78 / 95
第五章 刑事たち、追い詰める
19
しおりを挟む
急ブレーキの激しい衝撃が二人を襲う。
一瞬前のめりになり、すぐ顔を上げフロントガラスを見遣った恭士は、自転車を道路中央に止めたまま硬直する中年女性の、鳩が豆鉄砲を食らったような両目とまともに視線が合った。
どっと冷や汗が首筋に浮かぶ。
隣の運転席でも、市野瀬が心臓のあたりを撫でながら、深呼吸を繰り返していた。
「……ああびっくりした……やっぱり安全運転第一ですね。ここ三十キロ制限ですもんね、守らないと」
「言ってる場合か」
軽く頭を下げて自転車が走り去る。そんな状況でも、市野瀬も刑事である。数ブロック先でアルファードが左折したのを、視界の隅で捉えていた。
後を追い、細い路地を曲がる。
果たしてそこにはアルファードが停車していた。
リアの濃いスモークガラス越しでは人影が読みとれない。オデッセイで追い越すことは道幅が狭すぎて不可能だ。
一瞬の迷いの後、恭士は市野瀬にアルファードの後ろで車を止めさせた。
素早く車から降り、市野瀬が走り寄って運転席を確認する。
「誰も乗ってません! 全員逃げました!」
恭士は舌打ちして、ジャケットの内ポケットから端末を取り出した。
「マル対、車を捨てて徒歩で逃走! すぐに米丘町五丁目付近の捜索を開始してくれ。それから本部、応援を頼む!」
指示を飛ばしながら走り出す。
現場付近は、狭い路地で区切られたやや古い住宅街だった。
二階建ての小規模なアパートや、ごく狭い宅地にみっしりと建てられた住宅が区画を埋めている。
午後二時過ぎという半端な時間帯。人通りはなく、遠くの表通りの騒音がぼんやりと響いてくる。
二人は小走りで路地を進み、逃走した連中の気配を探った。
程なく応援の捜査員たちも駆けつけ、数人で一帯を探索する。だが捜査本部から応援の人員が到着し、十数人でくまなく周囲を捜索しても、逃げた羽柴たちの足取りは杳として知れなかった。
時を同じくして、長谷、そしてスカウトの男に尾行をまかれ、行方を見失ったとの報告が、捜査本部に次々と入ってきた。いずれも一旦強引に尾行車両を振り切り、路地に逃げ込んだ後車両を放置。乗っていた人間は、すべて行方が判らなくなっていた。
新宿中央署の捜査本部で、久保田管理官は深く息を付いて、それからやや沈痛な面もちで指示を出した。
「他の車に乗り換えて逃走した可能性もある。引き続き周囲の探索、それから周辺の不審車を洗え」
新宿、そして高輪の二つの殺人事件。ぼんやりとしか見えていなかった線で繋がっていた関係者たちが、一斉に行動を起こした。つまりはそういうことだ。
組織を覆っていた暗雲が、さらに色濃く低空に立ちこめ、人気の無くなった会議室の窓から襲いかかる様が見えるような気がして、久保田はちりちりする頬を撫でると、再び大きく溜息をついた。
「あいつら今頃地団駄踏んでやがるだろうな」
勝利の美酒とはこういうものなのだろう。
缶ビールを一気に飲み干して、羽柴は口の端の泡を拭った。
同じく上機嫌ですでに赤ら顔の安藤が、ビール缶を渡してくる。
「さすがは河原崎さんですね! 五月蠅いゴミどもを振り切る手筈も完璧、しかもこんな豪華な隠れ家まで提供してくださる!」
安藤がしきりに首を振って感心している。羽柴も鷹揚に頷いた。
逃走に使用したアルファードを乗り捨てた路地の一本横の路地には、宅配業車に偽装した軽トラックが手配されていた。民家の庭を横切れば十メートル足らずの距離で、後部の貨物部分に乗り込み発進するまで、ほんの十数秒のタイムラグさえ稼げれば、追っ手を撒ける。
日常の風景となっている、見慣れた宅配業車のロゴの入ったトラックが、僅かな時間路地に停車していても誰も気に止めないし、業者のユニフォームを着たドライバーが運転する車だ、何の違和感もない。
もちろん日中人通りが少なく、直接証拠の残る防犯カメラのない通りを、あらかじめ選んで設定した場所だ。
