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第五帖
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私に向かって無遠慮に伸ばされた御雷丸のふっくらとした手を、背後から伸びてきた細い腕が容赦なく弾き飛ばした。
「痛っ……! な、何をするんだ!」
「私の妹に、気安く触れるな」
絶対的な拒絶を込めた、地を這うような冷たい声だった。
垣根の隙間から身を乗り出していた御雷丸と私の間に、粗末な着物を纏った小さな背中が音もなく立ち塞がる。
十歳になった私の最愛の兄、香香丸だった。
長年の冷遇と栄養不足により、彼の体はたっぷりと甘やかされて育った九歳の御雷丸よりもずっと細く、華奢だった。しかし、私の前に立つその背中は、大人の男のように頼もしく、揺るぎない覚悟に満ちていた。
大人を一切信用せず、心を固く閉ざして生きてきた香香丸にとって、私という存在だけがこの暗闇の世界を照らす唯一の光だ。彼は私を守り抜くことだけを自らの生きる理由とし、自らを私の剣であり盾であると定めている。
鋭い眼光で異母弟を睨みつける彼の姿は、まさしく愛する姫を守る孤独な若き騎士そのものだった。
その凛々しくも痛々しいほどにひたむきな兄の姿を背後から見つめながら、私は激しい親バカ心、いや、前世からの狂気的な母性をひどくくすぐられていた。
ああ、私のかわいい香香丸。なんて立派に、なんて凛々しく育ってくれたのかしら。
今すぐその細い体を抱きしめて、いい子だと頭を撫で回してしまいたいわ。
私が内心で悶えていることなど露知らず、拒絶された御雷丸は羞恥と混乱で顔を茹でダコのように真っ赤にしていた。
「な、なんだと! お前なんか、ただの薄汚い離れのネズミじゃないか! 次期当主である僕が、わざわざ遊んでやると言っているんだぞ! ありがたく思え!」
御雷丸は必死に虚勢を張り、名門の血を引く自らの特権を叫んだ。
好きな子にどう接していいかわからず、威圧することでしか気を引けない、あまりにも不器用で歪な初恋の暴走だ。
しかし、そんな子供の癇癪など、過保護な香香丸に通じるはずもなかった。
香香丸は一歩も引かず、腰に提げていた庭仕事用の錆びた鎌にそっと手を伸ばした。その瞳に宿る本物の殺気に、御雷丸がわずかに怯んで後ずさる。
「若君、あのような薄汚い犬っころを相手になさってはいけませんよ。噛み付かれたら穢れてしまいますからな」
張り詰めた空気を破ったのは、下品な嘲笑を含んだ大人の声だった。
御雷丸の背後から、高価な装束を着崩した数人の男たちが姿を現す。彼らは名門である鈿芽の実家から葛城家へと送り込まれ、彼女の手足となって屋敷の財を貪っている取り巻きの家臣たちだった。
彼らは私と香香丸を汚物でも見るかのように見下し、わざとらしく鼻をつまんだ。
「さあ若君、あんな生意気なガキは放っておいて、若君がわざわざお持ちくださったあの品を、哀れな妹君に恵んでやりましょうぞ。底辺のネズミには一生お目にかかれないような、素晴らしい宝ですからな」
男の一人が、仰々しく装飾された美しい漆塗りの箱を掲げて見せた。
御雷丸はハッとして、その箱を引ったくるように受け取ると、得意げに蓋を開けた。
中に収められていたのは、陽の光を浴びて七色に輝く、異国から渡ってきたばかりの極めて珍しい瑠璃の杯だった。都でも一握りの大貴族しか手に入れられない、途方もない価値を持つ代物だ。
「ど、どうだ! 綺麗だろう! 僕の母上の部屋にあったものを、特別に持ってきたんだ! お前が僕に頭を下げて頼むなら、これを……」
御雷丸が言い終わる前に、私は香香丸の背中の後ろからそっと顔を出し、子供らしい無邪気な声で、しかし周囲に響き渡るほどの大声で叫んだ。
「まあ! それは、帝への献上品として、お父様が大切に宝物庫に保管していたはずの瑠璃の杯ではありませんか! なぜ、鈿芽様のお付きの方々がそれを持っていらっしゃるの?」
私のその一言に、その場にいた大人たちの動きが完全に凍りついた。
