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Ethica, ordine geometrico demonstrata
21話 コナトゥスのための挽歌―7
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「愛しているってあの人に言えるんですか?」綾音の言葉をずっと反芻していた。
愛している、なんて言える人はいない。だってその概念を知っている人はいないから。知っている人が一人でもいるなら不倫や浮気といった不和は生じないだろう。なのに世界ではそういう不和が蔓延っている。
つまり、誰も知ることが出来ないのに「愛している」なんて言える人は自分か相手を騙しているのだ。
僕は両方、だから伝えられた。
でもそれが本人じゃなくなると、全く言えなくなってしまう。その人はよくて他の人を騙すのは駄目だと僕の曲がった感性が叫んでいるから。
それでも僕は綾音に嘘をついた。彼女じゃなくても分かってしまうだろうけど。とにかく僕は嘘をついたんだ。
彼女の去り際の言葉が蘇る。「芳先輩は酷い人ですね。まあ、私には関係ないですけど」
ああ、彼女は僕をきちんと見てくれる。だから助かる。もし優しいなんてふざけたことを言ってしまったら、僕は自分をより責めてしまうだろうから。
けれど綾音は僕の願いを知っている。それは観覧車に乗っている僕と同じ幽霊を外に連れ出すこと。優しい彼女は僕のことを止められない。だから許してくれた。
この通学路の景色も随分変わってしまった。すっかり長くなってしまった草木。そして夜に降った雨の香りを放つ土たち。どこにいるかも分からない虫の音。時間は無条件に進んでいく。麗華に告白して以来あの時の嫌な臭いはなくなった。けれど僕の心はどうしてもすっからかんで、どんな表情で麗華の前に立てばいいのか分からない。
今日は学校をサボってしまおうかな、なんて想像もしてしまう。
携帯が震えた。確認すると僕が想像した人物からだ。
「今日はお昼、お母さんとお散歩をしようと思います。ですので、応援をして欲しいのです。その、文字だけだと寂しいのでボイスメッセージを一言。一言だけでいいからちょうだい。おにーちゃん」
「もちろん」と返事を手早くして、ボイスメッセージを録音する。内容は一言だけ。これまで通話もしてこなかったから驚かせないように、でも気持ちを込めてなんて言おうかな。考えてもいい案は浮かんでこない。だから僕は思いついた事を口にすることにした。
「さくら、愛してる」
思わずその場でしゃがみ込んでしまう。さっきまで考えていた「愛している」と言える人はいない。それは嘘だった。現にこうして僕はさくらに対して言えるじゃないか。ああ! どうして麗華には言えないんだ!
胃の中がかき混ぜられていく。綾音の作ってくれたあの美味しい朝食が食道を上っていく恐怖。僕は麗華を心の底では愛してなんていない。だのに僕は嘘を言ってしまっている。
僕は決して、してはいけない事を平然と彼女のためだのなんだとの理屈をこねて、してしまっている。僕と同じ空っぽの麗華。それは僕の妄想なんじゃないだろうか。勝手に決めつけた、そうであって欲しいという僕の欲望? ああ、きっと僕はさくらが先に進むのが怖いから。
だから焦って僕もちょうどいい麗華に対してレッテルを貼っているだけだ。
気づいてしまったら後は早い。
旧音楽室で感じた麗華から発する嫌な臭い。これからよくないことが起こる時に臭うあの香り、それは僕の欲望が形を変えているだけ。
今までやっていた行為は何の意味も持っていない。
申し訳ないなんて感情すら湧かない。そんな事ができる人はある程度自分がまともだと知っているから。僕は違う。自分の醜さをあたかも偽善だと理解していながら、それに酔って本当のことには目も向けようとせずに英雄気取りをしてた。それで綾音や小雪から目を手よく逸らしていただけなんだ。
