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第1話 雨の追放と、泥まみれの救済
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「起きなさい、この穀潰し!」
頭から浴びせられた冷え切った紅茶が、ミアの顔面を打ち据えた。
氷のように冷たい液体が、赤くひび割れた頬を伝って首筋へと流れ落ち、粗末なメイド服を黒く汚していく。
重い瞼を開けると、視界の端で揺れる豪奢な真紅のドレスの裾が見えた。
たっぷりと布地を使った上質なシルクが擦れる音が、無駄に広いサロンに響く。
「……カミラ夫人」
「あら、まだ生きていたのね。倒れるなんて、男爵家のメイドとしてどれだけ甘えれば気が済むのかしら」
見上げると、カミラ夫人が見下すようにこちらを睨んでいた。
隣で控えるメイド長が、汚物を見るような目で鼻を鳴らす。
「奥様、見てください。この顔。それにこの無残に砕けた『月影のティーセット』を。この女が磨き作業中に落として割ったのですわ」
メイド長の足元には、無残に砕け散った青磁の破片が散らばっていた。
本来なら月明かりを透かすほど薄く美しいそれは、今はただの鋭い凶器のように床に突き刺さっている。
ミアは冷たい紅茶が顔から滴り落ちるのも構わず、ゆっくりと上体を起こした。
ズキズキと痛む頭を必死に働かせる。
(……違う。私が磨いていた時は無事だった。メイド長が雑に扱って落としたのを、私になすりつけているんだわ)
反論しようと口を開きかけたが、喉がカラカラに乾いてひゅっとかすれた音しか出なかった。
そもそも、この極薄の磁器を毎日特定の温度のぬるま湯で洗い、特別な絹布で一時間かけて磨き上げて奇跡的に形を保たせていたのはミアだ。
屋敷の備品管理、帳簿の計算、夫人の好むハーブティーのブレンド。
すべてミアが睡眠時間を削って一人で回していたことなど、目の前で冷笑する二人は知る由もない。
「ミア、あなたには今日限りで出て行ってもらうわ。解雇よ」
「奥様のお優しい決定に感謝なさい。本来なら、弁償として一生地下牢で働かせるべきところですけどね。さあ、早く消えなさい!」
ミアは何も言わなかった。
ここで何を言っても無駄だと、長年の扱いで骨の髄まで理解している。
ボロボロの麻袋に、わずかな荷物を詰め込む。
数着の下着と、使い古したクシ。
そして、メイド長から「明日までに整理しておけ」と無理やり押し付けられていた、煤けた分厚い在庫管理ノート。
今更これを返してやる義理もない。腹立ち紛れに、ミアはその重いノートを袋の底へと叩き込んだ。
豪華なサロンから響く高笑いを背に、ミアは屋敷の裏口から泥にまみれた外へと放り出された。
外は、骨まで凍りつくような冷たい雨が降っていた。
王都へ向かうぬかるんだ街道を、彼女はあてもなく歩き続けていた。
容赦なく打ち付ける大粒の雨が、ミアの体温を急激に奪っていく。
足の感覚はもうない。
泥に足を取られるたびに、薄い靴底から氷のような冷たさが這い上がってくる。
(……なんで、私ばっかりこんな目に)
朦朧とする意識の奥底で、ふと、懐かしい匂いが蘇った。
それは、炊きたての小豆の香り。
(……ああ、そうだった。私は、和菓子屋の娘だったんだ)
唐突に溢れ出した前世の記憶。
厳しくも優しかった父の隣で、毎日あんこを練っていた自分。
白く立ち上る温かな湯気。
焦がさないように、丁寧に灰汁を取り、砂糖を数回に分けて加える。
木べらから伝わる重み。
ゆっくりと練り上げた艶やかな粒あんが、黒い宝石のように輝く瞬間。
今の地獄のような暮らしより、ずっと温かくて誇らしい記憶が、甘い香りとともに彼女の冷え切った体を包み込んだ。
「……あんこ、食べたいな」
ふっと口から出たのは、前世の記憶にある甘い言葉。
ミアは完全に力尽き、ぬかるんだ地面に糸の切れた操り人形のように倒れ込んだ。
冷たい泥が頬を打つ。
その時だった。
遠くで、重厚な車輪の音が泥を跳ね飛ばしながら近づいてくるのが聞こえた。
「……止まれ。やはり、報告通りだな」
低く、冷徹な響きを持つ声が、激しい雨音を切り裂いた。
馬車の扉が開くと同時に、漆黒の外套を纏った第一王子ミハエルが姿を現した。
「殿下、いけません! まだこの先はゲオルグ男爵の私兵が徘徊している可能性があります。降りられるのは危険です!」
「構わん。この男爵領の惨状を、中央の報告書だけで済ませるわけにはいかないからな。増税に次ぐ増税、挙句の果てには領民の失踪……。このぬかるんだ道一つとっても、奴がいかに領地管理を放棄し、私腹を肥やしているかの証拠だ」
ミハエルは顔を顰め、周囲の荒れ果てた光景を鋭い眼光で射抜いた。
彼がこの辺境を訪れたのは偶然ではない。男爵の不正を暴くため、お忍びで極秘調査を行っていた最中だったのだ。
その時、ミハエルの視線が道端の「泥の塊」に止まった。
「……石ころかと思ったが、人か。放置すれば明朝には死体だろうな」
ミハエルは自身の高級な革靴が泥濘に沈み込むのも厭わず、ミアの傍らに跪いた。
冷え切った細い手首を掴み、脈を確認する。
「ひどい有様だ。栄養失調に重度の疲労。服はボロボロで、指先はひび割れ、火傷の跡だらけだ。……あの男爵、領民のみならず使用人まで使い潰していたか」
ミハエルは、ミアの汚れきった顔にかかる濡れた髪をそっと払った。
その瞬間、彼の碧の瞳がわずかに細められる。
「ただのメイドではない。この指のタコ……何かに、死に物狂いで打ち込んできた者の手だ。……面白い。この領地の腐敗を暴くための『生き証人』、ここで死なせるには惜しいな」
ミハエルは、ミアを抱き上げると馬車の椅子にそっと横たわらせた。
馬車の温かなシートに横たわされたミアは、毛布の温もりに無意識のうちに微かに鼻を動かした。
「……小豆、の……いい、匂い……」
「小豆?何のことだ」
ミハエルは不思議そうに眉を寄せたが、彼女を包む毛布を冷気が入らないようきつく締め直した。
「面白い娘だ……」
馬車は再び重厚な車輪を回し、冷たい雨の降る街道を王都へと向かって力強く走り出した。
頭から浴びせられた冷え切った紅茶が、ミアの顔面を打ち据えた。
氷のように冷たい液体が、赤くひび割れた頬を伝って首筋へと流れ落ち、粗末なメイド服を黒く汚していく。
重い瞼を開けると、視界の端で揺れる豪奢な真紅のドレスの裾が見えた。
たっぷりと布地を使った上質なシルクが擦れる音が、無駄に広いサロンに響く。
「……カミラ夫人」
「あら、まだ生きていたのね。倒れるなんて、男爵家のメイドとしてどれだけ甘えれば気が済むのかしら」
見上げると、カミラ夫人が見下すようにこちらを睨んでいた。
隣で控えるメイド長が、汚物を見るような目で鼻を鳴らす。
「奥様、見てください。この顔。それにこの無残に砕けた『月影のティーセット』を。この女が磨き作業中に落として割ったのですわ」
メイド長の足元には、無残に砕け散った青磁の破片が散らばっていた。
本来なら月明かりを透かすほど薄く美しいそれは、今はただの鋭い凶器のように床に突き刺さっている。
ミアは冷たい紅茶が顔から滴り落ちるのも構わず、ゆっくりと上体を起こした。
ズキズキと痛む頭を必死に働かせる。
(……違う。私が磨いていた時は無事だった。メイド長が雑に扱って落としたのを、私になすりつけているんだわ)
反論しようと口を開きかけたが、喉がカラカラに乾いてひゅっとかすれた音しか出なかった。
そもそも、この極薄の磁器を毎日特定の温度のぬるま湯で洗い、特別な絹布で一時間かけて磨き上げて奇跡的に形を保たせていたのはミアだ。
屋敷の備品管理、帳簿の計算、夫人の好むハーブティーのブレンド。
すべてミアが睡眠時間を削って一人で回していたことなど、目の前で冷笑する二人は知る由もない。
「ミア、あなたには今日限りで出て行ってもらうわ。解雇よ」
「奥様のお優しい決定に感謝なさい。本来なら、弁償として一生地下牢で働かせるべきところですけどね。さあ、早く消えなさい!」
