妻は裸族

キムラエス

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妻は裸族

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 社長の斎藤と階段ですれ違った時に玉木真二郎が小さく会釈をすると、「おい、シンジ。」と声を掛けられた。「ジンジロウです。」と訂正するのはいつものことだが、「お前幾つになった。」と妙なことを聞かれた。「三十六ですけど。」と答えると、「そうか、そうか。」と満足そうに頷いて、「お前、見合いしろ。」と唐突に言われた。「へぇっ?」と当然の反応を返すと、「マツダ工務店の娘だ、歳は三十二らしい。釣り合いは取れる。いいな、頼んだぞ。」と業務命令みたいな口調で言われ、斎藤社長は振り返ることなくせかせかと社長室に消えた。マツダ工務店は真二郎が勤めるハウジング会社の取引先である。社長の松田浩平は小さな工務店から上手く都市再開発の時流に乗り、この地方では中堅ゼネコンと呼ばれるまでの規模にした現場からの叩き上げ社長であり、太って赤ら顔でゼイゼイと息を継ぎながら話す御仁であった。斎藤社長のご相伴で数度宴席で顔を合わせたことがあるが、娘の結婚相手として真二郎に関心を示す素振りなど見せたことはなかったし、ましてや娘がいるなんて話すら聞いたこともなかった。何故俺なのだと当たり前の疑問はあったが、その事を斎藤社長に問いただすことはできなかった。真二郎は地方にあるFランク大学の卒業で、現在勤めるハウジング会社には学生時代にアルバイトで世話になった経緯があった。F大の模範学生らしく勉学に勤しむこともなく、雀荘に入り浸りの毎日であったが麻雀の才があったのか小遣いに困ることもなく結構高いルートで打っていると社会人のメンバー達と知り合いになた。そのうちの一人から誘われた超高額レートの麻雀において真二郎は人生初めて完膚なきまでの負けを喰らった。要は嵌(は)められたのだが素人がプロ同士の連携イカサマを見抜くことは不可能だった。大学生が払えるはずもない借金を前にして、親に払って貰うんだなと本性を表わした自称会社員の要求を年老いたひとり暮らしの母親に連絡することもできず、『仕方ないな』と代わりに出された遠洋マグロ漁船にインドネシア船員達と一緒に乗るしかないと人生を諦めた時に相談に乗って間に入ってくれたのがバイト先の斎藤社長であった。社長は、「馬鹿でも無茶をする馬鹿は使いようがある。」と豪快に笑い、どういう話になったのか知らないが借金は無かったことになり、「俺の会社で働けば良いさ。」と就職先まで決めてくれた。これは一生奴隷働きだなと覚悟して入ったハウジング会社で与えられた最初の仕事はバイト学生をまとめるリーダーとしての役割であり、給与も全額きちんと払ってくれた。「能書きはいらない。結果だけを持ってこい。」というのが社長の口癖で、それから社長の鞄持ちを長い事やらされ、その期間は社長に対して「はい。」以外の言葉を発した記憶しかない。気が付いてみれば企画部次長というポストを与えられていた。ただ、企画部の仕事ではなく、専ら法に抵触しそうな際どい事案の処理を社長のひとり言のような指示でやらされていた。問題のある古参社員を辞職に追い込んだことも二度三度ではない。焦げ付いた債権回収のために怪しげな回収業者や街金と殴り合いの喧嘩をしたこともあった。「シンジ、俺はお前を買っているんだ。」と社長は酒を飲む度に言うが、真二郎には、”俺が居なけりゃ、お前は今頃保険を掛けられ南インド洋で沈められていたはずだ”としか聞こえず、社長の前では、「ジンジロウです。」と訂正するのが精いっぱいである。言わば、命の恩人である斎藤社長の話を断ることはあり得ない話であり、”見合いしろ”ということは”結婚しろ”ということである。松田社長の娘が正月の福笑いのようなおかちめんこであろうと断るわけにはいかない運命であった。真二郎は忙しくもそれなりに楽しんだ独身生活にピリオドを打つ時が来たなと覚悟を決めた。
 見合いの場所はシティホテルのラウンジにあるティーハウスで、その後併設のレストランで食事をするのだと社長夫人の松子からその日の時間を指定された。「シンさんは私たちの末の息子みたいなものだから。」と同席する松子夫人は久しぶりに訪れた活躍の場に張り切っていた。安月給のころの真二郎の胃袋を満たし続けたのは松子夫人の手料理であり、社長のゲシュタポと陰口を言われる今のポストに付いてからも、酔った社長を自宅まで送り届けるのは真二郎の役目で、その度に松子夫人は、「シンさんご苦労様。お夜食を食べて行きなさい。」と昔から変わらぬ笑顔で真二郎にビールを勧め、横に座ってあれやこれやと話をするのを楽しんでいた。見合いの裏話をしてくれたのも松子で、「松田さんのところはお嬢さんひとりなの、それでシンさんを婿養子にして後を継いで欲しいのだって。最初は単にシンさんを工務店に譲ってくれないかという話だったみたい。うちの人は渋ったみたいだけど、シンさんのことも考えて、将来の社長含みとして迎えるのなら考えても良いと言ったらしくて、じゃあいっその事婿養子として来てもらおうかという話になったらしいわよ。」と松子はとっておきの秘密を明かすように勿体ぶって教えてくれた。婿養子かと複雑な心境ではあったが、斎藤社長には二人の息子がおり、どちらも東京の有名私立大学を出て長男は役人になり、次男は大手住宅メーカに勤務している。将来はどちらかが会社の後を継ぐのは既定路線であり、二人とも真二郎のことはシンちゃんと親し気に接してくれてはいるが、現社長が身を引く時には社長の私的な手駒である自分も会社から去るしかないと考えていた真二郎にとっては、結婚はともかくも斎藤社長の心遣いには感謝しかなかった。「結婚後の私の仕事について社長は何かおっしゃっていましたか。」という真二郎が最も気にしていたことについては、「もうしばらくはウチで働いてもらうつもりだって言っていたわよ。シンさんに急に居なくなられるとアノ人も不安なのよ。」と松子夫人は笑った。真二郎には特に不満もなかったが、そう言えば松田の娘とはどんな女性なのだろう、写真すら見せてもらえなかったなと夜道を帰りながら苦笑した。松田社長の赤ら顔を思い浮かべて、不細工な行き遅れ令嬢を押し付けられたのだろうなと思ったが、夜の相手探しにさほど苦労したことのない真二郎にとっては、欲を言えば大人しい女であれば助かるなぐらいの結婚観であった。