一歩進めるのが恐ろしくて思うように動かない。逃げ出したかった。でも、さくらにこんな情けない様子は見せられない。とにかく後はなるようになってくれるだろう。そう信じて。
*
「おい体調でも悪いのか? ここ最近は元気そうだったのによ。前みたいになってやがるぞ」
「そうかな?」
「ああ、鏡か神無月でも見てこいよ」
「いや、しばらくダラっとしておくよ」
まだ心配そうな顔をしたまま僕の席を去っていく岡崎。最後に「そうか」と言い残していたけど、ひと目見て分かるほど僕は違うらしい。
行動をするなら早いうちがいい。そうしないといよいよ僕は偽物に、本当の意味で空っぽになってしまうから。この行動も自己本位なんてことは理解している。だけどそれ以上に他人を僕が縛り付けている方が嫌なんだ。
今日の放課後だ。そこで決着をつけようか。
「おい、羽野。ちょっといいか?」
僕に手招きをしている担任が戸口にいる。何の用があるってのか。かまってられるほど暇じゃないし動くのが面倒で溜息を吐いてしまう。
「何の用ですか?」
「お前さ、神無月と最近仲良くしてるだろ? その神無月がちょっと色々あって手を怪我しているのは知っているな?」
さっきから僕の知っていることしか喋らない。それだったら一体何があるっていうんだ。
「それ以来試しているのか、時々旧音楽室の鍵を借りに来ているんだけどな。昨日から鍵が返ってこないんだ。だから警備のためにもあいつにちょっと教えてやってくれないか?」
「……そうだったんですね、分かりました。伝えておきます」
「ありがな」それだけ言い残して次の授業の準備のためか、急いで去っていった。
麗華が旧音楽室の鍵を借りている? そんなこと全く知らなかった。弾けなくなったことを伝えて以来、あの部屋には行ってないって勝手に思っていたんだけど。どうやら違ってたらしい。弾かないと言っていたのにどうしてあの部屋に行くことがあるのか? 僕には分からない何かがあるのだろうか。それともやっぱり諦めきれないのだろうか。なおさら僕は早く彼女を縛り付けてはいけない。
――それでもどうしてか引っかかってしまう。嘘を付くような人じゃないと信じられるから。
「ねぇ、羽野くん。寝てないでさ。少しいいかな」
「どうしたの一井さん」
「む~なんだねその態度は。怒っちゃうぞ」
「そういやさ、麗華。旧音楽室の鍵を借りてるらしいんだよね。どうしてだと思う?」
「へ? そ~なの? わたし知らないな~」
棒読みで知らないふりをしようとするが本人もツッコまれることを分かっていてやっている。こういうことをしている時は何か言いたいと僕と小雪の間では相場が決まっている。
「何さ」
「あはは、何と言うかね。ちょっとお話したんだよ。まあ女子会みたいなもんだよ」
「昨日から鍵が返ってきてないらしいんだよ」
「え”? どうしてなんだろ。わたし知らないよ」
「ありがとう。借りた理由が分かっただけでも助かるよ」
「それくらいなら全然いいよ」
それから雑談を少しして小雪は自分の教室に戻っていった。それにしても小雪と麗華はどんなことを話していたんだろうか。弾けなくなってから、僕と麗華が付き合い始めてから二人の顔を同時に見るのが怖くてどんな交友関係があるのか全く知らなかった。
とにかく、今日の放課後に麗華に会えないか連絡してみよう。
返信はすぐにきたけれど、その内容は思ってもみなかったものだった。「ごめんなさい。会えないわ」それだけだった。鍵のことについても聞いてみたけど、既読マークは付かない。どうしてしまったのか、やはり気になってしまう。
雲間から月が顔を覗かせていた。いつもよりも明るく木々のシルエットが遠目からよく分かる程だ。光源はぽつりぽつりと道を照らし、僕の進む先を教えている。だから僕もそれに従って足を動かすのみ。
一度は考えた事がある人もいるんじゃないだろうか。夜の学校に忍び込む方法を。そしてそれを実際に今試す必要が僕にはある。さて、上手くいくだろうか。
