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Ethica, ordine geometrico demonstrata
16話 コナトゥスのための挽歌―2
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「どうしたの?」
「ちょっと昔のことを思い出しちゃってね」
「昔? ってそんなことよりも、あの時ってさくらちゃんだよね」
「うん、そうだよ。さくらから。写真とメッセージが送られてきたんだよ」
「え?」
驚くのも無理はない。だってさくらから夜にメッセージがくるなんて異常なことなんだから。それくらい小雪は僕の事情について知っているわけなんだけど。
「土手からあの流れる灯篭の写真がね、そして綺麗だって」
「そっか……。よかったのかな? でもいいことなんだろうね」
これだけで小雪は何が起きたのかを察してしまう。それくらい僕たち兄妹のことを知っていて、そして同時に僕は助けられているんだけど。
「そうだといいね。やっぱりどうなるかは僕には分からないよ」
「そんなの誰にも分からないことだよ。漫画で読んだんだけど、ほら。なんとかの悪魔は存在しないって」
「それ多分ラプラスの悪魔なんじゃない? 計算でこの世の全てが分かるとか」
「そうそう! その人だよ! さっすが羽野くん♪」
僕も漫画で読んだ知識とは決して言えなかった。それにしてもどうしてこの場所に来たんだろうか。僕とこうして話をしているのがいいなんて言っていたけど、本当はさくらのことについて知りたかったとは思えないのだ。確かに重要なことには違いない。
でももっと何かをしたくて来たような、そんな感じがするんだ。この機微は幼馴染である僕にしか、いや僕でもちょっと怪しいくらいの、掴めない雰囲気。それが漂っていることだけは間違いない。
「あやちゃんすっごく可愛いよね、それに神無月さんも。わたしにはない魅力がたっくさん詰まってるよね。やっぱりわたしもピアノとかしてたらよかったのかな? 羽野くんはどう思う? まあわたしはそういうの得意じゃないから上手く弾けないんだけどね」
「ちょっと落ち着いて、どうしたの?」
「うーん。焦ってるのかも。ほら、わたしたちって一応幼馴染じゃない? なのにさ、あんな子たちが身の回りにたくさんいてさ。あーあってね」
「小雪は小雪でしかないよ」
「そう?」と言いながら僕の顔を包むように頬に手を。力が思っている以上に込められて僕は逃げられない。ただ正面の瞳を見つめるほかなかった。そこに映し出されている景色は僕の知る世界と同じだった。
「だったらさ、羽野くん。教えてよ。わたしだけのこと」
「急に言われてもそんなの出来ないよ」
「へぇ、だったらわたしじゃなくてもいいんだよね」
「いつもならこんなことしないじゃん! どうしたのさ!」
「どうしたって、そりゃこうするしかないからだよ。優柔不断な羽野くんだから。こうしてわたしが教えてあげてるの」
「何を?」
口をつく言葉とは裏腹に僕の心の内では気付いていた。でも気付かないように必死に目を逸らして逃げている。
綾音の時もそうだった。でも小雪にはあの日話したことを言ってはいけないと僕は否応なく思ってしまう。彼女が悪い訳じゃない。ただ、僕のことをよく知る彼女だからこそ言ってはいけない。
――あの観覧車に座る幽霊は僕が連れ出さなくてはいけない。
そうしないとずっと小雪に頼りっぱなしになってしまう。
これは絶対に僕がしなければいけない。前に進めない。だって先を歩き始めたさくらに顔向け出来ないから。
だから突き放さなくてはいけない。
「それはね……」
「その蝶々の髪留めとても似合ってるよ!」
僕と同じ世界を映していた瞳が一瞬にして曇る。いや視線がズレてしまったんだ。影が少し射していながらもこの場所は少し温かい、ほんのりと熱を帯びていた。
きっとこれだけで伝わるはずだ。だって僕たちは幼馴染なんだから。
「そろそろだね」
「意外と人が多いね」
「そらそうだろ。なんせあの不思議ちゃんが演奏するってもんだ。聞いたことないやつでも聞きに来るだろうよ。まあ関係者が多いのは俺としても意外だったけどな」
岡崎の言う通り旧音楽室には人がそこそこ。だけど制服を着た人よりもずっとスーツを着た人の方が多いのだ。綾音と麗華の連弾。本人たちがお遊び感覚だったとしても注目を集めるには十分過ぎたらしい。
中央に設置されているグランドピアノに座る二人の表情、雰囲気はいつもと違う。冷たいような、静かなような、隠れていた人格は落ちてきた雫を受けてゆっくりと開花していく花のようだった。
ざわざわとした雰囲気が一気に消えていった。二人の表情を見てそろそろだと察したらしい。
静寂の中で麗華は深く呼吸を、綾音は俯いたまま……あれは息を吐いているのか。あれが二人のルーティーンなんだろう。
一瞬なのに永遠に感じるこの瞬間。思えば思うほど永く感じられて、思考が不連続だと一瞬で過ぎ去る。