私は知っていたのだ。登代からの情報で、今日この時間に、葛城家の財産を管理する厳しい監査役の役人たちが、離れのすぐ近くの通路を見回りを通ることを。
そして、鈿芽の取り巻きたちが、名門の権力を笠に着て宝物庫から横領を繰り返し、私腹を肥やしていることも。
「な……っ! き、貴様、何をでたらめを……!」
取り巻きの男たちが血相を変えて怒鳴り声を上げたが、遅かった。
騒ぎを聞きつけた監査役の役人たちが、厳しい顔つきで垣根の向こう側に姿を現したのだ。
彼らの視線は、御雷丸の手に握られた瑠璃の杯と、ひどく狼狽している鈿芽の家臣たちに釘付けになった。
「それは……確かに、来月帝へ献上する予定の品。なぜ、お前たちがそれを持ち出しているのだ?」
監査役の冷たい追及に、男たちは顔面を蒼白にし、まともな言い訳すら口にできなかった。
名門の姫である鈿芽の威光を傘に着ていれば、多少の不正など揉み消せると高を括っていたのだろう。しかし、帝への献上品を盗み出したとなれば、いかに鈿芽の実家の権力があろうとも、明確な大罪として裁かれる。
私は怯えた子供のフリをして香香丸の背中に隠れながら、監査役に懇願するように告げた。
「あの大人の方々が、底辺のネズミには一生お目にかかれない宝を見せてやると言って、持ってこられたのです。どうか、お父様の大切な宝を奪わないでくださいませ……」
七歳の幼くあどけない少女の証言は、あまりにも決定的なものだった。
言い逃れができないと悟った男たちは、その場で監査役の役人たちに取り押さえられ、無惨にも地面に引き倒された。
先ほどまでの傲慢な態度はどこへやら、彼らは泥にまみれながら見苦しく命乞いを叫んでいる。
「母上の……宝じゃ、なかったのか……?」
御雷丸は、空っぽになった自分の手と、引き立てられていく男たちを交互に見つめ、茫然自失として立ち尽くしていた。
彼は本当に知らなかったのだ。自分の母親やその周囲の人間たちが、どれほど汚い手を使ってこの屋敷の富を貪っているかを。
私はその呆然とする御雷丸を一瞥し、内心で冷たく嘲笑った。
名門の血だの、次期当主だのと威張ってはみても、結局は周囲の大人に踊らされているだけの滑稽な子供。
私の愛する香香丸の足元にも及ばない、取るに足らない存在だわ。
その日の夜、本邸の最も豪華な部屋で、凄まじい破壊音が鳴り響いた。
「どういうことなの! 私の大切な手足となる者たちが、あのような下賤な女の娘の言葉一つで捕らえられるなど! あり得ないわ!」
名門の姫である鈿芽は、夜叉のように顔を歪め、室内に飾られていた高価な陶器や調度品を手当たり次第に床に叩きつけていた。
彼女にとって、自分の忠実な家臣たちが「七歳の卑しい血を引く少女」の無邪気な証言によって社会的に抹殺されたという事実は、特権階級としての誇りを根底からへし折られる、耐え難い屈辱だった。
横領が公になったことで、彼女の自由に使えていた裏の資金源は絶たれ、社交界でも「実家の権力を笠に着て盗みを働かせていた浅ましい女」という致命的な悪評が立つことは避けられない。
何より、自分よりはるかに身分の低い、虫けらのように見下していた存在に出し抜かれたことが、彼女の強烈なプライドを許容量を超えて傷つけていた。
「許さない……絶対に許さないわ、あの忌々しいネズミ共……! 私を誰だと思っているの! この名門の血を引く、次期当主の母である私を!」
怒りで全身を震わせ、豪華な着物の裾を乱しながら、鈿芽は狂ったように叫び続けた。
彼女の純粋な悪意と傲慢さは、今や理性を完全に失い、ただの破壊衝動へと変貌していた。
彼女はその足で、夜更けであるにもかかわらず景冬の執務室へと押し入り、泣き喚きながら激しく彼に詰め寄った。
「旦那様! あのような卑しい血の子供たちを、これ以上この屋敷に置いておくことは葛城の家の恥です! 今すぐ、あの離れの二人を屋敷から完全に追放してくださいませ!」
実家の強大な権力を背景にした、有無を言わさぬ傲慢な要求。
家の繁栄を至上命題とする景冬にとって、名門である鈿芽の実家の機嫌を損ねることは避けなければならない事態だ。
翌朝、景冬の命令により、私と香香丸は彼が待ち構える本邸の広間へと引きずり出されることになった。
それは、私にとって計画通りの、待ちに待った瞬間だった。