放課後、職員室に赴いても旧音楽室の鍵は返ってこなかった。それを知った時にある可能性がちらついてしまったのだ。まさか、そんなことは起こるまい。そう考えている時は一番危ない。だって、それはさくらで学んだことだから。
ただ確認するだけなんだ。それで何もなかったらそれでいいし、気付けたなら僥倖というわけ。もう僕はそれがありえない可能性だと信じて切り捨てることはしない。
よじ登るにしても現代の防犯は恐ろしい。下見をして正解だ。この茂みになっている箇所にいつ出来たのか、それとも僕と同じことを考えている人がいるのか、金網に穴が開いていた。大きさも人一人が十分に通れるような広さ。するりと身をくぐらせ、茂みを抜けると、ほら。運動場の端っこに出てくる。こうなったら後は校舎に入るだけ。ここが一番の問題なのだ。
全ての窓をきちんと閉じてはいない、あくまで僕の想像だけど。特にトイレの窓。これは廊下の窓よりも締めるのが面倒なんじゃないだろうか。ほら、思った通り開いている。
窓枠に身をくぐらせて校内へ降り立つ。
運動場から外周を回ってここへ来たから確認できていないけど、もしかしたら教師が残っているかもしれない。だから慎重に足音を殺して進む。もちろん目標はあの部屋だ。
廊下に落ちている月光はまるで水面のようで、この廊下の下に魚が泳いでいるんじゃないかと妄想してしまう。そんなことは起こるはずもないのに綺麗だからって理由で起こって欲しいと願ってしまうのは僕の欲望の表れだ。ここが本当に水面の上ならばその上には小船が一隻あるだろう。
さて、静かな廊下を歩いてようやく辿りつくことが出来た。取っ手に手をかけてみると案の定、抵抗なく開く。
「やあ、こんな夜更けに何をしているの?」
「……!」
窓から差し込む明かりしかない旧音楽室。その窓辺には麗華一人、突然の来客である僕を見て驚いていた。
「どうしてあなたがここにいるのかしら?」
「どうしてって、そりゃ話したいことがあったからだよ」
「だったら通話でもしたらよかったじゃない」
「それで麗華は電話に出るの?」
知らんぷりといった顔をしている。あの表情から電話に出るつもりはないらしいことは分かった。だったら手間が省けたというもの。
「なんで分かったのよ」
「そんなのたまたまだよ」
「そう。ねえ、私が何をしようとしているのか分かるのかしら?」
「全然分からないよ」
「嘘ね」
「嘘じゃないよ。聞かなきゃ分かりっこない」
「それもそうね。だったら少しお話していいかしら」
開け放たれた窓から入る風で彼女の長い髪がたゆたう。その光景が一枚の絵のように見えて思わず僕は見入る。
「人、つまり動物は完全なの」
「完全って?」
「生まれてきた瞬間に何かが足りない動物なんて山ほどいるでしょう? でもそれは完全なの。たとえ人がこれは欠陥だと言っても、レッテルを貼ってもそれは生物として完全であるの」
「いわゆるハンデって別に失ったわけでもないってことかな?」
「ええ、そうね。それ自体、その人自体が完全なのよ。あれがないだのこれが出来ないだのは後から勝手に人がそう決めただけ。だけどね、後天的に失ったものについてはどう思うかしら?」
「後天的、そうだね。僕はそれは完全とは言えないんじゃないのかなって思うよ」
「普通そうよね。だって人生なんて何が起こるかわからないし、どんな事が起きてもその運命にあったと言えるから」
「本人の意図しない所で事が起きてしまったものだから、しょうがない……」
僕は口にしていてこの話はさくらのことなんじゃないかって思える。だって、運命がそうさせた。抗いようがなく受け入れることしか出来ないものだから。
「けれどね、それは違うのよ。この全てのことは必然なのよ」
「必然? それって運命と何が違うの?」
「運命なんてものは人の尺度。神の視点に立てば全ては必然なのよ。だから人生なんてものは必然でしかないのよ」
「それで麗華はどういう結論に至ったのさ?」
