君に捧げる―欠ける月

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シューベルト/ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調

14話 君と僕の小夜曲―5

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「好きです。芳先輩」

 常夜灯が黄色い光を放ちながら、その身体を仄かに暖め始めている。無音の空間だ。街にいればどんな些細な音だって、嫌でも耳に入る。だけどこの場所は木々が風で擦れる音と、君との呼吸をする音だけ。
 分からなかった。ただ隣にいる君の感情、行動とにかく全部。僕はそんな感情を持ち合わせてはいない。罪を、自分が抱え込んだ過去に対する罪悪感を勝手気ままに見えなくしてしかこなかった。
 だのに、どうしてそんな真逆な思いをぶつけられるのか。

「どうして」と同じ暗闇の中にいる、寄り添う君へ問いかけてみる。しかし答えは簡素なもの。

「好きだからです」
「そういうことが聞きたいわけじゃないんだ」
「私の気持ちがそう感じているからなんですよ」
「いや! 僕は君を妹の代わりとして見ていたんだ。それだけじゃない。誰かの助けになることで、僕の過去は一切悪くなかったと自分に酔っているんだよ」
「そんなことありません。今の芳先輩があるのはこれまでの歴史があるから。そこにどんな辛いものがあったとしても、向き合い逃げていない芳先輩は立派ですよ」
「それでも、僕は好きなんて気持ちはわからないんだよ」

 僕と綾音は平行線の会話をしていた。僕なんて存在は誰かに好きになってもらうなんて、そんなの以前の話なのに。どうして分かってくれないんだ。

「願い……あの日に届けた想いは、ただ、一人のためです。朝食だってそうなんです。私の趣味だったことは認めます。だけどそれだけで作ろうなんて、そんなのはまったく思えないですよ」
「言われたってわからないよ」
「思えばあの日から気になっていたのかもしれません。私を底から救ってくれるまるで王子様のような、ヒーローに」
「そんなロマンチックなものじゃないよ。そうしないと君がいなくなりそうだったから。そんな単純な理由なんだよ」

 さくらが帰ってきたその日から、ずっと臭ってしまう。自殺をしようとする人の、世界に絶望し、後ろを振り返らない鼻を突く刺激。ああ、これは綾音だけじゃない。麗華だってしていたんだ。本人にその意志があったのかは分からない。だけどいつそうなってもおかしくはないと、臭い続けていた。

「そんなの私だって同じですよ。芳先輩の話を聞いていっそう気持ちが強くなってしまった……最低ですよね。だって私は妹に重ねられてもいい私が欲しかった、手に入らないものだから」
「当たり前じゃないか。君はずっと与えられなかったんだから。でも僕は違うんだよ。さくらのことはよく分かっていた、なのに変化に気付いていたのに、知らない振りをしていたんだよ」
「結果なんですよ。あの時ああすればよかったなんて想いは。あの人もいつか私に言っていました。言語があるから反実仮想が可能になるって」
「ああ、麗華らしいね。やっぱり理解できないよ。そんな事で簡単に過去に対する想いは消えることなんてないんだよ」
「簡単じゃないですよ。誰だって苦労して、誤魔化して、ただ必死に生きている。私たちもその内の一人なんですよ。はっきりと言います。私は芳先輩が一人の人間として好きなんです。さっきのだって、ズルですよ。……他の人が入り込む余地がないように私が無理やり奪うなんて」

 黒く染められた横顔なのにその気持ちが痛いくらい読めてしまう。ずっとそうして生きていたから。なのに僕の気持ちは一切分からない。
 他人を鏡としても自分だけが映らない恐怖。それは透明な幽霊。この透き通った身体で問いかける、僕は一体誰なんだろうか。
 熱を持った願いが、灯籠の中にひっそりと大切に灯っていた光が分かるのに、僕に関すると一切が冷たく水底に沈んでいく。
 その冷たさはあの日、肌に感じた寒さと同じ。
 ――どうして観覧車から眺めた世界を思い返しているんだろう。そこで感じたのは麗華の根底にあるもの。
 リフレインする交わした言葉に引っかかっていた棘にようやく気が付いた。丸い空間の中で縮こまるあの姿は僕なんだ。
 無機質になっていくと訴えていた彼女。
 だけど本当に空っぽなのは僕。それが分かってしまったから綾音に何を言うかようやく整理がついた。

