいるのは確かで。
 エルと会っていると気持ちいいほうに流されるままに、今まで真面目に私たちの関係について、今後についてなんて話したこともなかった。
 わざと快楽に弱い私を甘やかして冷静にならないように手を尽くされていた気もしなくもないが、今の状態は私にとっては宙ぶらりんなのだ。
 ……だったはずなのに、それなのに、こんなもの受け取ってしまったら、ふたりのふわふわした関係にカタチができてしまう。名前がついてしまう。
 そうしたら、今のままではいられないっていうことで。

(…………うん、とりあえずエルが帰ってくるまでは答えは保留にしておこう)

 寝ぼけた頭でそこまで考えを巡らせて。
 そうして視線を巡らせたベッドサイドのチェストには、ご丁寧にリングのケースが置かれてあるのが見えた。
 青いレザーのリングケース。
 薄明かりの下で、銀色の刺繍がキラキラと反射している。
 ──普通、ひとの指に勝手にリング嵌めていくひとは、リングケースは置いていかないだろうに。
 私がとりあえず外そうと考えるだろう、そう思っていたっていうことだ。
 ……やっぱりエルは私の思考を読んでいる。

 ★*゜

「おはようございまーす。あれー? 綾瀬さん珍しく今日早いですね」
「あ、おはよう。うん、──ちょっと早起きしちゃったから」
「? そうなんですね」

 結局私はあのまま眠りにつくことができないまま、出社の時間を迎えてしまった。
 普段より30分以上は早まった出社時間に、隣の席の同僚からは訝し気な視線が投げられている。
 結局迷った結果、あのリングは起きた時に外してきてしまった。
 透き通った石の真ん中に、模様のように朱が滲んでいるリング。
 文句なしに美しいそれを付けていたい気持ちはあるのだけれど、今はまだ、ちょっと。

 そうして困ったような、ニヤけてしまうような、そんな感情を欠伸と一緒にかみ殺したところで、同僚と目が合った。
 まだ私のことを胡乱げに見つめていたようだ。

「やっぱり綾瀬さんって最近彼氏とかできたんですか?」
「え? 何を突然」

 自分の机のうえのパソコンの電源を押した私の指先をみて、やっぱり違う、と隣の同僚の桃田ミアは呟いた。
 今日もばっちりとメイクして、セミロングの髪をきっちりと巻いている。
 服にも靴にも手を抜かず、スタバのコーヒー片手に出社してくる。
 あのメイクと髪を整えるのに、一体何時に起きてるんだろうと感心してしまう。

「いや綾瀬さん、どう見てもすっごい変わりましたよね。なんかこう、全身からフェロモン? 幸せオーラが噴出してるっていうか。髪の先から爪の先までツヤッツヤですし」
「……そうかな」

 彼女の視線は褒められるというより、探られているようで落ち着かない。
 エルに整えられた住環境によって、私の生活スタイルは一変した。
 栄養満点の食事に、見たこともないような美容ケア。
 エルはうちに訪れたとき、毎回たくさんの料理で冷蔵庫も冷凍庫も満タンにしていく。そして週末に行われるエステのような身体のケアと、蕩けるようなセックス。
 エルといない間に不摂生していると、会った時に何故か瞬時にバレてしまうので、普段も健康的な生活を心掛けている。
 整えられた生活に、確かに体調はここ数年で一番いいのは確かだ。
 再会したエルはスペックも高すぎるけれど、通い妻にしても出来が良すぎる。

「自分磨きにエステとか行ってるんですか? やっぱ彼氏さんのため?  コスメとか変えました? 最近どこの使ってるんですか?」
「うーん、自分磨きっていうか……、うん、まぁまた今度ね」
「マジで教えてくださいね! 私いま婚活で必死なんで」

 そう言って桃田さんはスマホを手にした。
 私に見せるように立ち上げたアプリには、ピンクの背景に数個のアイコンとメッセージの通知が光っている。

「それってマッチングアプリ?」
「そうですー。私もうとっとと結婚したいんですよねー。バリキャリとか無理ですし、そもそも仕事が向いている訳じゃないってわかったんで」

 溜息交じりに言い放たれたその言葉に、閉口してしまう。ここ、会社だぞ?
 しかも私は彼女のOJTトレーナーだったのに。
 いっぱしの社会人に育てる一助にはなったはずの先輩の前で、悪びれずそんなことを言い放つ彼女に呆れてしまう。

「まあ、今はちゃんと仕事しなさいよ」
「わかってますよー。あ、そういえば聞きました? さっき総務の子が言ってたんですけど、今日フクオカ支社の宮下さん出張で本社来るみたいですよ」
「宮下くんが?」
「突然決まったみたいですよー。確か綾瀬さんって同期でしたよね。えー、もし飲み会とかするなら私も誘ってくださいね! 宮下さんって出世街道間違いなしだし、顔もいいし素敵じゃないですか」
「…………考えとく」

 下心いっぱいに微笑む桃田さんは置いといて、私は立ち上げたパソコンのメールをチェックする。そこにはちょうど宮下の名前が表示されていた。

(あ、宮下くんからだ。───うーんと、今日?)

 それは今まさに会話に上がっていた同期の宮下トオルからのメールだった。
 内容は今日の夜、久しぶりに同期で飲みに行かないかというもの。
 彼が支社に転勤になる前は、最初に配属された部署が同じだったこともあって、よく飲みに行っていたものだ。
 入社したてのあの頃、宮下くんにはよく愚痴を聞いてもらっていた。

(久しぶりだなぁ。店の希望を教えてください、か。無難な居酒屋よりも、宮下くんなら肉食いてーって言うかな)

 彼は学生時代にラグビーをやっていたらしく、ガッチリしたスポーツマン体型で、仕事も猪突猛進型だ。
 背が高くて、ともすれば威圧感を与えかねない体躯だが、彼の整ったマスクから繰り出される人懐っこい笑顔には、ファンも多い。
 あれは、クレーム対応で残業が深夜に及んでしまった日だった。
 まともな食事も取れないまま、数名でひたすらにモニターと睨めっこしていたとき、宮下くんは突然「あーー! 
 肉食いてぇーー!」と叫んだのだ。
 深夜だしストレスが溜まってたんだろうけど、それが普段マジメな彼らしくなくて、妙におかしくて。
 結局それからご飯はちゃんと食べてから頑張ろう、ということになり、残業メンバーが交代で近くの屋台にご飯を食べに行った。

(なんか学生時代みたいで楽しかったな)

 それからうちの部署は残業の時には、夜食に行くのが定番になったんだっけ。そんなことを思い出し、口元にふふっと笑みが浮かぶ。

「…………」
「……いや、なんでもないわよ」
「何も訊いてませーん」

 なんとなく隣から圧を感じる。
 私は一つ咳払いをしつつ、メールの返信を打ち始めながら、かかってきた電話で桃田さんからの視線を遮った。


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