「とってもつまらないわよ。全てが必然だから、嫌なことがあっても受け入れようなんて、都合が良すぎるのよ。変えられないものなんて山程あるのにそれが必然だからって納得できる人は何も持たない人。でも私は違った、それだけよ」
愛している、なんて言える人はいない。だってその概念を知っている人はいないから。知っている人が一人でもいるなら不倫や浮気といった不和は生じないだろう。なのに世界ではそういう不和が蔓延っている。
つまり、誰も知ることが出来ないのに「愛している」なんて言える人は自分か相手を騙しているのだ。
僕は両方、だから伝えられた。
でもそれが本人じゃなくなると、全く言えなくなってしまう。その人はよくて他の人を騙すのは駄目だと僕の曲がった感性が叫んでいるから。
それでも僕は綾音に嘘をついた。彼女じゃなくても分かってしまうだろうけど。とにかく僕は嘘をついたんだ。
彼女の去り際の言葉が蘇る。「芳先輩は酷い人ですね。まあ、私には関係ないですけど」
ああ、彼女は僕をきちんと見てくれる。だから助かる。もし優しいなんてふざけたことを言ってしまったら、僕は自分をより責めてしまうだろうから。
けれど綾音は僕の願いを知っている。それは観覧車に乗っている僕と同じ幽霊を外に連れ出すこと。優しい彼女は僕のことを止められない。だから許してくれた。
この通学路の景色も随分変わってしまった。すっかり長くなってしまった草木。そして夜に降った雨の香りを放つ土たち。どこにいるかも分からない虫の音。時間は無条件に進んでいく。麗華に告白して以来あの時の嫌な臭いはなくなった。けれど僕の心はどうしてもすっからかんで、どんな表情で麗華の前に立てばいいのか分からない。
今日は学校をサボってしまおうかな、なんて想像もしてしまう。
携帯が震えた。確認すると僕が想像した人物からだ。
「今日はお昼、お母さんとお散歩をしようと思います。ですので、応援をして欲しいのです。その、文字だけだと寂しいのでボイスメッセージを一言。一言だけでいいからちょうだい。おにーちゃん」
「もちろん」と返事を手早くして、ボイスメッセージを録音する。内容は一言だけ。これまで通話もしてこなかったから驚かせないように、でも気持ちを込めてなんて言おうかな。考えてもいい案は浮かんでこない。だから僕は思いついた事を口にすることにした。
「さくら、愛してる」
思わずその場でしゃがみ込んでしまう。さっきまで考えていた「愛している」と言える人はいない。それは嘘だった。現にこうして僕はさくらに対して言えるじゃないか。ああ! どうして麗華には言えないんだ!
胃の中がかき混ぜられていく。綾音の作ってくれたあの美味しい朝食が食道を上っていく恐怖。僕は麗華を心の底では愛してなんていない。だのに僕は嘘を言ってしまっている。
僕は決して、してはいけない事を平然と彼女のためだのなんだとの理屈をこねて、してしまっている。僕と同じ空っぽの麗華。それは僕の妄想なんじゃないだろうか。勝手に決めつけた、そうであって欲しいという僕の欲望? ああ、きっと僕はさくらが先に進むのが怖いから。
だから焦って僕もちょうどいい麗華に対してレッテルを貼っているだけだ。
気づいてしまったら後は早い。
旧音楽室で感じた麗華から発する嫌な臭い。これからよくないことが起こる時に臭うあの香り、それは僕の欲望が形を変えているだけ。
今までやっていた行為は何の意味も持っていない。
申し訳ないなんて感情すら湧かない。そんな事ができる人はある程度自分がまともだと知っているから。僕は違う。自分の醜さをあたかも偽善だと理解していながら、それに酔って本当のことには目も向けようとせずに英雄気取りをしてた。それで綾音や小雪から目を手よく逸らしていただけなんだ。
一歩進めるのが恐ろしくて思うように動かない。逃げ出したかった。でも、さくらにこんな情けない様子は見せられない。とにかく後はなるようになってくれるだろう。そう信じて。
*
「おい体調でも悪いのか? ここ最近は元気そうだったのによ。前みたいになってやがるぞ」
「そうかな?」