聞き込みにかかれば目撃者が現れ、周辺の防犯カメラが分析され、周辺に停車していた不審な車両はいずれは解析されるかもしれない。しかしそれら捜査の手が伸びるまでに相応の時間がかかる。それを承知の上の小細工である。
たとえ小細工であっても、距離を稼ぎ追っ手を振り切るには十分すぎるからだ。
念を入れて、逃走現場からさらに北に離れた場所でもう一回トラックを乗り換えた後、一行が向かうよう指示されたのは全くの逆方向、葉山にある河原崎の別荘だった。
常緑の広葉樹の鬱蒼とした森に囲まれた、広大な敷地内に建つ別荘は堅牢な煉瓦造りで、かつて旧華族の所有であったものを河原崎勇毅の父が買い受けたのだという。
家族の避暑のために設計されたとはいえ、広々とした建物は、十人程度がゆったり過ごすことに全く問題はない。
内装や調度には惜しみなく金がつぎ込まれており、周辺の高級リゾートホテルなどより、よほど優雅な滞在時間が過ごせそうだ。
別荘では、尚毅の側近で、ケイ・シティ・オフィスを実質的に動かしている、伊武という男が彼らを出迎えた。
警察OBの男たちは、伊武とは初対面であった。昔ながらの義理人情で交友関係を築いている父親の勇毅と違い、尚毅は非情な実力至上主義者であると聞いている。その尚毅が長く重用しているのだから、相当優秀な男なのだろう。
感情を一切読みとらせないその容貌は、能面、いや人型のロボットのような印象を受けるが、無駄な愛想は不要との尚毅の意向に添う人物であるのかもしれない。羽柴はそう感じた。
その伊武は、ホールに揃った男たちを応接間へと案内した。
「お部屋の準備が整うまで、地下にあるバーにてご休憩ください」
「地下?」
伊武は頷き、壁の飾りタイルのひとつを押す。
すると壁の一角が動いた。
そこには扉があり、奥には階下へと続く階段が現れた。
男たちが感嘆の声を上げる。
一瞬前のめりになり、すぐ顔を上げフロントガラスを見遣った恭士は、自転車を道路中央に止めたまま硬直する中年女性の、鳩が豆鉄砲を食らったような両目とまともに視線が合った。
どっと冷や汗が首筋に浮かぶ。
隣の運転席でも、市野瀬が心臓のあたりを撫でながら、深呼吸を繰り返していた。
「……ああびっくりした……やっぱり安全運転第一ですね。ここ三十キロ制限ですもんね、守らないと」
「言ってる場合か」
軽く頭を下げて自転車が走り去る。そんな状況でも、市野瀬も刑事である。数ブロック先でアルファードが左折したのを、視界の隅で捉えていた。
後を追い、細い路地を曲がる。
果たしてそこにはアルファードが停車していた。
リアの濃いスモークガラス越しでは人影が読みとれない。オデッセイで追い越すことは道幅が狭すぎて不可能だ。
一瞬の迷いの後、恭士は市野瀬にアルファードの後ろで車を止めさせた。
素早く車から降り、市野瀬が走り寄って運転席を確認する。
「誰も乗ってません! 全員逃げました!」
恭士は舌打ちして、ジャケットの内ポケットから端末を取り出した。
「マル対、車を捨てて徒歩で逃走! すぐに米丘町五丁目付近の捜索を開始してくれ。それから本部、応援を頼む!」
指示を飛ばしながら走り出す。
現場付近は、狭い路地で区切られたやや古い住宅街だった。
二階建ての小規模なアパートや、ごく狭い宅地にみっしりと建てられた住宅が区画を埋めている。
午後二時過ぎという半端な時間帯。人通りはなく、遠くの表通りの騒音がぼんやりと響いてくる。
二人は小走りで路地を進み、逃走した連中の気配を探った。
程なく応援の捜査員たちも駆けつけ、数人で一帯を探索する。だが捜査本部から応援の人員が到着し、十数人でくまなく周囲を捜索しても、逃げた羽柴たちの足取りは杳として知れなかった。
