モリウサギ

高村渚

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第五章 刑事たち、追い詰める

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「……どうすんだ? どうすんだよ……?」
 自分に向けられたすがるような視線を受け止める余裕など、すでに彼にはなかった。
 安全に遺体を運び出し、何事もなかったようにスタッフに対応して施設の後始末をする。冷静に対処すればいくらでも方法はあったのだろう。
 だがパニックに陥った彼はすべての思考を放棄した。
 ただ、この場から逃げ出したい。目の前の遺体から、仲間から、自分にまもなく訪れるだろう破滅から、逃げるのだ。
 彼は、焦点の定まらない視線を路地の暗闇に向け、がさがさに乾いた震える咽頭のどから答えを絞り出した。
「逃げるぞ……それは捨てておこう」
「捨てる? ……ここにか?」 
 仲間の呆然とした問いかけには、もう自棄な台詞しか返ってこなかった。
「どこでもいいだろ……どうせすぐに見つかる」
 遺体も、そして逃亡した自分たちも。
 彼は完全に仕事を放棄してその場から立ち去った。
 残された仲間がとった、さらに最悪な行動も、最後まで知ることはなかった。
 仲間の男は結奈を抱えたまま、闇に紛れて通りの向こうに建つホテルの庭園へと向かい、植え込みの中へと投げ捨てたのだ。
 これまで尚毅がどんな悪事を働いても、その証拠は、すべて父勇毅が跡形もなく始末してくれていた。なんといっても警察すべてが勇毅の支配下にあるのだ。今度もきっとうまく揉み消してくれるに違いない。そんな楽観的な見込みを抱いていた。
 確かに勇毅は、この結奈殺害事件に関して様々な工作を行った。
 ホテルに設置された防犯カメラが、自らが役員を務める警備会社が管理運用するシステムであったのをよいことに、故障中という名目で映像を提出しないよう指図し、尚毅もまた運転手から情報を得て、すぐ高輪潮音荘へミズホプロモーションの社員を名乗る人を遣り、撮影が継続しているという偽装をして、施設のスタッフたちをあざむいた。
 ただ、仲間の男は河原崎親子というものを甘く見積もりすぎていた。
 尚毅の前で殊勝に反省のポーズを取ってみせた男は、翌日には粉々に砕かれ魚たちの餌にされた。
 そして親子をよく理解し正確に恐れ、逃走を図った社員の男もまた、同じ運命を辿たどったのだった。


 きしむようにこわばった空気には、互いにあえて気付かない体で、和やかに宴は続く。
 樋口は贔屓ひいきの酒と上質の肴を大いに楽しみ、党の若手が頼りないと溜息まじりに嘆き、この春都内の大学の准教授になったという娘の器量を自慢した。
 勇毅もまた近頃の若い者は、と笑って応じ、そして、
「先生のお嬢さんと比べて、うちの愚息は出来が悪くて本当に困りますよ」
と、愚痴を装った追従を加えることを忘れなかった。
 一時間ほどの宴の後、勇毅は、勢多の玄関前で、樋口を乗せた車を深く頭を下げ見送った。
 路面をにらみつける瞳は屈辱で血走っていた。
 ぎりと奥歯を噛みしめ、同じ台詞を吐き捨てる。
「……うちの愚息は出来が悪くて、本当に……困るんだよ」




 山元屋の一階は、店主と、新しくやってきた常連らしい客との数人で、ニッポンコールが盛り上がっている。
 一方二階では、みはやのタブレットから聞こえてきた勇毅のつぶやきに、市野瀬がすくみ上がっていた。
「……怖っ……怖すぎです!……ラスボス、ザッキーのボイス、ドス効き過ぎですよ!」
 顔を真っ青にして、両手で自分の二の腕を抱いて座布団から腰を浮かす。
 肉食獣と遭遇した小動物のような部下の肩を、上司は楽しげに抱き寄せ、耳元でさらなる脅し文句をささやいてやった。
「なんだあ市野瀬、お前知らなかったのか? 
 警察庁のキャリア採用には実技試験があってだな、適当に職務質問しょくしつかけて引っ張ってきた無実無辜むこの一般市民を、だまして脅して精神崩壊させて、四十八時間以内に『自分がやりました』って自白させられなきゃ合格しねえんだぞ? あのくらいのドスはそよ風みたいなもんだ」
「ふおぉっ! 自分全然知らなかったです! さすが主任、物知りですね、感激しました!」
「………………」
 恭士が嘘八百のトリビアを披露し、市野瀬がまた馬鹿正直に納得している。
 新宿中央署刑事課強行班脳天気コンビに凍てつく視線を投げつけ、名波は黙って烏龍茶に口を付けた。
 向かいでは、別のコンビのボケツッコミがあらぬ方向へと向かっている。
「……みはや、いいか、何度でも言うぞ? 盗聴は、犯・罪・だ」
「盗聴ダメ、絶対、ですね? わかっておりますとも。
 おや、どこかにうっかり盗聴器を落としてきてしまいました。勢多の玄関前でしょうか……何故だかリュックのポケットに入っていたはずなのに」
「中学生が盗聴器をなんとなくリュックに入れて持ち運ぶんじゃない!」
「ですよねえ、抜き打ちで所持品検査があったら見つかっちゃいます。没収されたらお父さんも一緒に、生徒指導室で叱責謝罪プレイお願いしますね」
「だから、誰がお父さんだ……っつーか、今時まだ所持品検査なんてモンをやってるのか、学校ってやつは……」
「前世紀の遺物ですが、たまにはよろしいのではありませんか? 定期的に学生の本分とやらを思い出させて差し上げないと、通学鞄の中身が、スマホとドラッグとコンドームだけに成り果てる青春パリピちゃんが多すぎます」
「……嘆かわしい限りだな、ドラッグは論外としても、せめて文庫本を足してくれ」
「激しく同意、ですよ。青少年の健全な育成は、毎日の読書習慣から、です」
「激しく同意だ。ちなみにできれば紙の本推奨でな」
「激しく同意、です」
 当初の話題と遙か彼方で合意が得られたようである。
 しみじみと頷きあう主従から目を逸らし、諦観した名波はごきりと首を鳴らして、鉄板に焦げ付いたもんじゃの欠片を口に運んだ。

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