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5.化け物
しおりを挟む夫は20日後に帰って来る。
今日で16日目だ。そうやって朝起きると「夫がいなくなって何日目か」を数えている。
そんな自分が嫌で、しめった気分を振り払うように朝食へ向かう。
留学先だった敵国から戻ってすぐに召使になったから、ここ4年食事は粗末だった。比べるべきではないのかもしれないが、子爵夫人の食卓はテーブルが壊れそうなほどに豪勢だ。田舎の食材は新鮮でおいしい。
(ねえちゃんにも食べさせてあげたかったな……)
ついそんなことを考えてしまい、フォークが止まることがある。
「ロドニス! 待って!」
入浴を終え、今日も城下町に降りようと軽装で城内を歩いていたときだ。そんな悲鳴とともに、回廊の先に召使の女が現れた。
「あっ、おっ奥方様!?」
召使は慌てた様子で傅いた。さっきのは聞き間違いだろうかとエウリッタは彼女に声をかける。
「旦那様がお帰りになったの?」
「はっ? いいえ! 違うのです、恐れながら、カナリアを探しておりました」
夫はまだ帰ってないと聞いて、エウリッタは落ち込んだ。それを表に出さないよう注意しながら相手を見て、ふと、その姿に見覚えがあることに気づく。ロドニスが城を出て行った日、彼と食堂で話していた召使だ。彼女の夫がカナリアを殺したと言ってロドニスが新しい鳥を買うと約束していた。
「ええと、……カナリアを大切にしている方ですよね。お名前は?」
「リュナと申します」
「リュナさん、ええと、新しいカナリアに『ロドニス』と名前をつけたんですか?」
リュナは委縮して小さくなっている。どうしたら緊張をといてもらえるだろうかと悩みながら、「わたしも鳥が大好きで、留学先ではピーナッツという名前のウグイスを飼ってたんです。豆みたいにちっさかったから」とエウリッタは言う。
「ピーナッツ! 可愛らしい名前ですね」
リュナは少しだけ安心した風に言って、顔を上げた。
「カナリアにロドニスと名前をつけたのは、実は、夫なんです。わたしがシャンティー卿に話に行ったあとのことなのですが、犬笛様が、新しいカナリアを連れてきてくださって、ロドニスと名付けなさい、ってうちの旦那に向けて仰ったんです」
「ええ? どうして?」
「城主と同じ名前なら、前の鳥みたいに捻り殺そうとしても、手が止まるだろう、って」
あまりに面白い発想で、エウリッタは笑ってしまった。
貴族が大口をあけて笑うのが珍しいのか、リュナは意表を突かれた顔をした。すぐにリュナ自身も笑って「うちの旦那、今日までロドニスに指一本触れてませんよ」と言う。
同意するかのように、天から鳴き声が降ってきて、また二人で笑う。
「ロドニスはきれいな声でさえずりますのね」
「そうでしょう」
リュナが指をかざすと、黄色い小さな鳥はかろやかに舞い降りてきた。桜色のくちばしを上向け、小首をかしげながら、ぴろぴろと縦笛のような澄んだ声で鳴く。
あまりに愛らしいので、付き添いのアグネスとエウリッタは、二人でしばらく歌に聞き入った。それからナーラと別れて、正門へと向かう。
「鳥を飼うのが懐かしくなりました。……リュナさんの話面白かったなあ。犬笛様ってなかなか面白い方ですね。会いに行きたいけれど」
「いけませんよ」エウリッタの言葉に、アグネスが珍しく厳しい顔をする。
「以前も言いましたが、夫の不在中は普段以上に慎ましくあるべきです。特に、犬笛様は、女性関係がやや乱れがちな方ですからね」
「へえ」
「召使の若い娘が何人餌食になっていることか。ベッキーでございますでしょ。あと、サンドラに、洗濯係のミリュー、毎朝新鮮な牛乳を届けに来てくれる牛屋の娘カンナ……。もう、シャンティー子爵に一度がつんと言ってもらわなければ」
聞いていると、厳粛なアグネスと真逆の位置にいそうな男だと思う。個人的にソリが合わないのだろうか。
「奥方様!」
男の呼び声がかかって、エウリッタは振り返った。甲冑を纏う、仰々しい姿の騎士が集団で歩いてくる。
その先頭は、金髪のジェレニー・ソロモン子爵だ。
早足で近づいてきた男たちが、片膝をつき、敬礼する。何かあったのだと一目でわかって、エウリッタとアグネスで顔を見合わせた。
「失礼。奥方様、ジョナルダ伯爵がただ今正門にご到着なさいました。つきましては、伯爵と会う準備をしていただこうと参じた次第です」
ジェレニーが、敬礼をとくやいなや、そう告げた。
急なことに、エウリッタは固まる。
「ジョナルダ伯爵がいらしたのですか? 訪問があることは事前に知らされていませんでしたが」アグネスが困惑した声で問い詰める。
「伯爵は職務で北へ向かう途中とのことです。ちょうどシャンティー領を通るので、奥方様の顔を見たくなったと仰っていました」
「ですが、……シャンティー卿の命令がございます。シャンティ―卿は自分の留守中にジョナルダ家の人間を奥方様に会わせるなと言い置かれました」
(え?)