時を同じくして、長谷、そしてスカウトの男に尾行をまかれ、行方を見失ったとの報告が、捜査本部に次々と入ってきた。いずれも一旦強引に尾行車両を振り切り、路地に逃げ込んだ後車両を放置。乗っていた人間は、すべて行方が判らなくなっていた。
新宿中央署の捜査本部で、久保田管理官は深く息を付いて、それからやや沈痛な面もちで指示を出した。
「他の車に乗り換えて逃走した可能性もある。引き続き周囲の探索、それから周辺の不審車を洗え」
新宿、そして高輪の二つの殺人事件。ぼんやりとしか見えていなかった線で繋がっていた関係者たちが、一斉に行動を起こした。つまりはそういうことだ。
組織を覆っていた暗雲が、さらに色濃く低空に立ちこめ、人気の無くなった会議室の窓から襲いかかる様が見えるような気がして、久保田はちりちりする頬を撫でると、再び大きく溜息をついた。
「あいつら今頃地団駄踏んでやがるだろうな」
勝利の美酒とはこういうものなのだろう。
缶ビールを一気に飲み干して、羽柴は口の端の泡を拭った。
同じく上機嫌ですでに赤ら顔の安藤が、ビール缶を渡してくる。
「さすがは河原崎さんですね! 五月蠅いゴミどもを振り切る手筈も完璧、しかもこんな豪華な隠れ家まで提供してくださる!」
安藤がしきりに首を振って感心している。羽柴も鷹揚に頷いた。
逃走に使用したアルファードを乗り捨てた路地の一本横の路地には、宅配業車に偽装した軽トラックが手配されていた。民家の庭を横切れば十メートル足らずの距離で、後部の貨物部分に乗り込み発進するまで、ほんの十数秒のタイムラグさえ稼げれば、追っ手を撒ける。
日常の風景となっている、見慣れた宅配業車のロゴの入ったトラックが、僅かな時間路地に停車していても誰も気に止めないし、業者のユニフォームを着たドライバーが運転する車だ、何の違和感もない。
もちろん日中人通りが少なく、直接証拠の残る防犯カメラのない通りを、あらかじめ選んで設定した場所だ。
聞き込みにかかれば目撃者が現れ、周辺の防犯カメラが分析され、周辺に停車していた不審な車両はいずれは解析されるかもしれない。しかしそれら捜査の手が伸びるまでに相応の時間がかかる。それを承知の上の小細工である。
たとえ小細工であっても、距離を稼ぎ追っ手を振り切るには十分すぎるからだ。
念を入れて、逃走現場からさらに北に離れた場所でもう一回トラックを乗り換えた後、一行が向かうよう指示されたのは全くの逆方向、葉山にある河原崎の別荘だった。
常緑の広葉樹の鬱蒼とした森に囲まれた、広大な敷地内に建つ別荘は堅牢な煉瓦造りで、かつて旧華族の所有であったものを河原崎勇毅の父が買い受けたのだという。
家族の避暑のために設計されたとはいえ、広々とした建物は、十人程度がゆったり過ごすことに全く問題はない。
内装や調度には惜しみなく金がつぎ込まれており、周辺の高級リゾートホテルなどより、よほど優雅な滞在時間が過ごせそうだ。
別荘では、尚毅の側近で、ケイ・シティ・オフィスを実質的に動かしている、伊武という男が彼らを出迎えた。
警察OBの男たちは、伊武とは初対面であった。昔ながらの義理人情で交友関係を築いている父親の勇毅と違い、尚毅は非情な実力至上主義者であると聞いている。その尚毅が長く重用しているのだから、相当優秀な男なのだろう。
感情を一切読みとらせないその容貌は、能面、いや人型のロボットのような印象を受けるが、無駄な愛想は不要との尚毅の意向に添う人物であるのかもしれない。羽柴はそう感じた。
その伊武は、ホールに揃った男たちを応接間へと案内した。
「お部屋の準備が整うまで、地下にあるバーにてご休憩ください」
「地下?」
伊武は頷き、壁の飾りタイルのひとつを押す。
すると壁の一角が動いた。
そこには扉があり、奥には階下へと続く階段が現れた。
男たちが感嘆の声を上げる。
0
あなたにおすすめの小説
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる