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《四季》―「春」
2話 音節と音との違いほど
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土曜日の昼下がり、今日岡崎はコンクールに挑んでいる。かく言う僕は劇の練習が一通りすんで今日一日は自由になれた。
しばらく訪れていなかった本屋さんにでも行ってみようかな、なんて駅前をぶらついていたら人混みの中に見知った顔があった。
いつもなら声を掛けたりはしないけど、その人はどこか調子を崩しているように見えたから――言い訳みたいだけど。
「どうしたの?」
「……へ」
虚を突かれたのか酷く動揺して僕を見た。
「君。……どうしたの、なにか用かしら?」
振り向くのは神無月。いつもの澄ました表情にわずかな翳りがある。視線は泳ぎどこか上の空だった。
「なんだかいつもと違っていたから」
「違う?」
自覚がなかったのか彼女は自分の頬を触ったりするけれど、表情はまったく変わらない。
別段何もないという風に返事を寄こすが、いても立ってもいられず「じゃあ、この後予定ある?」と聞いてしまった。
「え? 特にないけどどうしたの?」
「ちょっと付き合ってくれないかな、なにもないんでしょ」
ちょっと強引過ぎたかな? でもこうなったらもう後には引けない。あの素敵な演奏を聞かせてくれる神無月さんがどうして気落ちしているのか分からないけど、お返しをしようじゃないか。
「ええ……まあいいわ。付き合ってあげるわ」
それから僕たちは電車に揺られていた。小声で神無月さんは「どこへ向かうの?」と聞いて来るけどまだ教えてはあげない。
きっとその方が喜ぶだろうから。
「どんな曲を普段は聞くの?」
「ピアノで弾けないもの」
「……ぁあ! クラシックとかのことか」
通じていなかったのが驚きだったのか彼女は面食らっていた。分からないよ神無月さん!
「君は?」
「僕はあんまり聴いたりはしないね。聴くとしても流行りの曲とかかな」
「……そう」
冷たい口調で返事を寄越すから体調が悪いのかとも思われたけど、顔色はさっきよりも明るくなっていた。
「というかピアノで弾けるから聴かないってなんだか不思議な感じ。他の人の演奏は気になったりしないの?」
「音が違うのよ。悪い音じゃないの確か、だけどやっぱり音が違うわ」
「それって気に入らないってこと?」
「きっと……ね。今は分からないわ」
沈みそうな空気をきり裂くように放送が僕たちの目的地を告げる。明るくしようと言う前に暗くなってもらっちゃ本末転倒だ。
「ここは?」
「遊園地さ」
所々が赤錆びてその歴史の長さをひしひしと訴えてくる。
「最近リニューアルしたって聞いたんだけどな」
「ボロボロね」
さらりと辛辣なことが口をつく彼女は僕よりも先に受け付けへ向かっていた。
「おぉい待ってよ」
遅れまいと歩幅を合わせる。そうじゃなきゃ意味がない。
「これってあのティーカップ?」
園内を少し歩き、まず目についたのはティーカップだった。遠くのアトラクションは新しそうに見えるのに、古いものもやっぱり置いてある。
「あのっていうかこれがティーカップだよ」
近付いてよく見るとその色の奇抜さが印象的だった。赤、青、緑といった色が縁取られたカップたちの白磁の部分はどれもヒビがあるように錆びついている。
「乗ってみる?」
「ええ」
反応は淡白なものだったけど、かすかな興奮が滲んでいた。
軽快な間の抜けたBGMがぷつぷつとノイズと共にスピーカーから音を鳴らし僕たちを回す。
「これは何?」
神無月はカップ中央のハンドルを指さす。これも塗装が剥げ、赤茶けた金属がむき出しになっている。
「それを回すとカップ自体が回るんだよ」
「ここから更に回るっていうのね?」
「試しにやってみてよ」と僕に促されるままハンドルを時計回りに回し始めた。
キイキイと鈍い音を立てながらゆっくり機体が彼女を中心として回る。
「なんだか不思議な感じね」
微笑みながら二重に回る僕たち、だけどお互いを見つめる双眸はブレない。
役目を終え硬直してしまったカップを後にして再び園内を散策し始めた。
「私、遊園地に来たことがなかったのよ」
たじろぎつつも「そうなの?」と返事をする。
「興味がなかったのよ。いえ、あったのかもしれないわ、もう忘れてしまったわ」
「ずっとピアノ?」
無言で肯定する神無月。
あまりにも無駄な問いだったかもしれない。ずっと彼女の世界の中心にはピアノしかなかったのだ。