アグネスの言葉に、エウリッタは、口のなかで驚きの声を上げた。
(旦那様が、ジョナルダ伯爵が訪ねて来ても、わたしと会わせるなと言った?)
ジョナルダ伯爵に邪魔もの扱いされていることを、エウリッタは初夜にロドニスに言った。殺されても不思議ではない、と。
その矢先の命令だ。夫は、エウリッタを守ろうとしてくれたのだろうか?
「犬笛様はどこです? あの方なら、ジョナルダ伯爵の訪問を断るはずです」
アグネスは毅然と告げる。それを聞いてジェレニーが眉をひそめた。
「ジョナルダ伯爵ほどの方に対し、門を開けないと仰るのか? そんなことをすれば後々ロドニス様ご本人の名誉にかかわる。犬笛様は平民の出であるから、そういったことがまだ解っておられぬのだ。政界の事情なら、私の方がずっと詳しい」
ひやりとしたものがアグネスの目に混じる。
「平民の出では解らぬ事情だと?」
「あなたも平民だ」
「この城の主ロドニス・シャンティー様も、三年前に苗字をたまわったばかりの平民です。あなたは主人を愚弄するのですか?」
「そうではない! ただ、……だからこそ私はロドニス様の助言者という位置にいると言いたい。 こういったときの礼節を整えるのも、私の仕事だ。なんと言われようと、私はロドニス様のためを思ってやっていることだ!」
「だからといって、ロドニス様ご自身の命令に背くというのですか?」
二人が徐々に白熱していくのを、エウリッタは慌てて止めた。もっと早く止めるべきだった。この場で1番権限があるのは多分子爵夫人の自分だからだ。
「わかりました。どうぞ、ジョナルダ伯爵をお通しして」
「奥方様?」アグネスが困惑した目でエウリッタを見る。
「旦那様の命令を破った責任はわたしが負います。アグネスさん、わたしは父をよく知っています。訪問を断ったら、いっそう面倒なことになります。門前払いされたくらいで、会いたい相手を諦めるような男ではありませんから」
エウリッタに会いたいなら、ジョナルダ伯爵は絶対に会うだろう。彼の訪問を断れば、どうせ押し通されて、『断った』という醜聞だけがシャンティ―子爵の元に残る。それだと救いがない。
「わたしは支度に入りましょう。ソロモン卿、よろしくお願いしますね」
エウリッタの決断を聞いて、ジェレニーは明らかに安堵の表情になった。無言で敬礼に膝を折る。
去っていく騎士団の足音が、不気味な鐘の音のように石の城に響いた。
「勢力争いみたいなものがあってるんですか? 犬笛様とソロモン卿との間で」
自室で髪を結い上げながら、エウリッタはアグネスに聞いてみた。
アグネスはげっそりとため息をついた。
「けれど、男同士の戦いに、奥方様を巻き込むべきではありませんわ。迷惑です」
「うーん、そうでしょうか……」
(否定はしないんだな)
地元代表で、貴族でもある、ソロモン卿。
他所から来た代表で、平民である、犬笛。
(争いが起きない方が不思議かな。頭目のロドニス様が留守をしっぱなしだから、なおさら抑制がきかなくなる)
ロドニスが領土持ちとなった3年間で、城の勢力争いは加速したのだろうか、減速しつつあるのだろうか。先ほど自分を迎えに来たジェレニーの強硬に主張する態度を思い出しながら、エウリッタは身支度を整える。
「じゃあ、行ってきます」
「え? わたくしもご一緒いたします、奥方様」
「だいじょうぶです。娘が父親に会うだけですから」
アグネスの心配そうな態度を押しきって、ひとりで客間に向かった。
(アグネスさんはいい人だから伯爵に会わせたくない。それに、伯爵の前で惨めになるわたしを見られたくない……)
