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第一章の2

お通夜

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 私は黒い服を着せられていた。お通夜があるためだ。
 ろくに会ったこともない親戚に挨拶したり顔を見られたりしなければならない。人に会うのが嫌すぎて、私はおじいちゃんの書斎に引きこもっていた。
 書斎はおじいちゃんが仕事をする場所だから基本的に入ってはいけないのだけど、おとなしくしているなら、という条件で、けっこう入りびたっていた。この家の中では、一番好きな部屋だった。
 本棚独特の古めかしさと畳が入り交じった匂い。直射日光が当たらないようにカーテンで閉じられた少しうす暗い雰囲気。ドアを入って正面はおじいちゃんの仕事机と庭に面した窓。両側は天上まで届く本棚にほんがびっしり。どれもこれも触ればページがほどけて崩れてしまいそうな本物の古本。本ですらない、墨で書かれた紙切れも、おじいちゃんは分類して保存していた。おじいちゃんは歴史学者で、江戸時代の人たちの生活を研究してたらしい。
「じいさん、学者といっても名ばかりで、金を持っていたわけじゃないからな。どうせなら、俺らにもっと財産残してくれよ。この家も売ったところでいくらになるか」
「しーっ。声が大きいよ」
「誰も聞いてねえよ」
 すぐ前の廊下を、しゃべりながら通り過ぎていく人がいる。無神経な人たち。自分が傷つけられたときは何日でも怒り続けるくせに、人を傷つけるのは平気な人たち。実は聞かれていたと知ったら、どんな顔をするだろう。もしも私が突然バーンとドアを開けて出て行ったら。いいえ、きっと平気な顔で開き直るに違いない。恥という感情すら持っていない人種なんだから。相手にするだけ時間の無駄。
 私はこみあげてきた涙を手の甲でぬぐいながら、声を殺して泣いた。
 まだまぶたが腫れている状態のときに、お母さんが呼びに来た。お通夜が始まるから出てきなさいと言われて、しぶしぶ部屋を出た。
 田舎の人と都会の人が入り交じった、不思議な空間になっていた。都会から来た人、田舎に住んでいる人、服装の違いですぐに分かる。都会の親戚は自宅で行う葬儀は初めてみたいで、戸惑っている。手伝いに来てくれた近所の人たちは、都会風のしきたりが珍しくて、キョロキョロしている。
 両親にくっついていると、来る人来る人に挨拶してまわるので、人と顔を合わせるのが苦痛でたまらない。
「真名ちゃんは、ずっとおじいちゃんと暮らしてたから、ショックだったでしょうね」
 話しかけてくれる人もいるが、正直誰なのか知らない。無言でお辞儀しながらじりじりと距離をとる。純粋に親切な人なのかもしれないけど、顔を見て言葉を返して会話を続けるなんて、私にはとても無理だ。
「いやぁ、ちょっと人見知りの激しい子で」
 両親も挨拶で忙しい中かばってくれるが、とても追いつかない。
『ああ、あれが不登校の子ども』
 ひそひそと噂話しているのが手にとるように分かる。
  お坊さんのお経とお焼香が終わって、早々に部屋に引き上げようとしたときだった。母の兄、つまりおじいちゃんの長男で、私にとっては叔父に当たる人が話を始めた。
「早速明日古本屋に来てもらうことにしたよ。俺も、そんなに何日も休めないからな」
「え?」
「え?」
 声を出したのは私だけではなかった。おじいちゃんの本を売る?
「でも、学術的な価値のある本なのでしょう? 研究室とかに引き取ってもらったほうが」
 父と母が反論している。
「だから、大学図書館とも提携している古本屋なんだよ。一旦まとめて引き上げてもらって、向こうで勝手に振り分けてくれって言ってある」
「待って。売るなんて、私が管理します。おじいちゃんの本は、私が」
 必死なあまり、私は自分から声を発していた。書斎から本がなくなったら、あの部屋は書斎じゃなくなっちゃう。
「真名は、家に戻ってらっしゃい。学校のことは後で考えるとして、この家に一人暮らしというわけにはいかないでしょう」
 私は完全に一人でここに住み続けるつもりでいた。そんなわけにはいかないのに、言われるまで気づかなかった。大人たちから、『やれやれ』とう目で見られてしまう。
「あのね、真名ちゃん。本だけじゃない。この家は、すぐにでも売りに出すから、もう住めないんだよ。家は持っているだけで税金がかかってたいへんだからね」
 ショッキングなことを何の遠慮もなく次々と宣言してくる。
「そんな、そんな……」
 唇が震えて言葉が出てこない。
「真名ちゃんの部屋があるんだね。家具まで置いてあるみたいだけど、すぐに引っ越しできるように準備しておいてくれよ。買い手が見つかったらすぐに引き渡すから」
「わ、私、この家に一人でも住むもん!」
 わあーっと泣きながら、自分の部屋ではなく、おじいちゃんの書斎に逃げこんだ。鍵なんてないから、誰も入って来ないようにドアの前に扇風機や本を積み上げてバリケードをつくる。
「真名。落ち着いて。すみません、ちょっと落ち着くまでそっとしておいてもらえますか」
 お母さんが困っている声が聞こえる。お母さんこそ、おじいちゃんの娘なのに。あっさり家を売るだなんて、悲しくないのかしら。この家で生まれ育ったはずなのに。この本たちだって、価値があるとかだけじゃ語れない思い出がある。おじいちゃんは、どの本をどこで見つけて買ってきたか、一冊一冊全部覚えていて、丁寧に説明してくれた。
 私の一番のお気に入りは、本というよりは、紙切れ。本物の、江戸時代に書かれた三行半。『みくだりはん』というのは、文字通り三行半に渡って書かれることの多かった、離婚状なんだって。離婚なんて縁起でもないけど、おじいちゃんの研究題材が江戸時代の人の生活だったから、仕方ない。
「みーくんだけでも、こっそり持ってちゃダメかなぁ」
 みーくんは、たった今『三行半』に私がつけたニックネーム。私は疲れすぎて、そのまま畳の上で寝てしまった。
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