 美鈴はごく普通の女であった。美人ではないが細い目のせいか常に微笑んでいるような印象で優しそうな顔立ちであった。薄いピンク色のワンピースを着て慎ましく真二郎に頭を下げて、多分自分の名前を告げたようだが声が小さくて良くは聞こえなかった。正月の福笑いのようなおかちめんこを覚悟していた真二郎にとっては、”助かった”というのが正直な感想であった。夜の店の盛ったメーク美人を見慣れた真二郎にとっては薄化粧のおっとりとした顔立ちの美鈴は新鮮ですらあった。小柄なせいか、学生のようなショートボブの髪型のせいか、三十二歳という実年齢よりもかなり若く見えた。「この子は小さい時から引っ込み思案で、昔から初対面の方とは話もできないのですよ。」と何を考えているのか視線をめったに上げない娘を代弁してふくよかな松田夫人が斎藤夫人と真二郎の顔を交互に見ながら言うと、「最近は何と言うのですか、女性の方が大きな声で文句を言うことも増えて、社会に出て活躍なさる方はそれで良いのでしょうけど、私たちの世代には何となくはしたなく思えてしまいますのよ。家庭には慎ましやかで落ち着きのある女性が一番ですわ。」と斎藤夫人が繋がるのか微妙な話で継ぎ、それから互いの亭主の愚痴を挟みながら、時々どうでも良い質問を真二郎と美鈴に向けた。もっとも、美鈴は下を向いたままで小さな声で、「はい。」と「えぇ。」としか言わなかった。食事に移る前に、「まぁ、私たちばっかりおしゃべりをしてしまって。美鈴さんもシンさんにお聞きしたいことがあるでしょう。シンさん、美鈴さんを連れて少しお庭を散歩なさったら。このホテルのお庭はちょっとしたものよ。私たちはレストランで待っているから。」と斎藤夫人に促され、「それではお嬢様を少しの間お借りします。」と松田夫人に断って、真二郎は美鈴を庭に誘った。
 「私は美鈴さんとの結婚に何の異存もありませんが、美鈴さんは如何ですか。どうぞ正直に仰ってください。」との真二郎の問に、美鈴は「いえ、宜しくお願いします。」と声は小さかったが即答して頭を下げた。何だか他人事のような暖簾に腕押しのような手応えの無い返事に、「私がこういうことを言うのも何なのですが、ご自身の一生のことなので少し慎重にお考えになった方が良いかも知れません。」と嗜(たしな)めてみると、「では、シンジロウさんは何故私との結婚に何の異存もないのですか?。」と美鈴は無表情に返して来た。どういう事情かは知らないが、彼女は彼女で今日は腹を括ってきたのだなと感じた真二郎はその問いには答えずに、「式の日取りはもうお母様たちで話始めているのでしょうね。」と苦笑した。庭にある遊歩道を回ってレストランに足を向けると、美鈴が言い難そうに「あのぅ。」と口を開き、「私、週末にボランティアに誘われることが多くて、その時は申し訳ないのですがシンジロウさんのお世話が疎かになるかも知れません。」と、さも重大な告白をするように告げた。「どんなボランティアをなさっているのですか。」と尋ねる真二郎に、「養護施設や介護施設でイベントをやる時に手伝いをお願いされます。」と恥ずかしそうに言うので、「それは良い事ですね。週末は私も接待などで家を空けることが多いと思いますので、どうぞ私のことは気にせずに参加してください。」と特に関心を持たずに言うと、「良かった。知り合いの方から頼まれると断れなくて。本当に申し訳ありません。」と初めて真二郎に笑顔を見せた。横に立った美鈴は背が真二郎の肩までもなく、胸の膨らみも小振りで少女のようにも見えたが尻回りはムッチリと豊かで女であることを主張していた。

 新居は義父となる松田社長が自前で建てた新興住宅街の一棟であった。真二郎は2DKのマンションに住んでいたので子供ができるまではそこで十分と思っていたのだが、義父の松田社長に「まぁ、そう言わんと、親心と思ってシンさん頼むわ。無理言うて婿養子に来て貰ったんやからそれくらいのことはさせてや。」とダミ声で言われたら辞退することもできず、言われるまま一戸建ての住人となった。真二郎は建築の専門家ではないが一応はハウジング会社の一員であり、この家が外見は凡庸な作りに見せているもののふんだんに断熱材を使った高断熱仕様であり、二重窓の全室床暖房に加えてリビングにはシーリングファンを付けるという冷暖房効率に異様に気を配った家であることは解かった。やり過ぎのような気もするが大事な一人娘を思う松田社長の配慮だろう。窓も多く視覚的に開放されている一方で庭木や外塀を上手く配置して独特のプライベイトの空間が意識して作られていることに驚いた。ご丁寧に二重窓の内ガラスにミラーガラスを入れているのには呆れた。先に真二郎の荷物を運び入れ、世帯としての最低限の家具や電化製品を揃えた後、美鈴が実家から移ってくるのを待った。結婚式は挙げたものの、その時期は真二郎にとって繁忙期であり新婚旅行を後回しにしたこともあり、夫婦といっても何回かスケジュール的な話をするために会っただけで、未だ妻である美鈴を抱いたことはなかった。婚姻届けも真二郎が暇をみて一人で市役所に届けていた。何だかバーチャルで結婚したような変な気分だったが、別に望んだ結婚でもなかったので、独り暮らしの延長を特に気にすることもなく、そのうち美鈴も新居に移ってくるだろうと呑気に構えていた。しばらくは他人行儀なギクシャクとした生活だろうが時間を掛けて人並みな家庭にしていけば良いぐらいの気分で、松田社長や美鈴に連絡をして転居を催促をすることもなかった。