「ああ、鏡か神無月でも見てこいよ」
「いや、しばらくダラっとしておくよ」
まだ心配そうな顔をしたまま僕の席を去っていく岡崎。最後に「そうか」と言い残していたけど、ひと目見て分かるほど僕は違うらしい。
行動をするなら早いうちがいい。そうしないといよいよ僕は偽物に、本当の意味で空っぽになってしまうから。この行動も自己本位なんてことは理解している。だけどそれ以上に他人を僕が縛り付けている方が嫌なんだ。
今日の放課後だ。そこで決着をつけようか。
「おい、羽野。ちょっといいか?」
僕に手招きをしている担任が戸口にいる。何の用があるってのか。かまってられるほど暇じゃないし動くのが面倒で溜息を吐いてしまう。
「何の用ですか?」
「お前さ、神無月と最近仲良くしてるだろ? その神無月がちょっと色々あって手を怪我しているのは知っているな?」
さっきから僕の知っていることしか喋らない。それだったら一体何があるっていうんだ。
「それ以来試しているのか、時々旧音楽室の鍵を借りに来ているんだけどな。昨日から鍵が返ってこないんだ。だから警備のためにもあいつにちょっと教えてやってくれないか?」
「……そうだったんですね、分かりました。伝えておきます」
「ありがな」それだけ言い残して次の授業の準備のためか、急いで去っていった。
麗華が旧音楽室の鍵を借りている? そんなこと全く知らなかった。弾けなくなったことを伝えて以来、あの部屋には行ってないって勝手に思っていたんだけど。どうやら違ってたらしい。弾かないと言っていたのにどうしてあの部屋に行くことがあるのか? 僕には分からない何かがあるのだろうか。それともやっぱり諦めきれないのだろうか。なおさら僕は早く彼女を縛り付けてはいけない。
――それでもどうしてか引っかかってしまう。嘘を付くような人じゃないと信じられるから。
「ねぇ、羽野くん。寝てないでさ。少しいいかな」
「どうしたの一井さん」
「む~なんだねその態度は。怒っちゃうぞ」
「そういやさ、麗華。旧音楽室の鍵を借りてるらしいんだよね。どうしてだと思う?」
「へ? そ~なの? わたし知らないな~」
棒読みで知らないふりをしようとするが本人もツッコまれることを分かっていてやっている。こういうことをしている時は何か言いたいと僕と小雪の間では相場が決まっている。
「何さ」
「あはは、何と言うかね。ちょっとお話したんだよ。まあ女子会みたいなもんだよ」
「昨日から鍵が返ってきてないらしいんだよ」
「え”? どうしてなんだろ。わたし知らないよ」
「ありがとう。借りた理由が分かっただけでも助かるよ」
「それくらいなら全然いいよ」
それから雑談を少しして小雪は自分の教室に戻っていった。それにしても小雪と麗華はどんなことを話していたんだろうか。弾けなくなってから、僕と麗華が付き合い始めてから二人の顔を同時に見るのが怖くてどんな交友関係があるのか全く知らなかった。
とにかく、今日の放課後に麗華に会えないか連絡してみよう。
返信はすぐにきたけれど、その内容は思ってもみなかったものだった。「ごめんなさい。会えないわ」それだけだった。鍵のことについても聞いてみたけど、既読マークは付かない。どうしてしまったのか、やはり気になってしまう。
雲間から月が顔を覗かせていた。いつもよりも明るく木々のシルエットが遠目からよく分かる程だ。光源はぽつりぽつりと道を照らし、僕の進む先を教えている。だから僕もそれに従って足を動かすのみ。
一度は考えた事がある人もいるんじゃないだろうか。夜の学校に忍び込む方法を。そしてそれを実際に今試す必要が僕にはある。さて、上手くいくだろうか。
放課後、職員室に赴いても旧音楽室の鍵は返ってこなかった。それを知った時にある可能性がちらついてしまったのだ。まさか、そんなことは起こるまい。そう考えている時は一番危ない。だって、それはさくらで学んだことだから。
