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16 ご機嫌な報告
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課長が体調不良でダウンして回復してから数日、私はその後課長とは個人的に接することなく過ごしていた。
外回りから帰ってただ同じ室内で仕事をしているだけの日々だったが、看病する以前と比べ私の心境は少し変わっていた。
人をおちょくるような行動に散々振り回されていた私だったが、今となっては立場は逆転だ。
前後不覚になるほどの高熱を出していたにも関わらず、一課のためとはいえ我儘で出社した上に私に自分のやるべき仕事をやらして数日に渡って看病までさせたのだ。
課長にはとてつもなく大きな借りが出来た。
これで下手な行動は取れないはず。
身の安全が確保できたつもりになっていた私の仕事はスムーズだった。
余計なストレスから解放された私は朝一番から会社を飛び出し、商談相手を回りにまわって会社に戻ってきたのは夜の7時。
通常の勤務時間はとっくに過ぎているけれど、一課の扉を開ければ沢山の社員が残業を強いられている。まぁいつもの光景だ。
「お疲れさまです」
扉をくぐり抜け自分の席に戻る道すがら、目の合った社員皆に笑顔で挨拶を振りまく。
「おっ、どうした川瀬。いやに機嫌いいじゃん」
目ざとく私の様子に気がつき、気軽に話しかけてきたのは森さん。
「ふふっ、わかります?」
そう、私の機嫌はすこぶる良かった。
「実はT社を口説き落としてきたんですよ」
「マジか!」
T社とは、ただいま絶賛取引中の顧客企業である。毎年契約は取れるもののコスト面でまったく妥協がなく、単価の低い商品ばかりでの取引となっていた。利益率が悪くて皆に悪い意味でチェックを入れられていた取り引き先だ。
今年は私がそのT社の担当となったのだが、手厳しいと噂されていた商談相手が女性で、話している内にあれよあれよと打ち解けてしまったのである。
おそらく30代であろう彼女はバリバリのキャリアウーマンで私からしたらキラキラした憧れの女性だった。
仕事に関する部分は勿論、社会人としての女性の在り方にまで発展した会話で見事なまでに意気投合。おかげで話がどんどん良い方向に進み、例年より単価の良い商品で契約が取れそうなのだ。
森さんに嬉々としてことの顛末を話すと、心底驚いた顔でまじまじと見つめられた。
「川瀬は本当に俺らが苦手とする交渉相手を手玉に取るのがうまいなぁ」
「やだなあ、手玉に取ってなんかいませんよ」
森さんがさも羨ましそうな顔をするので、私はちょっぴり鼻が高い。
確かにS社の坂上課長もそうだし、男性に厳しいT社の担当さんも一課の皆が苦手とするところだった。とはいっても皆は私に取れないような契約を取ってくるのだから決して私が凄いわけでもなんでもないのはわかっている。
それでも、誉められるのは嬉しい。
私は室内を見渡して森さんに尋ねる。
「課長はお外ですかね?」
実はこの商談、過去の資料を読み返したところ4年前に課長が担当して通常契約のみだったのだ。
要するに、私は課長が落とせなかった企業を落としたのだ。
帰る道すがら、早く報告という名の自慢をしたくてたまらなかった。
「いや、さっきまで居たけど。ずっとデスクにかじり付いてたからちょっと休憩しに行ったんじゃないのか?」
「じゃあ、早速報告に行って参ります」
私はふざけて森さんに敬礼をした。
ノリの良い森さんはもちろん敬礼を返して送り出してくれた。
私は荷物を自分のデスクに置くと、休憩スペースに向かった。
一課の人間が小休憩を取るのは基本的に同じ階にある自販機の並んだ休憩所だ。
行くとやっぱり課長はそこにいた。廊下側に背を向けて、ベンチに腰掛けている。
少し俯き気味で腰掛けている背中はどことなく疲れている雰囲気。
よし、私が元気の出るのは良い話をしてあげよう。
「課長」
私は驚かせないように音量を調整して課長を呼ぶ。
それでも声を掛けられると思っていなかったのか、少し驚いた表情で振り返る。
やっぱり少し疲れた顔をしている気がする。
「なんだ川瀬か。どうした?」
「外回りから帰ってきました。お疲れですか?」
「少しな…」
課長が疲れを認めるとは珍しい。
といっても熱を出してからまだ数日しか経っていない。完全に体調が直ってない状態でしばらく働いていたのだから、疲れるのもしょうがない。
そう思いつつ、私はさっきからしたくてしかたがなかったT社との契約の報告をした。
話を聞いた課長は目を丸くした。
「やるな、川瀬」
意図せず口元がニヤケる。
「担当さんとすごく仲良くなっちゃいました」
「あの女とか?」
課長は余程意外だったらしく、ぽかんと口をあけた。
「ええ、その内ご飯をご一緒する約束までしてきちゃいました。まあ、これはさすがに社交辞令かもしれませんけど」
「ご飯……」
課長は一人つぶやいた。
何か考えるようにして指先で顎を擦ったが、改めて視線を合わせると「よくやった」と微笑んでくれた。
とてもナチュラルな笑み。
会社でオンモードの課長が柔らかく笑うことはかなり珍しい。
物珍しさのから不躾にその表情をこれでもかというくらい見つめていると、すぐにいつもの厳しい顔に戻ってしまい「何だ」と軽く睨まれた。
慌てて何でもないと顔を横に振った。
すると今度は課長の方から別の話題を振ってきた。
「……川瀬、今週の金曜の後は定時上がりできそうか?」
突然の問い。
私はすぐに仕事の仕上がり具合を確認されたのだと認識した。
今日は水曜日。今週の予定を一通り頭に浮かべる。
「はい。今週は今日と明日少し残る程度で金曜日は残業しなくて大丈夫だと思います」
どうだ、今週はグダグダ残るようなことは無いぞ、と胸を張る。
残業すること自体は日常的なことだけれど、この人は無駄な時間の浪費を嫌うのだ。
しかし次いで課長から発せられた問いは私が予想していたものと大分違った。
「仕事後に予定はあるか?」
「予定ですか?」
何故そんなことを聞くのだろうか。
とくに何も思い当たらなかったので素直に予定はないと伝える。
「じゃあ、空けとけ」
そう言って、腰を上げ私の横を通り過ぎる。
空けとく?