 その日は県庁の役人を接待して、家に帰り付いたのは11時を回っていた。最近は利害関係者からの役人への接待は表向きは倫理規定により厳しく禁止されているが、『別に賄賂渡すでもなし、知らん者同士で良い仕事ができるはずがないだろう。そんなことはマスコミも皆分かっとる。歓楽街で派手に飲み食いやるからプロ市民が騒いでマスコミも叩く方に回らんといかんようになる。要は、バレんようにして静かに飲んで、そこで顔を合わせて意見交換をするのであれば誰にも迷惑はかからん』という斎藤社長の命を受けた真二郎が苦心して見つけた料亭で、女将とも話を付けてお役人には直接料亭の離れに来て貰うスタイルにしていた。斎藤社長は気楽に意見交換などというが、同席する真二郎の今夜の仕事はライバル会社の些細な違法行為を役人に告げて入札指名停止に追い込むことであった。直接的な物言いを避けつつも、『そう言えば』となんでもない会話の中に今後トラブルとなり得る話を入れ込んで、役人たちのリスクをさり気なく示してやった。役人たちも心得たもので一般論として応答していたが、通じているなという感触は真二郎にはあった。真二郎が話をしている時は斎藤社長は知らぬ顔で女将の手をさすりながら世間話をしていた。幸いにもこうした役人への接待が表沙汰になり問題となることはこれまでなかったが慎重になるに越したことはなく、この料亭は利用しつつも政治家や上のクラスの役人の接待向けに新しい店を開拓する必要があるなと考えていた。
 接待が終わり、斎藤社長を家まで送って、「美鈴さんが待っているだろうからシンさんを引き留めたら悪いわね。」と未だ独り暮らしなのを知らない松子夫人に苦笑いを向けてそのままタクシーで帰宅すると、玄関先に明かりが付いているのを認めた。いよいよ奥様の登場か、今日移ってくると連絡してくれていたらもう少し早く帰ったのにと思いつつ玄関を開けた瞬間、目の前の光景に驚いて、「失礼。」と慌てて開けかけたドアを閉めた。ここは俺の家だよな、間違いない。チラと見えたのは妻である美鈴だよな、多分間違いない。ということは多分玄関のドアを開けても問題ないよな。よし。と心を決めてドアを開けると「お帰りなさい。お疲れさまでした。」と全裸の美鈴が優しい笑顔で真二郎を出迎えてくれた。
 「移ってくるのが遅くなって申し訳ありません。いざ家を出るとなったら父があれやこれやと言い出しまして。きっと急に娘を手放すのが惜しくなったのだと思いますわ。」と笑顔のまま、これまでの美鈴からは想像できない饒舌さで話しだし、やおら膝を付いて、三つ指をつき「不束者ですが末永く宜しくお願いいたします。」と頭を下げた。膝を付いて頭を下げた裸の美鈴は真二郎には生まれたばかりの犬の子のように見えた。この状況をどう理解するべきか、真二郎は瞬時に頭を巡らせた。普通に考えれば、裸ということは美鈴はセックスをする準備をして真二郎を待っていたということだろう。ただ、これから共に暮らす夫婦なのだからそこまで焦らなくてもそれなりの手順を踏めば必ずやる行為だ。ひょっとして美鈴はとんでもない色情狂の質なのか。色情狂の女を娶(めと)った自分はどう対処すれば良いのか。目の前に眼を三日月にして優しそうに微笑む美鈴の顔があった。裸で飛び掛かってくる素振りもなく、真二郎の言葉を待っている様子だ。少し様子を見るべきだなと心に決めて、「いや、こちらこそ宜しく。今日来ると連絡しておいてくれればもっと早く帰ったのに。」と「お鞄。」と手を差し出す美鈴に鞄を渡すと、「そうしようかとも考えたのですけど、夜に旦那様を待つという経験をしてみたくて。ちょっとしたイタズラ心で。」と声がはしゃいだ。「シンジロウさん。ご飯は。」と聞く美鈴に、「えっ、あぁ、お茶漬けでもあれば食べたいな。」と言うと、「ご飯を炊いておいて良かった。」と更に声がはしゃいだ。笑顔が可愛かった。良く言えば落ち着いた、悪く言えば陰気な女(ひと)なのかなと思っていたが、意外と朗らかな性格かもしれない。でもなんで裸なのだろう。先に立ってリビングに向かう美鈴の左右のお尻が可愛くポンピングする動きを見ながら真二郎は、さて、美鈴に何と言えば良いのやら次の言葉を見つけることができなかった。「お風呂沸いていますよ。さっぱりなさって」。美鈴が振り返って、ぼんやりと立つ真二郎に声を掛けた。
 俺も風呂から全裸で上がり、美鈴のもとに向かい彼女を抱き上げてベットに移動するべきだろう。理由はどうであれ裸で夫を待っていた妻、それも新婦に恥をかかせてはいけないと湯舟の中で思ったのは美しく割れた美鈴の尻が真二郎の久しぶりの性欲を掻き立てたせいかも知れなかった。美鈴の臀部は滑らかに盛り上がり適度にしまったウェストにより綺麗な桃尻となって女の尻であることを主張していた。真二郎が相手する夜の女たちは髪を盛り爪を磨き立てダイエットで疲れた細い体をカサカサの肌が覆っていた。それでも若い時に付き合った、逢うたびにサプライズを要求する勘違い女たちに比べれば金で解決できるだけマシだった。仕事に熱中していたせいもあるかもしれないが最近は特に女を抱きたいとも思わず毎日を過ごしていた真二郎にとっては久しぶりに下半身に力を覚える感覚があった。風呂から上がると脱衣所に下着とパジャマが置いてあった。風呂に入っている間に美鈴が持ってきてくれたらしいが、これもどう解釈するべきか迷った。着替えを置いたということはこれを着てくれということだろう。もっとも脱ぐのは手間ではないと思い直して、ドライヤーで髪を乾かした後に準備してくれたものを着てリビングに向かった。ダイニングテーブルに座ると美鈴がビールを持ってきてくれた。相変わらず全裸だ。美鈴の未処理であろう盛り上がった陰毛が目に入るが見て見ぬ振りをする。「実家からお漬物を持ってきましたのよ。」と美鈴は言って、「母は料理が好きでないくせにお漬物は自分で漬けないと気が済まない人で、やたらと漬物ばかり持たせますの。嫁入り道具が漬物って変ですよね。」と真二郎の正面に座って笑った。どうやら全裸で風呂から出てくる必要はなかったみたいだなと腰を落ち着けてビールを飲んで漬物を口に入れると、美鈴は漬物の感想を聞きたがっている諷(ふう)で真二郎の顔を見るので、「ぬか漬けだね、良く漬かっていてとても美味しいよ。」と正直な感想を言うと、「よかった。母に伝えますね。」と目を三日月にして満足げな表情になって。「ご飯を持ってきますね。お茶漬けで食べてみてください。」と立ち上がり、美鈴はお尻を振りながらキッチンスペースに急いだ。