僕にはこの気持ちをどう表現すればいいか分からなかったけど、ただ胸が締め付けられた。
「今日はいっぱい遊ぼう!」
「ええ。そうしましょう」
楽しそうに声を上ずらせているけれど、一瞬翳るのを僕は見逃さなかった。
神無月さんが次に目を付けたのは、よく分からない生物たちが描かれている看板。絵のタッチもどこか古臭く色褪せて哀愁を漂わせていた。
「ストーリー系のアトラクションだね」
聞いたことのないものだったのか首を傾げてこちらを見やる。
「乗ってみる? 絶叫系じゃないから怖くはないよ」
「ええ。行きましょう」
ゴンドラに揺られ左右の舞台上にいる生物たちの模型がスポットライトを浴びていた。どこからかスピーカーを通した無機質な声が響き平和は終わったことを告げる。
それから生物たちは苦難を乗り越え共に手を取り悪を倒す。なんてことのない勧善懲悪。
子供の頃に見れば楽しめたかもしれなかったが今になってみるとなんだかチープに感じてしまう。
「新感覚だったわ」
隣を歩く彼女は僕と違って落ち着かない様子だった。
内容はともかく楽しめたなら幸いだ。
「そろそろ陽も傾いてきたね」
赤みを増していく空を眺めながらそろそろ終わりという言葉が脳をよぎる。
「……音楽は好き?」
先を歩きその表情は窺い知れない。だからか素直な言葉が紡げた。
「好きだよ」
「ふふ。そうなのね」
満足したのかチラリと一瞥し「さ、今日のメインディッシュよ。行きましょう」と催促した。早足で駆けて行くのを慌てて追いかける。
「ちょっと待ってよ」
「あれに乗ってみたかったの」と指差すのは観覧車。これも頑丈ではあるのだろうけど薄いように思われる外装をしていた。
巡っている際に新しいものと古いものが半々になっていたとはいえ、今日ずっと古いものに乗っていたのはどこか奇妙さを感じずにはいられなかった。
スタッフさんに促されるまま乗り込み、沈んでいく世界を僕たちはまじまじと見つめる。
「言葉と音ってなにが違うと思う?」――丸く縁取られた窓を揺れる機体から眺めていた。
「……違い。意味とかかな」
「2つに違いなんてないわよ。結局は振動よ」
「じゃあ演奏も言葉ってこと?」
「面白い表現ね。ふふ。ある詩人は脳と神の違いは音節か音しかないって言ったわ。きっとそんなものなのよ」
「エミリー・ディキンソンだね」
「今日はじめて会った時あなたはいつもの私と違うって言ったわね」
観覧車は僕たちを頂上へと誘い世界を一望させた。
「私……弾けなくなったの」
静止する。
きりきりと音を立て時は着実に進んでいく。
「別に怪我をしたって訳じゃないわ。ただ分からなくなったの」
口内に溜まる一方の唾液を嚥下する。
「かたかたってしか鳴らなくなったの」
ガタン。
頂上からゆっくりと下っていく。
「今日の午前。コンクールが終わった時にはそうなっていたわ」
地上から離れたこの空間が世界に近づいているって脳では分かっているのに、ちっとも近づいているようには思えない。
「すべてが無機質に感情を持たずに振動するの」
固く閉じていた扉が今になってこじ開けられようとしていた。
「あれ……あの時はよく分からなかったのに……」
茜色と藍色の狭間に流星が流れる。
「ぅう……」
振動にならない嗚咽が空に。
溢れていく雫。
――なにも言葉は起きない。この光景を眺めることしかできない。
彼女は世界に蓋をするように小さくなっていく。
カチ。
カチ。
耳の奥で鳴り響く、どこかで聞いたことのある古時計のテンポ。
世界に追いつけないまま。
無限のように長い振り子の運動。
――気付けば彼女は元通りに。
「ごめんなさいね」
小さな空間にその言葉は残留し続けた。
足は大地の上にあるのに身体はどこか浮ついている。
リズムの取れない空白が僕たちの間にはあった。
「ごめんなさい」
再び口にする彼女は消え入りそうな面持ちで僕を見つめる。
まるで怒られた子どものよう。
「いいよ、気にしないで。」
空虚な言葉たち。
「また……上手く弾けるか分からないけど、聴いてくれる?」
「……僕でよければ、ぜひ」
ああ――息苦しい。彼女の苦しみが僕に直接届くよう。
「君……名前は?」
「羽野芳」
再び世界が止まったかと思った。
道行く親子は愉しげに、空を駆ける鴉は鳴き声を。
――僕と君だけが止まってしまったのだ。
「はのかおる」
繰り返すように呟く彼女は目尻に宝石を輝かせながらアスペクトの転換を起こしていた。
「どうしたの?」彼女の中で何かが起きているが僕には分からず、言葉を投げた。