私を無惨に殺したあの男の前に、再びその姿を晒す時が来たのだ。
「痛っ……! な、何をするんだ!」
「私の妹に、気安く触れるな」
絶対的な拒絶を込めた、地を這うような冷たい声だった。
垣根の隙間から身を乗り出していた御雷丸と私の間に、粗末な着物を纏った小さな背中が音もなく立ち塞がる。
十歳になった私の最愛の兄、香香丸だった。
長年の冷遇と栄養不足により、彼の体はたっぷりと甘やかされて育った九歳の御雷丸よりもずっと細く、華奢だった。しかし、私の前に立つその背中は、大人の男のように頼もしく、揺るぎない覚悟に満ちていた。
大人を一切信用せず、心を固く閉ざして生きてきた香香丸にとって、私という存在だけがこの暗闇の世界を照らす唯一の光だ。彼は私を守り抜くことだけを自らの生きる理由とし、自らを私の剣であり盾であると定めている。
鋭い眼光で異母弟を睨みつける彼の姿は、まさしく愛する姫を守る孤独な若き騎士そのものだった。
その凛々しくも痛々しいほどにひたむきな兄の姿を背後から見つめながら、私は激しい親バカ心、いや、前世からの狂気的な母性をひどくくすぐられていた。
ああ、私のかわいい香香丸。なんて立派に、なんて凛々しく育ってくれたのかしら。
今すぐその細い体を抱きしめて、いい子だと頭を撫で回してしまいたいわ。
私が内心で悶えていることなど露知らず、拒絶された御雷丸は羞恥と混乱で顔を茹でダコのように真っ赤にしていた。
「な、なんだと! お前なんか、ただの薄汚い離れのネズミじゃないか! 次期当主である僕が、わざわざ遊んでやると言っているんだぞ! ありがたく思え!」
御雷丸は必死に虚勢を張り、名門の血を引く自らの特権を叫んだ。
好きな子にどう接していいかわからず、威圧することでしか気を引けない、あまりにも不器用で歪な初恋の暴走だ。
しかし、そんな子供の癇癪など、過保護な香香丸に通じるはずもなかった。
香香丸は一歩も引かず、腰に提げていた庭仕事用の錆びた鎌にそっと手を伸ばした。その瞳に宿る本物の殺気に、御雷丸がわずかに怯んで後ずさる。
「若君、あのような薄汚い犬っころを相手になさってはいけませんよ。噛み付かれたら穢れてしまいますからな」
張り詰めた空気を破ったのは、下品な嘲笑を含んだ大人の声だった。
御雷丸の背後から、高価な装束を着崩した数人の男たちが姿を現す。彼らは名門である鈿芽の実家から葛城家へと送り込まれ、彼女の手足となって屋敷の財を貪っている取り巻きの家臣たちだった。
彼らは私と香香丸を汚物でも見るかのように見下し、わざとらしく鼻をつまんだ。
「さあ若君、あんな生意気なガキは放っておいて、若君がわざわざお持ちくださったあの品を、哀れな妹君に恵んでやりましょうぞ。底辺のネズミには一生お目にかかれないような、素晴らしい宝ですからな」
男の一人が、仰々しく装飾された美しい漆塗りの箱を掲げて見せた。
御雷丸はハッとして、その箱を引ったくるように受け取ると、得意げに蓋を開けた。
中に収められていたのは、陽の光を浴びて七色に輝く、異国から渡ってきたばかりの極めて珍しい瑠璃の杯だった。都でも一握りの大貴族しか手に入れられない、途方もない価値を持つ代物だ。
「ど、どうだ! 綺麗だろう! 僕の母上の部屋にあったものを、特別に持ってきたんだ! お前が僕に頭を下げて頼むなら、これを……」
御雷丸が言い終わる前に、私は香香丸の背中の後ろからそっと顔を出し、子供らしい無邪気な声で、しかし周囲に響き渡るほどの大声で叫んだ。
「まあ! それは、帝への献上品として、お父様が大切に宝物庫に保管していたはずの瑠璃の杯ではありませんか! なぜ、鈿芽様のお付きの方々がそれを持っていらっしゃるの?」
私のその一言に、その場にいた大人たちの動きが完全に凍りついた。
私は知っていたのだ。登代からの情報で、今日この時間に、葛城家の財産を管理する厳しい監査役の役人たちが、離れのすぐ近くの通路を見回りを通ることを。
そして、鈿芽の取り巻きたちが、名門の権力を笠に着て宝物庫から横領を繰り返し、私腹を肥やしていることも。
「な……っ! き、貴様、何をでたらめを……!」
