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4.置き人形
しおりを挟むシャンティーの城は、田舎ならではの広さがあって、緑の丘全体を包容していた。石畳に整備された階段を降りると、巨大な岩の彫り物のような見てくれの正門が現れる。
「ここでいいですよ」
ロドニスは、見送りに来ていたエウリッタにそう告げた。結婚式の翌日からもう仕事が入っているらしく、遅い朝食を終えると、すぐさま自室に戻り、軍服を羽織り、丈の長い外套を羽織り、帯刀した。
私権衛兵取締役、というのが夫の職名だ。
(でも、それって具体的に何をするのかしら)
今さらながらに知らないなとエウリッタは思い立つ。他の見送り達と言葉を交わす夫を見つめるが、なんだか忙しそうで、話しかけるのはやめようと考え直した。
ふと視線を上げれば、正門のすぐ外は、地割れのような深い彫りが大地を割っている。その上に石の橋がかけられていて、白い馬に引かれる馬車がその向こう側で待っていた。
「エウリッタ様」
「あ、はい、どうぞ」
夫の帽子を持っていたことをすっかり忘れていた。慌てて手渡すと、ロドニスが黒い髪を搔き上げるようにしてから帽子をかぶる。
彼はそのまま去った。エウリッタを含める見送り陣はお辞儀をして見送る。
クロウタドリが天高く鳴いている。清々しいなと思って聞いていると、見送り陣のひとりが挨拶をかけてきた。
「ごきげんよう、奥方様」
「ごきげんよう、ソロモン卿」
稲穂のような深い金色をして流れる髪の、まだ30代くらいの若いこの男に、エウリッタは敬礼を返した。
ジェレニー・ソロモン。地元の子爵だ。先代の城主の頃から仕えていて、ロドニスの下では引き続き近衛長として衛兵をまとめている。
「シャンティー卿の帽子を手に持ってお見送りですか。仲がよろしくて、すばらしいです」
ジェレニーはにこやかにそう言って立ち去った。そのコメントはやや踏み込んでいる感じがして、逆に、エウリッタに彼とロドニスが仲がいいことを知らせた。
エウリッタはちらりと視線を送る。
『結婚式の次の日に、奥方がするべきこと、ですか? ……そうですねえ。見送りの際に、旦那様の帽子をわたしに持たせてくださいますか、とシャンティー卿に聞いてみたらいかがでしょう?』という助言をくれた当人のアグネスは、素知らぬ顔で頭を垂れていた。
夫の見送りが終わったあと、エウリッタは自室でさっそく召使長に詰め寄った。
「さっきはありがとうございました。ついでに聞きたいのですけれど、……子爵夫人として結婚してからすぐするべきことって、帽子を持って見送り以外に何か思いつきますか?」
夏の終わりで、暑さの残る外を少し歩いただけでも汗をかいていた。緑の湿気のせいもあるだろう。
ハンカチでうなじを拭いながら、敷いてある絨毯に泥がつかないようにと靴を脱いでいたら、『湯あみの準備を言いつけました。もう少々お待ちください』とアグネスが告げる。
「日に2回もお風呂に入っていいんですか?」
「何度入ってもいいかと思います」
「それはかなり嬉しいです。ありがとう」
「いえ、……奥方様、今のご質問ですが、ご友人の令嬢などに聞かれる方がいいかと思います。わたくしが物申すのは差し出がましい事です」
「貴族の女友達はいません。アグネスさんは帽子のことを言ってくれたでしょう? 夫婦仲がいいんだなって好評だったし、いまのところアグネスさんの言う事を信用しています」
「奥方様は、その、歯に布着せない言い方をされますのね」
アグネスを困らせるつもりはなかった。エウリッタは微笑む。
「ズケズケして憎たらしいってよく言われます。でも、わたしが物言おうが、物言うまいが、べつに世界は変わらないと思います。だったら言ってもいいと思うんです」
「でも、わたしが聞きかじる話は召使たちの話です。身分が違います」
歯切れ悪く言って、けれど、アグネスは考えてくれた。「でも、そうですね、……前の奥方様は、よく城下町へ降りていました。商いの場をその足で歩いたり、住人の家へ行って挨拶をすることもありました」
「へえ、前の奥様って、ロドニス様じゃなく、前の城主だった方の奥様ですよね?」
ロドニスの前の奥方様は初夜に死んでいるから、その人のことではないだろう。
「はい。前の奥方様がなさっていたことで人当たりがよかったのは、そのあたりでしょうか」
人当たりが悪かったこともあったような言い方だなと思う。
扉が遠慮がちに叩かれた。アグネスは我に返ったような顔をして慌てて扉を開き、湯あみの準備ができたようです、と告げた。
アグネスと湯あみ係の少女を伴って、同じ階の浴室に向かいながら、エウリッタは礼を言った。
「城下町はわたしも知りたいと思ってました。周りに顔を覚えてもらえると、万が一何かあったときに頼りになるし、いい考えだと思います。さっそく今日から出てみます」
「えっ今日ですか?」
「だめですか?」
「僭越ながら申し上げますと、先一週間くらいはゆっくり休んでいてもいいと思われます。万が一に何かあったときに、と仰られましたが、この領土は平和ですし、何もありませんよ」
平和な場所。そんなものがいつあっただろう。エウリッタは笑ってアグネスの言葉を聞き流す。
「でも興味が湧いたし、行ってみます。旦那様が帰る前には城に戻っておきたいですね。いつお戻りになられるか解りますか?」
「え?」アグネスがギョッとした風に息を呑んだ。
「シャンティー卿が戻るのは20日後になります。お仕事の予定で、そうなっておりますが」
エウリッタはあやうく足を止めそうになった。