ただ確認するだけなんだ。それで何もなかったらそれでいいし、気付けたなら僥倖というわけ。もう僕はそれがありえない可能性だと信じて切り捨てることはしない。
よじ登るにしても現代の防犯は恐ろしい。下見をして正解だ。この茂みになっている箇所にいつ出来たのか、それとも僕と同じことを考えている人がいるのか、金網に穴が開いていた。大きさも人一人が十分に通れるような広さ。するりと身をくぐらせ、茂みを抜けると、ほら。運動場の端っこに出てくる。こうなったら後は校舎に入るだけ。ここが一番の問題なのだ。
全ての窓をきちんと閉じてはいない、あくまで僕の想像だけど。特にトイレの窓。これは廊下の窓よりも締めるのが面倒なんじゃないだろうか。ほら、思った通り開いている。
窓枠に身をくぐらせて校内へ降り立つ。
運動場から外周を回ってここへ来たから確認できていないけど、もしかしたら教師が残っているかもしれない。だから慎重に足音を殺して進む。もちろん目標はあの部屋だ。
廊下に落ちている月光はまるで水面のようで、この廊下の下に魚が泳いでいるんじゃないかと妄想してしまう。そんなことは起こるはずもないのに綺麗だからって理由で起こって欲しいと願ってしまうのは僕の欲望の表れだ。ここが本当に水面の上ならばその上には小船が一隻あるだろう。
さて、静かな廊下を歩いてようやく辿りつくことが出来た。取っ手に手をかけてみると案の定、抵抗なく開く。
「やあ、こんな夜更けに何をしているの?」
「……!」
窓から差し込む明かりしかない旧音楽室。その窓辺には麗華一人、突然の来客である僕を見て驚いていた。
「どうしてあなたがここにいるのかしら?」
「どうしてって、そりゃ話したいことがあったからだよ」
「だったら通話でもしたらよかったじゃない」
「それで麗華は電話に出るの?」
知らんぷりといった顔をしている。あの表情から電話に出るつもりはないらしいことは分かった。だったら手間が省けたというもの。
「なんで分かったのよ」
「そんなのたまたまだよ」
「そう。ねえ、私が何をしようとしているのか分かるのかしら?」
「全然分からないよ」
「嘘ね」
「嘘じゃないよ。聞かなきゃ分かりっこない」
「それもそうね。だったら少しお話していいかしら」
開け放たれた窓から入る風で彼女の長い髪がたゆたう。その光景が一枚の絵のように見えて思わず僕は見入る。
「人、つまり動物は完全なの」
「完全って?」
「生まれてきた瞬間に何かが足りない動物なんて山ほどいるでしょう? でもそれは完全なの。たとえ人がこれは欠陥だと言っても、レッテルを貼ってもそれは生物として完全であるの」
「いわゆるハンデって別に失ったわけでもないってことかな?」
「ええ、そうね。それ自体、その人自体が完全なのよ。あれがないだのこれが出来ないだのは後から勝手に人がそう決めただけ。だけどね、後天的に失ったものについてはどう思うかしら?」
「後天的、そうだね。僕はそれは完全とは言えないんじゃないのかなって思うよ」
「普通そうよね。だって人生なんて何が起こるかわからないし、どんな事が起きてもその運命にあったと言えるから」
「本人の意図しない所で事が起きてしまったものだから、しょうがない……」
僕は口にしていてこの話はさくらのことなんじゃないかって思える。だって、運命がそうさせた。抗いようがなく受け入れることしか出来ないものだから。
「けれどね、それは違うのよ。この全てのことは必然なのよ」
「必然? それって運命と何が違うの?」
「運命なんてものは人の尺度。神の視点に立てば全ては必然なのよ。だから人生なんてものは必然でしかないのよ」
「それで麗華はどういう結論に至ったのさ?」
「とってもつまらないわよ。全てが必然だから、嫌なことがあっても受け入れようなんて、都合が良すぎるのよ。変えられないものなんて山程あるのにそれが必然だからって納得できる人は何も持たない人。でも私は違った、それだけよ」
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