 「私、シンジロウさんには本当に感謝していますの。」。お茶漬けを食べる真二郎の前に座って美鈴が改まったように言った。「えっ。」と反応すると、「私は絶対に結婚なんてできないと諦めていたのですよ。子供を持つことも諦めていたのです。」と続けた。再度、「えっ。」と箸を止めて顔を上げると、「だって裸で暮らす女なんて誰もお嫁に貰ってくれないでしょう。そもそも結婚の条件が裸でいさせてもらうことなんてお願いできるものじゃありませんわ。だからシンジロウさんがどんな理由であれ、『全然構わない』と言ってくださって本当に嬉しかったのです。」。真二郎は絶句したが表情を変えないことには際どくも成功したようだ。美鈴が裸でいることはそういうことかと理解した。個人主義の強い欧州にそうしたライフスタイルの人が一定数居ることは何かで読んだ記憶がある。ただナチュラリストだかなんだか自然の中で暮らす人じゃなかったけ。真二郎の知見はこの程度である。日本のこんな街中で裸で暮らせるものなのか。瞬時に色々と疑問点が浮かんだが、それらは喫緊の問題として今美鈴に尋ねるべきことではなかった。細かい疑問点は追々クリアにすることとして、真二郎にはまずいの一番に確認すべきことがあった。目の前に全裸で座る妻をなるべく刺激しないように頷いて、「僕も最初に君と会った時になんて清楚で可愛らしい女(ひと)だと思ったよ。」と言って美鈴の頬が恥ずかしそうに緩(ゆる)むのを確認してから、「僕の話は斎藤社長から聞いたの。」と笑みを浮かべて優しく美鈴に聞いた。「ええ。私からお願いしたのです。だって自分の妻が裸でいることを受け入れられる男(ひと)は当たり前に多くはないですよね。何も知らせないでお見合いをするなんてお相手に失礼でしょう。でも、私の方から初対面の方に私はこういうライフスタイルですと話すのも変な誤解を与えそうだし、父の方から斎藤のおじさまにお願いしてシンジロウさんに確認いただきましたの。」。もちろん斎藤社長からはそんな話はひと言もなかった。松子夫人が何も言わなかったのは多分知らないからだろう。もし知っていたらこんなに喰いつきやすい話をおしゃべりの松子夫人が黙っていられるはずがない。俺に絶対に否と言わせないためにどうやら社長はわざと話をせずに勝手に返事をしたらしい。相変わらず際どい事をやる人だ。斎藤社長の思惑通りに進むのはあまり気持ちが良いものではないが、美鈴が正月の福笑いのようなおかちめんこであろうと断るわけにはいかない結婚だったのである。目の前の妻の面持ちは十人並みかもしれないがおっとりとした笑顔が優しそうな性質を匂わせていた。背は低く乳房も小振りでお世辞にもモデル体型とは言えないが、惜しげもなく晒した肌は滑らかに張っており、みっしりと盛り上がった尻は真二郎の好みであった。当面は裸で暮らすという美鈴にどう自分の生活をマッチングさせていくのかが問題だが、斎藤社長が美鈴や松田社長に関してまだ隠していることがあるかも知れないという疑いも残った。明日社長に問いただすとして、今夜のところは美鈴を抱かない方が無難だろう。真二郎は美鈴の話に頷いた後、「明日の朝食にも漬物を出してくれると嬉しいな。」と言って美鈴の笑顔を確認してから、「最近ちょっと残業と接待が続いていてね、明日も早いんだ。明日は早く帰るようにするから。」と実際にそうではあったのだが、疲れた顔を美鈴に向けると、美鈴は、「あっ。」と笑顔を消して、「私ばっかりおしゃべりをしてしまって。」と申し訳なさそうな顔をして、「荷物は明日搬入していただくことにしています。今夜までお布団で我慢してださいね。すぐに床(とこ)をのべますね。」と古風な言葉遣いの割にはお尻を元気よく振りながら寝室に消えた。真二郎は、今夜は我慢だなと下半身を宥(なだ)めつつも、結構拾いものかも知れないなと自分の妻に対してけしからぬ評価をしていた。

 9時の始業時間からの30分は斎藤社長のモーニングティータイムである。熱い玄米茶を大ぶりの湯飲みになみなみと入れてもらって、フゥフゥ吹きながら新聞を読む。多忙な社長であるが、この時間だけは案件を抱えた総務部長も営業部長も社長室に入ることを遠慮していた。逆に、真二郎だけはその時間だけに社長に呼ばれることが多く、他の職員に聞かされないような指示を直接受けていた。そのため真二郎は遅刻をすることが許されずどんなに深酒しても朝の6時半きっかりに目が覚める体内時計を持っていた。きっちり9時10分に社長室をノックすると、「おぅ。」というダミ声があり、部屋に入ると、「何だ。」と不機嫌そうな斎藤社長の顔があった。この不機嫌そうな顔と乱暴な言葉遣いで多くの社員は威圧されるが、実際の所本人はさほど不機嫌ではないことを真二郎は経験で分かっている。「実は、昨夜から家内が実家から移って来まして。」と言うと、「おぅ、スズか。」と誰でも彼でも名前を短縮して呼び、「夜は楽しんだか。松田が孫を待ってるから気合い入れて励むこったな。」とニヤリと下品な顔になった。「そこは追々頑張りたいと思いますが、社長。私に何か言い忘れてはいませんでしたか。」と聞くと、「何の話だ。」と前振りはしたもののすぐに思い当たったらしく、「あぁ、スズのあれか。」とまたニャリとした。「情報ぐらいは事前に入れておいていただかないと。」と不満を言うと、「くだらん。」としかめ面を作って、「可愛い女房が裸で居てくれるんだ。こんな良い事はないだろう。最近は平等だ人権だと亭主に指一本触れさせん女房もいるそうじゃないか。スズは見上げたものだ。」と無茶苦茶を言い始めた。相手にせずに、「彼女は私が納得していることだという前提で話をしてきたので冷や汗ものでしたよ。下手すれば美鈴さんを傷つけてしまうところでした。」と重ねると、分が悪いと思ったのか、「松田の家はあれだ。」と急に話題を変えた。つられて、「何ですか?」と聞くと、「あれだ、裸族だ。」と言って、「皆、裸だ。」と声を潜(ひそ)めた。「えぇっ。」と驚くと、「だからスズも裸なんだ。」と嬉しそうだった。例えそれが事実であっても松田家にとっては秘すべきことだろう。「何故、社長がご存じなのですか。」と疑わし気に聞くと、「松田は高校の同級で昔からの飲み仲間だ。」と真二郎が知らなかった事実を教えられた。「松田の家で飲むこともある。ある時からあの家は裸族になった。」。良く分からなかった。「いったい何なんですか。」と少しイラついて聞くと、斎藤社長は眉をひそめて、「知るか。」と言い捨てたが、「スズが原因だとは聞いたが良くは知らん。」と乱暴に付け加えた。