君に捧げる―欠ける月

ShlrPhys

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終章 展覧会の絵

25話 終奏

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 あの演劇からしばらくの時が経った。さくらは社会生活が充分出来るほどになったし、麗華も僕たちのような学生らしい生活に馴染んできた。かくいう僕は、恋愛という感情がどこまでも分からないでいる。
 きっと僕は人生において分かることはないんだろう。いや、それ自体が嘘なのかもしれないけど。いつか分かる日が来るかもしれないから、だからといって誤魔化して誰かに恋をするなんてことはしない。相手がよくても僕の心中は穏やかでないから。
 
「ねえ羽野くん。どうして本を読もうって考えたの?」
「理由なんて特にないよ。ただ好きな作家が使っていたから、作品を知るために読んだんだよ」
「それって理由じゃん」
「まあ、そうなんだけどさ。立派なものじゃないからね」
「立派もなにも大抵そんなものじゃないかな?」
「そうかな」
「そうだよ」

 ブー。携帯が着信を知らせるために震える。確認すると綾音からで、どうやら彼女は受賞したようだった。
 麗華が弾けなくなってから綾音の演奏は劇的に変わっていったと岡崎は話していた。前までは作品自体の、作者のメッセージを伝えるために弾いていたのが、今ではそれらを飛び越えて、その先を演奏するみたいだ。まるであの神無月のように、と。

「なになに?」
「結野さんからだよ。また受賞したんだって」
「また! すっごいね、あやちゃん」
「ええ、凄いでしょう。あの子は私より才能があるのよ」
「本人が聞いたらそんなことはないって言うだろうね」
「それでもよ。あの子は私より遠くへ飛んでいけるわ」
「……って、まだそれ着てるんだね」
「好きなんだからしょうがないじゃない」
「でも、いっつもガミガミと言われてない?」
「言われているわよ? それがどうしたの?」
 
 麗華は弾けなくなった時にこの学校を離れてしまうと言っていたが、僕が直接会いに行って話をしてみると思いのほか、話を聞いてくれた。確かに娘の才能をより伸ばそうとしたけど、弾くことが出来なくなってから、麗華の心情を彼女に代わって話をしたら、酷く落ち込んだ。娘の幸せを考えていないと知って、まるで親失格だみたいなことを言っていた。僕はそんなことないと話したけど、あの様子だと簡単には立ち直れない様子だった。それでも僕はあの人達が酷い人達には見えない。やり方は違ったかもしれない。だけど、それで気持ちまでもがみんな消えるわけじゃない。

「わたしね、ある本を読んだんだけど、好きな言葉にね、心で見なくちゃ、ものごとはよく見えない。どんな気持ちも心で見なくちゃ、本当のことはわからない」
「サン・テグジュペリだね……」
「だからね、考え、見つめ、本当に大切なことをしたらいいと思うよ」
「そうね、わたしだって同じことを思うわ。したいこと、成りたかったもの。そういうこと全部を心で見る。だけど……私はバラの気持ちを考えてしまうわ。残されて、本当は行ってほしくはないけど、送り出すバラの優しさ。王子様には友達がいたけれど、バラはそうじゃない」

 白磁をソーサーに置き、カチリと硬い音が鳴る。そのまま椅子から立ち上がり新品同様の漆黒のピアノの前に進んだ。

「僕も麗華と同じように思ってしまうよ。でも、そうあって欲しいという願いなんだろうけど、彼女にも友達は出来るんじゃないのかな。王子さまが座っていた椅子か日が沈むのを眺める時には彼女も、砂漠のなかで井戸を見つけることと同じ……だと思いたいね」
 
「……孤独だったバラにはもう充分なのよ」と言いながら指先を白鍵に添える。静寂の中、彼女の深く息を吸う音が聞こえた。

「なんどだって咲いて、咲いて、咲いて。何度も気持ちを変え、形を変え、思いを咲かせる……わたしはそうだよ」

 一つの音が空間を震わせる。後を追いかける音はどうにもぎこちない。いつも大抵、初めの一歩は成功する。だけど、二歩目になると上手くいかないことを知ってしまう。酷く拙い稚拙な音。それでも歩んでいくことは止めない。それだけで世界は閉じてしまわないから。
 曲とも言えない歪んだテンポだ。でも、僕はその曲が何かを理解する。だって日々聞いていたから、そういう積み重ねがあって僕は理解できる。誰になんと言われようと、そこに積み重ねがなければそれはあの沢山咲くバラと変わらないもの。
 音が変化して、ここまでが散歩道だということを教える。一つの絵画を遠くから、けれどしっかりと目に焼き付ける。……彼女ならカノン。
 そこからは僕の知らない、彼女の散歩道と絵画を歩いてく。しばらくすると四季の春の豊かな音色が耳に入る。その春の嵐は段々近づいて、魔王の登場を知らせる。けれど、ゆっくりと音は繋いでいくが次第に音が消え、静寂を僕たちに教える。
 落ち着いたのもつかの間、新たなテンポが刻まれていく。ワルツ、そう花のワルツが辛うじて分かる程度の速度と音程で黒い光沢から流れ出す。そして最後には一つのピアノしかないけれど、確かに歓喜の音を響かせる。
 
 ――おお友よ、このような旋律ではない!
   もっと心地よいものを歌おうではないか
   もっと喜びに満ち溢れるものを

 ある時、麗華はソルレソルというものを教えてくれた。これはいわゆる人工言語で、音楽語と呼ばれるもの。だけど、『これは私は言葉だとは思わない。確かに人工言語なのだろうけど、そこには相貌がない。見えるものが、その言葉の暖かさが私には感じられない。他の人はそう感じるかもしれないけど、それが私にとっての世界なの』

 きっとバラは一人でも、咲き続ける。王子さまとの過去に囚われることなく、ただ清く、美しく。そっと繊細に、けれど硬く唇を結んで笑顔を見せるだろう。ずっと不器用な、正しさやテンポもリズムもないまま。
 
 終章 展覧会の絵
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