どうして?
「あの、課長?」
真意の分からない台詞の意図を探る。
課長は立ち止まり顔だけ軽くこちらに向けた。
「看病の礼をまだしてない。お前の行きたいところならどこでもいい。奢るから考えとけ」
こちらに何を言う隙も与えずに、姿勢のよい広い背中は返事も待たずにそのまま一課に戻ってしまった。
私はその場にぽつりと取り残された。
人気のなくなった休憩スペースには自販機の無機質な稼働音だけがジリジリ響く。
数秒経って我に返る。
そして課長から食事の誘いを受けたことを認識して、脳内で悲鳴を上げる。
何の返事もしないまま立ち去られてしまったけれど、今の約束は成立してしまったのだろうか。
お気持ちだけいただいて、お断りさせて頂きますと心から言いたい。
相手はあの課長だ。オフモードの姿と体調不良で弱った姿を知ったといえど、未だに頭の上がらない上司に変わりない。その上、タチの悪い冗談を言葉と行動で繰り返してくる悪い男。
私の心の天敵。
礼をしたいという気持ちは有り難いけれど、2人じゃ料理どころではなくなってしまう。
どうにか回避しなくてはと必死に頭を回転させたが、一枚も二枚も上手なあの男をどうこうできる気がしない。
突然降って湧いてきた週末の心臓に悪い予定。
さっきまでの高いテンションは高波に攫われてどこかへ行ってしまった。
外回りから帰ってただ同じ室内で仕事をしているだけの日々だったが、看病する以前と比べ私の心境は少し変わっていた。
人をおちょくるような行動に散々振り回されていた私だったが、今となっては立場は逆転だ。
前後不覚になるほどの高熱を出していたにも関わらず、一課のためとはいえ我儘で出社した上に私に自分のやるべき仕事をやらして数日に渡って看病までさせたのだ。
課長にはとてつもなく大きな借りが出来た。
これで下手な行動は取れないはず。
身の安全が確保できたつもりになっていた私の仕事はスムーズだった。
余計なストレスから解放された私は朝一番から会社を飛び出し、商談相手を回りにまわって会社に戻ってきたのは夜の7時。
通常の勤務時間はとっくに過ぎているけれど、一課の扉を開ければ沢山の社員が残業を強いられている。まぁいつもの光景だ。
「お疲れさまです」
扉をくぐり抜け自分の席に戻る道すがら、目の合った社員皆に笑顔で挨拶を振りまく。
「おっ、どうした川瀬。いやに機嫌いいじゃん」
目ざとく私の様子に気がつき、気軽に話しかけてきたのは森さん。
「ふふっ、わかります?」
そう、私の機嫌はすこぶる良かった。
「実はT社を口説き落としてきたんですよ」
「マジか!」
T社とは、ただいま絶賛取引中の顧客企業である。毎年契約は取れるもののコスト面でまったく妥協がなく、単価の低い商品ばかりでの取引となっていた。利益率が悪くて皆に悪い意味でチェックを入れられていた取り引き先だ。
今年は私がそのT社の担当となったのだが、手厳しいと噂されていた商談相手が女性で、話している内にあれよあれよと打ち解けてしまったのである。
おそらく30代であろう彼女はバリバリのキャリアウーマンで私からしたらキラキラした憧れの女性だった。
仕事に関する部分は勿論、社会人としての女性の在り方にまで発展した会話で見事なまでに意気投合。おかげで話がどんどん良い方向に進み、例年より単価の良い商品で契約が取れそうなのだ。
森さんに嬉々としてことの顛末を話すと、心底驚いた顔でまじまじと見つめられた。
「川瀬は本当に俺らが苦手とする交渉相手を手玉に取るのがうまいなぁ」
「やだなあ、手玉に取ってなんかいませんよ」
森さんがさも羨ましそうな顔をするので、私はちょっぴり鼻が高い。
確かにS社の坂上課長もそうだし、男性に厳しいT社の担当さんも一課の皆が苦手とするところだった。とはいっても皆は私に取れないような契約を取ってくるのだから決して私が凄いわけでもなんでもないのはわかっている。
それでも、誉められるのは嬉しい。
私は室内を見渡して森さんに尋ねる。
「課長はお外ですかね?」
実はこの商談、過去の資料を読み返したところ4年前に課長が担当して通常契約のみだったのだ。
要するに、私は課長が落とせなかった企業を落としたのだ。
帰る道すがら、早く報告という名の自慢をしたくてたまらなかった。
