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序章 刑事、獣と出会う
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「俺たちは、これから竜の巣へ向かう。ラスカ、君はどうする? もういちど竜に立ち向かう勇気が、君にはあるかい?」
ラスカはうつむいた。
山のように巨大な竜が吐く炎の息吹から、命からがら逃げ出したあのときのことを思い出すだけで、体の芯がふるえて止まらない。
こんなおくびょうな自分が、そんな大それた望みをいだいてよいのだろうか。自分はただのほら吹きで、にせものの勇者にすぎないのに。
それでもラスカは、ほんとうの勇者になりたかった。
怖くてたまらない。逃げ出してしまいたい。けれどラスカは、がたがたと鳴る奥歯をぎゅっとかみしめた。
「行きます。ぼくは竜を倒したい。一緒に連れていってください」
勢いよくあげたラスカの顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。握りしめたこぶしと、ひざはまだぶるぶるとふるえている。ラスカのそんななさけなくてみっともないはずの姿を、仲間たちはむしろ誇らしげに、とびきりの笑顔で迎えた。
頼もしい仲間たちの真ん中で、強い風にひるがえるヴァルナシアの旗を、朝の光がまぶしく照らしていた。
(城ノ内ナツメ 『ヴァルナシア旅行団シリーズ・ほら吹き勇者の竜退治』 より)
誰しも人に知られたくない趣味嗜好の一つやふたつはあるものだ。
信号が青になると、那臣はパーカーのフードで頬を刺す寒風を避け、交差点を渡った。
駅入り口へと走りながら、腕時計にちらりと目を遣る。午前九時三十分ジャスト。計画通りの到着となりそうだ。
それでも急ぎ足で目的の場所へと向かう。
広い駅構内を駆け抜け、見えてきた書店のシャッター前に、まだそれらしい客の姿はないことを確認すると、堅く結ばれていた那臣の口元が思わず緩んだ。
今はシャッターに隠されて見えない、幾度も利用した自動ドアの位置を記憶から特定して、真正面に陣取る。大きく息をついて通りを見遣った。駅構内の店が開く前のこの時間帯にこの通路を利用するのは、駅から徒歩で五分ほどのところにある大学のキャンパスへ、のんびりと登校する学生がほとんどのようだ。それに混じって、遅い通勤のビジネスマンらしき姿もあった。
当然誰も、書店のシャッター前にたたずむ那臣のことなど、気にも留めず通り過ぎていく。しかし、道行くもの皆に、自分がここに立つ目的を見透かされているようで、恥ずかしさに耐えられず、那臣は、通行人から顔を隠すように、再びパーカーのフードを思い切り引き上げ、通りに背を向けシャッターへと向き直った。
昨夜、といってもすでに午前三時に近い時間だったか、焼酎をストレートであおりながらなんとなくスマートフォンを弄んでいた那臣の目に、とあるツイートが飛び込んできた。
それは、以前からフォローしていた書店の、児童書担当スタッフのものだった。
「本日城ノ内ナツメ先生が当店にご来店されました!
プライベートのご利用でしたがちゃっかりサイン本GETしちゃいましたよ!
『ヴァルナシア旅行団シリーズ・赤い谷の秘宝』明日朝イチで児童書スタッフおすすめ棚に並べます。
限定一冊! 早い者勝ち!