取り巻きの男たちが血相を変えて怒鳴り声を上げたが、遅かった。
騒ぎを聞きつけた監査役の役人たちが、厳しい顔つきで垣根の向こう側に姿を現したのだ。
彼らの視線は、御雷丸の手に握られた瑠璃の杯と、ひどく狼狽している鈿芽の家臣たちに釘付けになった。
「それは……確かに、来月帝へ献上する予定の品。なぜ、お前たちがそれを持ち出しているのだ?」
監査役の冷たい追及に、男たちは顔面を蒼白にし、まともな言い訳すら口にできなかった。
名門の姫である鈿芽の威光を傘に着ていれば、多少の不正など揉み消せると高を括っていたのだろう。しかし、帝への献上品を盗み出したとなれば、いかに鈿芽の実家の権力があろうとも、明確な大罪として裁かれる。
私は怯えた子供のフリをして香香丸の背中に隠れながら、監査役に懇願するように告げた。
「あの大人の方々が、底辺のネズミには一生お目にかかれない宝を見せてやると言って、持ってこられたのです。どうか、お父様の大切な宝を奪わないでくださいませ……」
七歳の幼くあどけない少女の証言は、あまりにも決定的なものだった。
言い逃れができないと悟った男たちは、その場で監査役の役人たちに取り押さえられ、無惨にも地面に引き倒された。
先ほどまでの傲慢な態度はどこへやら、彼らは泥にまみれながら見苦しく命乞いを叫んでいる。
「母上の……宝じゃ、なかったのか……?」
御雷丸は、空っぽになった自分の手と、引き立てられていく男たちを交互に見つめ、茫然自失として立ち尽くしていた。
彼は本当に知らなかったのだ。自分の母親やその周囲の人間たちが、どれほど汚い手を使ってこの屋敷の富を貪っているかを。
私はその呆然とする御雷丸を一瞥し、内心で冷たく嘲笑った。
名門の血だの、次期当主だのと威張ってはみても、結局は周囲の大人に踊らされているだけの滑稽な子供。
私の愛する香香丸の足元にも及ばない、取るに足らない存在だわ。
その日の夜、本邸の最も豪華な部屋で、凄まじい破壊音が鳴り響いた。
「どういうことなの! 私の大切な手足となる者たちが、あのような下賤な女の娘の言葉一つで捕らえられるなど! あり得ないわ!」
名門の姫である鈿芽は、夜叉のように顔を歪め、室内に飾られていた高価な陶器や調度品を手当たり次第に床に叩きつけていた。
彼女にとって、自分の忠実な家臣たちが「七歳の卑しい血を引く少女」の無邪気な証言によって社会的に抹殺されたという事実は、特権階級としての誇りを根底からへし折られる、耐え難い屈辱だった。
横領が公になったことで、彼女の自由に使えていた裏の資金源は絶たれ、社交界でも「実家の権力を笠に着て盗みを働かせていた浅ましい女」という致命的な悪評が立つことは避けられない。
何より、自分よりはるかに身分の低い、虫けらのように見下していた存在に出し抜かれたことが、彼女の強烈なプライドを許容量を超えて傷つけていた。
「許さない……絶対に許さないわ、あの忌々しいネズミ共……! 私を誰だと思っているの! この名門の血を引く、次期当主の母である私を!」
怒りで全身を震わせ、豪華な着物の裾を乱しながら、鈿芽は狂ったように叫び続けた。
彼女の純粋な悪意と傲慢さは、今や理性を完全に失い、ただの破壊衝動へと変貌していた。
彼女はその足で、夜更けであるにもかかわらず景冬の執務室へと押し入り、泣き喚きながら激しく彼に詰め寄った。
「旦那様! あのような卑しい血の子供たちを、これ以上この屋敷に置いておくことは葛城の家の恥です! 今すぐ、あの離れの二人を屋敷から完全に追放してくださいませ!」
実家の強大な権力を背景にした、有無を言わさぬ傲慢な要求。
家の繁栄を至上命題とする景冬にとって、名門である鈿芽の実家の機嫌を損ねることは避けなければならない事態だ。
翌朝、景冬の命令により、私と香香丸は彼が待ち構える本邸の広間へと引きずり出されることになった。
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私を無惨に殺したあの男の前に、再びその姿を晒す時が来たのだ。
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