「いや、さっきまで居たけど。ずっとデスクにかじり付いてたからちょっと休憩しに行ったんじゃないのか?」
「じゃあ、早速報告に行って参ります」
私はふざけて森さんに敬礼をした。
ノリの良い森さんはもちろん敬礼を返して送り出してくれた。
私は荷物を自分のデスクに置くと、休憩スペースに向かった。
一課の人間が小休憩を取るのは基本的に同じ階にある自販機の並んだ休憩所だ。
行くとやっぱり課長はそこにいた。廊下側に背を向けて、ベンチに腰掛けている。
少し俯き気味で腰掛けている背中はどことなく疲れている雰囲気。
よし、私が元気の出るのは良い話をしてあげよう。
「課長」
私は驚かせないように音量を調整して課長を呼ぶ。
それでも声を掛けられると思っていなかったのか、少し驚いた表情で振り返る。
やっぱり少し疲れた顔をしている気がする。
「なんだ川瀬か。どうした?」
「外回りから帰ってきました。お疲れですか?」
「少しな…」
課長が疲れを認めるとは珍しい。
といっても熱を出してからまだ数日しか経っていない。完全に体調が直ってない状態でしばらく働いていたのだから、疲れるのもしょうがない。
そう思いつつ、私はさっきからしたくてしかたがなかったT社との契約の報告をした。
話を聞いた課長は目を丸くした。
「やるな、川瀬」
意図せず口元がニヤケる。
「担当さんとすごく仲良くなっちゃいました」
「あの女とか?」
課長は余程意外だったらしく、ぽかんと口をあけた。
「ええ、その内ご飯をご一緒する約束までしてきちゃいました。まあ、これはさすがに社交辞令かもしれませんけど」
「ご飯……」
課長は一人つぶやいた。
何か考えるようにして指先で顎を擦ったが、改めて視線を合わせると「よくやった」と微笑んでくれた。
とてもナチュラルな笑み。
会社でオンモードの課長が柔らかく笑うことはかなり珍しい。
物珍しさのから不躾にその表情をこれでもかというくらい見つめていると、すぐにいつもの厳しい顔に戻ってしまい「何だ」と軽く睨まれた。
慌てて何でもないと顔を横に振った。
すると今度は課長の方から別の話題を振ってきた。
「……川瀬、今週の金曜の後は定時上がりできそうか?」
突然の問い。
私はすぐに仕事の仕上がり具合を確認されたのだと認識した。
今日は水曜日。今週の予定を一通り頭に浮かべる。
「はい。今週は今日と明日少し残る程度で金曜日は残業しなくて大丈夫だと思います」
どうだ、今週はグダグダ残るようなことは無いぞ、と胸を張る。
残業すること自体は日常的なことだけれど、この人は無駄な時間の浪費を嫌うのだ。
しかし次いで課長から発せられた問いは私が予想していたものと大分違った。
「仕事後に予定はあるか?」
「予定ですか?」
何故そんなことを聞くのだろうか。
とくに何も思い当たらなかったので素直に予定はないと伝える。
「じゃあ、空けとけ」
そう言って、腰を上げ私の横を通り過ぎる。
空けとく?
どうして?
「あの、課長?」
真意の分からない台詞の意図を探る。
課長は立ち止まり顔だけ軽くこちらに向けた。
「看病の礼をまだしてない。お前の行きたいところならどこでもいい。奢るから考えとけ」
こちらに何を言う隙も与えずに、姿勢のよい広い背中は返事も待たずにそのまま一課に戻ってしまった。
私はその場にぽつりと取り残された。
人気のなくなった休憩スペースには自販機の無機質な稼働音だけがジリジリ響く。
数秒経って我に返る。
そして課長から食事の誘いを受けたことを認識して、脳内で悲鳴を上げる。
何の返事もしないまま立ち去られてしまったけれど、今の約束は成立してしまったのだろうか。
お気持ちだけいただいて、お断りさせて頂きますと心から言いたい。
相手はあの課長だ。オフモードの姿と体調不良で弱った姿を知ったといえど、未だに頭の上がらない上司に変わりない。その上、タチの悪い冗談を言葉と行動で繰り返してくる悪い男。
私の心の天敵。
礼をしたいという気持ちは有り難いけれど、2人じゃ料理どころではなくなってしまう。
どうにか回避しなくてはと必死に頭を回転させたが、一枚も二枚も上手なあの男をどうこうできる気がしない。
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