ほら、僕の思考は不連続だった。
音が鳴り響く、その高さは優しく弱く。どちらかが指を落とした合図。
つられるように高く強く打ち鳴らして一つのリズムを作っていく。それからはあっという間だ。
流れてゆく時間が音によって幾つにも分割される。一秒という隙間に音で区切りを二人がつけていくのだ。
止まることなく、ただ優雅にテンポを刻んでゆく。
落ち着いたかと思えば、どこかで聞いたことのある曲の相貌が見えてきた。チャイコフスキーの花のワルツ。元々はバレエ音楽として作られていた。しかし当時はバレエの印象はあまりよくなかった。けれどいつしか人々は彼の曲に夢中になっていった。
麗華の弾く演奏しか知らない僕だったけど、綾音の音と呼べるものが伝わってくる。音楽に詳しくなくても、彼女が弾いているのは確かに分かるのだ。
アーティキュレーションと言うものを直前に綾音から教えてもらった。それを意識して聞いて欲しいと、それならきっと楽しめるから、とにこやかに話していた。そんな様子に麗華は溜息を吐いていたんだけど。そして、アーティキュレーションは要するにお喋りで意味を与えること。初めこそは無理だと思っていたけど、こうして二人の連弾を聴いているとまさに言葉のようなものが伝わってくる。
お互いの全く違う系統の音がぶつかり合っていて非常に面白い。しかし邪魔することなく手を取り、あるいは任せるように、阿吽の呼吸と呼べるものが彼女たちにはある。尊敬しているだけじゃない、きっと互いの性質を熟知しているからこそ出来る芸当。
聴いたことのある花のワルツだったけど、今目の前で響いているテンポは全く聴いたことがなかった。もちろん原曲と違う訳じゃない。ただ、彩りが非常に鮮やかなのだ。例えば青。つぶさに観察してみるとラピスラズリが含まれているような青さがある。きっとラピスラズリを知らなくてもその青さにどうしてか魅了されてしまう。とにかくそんな感じで印象が違う。
踊っているというのが正しい。だけどそれは狂気を孕んでいるのではなく、ただ優雅にこの世の美しさを体現するように喜々として雄弁に語っている。リフレインする旋律は形や意味を変えて再びお喋りをする。二人が息を合わせてハンマーを打つ。その刹那の呼吸というものが印象的だ。
激しくなってゆくテンポなのに二人の指先は整っていた。ああ、そろそろ終わりを迎える。麗華のきちんとした演奏は初めてだ。
――音が、半身が消えた。
文字通り、椅子からも後ろへ消えた。
隣にいる綾音の反応は速かった。なんせ一緒に弾いているから、その場の誰も反応出来なかったのに彼女だけは分かっていたんだ。
曲は途中でぶつ切りに。
麗華はその日から弾けなくなった。
「ちょっと昔のことを思い出しちゃってね」
「昔? ってそんなことよりも、あの時ってさくらちゃんだよね」
「うん、そうだよ。さくらから。写真とメッセージが送られてきたんだよ」
「え?」
驚くのも無理はない。だってさくらから夜にメッセージがくるなんて異常なことなんだから。それくらい小雪は僕の事情について知っているわけなんだけど。
「土手からあの流れる灯篭の写真がね、そして綺麗だって」
「そっか……。よかったのかな? でもいいことなんだろうね」
これだけで小雪は何が起きたのかを察してしまう。それくらい僕たち兄妹のことを知っていて、そして同時に僕は助けられているんだけど。
「そうだといいね。やっぱりどうなるかは僕には分からないよ」
「そんなの誰にも分からないことだよ。漫画で読んだんだけど、ほら。なんとかの悪魔は存在しないって」
「それ多分ラプラスの悪魔なんじゃない? 計算でこの世の全てが分かるとか」
「そうそう! その人だよ! さっすが羽野くん♪」
僕も漫画で読んだ知識とは決して言えなかった。それにしてもどうしてこの場所に来たんだろうか。僕とこうして話をしているのがいいなんて言っていたけど、本当はさくらのことについて知りたかったとは思えないのだ。確かに重要なことには違いない。
でももっと何かをしたくて来たような、そんな感じがするんだ。この機微は幼馴染である僕にしか、いや僕でもちょっと怪しいくらいの、掴めない雰囲気。それが漂っていることだけは間違いない。
「あやちゃんすっごく可愛いよね、それに神無月さんも。わたしにはない魅力がたっくさん詰まってるよね。やっぱりわたしもピアノとかしてたらよかったのかな? 羽野くんはどう思う? まあわたしはそういうの得意じゃないから上手く弾けないんだけどね」
「ちょっと落ち着いて、どうしたの?」
「うーん。焦ってるのかも。ほら、わたしたちって一応幼馴染じゃない? なのにさ、あんな子たちが身の回りにたくさんいてさ。あーあってね」
「小雪は小雪でしかないよ」
「そう?」と言いながら僕の顔を包むように頬に手を。力が思っている以上に込められて僕は逃げられない。ただ正面の瞳を見つめるほかなかった。そこに映し出されている景色は僕の知る世界と同じだった。
「だったらさ、羽野くん。教えてよ。わたしだけのこと」