軽装からドレスへと着替えた姿で、重いフリルを持ち上げ、ヒールの靴音を響かせて進む。客室の両開きの扉へ近づくほど、暗闇に潜む、巨大な口の中へと呑み込まれて行くような恐怖が襲う。
今にも足が止まってしまいそう。
どうにか顔を上げて、扉の前を守る騎士へと微笑む。ジェレニーは、緊張ぎみの固い表情でうなずいた。その手の甲で扉を叩く。
「エウリッタ・シャンティー子爵夫人が参りました。お通しします」
騎士が扉を開けた。
「やあ」
エウリッタは、白銀色のオオカミが、獲物を前にその口を開けるのを見る。
「久しぶりだね。可愛い娘よ。さあ、早く近くで顔を見せておくれ」
オオカミの舌なめずりが聞こえた。
マルーン調の家具でしつらえた客間は、父以外、誰もいなかった。エウリッタは、彼に言われたとおりに近づいていく。
男の前に一歩出たときから、寒気が全身を支配した。
逆らえない。許されない。
視線がおよぐ。どこを見たら、息が出来るようになるのか、わからない。
「……遠いところへ、よくいらっしゃいました。ジョナルダ伯爵」
声が慄く。
「うん、北の方に用事があってね、ついでだから顔を見に来たのだよ。面白かった。門の前でこんなに長い時間待たされたのは初めてだった」
父が微笑んでいる気配がする。
目の前に進み出た娘を、ソファカウチに座って、じっと眺めている。家具についた汚れを見る目で。
「もしかしたら門前払いをされるのかもしれないと思ったよ」
微笑みながら、言葉で娘を脅す。
「そうなったら人生初めての経験になっていたよ。そうならなくて残念だ。私を門の前で止める度胸がある男なら、君の夫に、私は一目置いたと思うよ。実に残念だ」
くつくつと伯爵が喉を鳴らす。
「……伯爵さまほどのお方です、その足を止めようとする無礼者が、この世にいるでしょうか」
ははは、と、ギョッとするほど大きな声で伯爵が笑う。
「おまえの慇懃無礼はどこへ出ても治らないね。ああ、さっきお茶を頼んでおいたよ。そのへんにいた召使に言っておいた」
「……それは、気が回らなくて……すみません……」
伯爵が上機嫌にしゃべるほどに室内温度が下がる。エウリッタにはそう感じられる。震えそうな身を押さえ込むために両手を組む。その両手が、血が止まるほど力をこめる。
「親子水入らずの時間を過ごそう。座ったらどうかね? 召使のリッタ」
召使の、リッタ?
ジョナルダ伯爵の存在感に呑まれかけている意識が、ざわつく。
(ちがう。わたしは、きれいな菫色のドレスを着ている。毎日食べ物がもらえる。一日何回だってお風呂に入ってもいいって、アグネスさんは言ってくれる)
恐怖に身を硬くしながら、それでも、不思議な力が湧いてきて、体の自由が徐々に効くようになる。エウリッタは、伯爵の向かいのカウチに腰を休めた。
「失礼ですが、ジョナルダ伯爵」
アグネスが用意してくれた、羽根の扇をひらく。
「もう伯爵の召使ではありません。わたしは、ロドニス・シャンティー子爵の妻、エウリッタです」
エウリッタは今日初めてちゃんと伯爵の目を見て言う。
伯爵は笑った。美貌は歳に衰えることなく、眼光は歳に研磨されてよりいっそう貫禄を放ち、その悪意と狂気は、ローズゴールドの瞳の奥で、今にも氾濫しそうになりながら静かに堰き止められている。
目が合って、ぞくりと怯えがエウリッタの身に走った。
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