そして彼女は今まで見た瞬間よりも美しく微笑んだ。
その笑顔には、懐かしさと、悲しさと、そして――
「逢いたかったわ、芳」
しばらく訪れていなかった本屋さんにでも行ってみようかな、なんて駅前をぶらついていたら人混みの中に見知った顔があった。
いつもなら声を掛けたりはしないけど、その人はどこか調子を崩しているように見えたから――言い訳みたいだけど。
「どうしたの?」
「……へ」
虚を突かれたのか酷く動揺して僕を見た。
「君。……どうしたの、なにか用かしら?」
振り向くのは神無月。いつもの澄ました表情にわずかな翳りがある。視線は泳ぎどこか上の空だった。
「なんだかいつもと違っていたから」
「違う?」
自覚がなかったのか彼女は自分の頬を触ったりするけれど、表情はまったく変わらない。
別段何もないという風に返事を寄こすが、いても立ってもいられず「じゃあ、この後予定ある?」と聞いてしまった。
「え? 特にないけどどうしたの?」
「ちょっと付き合ってくれないかな、なにもないんでしょ」
ちょっと強引過ぎたかな? でもこうなったらもう後には引けない。あの素敵な演奏を聞かせてくれる神無月さんがどうして気落ちしているのか分からないけど、お返しをしようじゃないか。
「ええ……まあいいわ。付き合ってあげるわ」
それから僕たちは電車に揺られていた。小声で神無月さんは「どこへ向かうの?」と聞いて来るけどまだ教えてはあげない。
きっとその方が喜ぶだろうから。
「どんな曲を普段は聞くの?」
「ピアノで弾けないもの」
「……ぁあ! クラシックとかのことか」
通じていなかったのが驚きだったのか彼女は面食らっていた。分からないよ神無月さん!
「君は?」
「僕はあんまり聴いたりはしないね。聴くとしても流行りの曲とかかな」
「……そう」
冷たい口調で返事を寄越すから体調が悪いのかとも思われたけど、顔色はさっきよりも明るくなっていた。
「というかピアノで弾けるから聴かないってなんだか不思議な感じ。他の人の演奏は気になったりしないの?」
「音が違うのよ。悪い音じゃないの確か、だけどやっぱり音が違うわ」
「それって気に入らないってこと?」
「きっと……ね。今は分からないわ」
沈みそうな空気をきり裂くように放送が僕たちの目的地を告げる。明るくしようと言う前に暗くなってもらっちゃ本末転倒だ。
「ここは?」
「遊園地さ」
所々が赤錆びてその歴史の長さをひしひしと訴えてくる。
「最近リニューアルしたって聞いたんだけどな」
「ボロボロね」
さらりと辛辣なことが口をつく彼女は僕よりも先に受け付けへ向かっていた。
「おぉい待ってよ」
遅れまいと歩幅を合わせる。そうじゃなきゃ意味がない。
「これってあのティーカップ?」
園内を少し歩き、まず目についたのはティーカップだった。遠くのアトラクションは新しそうに見えるのに、古いものもやっぱり置いてある。
「あのっていうかこれがティーカップだよ」
近付いてよく見るとその色の奇抜さが印象的だった。赤、青、緑といった色が縁取られたカップたちの白磁の部分はどれもヒビがあるように錆びついている。
「乗ってみる?」
「ええ」
反応は淡白なものだったけど、かすかな興奮が滲んでいた。
軽快な間の抜けたBGMがぷつぷつとノイズと共にスピーカーから音を鳴らし僕たちを回す。
「これは何?」
神無月はカップ中央のハンドルを指さす。これも塗装が剥げ、赤茶けた金属がむき出しになっている。
「それを回すとカップ自体が回るんだよ」
「ここから更に回るっていうのね?」
「試しにやってみてよ」と僕に促されるままハンドルを時計回りに回し始めた。
キイキイと鈍い音を立てながらゆっくり機体が彼女を中心として回る。
「なんだか不思議な感じね」
微笑みながら二重に回る僕たち、だけどお互いを見つめる双眸はブレない。
役目を終え硬直してしまったカップを後にして再び園内を散策し始めた。
「私、遊園地に来たことがなかったのよ」
たじろぎつつも「そうなの?」と返事をする。
「興味がなかったのよ。いえ、あったのかもしれないわ、もう忘れてしまったわ」
「ずっとピアノ?」
無言で肯定する神無月。
あまりにも無駄な問いだったかもしれない。ずっと彼女の世界の中心にはピアノしかなかったのだ。
僕にはこの気持ちをどう表現すればいいか分からなかったけど、ただ胸が締め付けられた。
「今日はいっぱい遊ぼう!」
「ええ。そうしましょう」
楽しそうに声を上ずらせているけれど、一瞬翳るのを僕は見逃さなかった。