ヴァルナシアの旗の下に集え勇者たちよ!」
「集え……ったって限定一冊じゃねーかよ……集ってどうする勇者たち」
作品中で、キャラクターたちの合い言葉となっている名台詞をパクったあおり文句に、那臣は軽く突っ込みを入れる。
そして台詞とは裏腹に、勇者那臣はグラスをテーブルに戻すと、翌日、いやもうあと数時間後のサイン本奪取計画を、綿密に練り始めたのだった。
『ヴァルナシア旅行団』は、那臣がまだ小学生の頃から続いているシリーズだ。
児童文学作家城ノ内ナツメは、架空世界を舞台としたファンタジーを得意とし、数々の名作を世に送り出してきた。
中でも『ヴァルナシア旅行団』は、固い友情で結ばれた勇者たちの熱き冒険小説として根強い人気を誇り、熱心なファンも多い。
とはいえ、読者の中心は当然ながら子どもだ。
ハリウッド発の良質なファンタジー映画が続々とヒットし、またサブカルチャー文化の普及で、魔法や超能力といった単語がどれだけ一般的になろうとも、いい年をした成人男性が、子ども向け冒険ファンタジー小説をことあるごとに既刊全巻読み返し、あまつさえそのたび号泣で枕を濡らし、ティッシュペーパーを大量消費するなんて醜態。恥ずかしすぎて、知り合いの誰かに知られたら、その場で即死しそうだ。
事実、学生時代からの友人たちにも同僚にも、一時は結婚を考えた恋人にすら、本棚奥にきちんと並べられた『ヴァルナシア旅行団』シリーズ、そして本棚の愛読用とは別に、押入れの奥に仕舞われた保存用セットの存在は明かしていなかった。
まあしかし、だからこそ今回の冒険は楽勝だ、と那臣は踏んでいた。それほどフォロワーも多くはない児童書担当書店員の真夜中のツイート、それも販売当日の情報をキャッチし、そして平日の朝、開店と同時に児童書コーナーに突撃できるお子様はそうはいまい。せがまれた保護者がいたとしてもなかなかの高難度ミッションだろう。唯一警戒していた暇な学生の姿はない。尊敬してやまない、憧れの城ノ内先生のサイン入り『赤い谷の秘宝』は、もう那臣の手中にあるも同然だ。大人万歳、そして。
「無職万歳、だな」
声にして呟いて、その乾いた、後ろ向きに開放的な響きの心地よさに、思わず笑いがこみ上げてきた。
正確にはまだ無職ではない。しかし時間の問題だろう。懲戒免職辞令を受け取るため呼び出されるのが、今日なのか、それとも一ヶ月後なのか、そんなことはたいした問題ではない。
処分が決まるまで自宅謹慎を命じられた身としては、ふらふらと街へ出歩くのもどうなのか、と思わないでもなかったが、いまさら殊勝に反省のポーズを取ったところで、事態はなにひとつ変わらない。
なにより自分は反省しない。絶対に。
「天落つるとも、正義は行われるべし……だろ?」
ヴァルナシア旅行団、サーキス団長の甘っちょろい名台詞を、閉ざされたシャッターへ投げつけた。
誰も応えない。雑踏の中の孤独が、誇らしかった。
ラスカはうつむいた。
山のように巨大な竜が吐く炎の息吹から、命からがら逃げ出したあのときのことを思い出すだけで、体の芯がふるえて止まらない。
こんなおくびょうな自分が、そんな大それた望みをいだいてよいのだろうか。自分はただのほら吹きで、にせものの勇者にすぎないのに。
それでもラスカは、ほんとうの勇者になりたかった。
怖くてたまらない。逃げ出してしまいたい。けれどラスカは、がたがたと鳴る奥歯をぎゅっとかみしめた。
「行きます。ぼくは竜を倒したい。一緒に連れていってください」
勢いよくあげたラスカの顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。握りしめたこぶしと、ひざはまだぶるぶるとふるえている。ラスカのそんななさけなくてみっともないはずの姿を、仲間たちはむしろ誇らしげに、とびきりの笑顔で迎えた。
頼もしい仲間たちの真ん中で、強い風にひるがえるヴァルナシアの旗を、朝の光がまぶしく照らしていた。
(城ノ内ナツメ 『ヴァルナシア旅行団シリーズ・ほら吹き勇者の竜退治』 より)
誰しも人に知られたくない趣味嗜好の一つやふたつはあるものだ。
信号が青になると、那臣はパーカーのフードで頬を刺す寒風を避け、交差点を渡った。
駅入り口へと走りながら、腕時計にちらりと目を遣る。午前九時三十分ジャスト。計画通りの到着となりそうだ。
それでも急ぎ足で目的の場所へと向かう。
広い駅構内を駆け抜け、見えてきた書店のシャッター前に、まだそれらしい客の姿はないことを確認すると、堅く結ばれていた那臣の口元が思わず緩んだ。
今はシャッターに隠されて見えない、幾度も利用した自動ドアの位置を記憶から特定して、真正面に陣取る。大きく息をついて通りを見遣った。駅構内の店が開く前のこの時間帯にこの通路を利用するのは、駅から徒歩で五分ほどのところにある大学のキャンパスへ、のんびりと登校する学生がほとんどのようだ。それに混じって、遅い通勤のビジネスマンらしき姿もあった。
当然誰も、書店のシャッター前にたたずむ那臣のことなど、気にも留めず通り過ぎていく。しかし、道行くもの皆に、自分がここに立つ目的を見透かされているようで、恥ずかしさに耐えられず、那臣は、通行人から顔を隠すように、再びパーカーのフードを思い切り引き上げ、通りに背を向けシャッターへと向き直った。
昨夜、といってもすでに午前三時に近い時間だったか、焼酎をストレートであおりながらなんとなくスマートフォンを弄んでいた那臣の目に、とあるツイートが飛び込んできた。
それは、以前からフォローしていた書店の、児童書担当スタッフのものだった。
「本日城ノ内ナツメ先生が当店にご来店されました!