ミアは何も言わなかった。
ここで何を言っても無駄だと、長年の扱いで骨の髄まで理解している。
ボロボロの麻袋に、わずかな荷物を詰め込む。
数着の下着と、使い古したクシ。
そして、メイド長から「明日までに整理しておけ」と無理やり押し付けられていた、煤けた分厚い在庫管理ノート。
今更これを返してやる義理もない。腹立ち紛れに、ミアはその重いノートを袋の底へと叩き込んだ。
豪華なサロンから響く高笑いを背に、ミアは屋敷の裏口から泥にまみれた外へと放り出された。
外は、骨まで凍りつくような冷たい雨が降っていた。
王都へ向かうぬかるんだ街道を、彼女はあてもなく歩き続けていた。
容赦なく打ち付ける大粒の雨が、ミアの体温を急激に奪っていく。
足の感覚はもうない。
泥に足を取られるたびに、薄い靴底から氷のような冷たさが這い上がってくる。
(……なんで、私ばっかりこんな目に)
朦朧とする意識の奥底で、ふと、懐かしい匂いが蘇った。
それは、炊きたての小豆の香り。
(……ああ、そうだった。私は、和菓子屋の娘だったんだ)
唐突に溢れ出した前世の記憶。
厳しくも優しかった父の隣で、毎日あんこを練っていた自分。
白く立ち上る温かな湯気。
焦がさないように、丁寧に灰汁を取り、砂糖を数回に分けて加える。
木べらから伝わる重み。
ゆっくりと練り上げた艶やかな粒あんが、黒い宝石のように輝く瞬間。
今の地獄のような暮らしより、ずっと温かくて誇らしい記憶が、甘い香りとともに彼女の冷え切った体を包み込んだ。
「……あんこ、食べたいな」
ふっと口から出たのは、前世の記憶にある甘い言葉。
ミアは完全に力尽き、ぬかるんだ地面に糸の切れた操り人形のように倒れ込んだ。
冷たい泥が頬を打つ。
その時だった。
遠くで、重厚な車輪の音が泥を跳ね飛ばしながら近づいてくるのが聞こえた。
「……止まれ。やはり、報告通りだな」
低く、冷徹な響きを持つ声が、激しい雨音を切り裂いた。
馬車の扉が開くと同時に、漆黒の外套を纏った第一王子ミハエルが姿を現した。
「殿下、いけません! まだこの先はゲオルグ男爵の私兵が徘徊している可能性があります。降りられるのは危険です!」
「構わん。この男爵領の惨状を、中央の報告書だけで済ませるわけにはいかないからな。増税に次ぐ増税、挙句の果てには領民の失踪……。このぬかるんだ道一つとっても、奴がいかに領地管理を放棄し、私腹を肥やしているかの証拠だ」
ミハエルは顔を顰め、周囲の荒れ果てた光景を鋭い眼光で射抜いた。
彼がこの辺境を訪れたのは偶然ではない。男爵の不正を暴くため、お忍びで極秘調査を行っていた最中だったのだ。
その時、ミハエルの視線が道端の「泥の塊」に止まった。
「……石ころかと思ったが、人か。放置すれば明朝には死体だろうな」
ミハエルは自身の高級な革靴が泥濘に沈み込むのも厭わず、ミアの傍らに跪いた。
冷え切った細い手首を掴み、脈を確認する。
「ひどい有様だ。栄養失調に重度の疲労。服はボロボロで、指先はひび割れ、火傷の跡だらけだ。……あの男爵、領民のみならず使用人まで使い潰していたか」
ミハエルは、ミアの汚れきった顔にかかる濡れた髪をそっと払った。
その瞬間、彼の碧の瞳がわずかに細められる。
「ただのメイドではない。この指のタコ……何かに、死に物狂いで打ち込んできた者の手だ。……面白い。この領地の腐敗を暴くための『生き証人』、ここで死なせるには惜しいな」
ミハエルは、ミアを抱き上げると馬車の椅子にそっと横たわらせた。
馬車の温かなシートに横たわされたミアは、毛布の温もりに無意識のうちに微かに鼻を動かした。
「……小豆、の……いい、匂い……」
「小豆?何のことだ」
ミハエルは不思議そうに眉を寄せたが、彼女を包む毛布を冷気が入らないようきつく締め直した。
「面白い娘だ……」
馬車は再び重厚な車輪を回し、冷たい雨の降る街道を王都へと向かって力強く走り出した。
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