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第五帖
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内裏を揺るがした薫物合の騒動は、帝の峻烈な沙汰によって幕を下ろした。
他者の魂とも言える香りを盗み、あろうことか神聖なる場を穢した藤原の道隆は、即座に官位を剥奪され、その邸も財産もすべて没収された。
かつて都の栄華を我が物顔で謳歌していた男は、一夜にして、身寄りのない流浪の身へと堕ちたのである。
都の最果て。
雨が降ればたちまち泥濘と化す、湿った地にあるあばら家。
そこが、道隆と明子に与えられた新しい檻であった。
かつて瑠璃を閉じ込めていた離れよりもなお狭く、壁は煤け、隙間風が容赦なく吹き抜ける。
「お前のせいだ。お前があの香りを盗み出し、私を唆したから、私はすべてを失ったのだ!」
道隆の怒声が、薄い壁を震わせる。
かつての艶やかな直衣は汚れ、手入れをされない髪は乱れ放題だ。
かつての威厳は微塵もなく、ただ己の不運を他人のせいにする卑屈な男の姿がそこにあった。
「何を言っているのです。素晴らしい香りだと私を褒めちぎり、瑠璃様を追い出したのは貴方ではありませんか! ああ、臭い……。近寄らないでください、獣の臭いがするわ!」
明子もまた、かつての美貌を失っていた。
贅沢な暮らしを奪われ、憎しみに身を焦がす彼女の顔には深い皺が刻まれ、その瞳は毒々しい色を湛えている。
何より凄惨なのは、二人の体から決して消えることのない、あの獣の死臭であった。
どれほど冷たい水で身を洗おうとも、どれほど安価な香を焚き散らそうとも、その臭いは二人の内面から溢れ出す呪いのように付きまとう。
名香の力を持ってしても、魂の腐敗だけは覆い隠せない。
瑠璃が放った清浄な香りは、二人の嘘と邪念を暴き出し、一生消えない烙印としてその身に焼き付けたのだ。
二人は互いの存在を、自らの醜さを映し出す鏡として憎み合い、一生、この泥濘の中で自分たちの体臭に怯えながら、呪いの言葉を吐き続ける運命となった。
一方、春の訪れと共に、東宮の宮には柔らかな光が満ちていた。
瑠璃は、最高級の薄紅色の絹に包まれ、静かな庭を眺めている。
彼女は今や、帝お抱えの調香師として、そして東宮が最も慈しむ魂の伴侶として迎えられていた。
「まだ、少し指先が冷たいな」
背後から聞こえた穏やかな声に、瑠璃は微かに肩を揺らした。
東宮が歩み寄り、瑠璃の、かつて赤くひび割れていた手を優しく包み込む。
彼は、異国から届いたという、芳しい花の油を瑠璃の手に一滴落とし、慈しむように塗り広げた。
「東宮様……。このようなこと、私のような身の上には、もったいなき幸せにございます」
「二度と、そのようなことは申すな。そなたの香りは、内裏の穢れを清めるだけでなく、病に伏せる多くの民をも救う力を持っている。私は、その気高い魂を、これからは国のために役立ててほしいと願っているのだ」
東宮の言葉通り、瑠璃は今、帝の許しを得て、香りの力を用いた医術の普及にも力を注いでいた。
かつて自分を助けてくれた忠房や女房たちが、今は瑠璃の弟子として、民のために香を練る日々を支えている。
瑠璃は、東宮のために用意していた香炉に、静かに新しい香を置いた。
それは、東宮という一人の男のためだけに調合された、究極の救い。
権謀術数が渦巻く内裏で、張り詰めた神経を磨り減らしてきた彼の孤独を、丸ごと包み込むための香り。
幼い頃に失った母の慈しみのような、どこか懐かしい温もり。
春の陽だまりの中でまどろむような、絶対的な安心感。
それは、東宮が「次期帝」という重責を脱ぎ捨て、ただの一人の男として、誰にも怯えず、誰をも疑わずに済むための、世界で唯一の聖域であった。
煙がゆらりと立ち昇った瞬間、東宮は深い溜息をつき、瑠璃の肩に顔を埋めた。
その香りに触れた刹那、彼の武装は完全に解け、心に溜まっていた澱がさらさらと流れ出していく。
「……この香りだ。そなたの傍にいるときだけ、私は本当の自分に戻れる。誰の視線も、誰の思惑も届かない、ただの私に」
「はい。香りは嘘をつきませんわ。貴方様がどれほどお疲れで、どれほどお優しいお方か、私にはすべて聞こえております」
瑠璃の言葉に、東宮は彼女をさらに強く抱き寄せた。
白梅の香りと、瑠璃が練り上げた慈愛の香りが混ざり合い、二人の未来を祝福するように宮を満たしていく。
かつて灰の底で燻っていた残り火は、今、新しい時代の光となって、彼女とこの国の未来を鮮やかに照らし出していた。