それから、真二郎を手招きして机の前まで呼ぶと更に声を潜めて、「松田の家に行くと、『お前も脱げ』と言われる。『それがこの家のルールだ』と頼まれる。『パンツも脱ぐのか』と聞くと、『そこはお前に任せる』というから、俺は松田の家で飲むときはパンツ一丁で飲んでいる。まぁ、慣れてくるとそんなものだと抵抗感もなくなってくるな。」と何故か威張っている。「シンジは松田の婿だから素っ裸を覚悟しておくんだな。」と嬉しそうだ。美鈴だけの問題じゃないのかと頭を抱えそうになった。事前にこの話を聞いていたら、結婚を断ったらマグロ漁船に乗せると脅されても遠慮したかもしれない。真二郎の顔色が変わったのに気付いた社長は、「それでもなぁ、シンジ。スズは本当に良い娘(こ)でお前を支えてくれる娘(こ)だと思ったからこそ俺はこの話をお前に勧めたんだ。」。それは分かる。これまで美鈴と触れ合う機会はさほどはないが、美鈴が稀に見る気立ての良い女性であろうことは真二郎にも実感できていた。「それになぁ。」と斎藤社長は諭すように言ってから、「スズの尻は一級品だろう。お前は果報者だよ。」とニンマリした。「ええっ。社長は美鈴さんの裸を見ているのですか。」と驚くと、「当たり前だろう。俺はスズが子供の時から知っている。俺が行くと、『斎藤のおじさま』って俺に挨拶をするために出て来てくれるんだ。その時にな、チラっと見る程度だよ。」と嬉しそうだ。真二郎が茫然(ぼうぜん)として立っている姿を見て、斎藤社長も流石にはしゃぎ過ぎたと思ったのか、「俺の家(ところ)は女の子がいないだろう。スズは娘みたいなものなんだよ。」と言い訳をし、「それになぁ、シンジ。飲んでいる時間はずっと敏江さんの樽みたいな裸を見てなきゃいけないんだ。ほんのちょっとスズの裸で目を楽しませてもらっても許されることだと思うぞ。」と失礼にも松田社長の細君の名を出して、「お前も覚悟しておけよ。」と付け加えた。

 美鈴が裸で生活する理由について聞けたのは何回か肌を合わせてなんとなく夫婦としての実感が出始めた週末の夜であった。その日までは真二郎は美鈴が裸でいることに対して何も言わず敢えて無関心を装っていた。実際の所、何と言ってどう対応して良いのかも分からなかった。真二郎は風呂の後は美鈴が用意してくれたパジャマを着て夜を過ごしており、着替えを用意してくれるのは、亭主である俺には裸になることを押し付ける気はないのだろうなと考えていた。多分、美鈴は何らかの理由で裸になっているのだが、その理由を自分から話すことを躊躇(ためら)っているのか、理解されなくとも良いと達観しているのかすらも真二郎には分からなかった。美鈴は淡々と家事をこなしていたが、物静かな振る舞いの中にも真二郎に対する愛情は隠すことなく示してくれた。セックスも誘ったら嫌がることなく普通に恥ずかしがり、夫婦の営みに対しても反応は薄かったが普通に悦びを示した。セックスには慣れていない印象だっだが美鈴は処女ではなかった。もっとも30過ぎて処女で居る方がおかしいので真二郎が美鈴の過去の男関係について特に気にすることはなかったのだが、美鈴が裸でいることの何らかの原因が過去にあるのであればやはり男が関係しているかなとは思った。美鈴とは見合い結婚なので二人の関係はゼロからのスタートであり、互いの事を理解しながら夫婦としての形を作っていくのであろう。真二郎も美鈴も互いに愛しているという感情はまだ持てないものの、真二郎は妻となった美鈴は気に入っていたし、美鈴も他人行儀な素振りは時折みせるものの真二郎への愛情を隠さなかった。夫婦として無難なスタートを切ったと言えるだろう。ただ、妻の美鈴は裸で生活をしていた。
 「俺も裸になった方が良いのかな。」と聞いたのは、真二郎が考えた末に出した美鈴になるべく負担を与えないだろう美鈴が裸でいることへの問だった。美鈴は一瞬吃驚(びっくり)した様子で目を広げたが、すぐに三日月の優しい目に戻って、「気を使わせてしまって申し訳ありません。やはりご迷惑でしょうか。」という聞き方をした。美鈴も心苦しく思っていたのだなと申し訳なく思い、「いや、そんなことはない。ただバランス的に俺も裸になった方が良いのかなと思って。」と言ってしまってから、この言い方では迷惑だと言っているようなものだと反省した。真二郎の苦慮を察したのか、美鈴は笑顔のまま、「シンジロウさんがそうしていただけると私は嬉しいのですが、私の立場であなたにどうしろ、こうしろとは言えませんわ。私は裸で居ることを許していただいていることで十分です。」と言った。美鈴の裸でいることに対する決意は並々ならぬものがあるなと感心しつつ、美鈴が初めて俺のことを『あなた』と呼んだなと気付いた。さて、どうしたものかと真二郎が迷っていると、「あのぅ。」と美鈴が切り出した。「私、中学生の時にイジメに遭(あ)っていて。」。「えっ。」。「暴力的なものではなかったのですけど、私の何が気にくわなかったかは今でも良く分からないのです。仲間外れにされて、色々と悪い噂を流されて、気付いたらひとりぼっちで、それでも我慢して学校に行ってはいたのですが、ある朝急に気分が悪くなって吐いてしまって。その日は単に体調が悪いのだろうと学校をお休みしたのですが、次の日の朝に学校に行かなきゃと思ったら、また気分が悪くなって、そんな状態が続いて、いよいよ朝起きれなくなってしまったのです。もちろん両親は心配して色々と尋ねるのですけど、何故かイジメに遭っていることは絶対に漏らしてはいけないって思い込んでいて、不思議ですね、今考えると正直に話せばよかったと思うのですが。それでお医者さんに連れて行かれて、病院でもイジメのことは何も言わなかったのですけど、お医者様は分かっていたのかもしれません。簡単に診断書を出してくれて、『しばらく学校はお休みなさい』って勧めてくださって、あぁ、これで学校に行かなくても良いんだ、クラスメイトと会わなくて良いんだとホッとしたのを覚えています。でも、本当は勉強したくないだけだったのかも知れません。私、勉強があまり得意でなかったから。」と美鈴はぺろりと舌を出して笑った。「自分の部屋からも出られなかったのです。これ、引きこもりって言って良いのかな。死んだら誰にも会わなくて済むよねって考えていました。