夫はひと月近く留守をするらしい。そんなこと一言も聞かされなかった。
いや、言わなくていいと思われたのか。そのていどの存在だから。
アグネスがさらに続ける。
「シャンティー卿は、中央での勤務が多い方です。この城にはめったに戻りません」
(ああ)
出世の道具。夫がいない城の、置き人形。
(そうだった)
解りきっていたことだ。
「……そう、なんですか」
落ち込むべきじゃない。こんなものだ。自分にそう言い聞かせるのに、指先から血の気が引いていって、エウリッタはうまく声が出てこない。
(よかったじゃない。今知れてよかった。これで身の程を弁えられる……)
アグネスが心配そうな目つきをしているのが耐えられなくて、すっと前を向き、無言で浴室へ向かった。
城下町は楽しかった。
商店と住宅棟が同じ建物内にひしめいて活気があった。レンガと木工の建物は意外としっかりしている。冬の吹雪に耐えられる建築なのだと初日にアグネスが教えてくれた。
アグネスも忙しいので、毎日一緒に来るわけではない。二人の衛兵を伴って練り歩いていると、数々の屋台から挨拶をかけられた。結婚式のときに顔を覚えられたようだ。公衆の面前で式を挙げることはこんなメリットがあるのだと学ぶ。
いろんな物資が、和気あいあいと売られている。農産物の屋台には、摘みたての香り高いオレンジ、ニンジン、季節の木の実、この領土の主食である特大のジャガイモがごろごろ並ぶ。肉屋は家畜をまるまる逆さづりにしていた。初めて見るとギョッとした。
屋台で聞いたところ、ナーラ川流域が産業の要になっている。農家はそこに密集していて、そうなると家畜舎も家畜に必要なものを育てる田畑の近くに建てられるから、ナーラ川に沿って賑わうことになる。
領民の八割が住んでいるという、このナーラ川流域には何度も散歩に出た。家畜舎を見て回って、生まれて初めて、しぼりたての牛乳を飲んだ。
「うっ」
(まずい!)
固形物に近い白いものが沈んでいて、グラスを傾けると、それらが口のなかに一気に入ってくる。
生々しい味に、残念ながらエウリッタは噎せた。
顔をしかめる彼女を、農夫たちはひぃひぃ笑って見ていた。
城下町は天候さえ許せば毎日降りていくくらい楽しい。
けれど、さすがに毎日遊んで暮らすわけにはいかない。何か仕事をするべきと思ったし、見知らぬ土地で人脈をつくることは大切だとも思っていた。
「奥方様は平民受けがいいですよ。城下町に足を運んでくださることを楽しみにしている様子です」
自室で二人きりのとき、アグネスが声を弾ませて言った。
「化け物じみた美しさだから近寄りがたいと思ってた、って。あ、っも、申し訳ありません」
失言に気づいて何度も頭を下げるアグネスに、エウリッタは慌てて首を振る。
そして唐突に、夫が初夜に言ったことを思い出した。
『あなたを見たとき、人間離れしていると思った』
あれは、エウリッタを『美しい』と言ったのだろうか?
ただの妄想なのに、頬に血が上る。それを認めたくなくて、エウリッタは慌てて話題を変えた。
「それより、アグネスさん。わたし、重役の方たちに挨拶に行きたいんですけれど、忙しいだろうし、逆に嫌がられるでしょうか?」
内政長である犬笛、もしくは、近衛長であるジェレニー・ソロモン子爵に会いたいと思っている。その二人なら、エウリッタが出来る仕事を指示してくれそうだからだ。特に犬笛は結婚式以来会っておらず、顔を出すべきかもと思っていた。
仕事にはアグネスも心当たりがありそうだが、子爵夫人に城下町へ足を運ぶことを進言するのにさえ遠慮していた人だから、聞いたらさすがに困らせてしまうだろう。
「城の重役の方たちですか……、恐縮ですが、やめた方がよろしいかと思います。夫の不在に、他の男性の元をみずから訪れるのは控えるべきです。人の目がございますから」
「あ、そういうことですか。でも城下町に行くとふつうに男性と話をしてますよ?」
「あれらは平民です。男性ではありません」
犬笛は傭兵団の仲間で『平民』のはずだが、アグネスが言いたいことはなんとなく理解する。
「うーん、じゃあ男を渡り歩く奥方と思われないように大人しくしときます」
アグネスが苦笑いする。
「そうですね、何事も、シャンティー卿の帰りを待つのがよろしいかと思います」
「でも、あと一週間は帰らないでしょう? うちに寄りつかない亭主ですから」
アグネスが困った顔をした。エウリッタは失言に気づいて申し訳なくなった。
「……ごめんなさい。八つ当たりしてしまった。今のなしです」
「いいえ、いいんですよ」
エウリッタ自身が認めたくない、寂しさや怒りを見透かすかのように、アグネスは彼女に慈愛の眼差しを注ぐ。
「城下町で買った甘味が残ってるんですが、一緒に食べませんか? アグネスさん」
「ありがとうございます。身に余りますが、いただきましょう」
フーヤンという甘味は地元名物だそうだ。黒砂糖とライ麦の生地をこねあわせて月玉の葉と呼ばれる大きな葉っぱにくるんで蒸して作る。ハチミツ漬けのリンゴや桃が入っているのもある。シャンティー領に嫁いで来てよかったと思える物のひとつだった。
フーヤンをきれいな三角形に切り分けて、アグネスとふたりでお茶をしていると、エウリッタの胸の痛みは少しだけ紛れた。
仕方ないから、夫が帰ったときに夫自身に仕事のことは聞こう。それまでは、自分の足で外を歩いてこの土地を知ろう。そう思っていた矢先だった。
夫が不在になって16日が経過したその日。
突然、父が会いに来た。
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