神無月さんが次に目を付けたのは、よく分からない生物たちが描かれている看板。絵のタッチもどこか古臭く色褪せて哀愁を漂わせていた。
「ストーリー系のアトラクションだね」
聞いたことのないものだったのか首を傾げてこちらを見やる。
「乗ってみる? 絶叫系じゃないから怖くはないよ」
「ええ。行きましょう」
ゴンドラに揺られ左右の舞台上にいる生物たちの模型がスポットライトを浴びていた。どこからかスピーカーを通した無機質な声が響き平和は終わったことを告げる。
それから生物たちは苦難を乗り越え共に手を取り悪を倒す。なんてことのない勧善懲悪。
子供の頃に見れば楽しめたかもしれなかったが今になってみるとなんだかチープに感じてしまう。
「新感覚だったわ」
隣を歩く彼女は僕と違って落ち着かない様子だった。
内容はともかく楽しめたなら幸いだ。
「そろそろ陽も傾いてきたね」
赤みを増していく空を眺めながらそろそろ終わりという言葉が脳をよぎる。
「……音楽は好き?」
先を歩きその表情は窺い知れない。だからか素直な言葉が紡げた。
「好きだよ」
「ふふ。そうなのね」
満足したのかチラリと一瞥し「さ、今日のメインディッシュよ。行きましょう」と催促した。早足で駆けて行くのを慌てて追いかける。
「ちょっと待ってよ」
「あれに乗ってみたかったの」と指差すのは観覧車。これも頑丈ではあるのだろうけど薄いように思われる外装をしていた。
巡っている際に新しいものと古いものが半々になっていたとはいえ、今日ずっと古いものに乗っていたのはどこか奇妙さを感じずにはいられなかった。
スタッフさんに促されるまま乗り込み、沈んでいく世界を僕たちはまじまじと見つめる。
「言葉と音ってなにが違うと思う?」――丸く縁取られた窓を揺れる機体から眺めていた。
「……違い。意味とかかな」
「2つに違いなんてないわよ。結局は振動よ」
「じゃあ演奏も言葉ってこと?」
「面白い表現ね。ふふ。ある詩人は脳と神の違いは音節か音しかないって言ったわ。きっとそんなものなのよ」
「エミリー・ディキンソンだね」
「今日はじめて会った時あなたはいつもの私と違うって言ったわね」
観覧車は僕たちを頂上へと誘い世界を一望させた。
「私……弾けなくなったの」
静止する。
きりきりと音を立て時は着実に進んでいく。
「別に怪我をしたって訳じゃないわ。ただ分からなくなったの」
口内に溜まる一方の唾液を嚥下する。
「かたかたってしか鳴らなくなったの」
ガタン。
頂上からゆっくりと下っていく。
「今日の午前。コンクールが終わった時にはそうなっていたわ」
地上から離れたこの空間が世界に近づいているって脳では分かっているのに、ちっとも近づいているようには思えない。
「すべてが無機質に感情を持たずに振動するの」
固く閉じていた扉が今になってこじ開けられようとしていた。
「あれ……あの時はよく分からなかったのに……」
茜色と藍色の狭間に流星が流れる。
「ぅう……」
振動にならない嗚咽が空に。
溢れていく雫。
――なにも言葉は起きない。この光景を眺めることしかできない。
彼女は世界に蓋をするように小さくなっていく。
カチ。
カチ。
耳の奥で鳴り響く、どこかで聞いたことのある古時計のテンポ。
世界に追いつけないまま。
無限のように長い振り子の運動。
――気付けば彼女は元通りに。
「ごめんなさいね」
小さな空間にその言葉は残留し続けた。
足は大地の上にあるのに身体はどこか浮ついている。
リズムの取れない空白が僕たちの間にはあった。
「ごめんなさい」
再び口にする彼女は消え入りそうな面持ちで僕を見つめる。
まるで怒られた子どものよう。
「いいよ、気にしないで。」
空虚な言葉たち。
「また……上手く弾けるか分からないけど、聴いてくれる?」
「……僕でよければ、ぜひ」
ああ――息苦しい。彼女の苦しみが僕に直接届くよう。
「君……名前は?」
「羽野芳」
再び世界が止まったかと思った。
道行く親子は愉しげに、空を駆ける鴉は鳴き声を。
――僕と君だけが止まってしまったのだ。
「はのかおる」
繰り返すように呟く彼女は目尻に宝石を輝かせながらアスペクトの転換を起こしていた。
「どうしたの?」彼女の中で何かが起きているが僕には分からず、言葉を投げた。
そして彼女は今まで見た瞬間よりも美しく微笑んだ。
その笑顔には、懐かしさと、悲しさと、そして――
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