でも、ある日、暖かい日にふと新鮮な空気が吸いたくなって、外に出てみようかなという気持ちになって、クラスメイトに合わない午前中にそっと外に出て、近所の公園のベンチに座っていたの。本当に不思議なのですけど、近所の大学生の洋子さん、私は洋子先生と呼んでいたのですけど、洋子さんがふらりと公園に入ってきて、『美鈴ちゃん、こんな時間にどうしたの』って話しかけてきたのです。洋子さんは近所の学生マンションに住んでいて、私が通っていた塾でバイトをしていた人なのです。本当に綺麗な女(か)性(た)で皆の憧(あこが)れでした。私、洋子さんに何も言えずに、そのうちポロポロ泣き出してしまって。そうしたら、洋子さんが『美鈴ちゃん。私の部屋においでよ』と誘ってくださって、その時に初めて、クラスメイトからイジメられていることを人に話すことができたのです。洋子さんはずっと聞いてくださって、『辛かったね』と言ってくだった時に私大泣きしてしまって。私が泣き止むのを待ってから、『イジメる人達には立ち向かえないよね。だって私たち弱いもの』とおっしゃってから、『実は私も昔イジメられていたの』って、私吃驚(びっくり)して、だって洋子さんは綺麗で人気があっていつも皆の輪の中心にいた女(ひと)だから。『ほんとに些細なことなのだよね。私の時はちょっと男の子と話をしていたら、誰々さんが好きな男(こ)なのに酷いとかなんとか言われて、無理やり謝らされて、これで終わりかなと安堵していたら今度は援交してるとか噂流された。職員室に呼ばれたら、火の無いところになんとかと騒がれて援交女子確定扱い。そのグループが火を付けたのにね』。『酷いですね。洋子先生も不登校になっちゃったの?』と聞いたら、笑って首を横に振って、『私にはイジメに対する自己防衛の方策があったの』と立ち上がって、洋子さんは突然着ているものを次々と脱いで裸になってしまったの。ハハハッて声を出して笑って、『吃驚(びっくり)させてごめんね。久しぶりに部屋で服を着ていたら苦しくて、あぁ、スッキリした』って。私、えっ何なの?と固まっていたら、『私ね、裸になることで嫌な世界から自分を解放することにしているの』と不思議なことをおっしゃるの。『私はここに居る。何も着ていない裸の弱い私はこの部屋にいる限り誰からも責められない。だって誰も私がこの部屋で裸で居るなんて知らないでしょう。もし知られていたら裸の私は格好のイジメの餌食だよね。でも、誰もやって来ないと言うことは誰もこのことを知らないということ。だから、裸の私はこの部屋の中では誰からも意地悪されないし、自由に好きな事を言って、好きな事ができるの。分るでしょう。』。私は良く分からないまま頷くしかなかった。『でも、いつかは外に出て学校に行かなければならない。それは私にとっての戦い。だから弱い私を防御するために鎧を身に纏(まと)って外出するの、それが服。でも私のイメージの中では中世の騎士が被っていた鉄仮面のやつ。それを身に纏っていたらどんなあからさまな視線や言葉の暴力やイジメから遮断してくれるって。裸の私は無力だけど、今は鎧を身に纏っているんだから全ての攻撃から守られるって思い込んだの。でも、鎧だからとっても重くて、動き辛くてて苦しいの。それで、部屋に帰って鎧を脱いで裸になると、あぁ、楽だ、体が自由に動くって良いなぁって、嫌なものから解き放された気分になるの』。分かったような、分からないような感じで、『そうなんですか』って言ったら、『美鈴ちゃんも来ているもの脱ぎなよ』って洋子さんは気持ち良さそうに伸びをするの。とんでもないことだと思ってイヤイヤって手を振ったのだけど、『服と一緒に美鈴ちゃんの嫌なもの全部脱いじゃえば良いのだよ』っておっしゃるの。そうか嫌なものを脱ぎ捨てれば良いんだって、何となく洋子さんの言っていることが理解できて、おっかなびっくり私も裸になってみたの。最初は恥ずかしかったのだけど、洋子さんは堂々として、『お茶を飲みましょう。美味しいお菓子もあるのよ』って、それから二人とも裸のまま色んなおしゃべりをして、ゲームをして凄く楽しかった。半日ぐらい居たかな、ホント、もう何物からも解放された気分でこの部屋から出たくないってぐらい楽しかった。『帰りたくないです』って言ったら、『大丈夫。次は美鈴ちゃんの部屋で裸になれば良いのよ』と洋子さんは何事もなくおっしゃって、そうか、私一人でも嫌な感情から自分を解放できるのだって気付いたんです。家への帰り道、もう着ている服が重くて邪魔で、早く自分の部屋で服を脱ぎたいとばかり考えて、玄関で『ただいま』って大きな声を出して、2階の自分の部屋に駆け上がったら、急に元気になった娘に母が驚いてました。部屋に入って鍵を閉めて裸になった時の解き放たれた心地好さは今も忘れません。」。
 美鈴の長い話が終わった。美鈴はニコニコと笑っている。「話を聞けて良かったよ。」と真二郎は素直な気持ちを口にした。「俺は君が裸でいることに対して驚いたのだけど、何故裸なのだと君に聞くことを躊躇(ためら)っていた。分かろうともしないで表面的にスタイルを合わせれば君との関係を上手くやれるのじゃないかと考えていた。夫婦になったのだからもう他人行儀なことは止めることにするよ。」と言った。美鈴は、「はい。私も話すことができて良かったです。」と頷いたが、「シンジロウさんは私が裸でいることに驚いたのですか。」と怪訝な顔を向けた。「うん。驚いた。」。「でも、」と口を開いた美鈴を遮って、真二郎は美鈴が新居に越して来た日まで美鈴の裸で暮らす性質を知らなかったことを正直に打ち明けた。美鈴は顔色を変えて、「でも、でも、シンジロウさんは平気な顔をして漬物をポリポリ食べてましたわ。」。「それは漬物が美味しかったからね。」と真二郎が笑うと、「そんな事聞いてません。」。裸の妻が怒るのもなかなかに乙なものだ。「私、何も知らないシンジロウさんに感謝していたのですね。馬鹿みたい。斎藤のおじさまも酷いわ、シンジロウさんが全然構わないって言ってたって、あなたは自分のことすらどうでも良い無精者だから、スズも苦労するぞって笑ってらしたのですよ。皆で私を騙して酷いわ。」と美鈴は怒った。「俺もね、どうして事前に話をしてくれなかったのですか、危うく美鈴さんを傷つけてしまうところでしたよって斎藤社長に詰め寄ったんだ。」と共犯でないことをさりげなくアピールしつつ、「でもね、社長から、美鈴さんは本当に良い娘(こ)でお前を支えてくれる娘(こ)だと思ったからこそ俺はこの話をお前に勧めたんだと言われるとね、結果として君と夫婦になれたのだから良かったじゃないかと思ってね。後は二人で相談してやっていけば良いのだよ。」と真二郎が言うと、美鈴も気持ちを立て直すように、「本当に。何事もこれからですよね。」と呟(つぶや)いた。