「僕はやっぱり君の気持ちには答えられないよ。別に綾音が嫌いってわけじゃない。気持ちが整っていないわけでもない」
「だったらなぜですか? 理由くらい教えてもらってもいいじゃないですか」
「僕と一緒に乗っていた人がいるんだよ。その人もきっと幽霊なんだ」
「そんなの分からないですよ……。説明になってないですよ」
「その幽霊はね、誰かに手を引いてもらわないと存在できないんだ。この気持ちがそうなのかは僕には分からない。だけど君の気持ちには触れちゃならないんだよ」
「どうしてですか」
「さくらが一歩進んだ。僕は外の世界で手を引かなければならないんだよ。それが間違っていても、僕にできることだから」

 無音の空間に流れる音楽。繰り返される主題それはソナタ形式のように。小さくちいさく、けれど音は鳴っていて耳を澄ませば届く。

 
 2章 シューベルト/ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調


「僕は幽霊だ」誰もいない空間に喋りかけてみる。もちろん誰も返事はしない。だけど思考が少しずつまとまっていく。

 綾音のことは嫌いじゃない。嫌いになる要素なんてものは彼女には全くないのだ。ただこれは僕の傲慢さに過ぎない。
 さくらが一歩進む、それはきっといいことに違いない。あの日から僕は自分が分からなくなったけど今なら止まっていた足を動かせる気がする。
 その時に他の人を無視して歩んでいくなんてことはできない。過去がそうさせないのだ。あの永遠に回転する機械の中に囚われている人を置いてはいけない。
 麗華がなぜそうなっているのかなんて一切分からない。僕みたいな凡人には分かることなんて、ないのかもしれない。だからどうしたんだ、と胸の中で反響する。

「どうして今日も来たの?」
「そんなの料理を作る以外にないじゃないですか」
「いや、昨日は結局あのまま解散したじゃないか。ほら、何と言うか。断ったわけだし」
「それがどうしたんですか? だったら振り向いてもらうまで続けるだけですよ。今の芳先輩が私に妹を重ねているなら、妹とは思わせない程に私を意識させるだけです」
「遠慮がなくなったね」
「ええ、それはもちろん。だって私は芳先輩が好きだからですよ。……私が求めているものは家族なんでしょうか。今はもうよく分からないです」

 小気味いい音が包丁から響いているが、彼女の話は手に収められている刃物のように鋭く、冷たい。

「ただ、この気持ちだけははっきりしているんです」
「そっか、ごめんね。綾音の気持ちを有耶無耶にしちゃって。僕はそういう気持ちが分からないし、でもそれよりも先にしなくちゃいけないことがあるって、そう思っているから」
「ふふ、だったら私はその気持ちが分かるように色々するだけですよ。だから安心して下さい、芳先輩」
「なんだか怖いね」

 やっぱり綾音の作る料理は美味しい。母親の料理を食べたのはどれくらい前だっけな。湯気が立つ味噌汁を啜りながら考えてみるも思い出せない。そろそろ創立祭だ。麗華の練習はどうだろうか。彼女の思うままのピアノは以前に聴いたけど、きちんとした演奏というものは聴いたことがない。少し楽しみになってきた。
 それはそうと、綾音の演奏だって一度も聴いたことがない。麗華が私に負けず劣らずの実力があるって言っていたし、音の善し悪しを聴き分けることが出来ない素人だけど、やっぱり期待してしまう。
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