「急に言われてもそんなの出来ないよ」
「へぇ、だったらわたしじゃなくてもいいんだよね」
「いつもならこんなことしないじゃん! どうしたのさ!」
「どうしたって、そりゃこうするしかないからだよ。優柔不断な羽野くんだから。こうしてわたしが教えてあげてるの」
「何を?」
口をつく言葉とは裏腹に僕の心の内では気付いていた。でも気付かないように必死に目を逸らして逃げている。
綾音の時もそうだった。でも小雪にはあの日話したことを言ってはいけないと僕は否応なく思ってしまう。彼女が悪い訳じゃない。ただ、僕のことをよく知る彼女だからこそ言ってはいけない。
――あの観覧車に座る幽霊は僕が連れ出さなくてはいけない。
そうしないとずっと小雪に頼りっぱなしになってしまう。
これは絶対に僕がしなければいけない。前に進めない。だって先を歩き始めたさくらに顔向け出来ないから。
だから突き放さなくてはいけない。
「それはね……」
「その蝶々の髪留めとても似合ってるよ!」
僕と同じ世界を映していた瞳が一瞬にして曇る。いや視線がズレてしまったんだ。影が少し射していながらもこの場所は少し温かい、ほんのりと熱を帯びていた。
きっとこれだけで伝わるはずだ。だって僕たちは幼馴染なんだから。
「そろそろだね」
「意外と人が多いね」
「そらそうだろ。なんせあの不思議ちゃんが演奏するってもんだ。聞いたことないやつでも聞きに来るだろうよ。まあ関係者が多いのは俺としても意外だったけどな」
岡崎の言う通り旧音楽室には人がそこそこ。だけど制服を着た人よりもずっとスーツを着た人の方が多いのだ。綾音と麗華の連弾。本人たちがお遊び感覚だったとしても注目を集めるには十分過ぎたらしい。
中央に設置されているグランドピアノに座る二人の表情、雰囲気はいつもと違う。冷たいような、静かなような、隠れていた人格は落ちてきた雫を受けてゆっくりと開花していく花のようだった。
ざわざわとした雰囲気が一気に消えていった。二人の表情を見てそろそろだと察したらしい。
静寂の中で麗華は深く呼吸を、綾音は俯いたまま……あれは息を吐いているのか。あれが二人のルーティーンなんだろう。
一瞬なのに永遠に感じるこの瞬間。思えば思うほど永く感じられて、思考が不連続だと一瞬で過ぎ去る。
ほら、僕の思考は不連続だった。
音が鳴り響く、その高さは優しく弱く。どちらかが指を落とした合図。
つられるように高く強く打ち鳴らして一つのリズムを作っていく。それからはあっという間だ。
流れてゆく時間が音によって幾つにも分割される。一秒という隙間に音で区切りを二人がつけていくのだ。
止まることなく、ただ優雅にテンポを刻んでゆく。
落ち着いたかと思えば、どこかで聞いたことのある曲の相貌が見えてきた。チャイコフスキーの花のワルツ。元々はバレエ音楽として作られていた。しかし当時はバレエの印象はあまりよくなかった。けれどいつしか人々は彼の曲に夢中になっていった。
麗華の弾く演奏しか知らない僕だったけど、綾音の音と呼べるものが伝わってくる。音楽に詳しくなくても、彼女が弾いているのは確かに分かるのだ。
アーティキュレーションと言うものを直前に綾音から教えてもらった。それを意識して聞いて欲しいと、それならきっと楽しめるから、とにこやかに話していた。そんな様子に麗華は溜息を吐いていたんだけど。そして、アーティキュレーションは要するにお喋りで意味を与えること。初めこそは無理だと思っていたけど、こうして二人の連弾を聴いているとまさに言葉のようなものが伝わってくる。
お互いの全く違う系統の音がぶつかり合っていて非常に面白い。しかし邪魔することなく手を取り、あるいは任せるように、阿吽の呼吸と呼べるものが彼女たちにはある。尊敬しているだけじゃない、きっと互いの性質を熟知しているからこそ出来る芸当。
聴いたことのある花のワルツだったけど、今目の前で響いているテンポは全く聴いたことがなかった。もちろん原曲と違う訳じゃない。ただ、彩りが非常に鮮やかなのだ。例えば青。つぶさに観察してみるとラピスラズリが含まれているような青さがある。きっとラピスラズリを知らなくてもその青さにどうしてか魅了されてしまう。とにかくそんな感じで印象が違う。
踊っているというのが正しい。だけどそれは狂気を孕んでいるのではなく、ただ優雅にこの世の美しさを体現するように喜々として雄弁に語っている。リフレインする旋律は形や意味を変えて再びお喋りをする。二人が息を合わせてハンマーを打つ。その刹那の呼吸というものが印象的だ。
激しくなってゆくテンポなのに二人の指先は整っていた。ああ、そろそろ終わりを迎える。麗華のきちんとした演奏は初めてだ。
――音が、半身が消えた。
文字通り、椅子からも後ろへ消えた。
隣にいる綾音の反応は速かった。なんせ一緒に弾いているから、その場の誰も反応出来なかったのに彼女だけは分かっていたんだ。
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