 「斎藤社長から、君だけじゃなくて松田の家ではみなさん裸だと聞いたのだけど。社長は裸族って言い方をしていたけれど、そうなの。」と斎藤社長が苦し紛れに適当なことを言ったのかもしれないと疑う真二郎に、美鈴は、「裸族なのかは分かりませんけど、父も母も家では裸でリラックスしてますよ。」と新たに松田家の一員となる真二郎に無情な事実を告げた。「原因は私なんです。母に裸で居るところを見つかってしまって、『あなた何してるの』って、まぁ、そうですよね。母としては変な性に娘が目覚めたのじゃないかって危惧したのだと思います。それから父も巻き込んで見当違いなお説教があったのですけど、イジメの話も含めて私は何と両親に説明してよいのか分からなかったのです。それで洋子さんにSOSをだしたら、洋子さんすぐ家に来てくださって、もう真っ赤になって怒って、『娘さんが学校でイジメられているのを知っているのか。あなた達は娘さんの何を見ていたのか。娘さんが両親に助けを求めなかった理由を理解しているのか。美鈴ちゃんは自力で立ち向かおうとしているのに見栄や外聞で親のあなた達が邪魔をするのか』ってすごい剣幕でまくし立てて、洋子さんが何故私が裸になったのかを説明してくれたのです。イジメのことを知った母は途中で泣き出すし、私も含め家族の修羅場でしたね。それでどうしたことか母も裸で暮らすようになって、多分私を一人にしないという親の責任感が発端だとは思うのですけど、『これ気持ち良いわ。リラックスできるし体形管理もできるのね』と家じゅうに姿見とか置き始めて、これはまだ効果がないようですけど、『パパも脱ぎなさいよ』と無理に勧めて。父は最初は渋っていたのですけど、一人だけ服を着ているのに耐え切れなくなったのか、ある日酔った勢いで裸になったら、『こりゃあ楽だ』とすっかり気に入って結局家族全員裸で過ごすようになったんです。父は裸で暮らしやすいように家も大改造して、季節を通して快適に過ごせるようにしてくれたのです。お風呂も大きくして、『この歳で娘と一緒に風呂に入れるなんて』って感動してますよ。もっとも私は父のご相伴で湯舟に浸かるだけですけど。洗うのを見られるのは嫌ですからね。」。話を聞きながら頷く真二郎の表情が今一つ晴れないのに気付いた美鈴は、「たぶんシンジロウさんは松田の家でどうすれば良いのか不安があると思いますけど、別に他の人が裸になっても自分には何の関係もないでしょう。裸になるというのは自分が心地よくなるためのものですから、シンジロウさんのお考えで好きにしていただいて結構ですよ。父も母も何も言わないと思います。あっ、父はパンツは履いても良いから他は脱いでくれと言うかな。父はまだ裸になることの人目を少し気にしているようなので。でも母は全然大丈夫ですよ。」と真二郎を安心させるために言ってくれたようだが、真二郎は、その義母が大丈夫じゃないのだよなと樽のような敏江夫人の裸を前にどういう顔をすれば良いのか思い悩んだ。

 松田社長が娘夫婦のために建ててくれた家は裸族である松田家宅大改造の英知の集大成のような家であった。フローリングは床暖房に最適とされる天然木の無垢材を贅沢に使用しており、敷居もフラットにして完全バリアフリーを実現していた。将来の介護の為ではなく裸足で過ごすために些細な凹凸を排除したのものであることは言うまでもなかった。また、年間を通して快適な温度と湿度が自動的にコントロールされ、全ての部屋に空気清浄機が設置されて24時間稼働していた。膨大な電気量をサポートするため屋根一体型のソーラーパネルが設置されており、電気代をゼロにすることはできないが基本料金プラスアルファで済むとの松田社長の説明であった。それでも美鈴の掃除と洗濯は徹底しており、掃除機をかけた後にフローリングワイパーでほこりを取り、除菌シートで仕上げ、家具も専用スプレーを用いてこまめに拭き上げていた。ソファーや椅子には専用のシーツを掛け、寝具のシーツとカバーと共に毎日交換して洗濯をしている。そのための大型乾燥機もあった。服を着ていると気にならないちょっとした汚れやホコリも気になるらしく、「これまで病気になったことはないのですけど、裸でいるのだから感染症やアレルギーには気を付けないといけないから。」と言って、真二郎にも家に帰ってきたら直ぐの消毒、着替え洗面が義務付けられた。料理は好きなようで味はともかくもバラエティに飛んだ料理を作ってくれるが、調理をする時は専用のかっぽう着みたいなものを着ている。ただ、油は怖いからと、「揚げ物を食べたいときは外食でお願いします。」と言われていた。
 休日に真二郎がリビングのソファーに座っていたら、美鈴が掃除をしに入って来た。気になった箇所があったのか熱心にフロアーを除菌シートで四つん這いになって拭いている。美鈴は小柄だが、なで肩の女性的な曲線美が愛らしいボディである。小柄な体に不釣り合いに大きく張った丸い尻は思わず触りたくなる尻である。後ろから丸出しの尻を見ていた真二郎は妻の家事と裸の不合理のギャップについ欲情してしまい。昼間だというのに美鈴を強引に拘束しようとした。美鈴は、「あれぇー。」と時代劇の悪代官に襲われるお女中のような声を出して、「ちょっと待ってください。シャワーを浴びてきます。」と真二郎を押し返した。臨戦態勢の真二郎が、「いいよ、このままで。」と言うと、「あのぅ。シャワーで流してしまわないとエッチできる体にならないんです。」と奇妙な事を恥ずかしそうに訴えた。「はぁ。」とまぬけな声を出す真二郎に向かって、「今は服を着ていないだけなんです。お見せするようなものじゃないのです。ちゃんとしてきますからちょっとだけ待って貰えますか。」と美鈴は尻を振りながら慌てて浴室に消えた。確かにこれまでの夫婦の交わりは夜に美鈴がバスを使った後に真二郎が呼びかけ、真二郎のベットに美鈴が滑り込むことで始まっている。真二郎は、美鈴の中では普通の裸とそうでない裸があるのかなと思い巡らせたが、妻が裸でいることを違和感なく受け入れるためには単なる同調や思いやりではなく共感することが必要なのだろうなと息子を勃起させたまま考えた。そのためには妻のことをもっと知らないと駄目らしい。