二人の間に漂うのは、どんな冬も、どんな悪臭も届かない、永劫に続く真実の愛の香りであった。
(完)
他者の魂とも言える香りを盗み、あろうことか神聖なる場を穢した藤原の道隆は、即座に官位を剥奪され、その邸も財産もすべて没収された。
かつて都の栄華を我が物顔で謳歌していた男は、一夜にして、身寄りのない流浪の身へと堕ちたのである。
都の最果て。
雨が降ればたちまち泥濘と化す、湿った地にあるあばら家。
そこが、道隆と明子に与えられた新しい檻であった。
かつて瑠璃を閉じ込めていた離れよりもなお狭く、壁は煤け、隙間風が容赦なく吹き抜ける。
「お前のせいだ。お前があの香りを盗み出し、私を唆したから、私はすべてを失ったのだ!」
道隆の怒声が、薄い壁を震わせる。
かつての艶やかな直衣は汚れ、手入れをされない髪は乱れ放題だ。
かつての威厳は微塵もなく、ただ己の不運を他人のせいにする卑屈な男の姿がそこにあった。
「何を言っているのです。素晴らしい香りだと私を褒めちぎり、瑠璃様を追い出したのは貴方ではありませんか! ああ、臭い……。近寄らないでください、獣の臭いがするわ!」
明子もまた、かつての美貌を失っていた。
贅沢な暮らしを奪われ、憎しみに身を焦がす彼女の顔には深い皺が刻まれ、その瞳は毒々しい色を湛えている。
何より凄惨なのは、二人の体から決して消えることのない、あの獣の死臭であった。
どれほど冷たい水で身を洗おうとも、どれほど安価な香を焚き散らそうとも、その臭いは二人の内面から溢れ出す呪いのように付きまとう。
名香の力を持ってしても、魂の腐敗だけは覆い隠せない。
瑠璃が放った清浄な香りは、二人の嘘と邪念を暴き出し、一生消えない烙印としてその身に焼き付けたのだ。
二人は互いの存在を、自らの醜さを映し出す鏡として憎み合い、一生、この泥濘の中で自分たちの体臭に怯えながら、呪いの言葉を吐き続ける運命となった。
一方、春の訪れと共に、東宮の宮には柔らかな光が満ちていた。
瑠璃は、最高級の薄紅色の絹に包まれ、静かな庭を眺めている。
彼女は今や、帝お抱えの調香師として、そして東宮が最も慈しむ魂の伴侶として迎えられていた。
「まだ、少し指先が冷たいな」
背後から聞こえた穏やかな声に、瑠璃は微かに肩を揺らした。
東宮が歩み寄り、瑠璃の、かつて赤くひび割れていた手を優しく包み込む。
彼は、異国から届いたという、芳しい花の油を瑠璃の手に一滴落とし、慈しむように塗り広げた。
「東宮様……。このようなこと、私のような身の上には、もったいなき幸せにございます」
「二度と、そのようなことは申すな。そなたの香りは、内裏の穢れを清めるだけでなく、病に伏せる多くの民をも救う力を持っている。私は、その気高い魂を、これからは国のために役立ててほしいと願っているのだ」
東宮の言葉通り、瑠璃は今、帝の許しを得て、香りの力を用いた医術の普及にも力を注いでいた。
かつて自分を助けてくれた忠房や女房たちが、今は瑠璃の弟子として、民のために香を練る日々を支えている。
瑠璃は、東宮のために用意していた香炉に、静かに新しい香を置いた。
それは、東宮という一人の男のためだけに調合された、究極の救い。
権謀術数が渦巻く内裏で、張り詰めた神経を磨り減らしてきた彼の孤独を、丸ごと包み込むための香り。
幼い頃に失った母の慈しみのような、どこか懐かしい温もり。
春の陽だまりの中でまどろむような、絶対的な安心感。
それは、東宮が「次期帝」という重責を脱ぎ捨て、ただの一人の男として、誰にも怯えず、誰をも疑わずに済むための、世界で唯一の聖域であった。
煙がゆらりと立ち昇った瞬間、東宮は深い溜息をつき、瑠璃の肩に顔を埋めた。
その香りに触れた刹那、彼の武装は完全に解け、心に溜まっていた澱がさらさらと流れ出していく。
「……この香りだ。そなたの傍にいるときだけ、私は本当の自分に戻れる。誰の視線も、誰の思惑も届かない、ただの私に」
「はい。香りは嘘をつきませんわ。貴方様がどれほどお疲れで、どれほどお優しいお方か、私にはすべて聞こえております」
瑠璃の言葉に、東宮は彼女をさらに強く抱き寄せた。
白梅の香りと、瑠璃が練り上げた慈愛の香りが混ざり合い、二人の未来を祝福するように宮を満たしていく。
かつて灰の底で燻っていた残り火は、今、新しい時代の光となって、彼女とこの国の未来を鮮やかに照らし出していた。
二人の間に漂うのは、どんな冬も、どんな悪臭も届かない、永劫に続く真実の愛の香りであった。
(完)
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