プライベートのご利用でしたがちゃっかりサイン本GETしちゃいましたよ!
『ヴァルナシア旅行団シリーズ・赤い谷の秘宝』明日朝イチで児童書スタッフおすすめ棚に並べます。
限定一冊! 早い者勝ち!
ヴァルナシアの旗の下に集え勇者たちよ!」
「集え……ったって限定一冊じゃねーかよ……集ってどうする勇者たち」
作品中で、キャラクターたちの合い言葉となっている名台詞をパクったあおり文句に、那臣は軽く突っ込みを入れる。
そして台詞とは裏腹に、勇者那臣はグラスをテーブルに戻すと、翌日、いやもうあと数時間後のサイン本奪取計画を、綿密に練り始めたのだった。
『ヴァルナシア旅行団』は、那臣がまだ小学生の頃から続いているシリーズだ。
児童文学作家城ノ内ナツメは、架空世界を舞台としたファンタジーを得意とし、数々の名作を世に送り出してきた。
中でも『ヴァルナシア旅行団』は、固い友情で結ばれた勇者たちの熱き冒険小説として根強い人気を誇り、熱心なファンも多い。
とはいえ、読者の中心は当然ながら子どもだ。
ハリウッド発の良質なファンタジー映画が続々とヒットし、またサブカルチャー文化の普及で、魔法や超能力といった単語がどれだけ一般的になろうとも、いい年をした成人男性が、子ども向け冒険ファンタジー小説をことあるごとに既刊全巻読み返し、あまつさえそのたび号泣で枕を濡らし、ティッシュペーパーを大量消費するなんて醜態。恥ずかしすぎて、知り合いの誰かに知られたら、その場で即死しそうだ。
事実、学生時代からの友人たちにも同僚にも、一時は結婚を考えた恋人にすら、本棚奥にきちんと並べられた『ヴァルナシア旅行団』シリーズ、そして本棚の愛読用とは別に、押入れの奥に仕舞われた保存用セットの存在は明かしていなかった。
まあしかし、だからこそ今回の冒険は楽勝だ、と那臣は踏んでいた。それほどフォロワーも多くはない児童書担当書店員の真夜中のツイート、それも販売当日の情報をキャッチし、そして平日の朝、開店と同時に児童書コーナーに突撃できるお子様はそうはいまい。せがまれた保護者がいたとしてもなかなかの高難度ミッションだろう。唯一警戒していた暇な学生の姿はない。尊敬してやまない、憧れの城ノ内先生のサイン入り『赤い谷の秘宝』は、もう那臣の手中にあるも同然だ。大人万歳、そして。
「無職万歳、だな」
声にして呟いて、その乾いた、後ろ向きに開放的な響きの心地よさに、思わず笑いがこみ上げてきた。
正確にはまだ無職ではない。しかし時間の問題だろう。懲戒免職辞令を受け取るため呼び出されるのが、今日なのか、それとも一ヶ月後なのか、そんなことはたいした問題ではない。
処分が決まるまで自宅謹慎を命じられた身としては、ふらふらと街へ出歩くのもどうなのか、と思わないでもなかったが、いまさら殊勝に反省のポーズを取ったところで、事態はなにひとつ変わらない。
なにより自分は反省しない。絶対に。
「天落つるとも、正義は行われるべし……だろ?」
ヴァルナシア旅行団、サーキス団長の甘っちょろい名台詞を、閉ざされたシャッターへ投げつけた。
誰も応えない。雑踏の中の孤独が、誇らしかった。
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