 普通に生活をする夫婦は見逃してしまうだろう日常のことも、妻が裸で居るというたったひとつの事柄で些末(さまつ)なこととして流すことができなくなり、妻に興味を持ったり気遣ったりしてインパクトのある毎日になるものらしい。会社から帰ると美鈴がパンツを履いていた。珍しいことだと思った真二郎の表情に気付いたらしく、「生理が始まりそうなんです。」と美鈴が教えてくれた。そうかと思ったが、「生理が来るって分るものなの。」とつい聞いてしまって、女性に聞くべきことではないよなと考え直し、「いや、失礼。」と話を終わらせようとしたが、美鈴は気にもせずに、「私の場合は周期もきちんとしているし、生理前には胸が張るような感じがあるので、そろそろだなって分るのですよ。」と教えてくれた。「もし辛いようなら休むようにしてよ。俺はなんとでもするから。」と人並みの亭主みたいなことを言うと、美鈴は、「私は生理痛もほとんどないし、量も少ないんです。ひどい人は鎮痛剤も全然効かないって言うし、寝込んだりもするらしいですよ。心身のストレスも影響を与えるらしいので私は裸でいることが良い効果を与えているのかもしれません。」と言ってから、「でも、サニタリーショーツを履いているのも不格好ですよね。」と姿見に映った自分の姿を確認しつつ、下着を身に付ける方が不健全という不可思議な感性を披露した。「後半はタンポンを使うのでティバーックショーツに変えます。」とこれも奇妙な提案をしたが、これが美鈴の裸での生活に対する気の持ちようからくるものなのか、それとも真二郎に対する気遣いなのか分からなかった。出たとこ勝負で、「それは楽しみだね。」と言ってみたら、美鈴はキョトンとした顔をしたので、どうやらティバーック姿で真二郎を喜ばせようということではないようだった。妻の生理について認知と理解が進むのも美鈴が裸で生活をするからであろう。

 「シンジ、スズに寂しい思いをさせるんじゃないぞ。」という斎藤社長の指示もあり、真二郎は結婚してからは接待ゴルフは仕方ないにしても土日にはなるべく仕事を入れないようにして、極力家にいて美鈴と一緒に過ごすようにしていた。ただ、妻が正月の福笑いのようなご面相であれば真二郎も必死で土日に仕事を振り分けたはずであり、結婚を機に真二郎が妻思いの優しい男に変貌したのではなく、美鈴のおっとりとした性質を心地よく感じ、かつ裸で暮らす妻への興味も相まってのことであった。せめて休日だけでもと真二郎が掃除を始めると美鈴は嬉しそうに後を付いて回り、あれこれと真二郎にダメ出しをしつつ、たわいもない話で笑い声を立てたりした。この頃になると真二郎も服を脱ぐという行為に慣れて来て、特に夜の温度調整は美鈴の裸での就寝をサポートするために設定されているためパジャマで寝るには暑く、真二郎も我慢できず裸で就寝すると実に快適で気のせいか熟睡できたような気がして、習うより慣れろを意識した訳ではないが家の中ではトランクスひとつで過ごしていた。トランクスを脱げない理由はまだ美鈴の裸に慣れず、美鈴の小振りな乳房にあるちょっと大きめの乳輪やプリッとしたお尻を見ると直接的な性欲は起こらずともどうしても半勃起してしまう息子の扱いに困るからであった。昼過ぎに宅急便が届いた。見慣れた制服をモニターで確認して外玄関のカギを解除して荷物を受け取ったのだが、玄関を開けると配送のお兄さんの体が一瞬後ろに引いたことで真二郎は自分がトランクスひとつでいることを認知し、しまったと思い、「悪い。ちょっとリラックスしていて。」と意味不明な言葉で弁明した。お兄さんは、「休日ですからね。」とにこやかに対応してくれたが、心の中ではおっさん勘弁してくれよと思われたなと気まずい気分になったが、同時に美鈴は宅急便の荷物の受け取りはどうしているのだろうという単純な疑問が浮かんだ。美鈴は外出する時は当然のことながら服を着るのだが、家では基本全裸である。その区分の境界線が家の玄関で、この家はしっかりとしたオート門扉とフェンスで外部と庭の境を作り、更に門扉から玄関までも十分なスペースを巧みに与えて玄関で再度鍵を解除するセキュリティになっており、不要な来訪者は顔を合わせることなく対応し排除できるのであるが宅急便だけは玄関を開けて荷を受け取る必要がある。美鈴にどうしているのか聞くと、ミニの花柄のワンピースを見せてくれて、「これをさっと身に付けて応対してます。」と教えてくれた。「さすがに知らない人の前に裸で出るのは抵抗があるよね。」と真二郎は常識的な受け答えをしたつもりであったが、美鈴はちょっと首を傾げて考えてから、「特に抵抗はありませんが。」と言ってから、「相手を驚かせたり不快な思いをさせないように服を着て応対しています。だって女が裸で出てきたら、事件だろうか、変なことに巻き込まれるんじゃないろうかと身構える人もいるかもしれないし。」。言われてみれば真っ当な考えである。「それに、裸を恥ずかしいと思うのであれば、そもそも裸にはなりません。私は自分が良いと思って裸でいるので、配達の方がそれで構わないというのであれば宅急便の荷物ぐらい裸で受け取っても別に何とも思いませんよ。この家は私の、」と言ってから、不味いという表情になり、「私たちのスペースですから。」と最後は消え入りそうな声になった。「すいません。そんな傲慢(ごうまん)なことは考えたことはないのです。つい、私は平気だというか色々説明しようと思って、すいません。」と頭を下げた。今度は真二郎がキョトンとする番だった。この家は松田社長が一人娘の美鈴のために建てたもので、登記上の所有者は松田社長になっている。固定資産税も払わない者は住まわせてもらって申し訳ないと思うだけで、正真正銘美鈴のために作られたパーソナルスペースである。変な気を使う美鈴に何と言おうかと考えて「昼間は君だけのスペースだから正しいのじゃないの。」と笑うと、美鈴はちょっと頷(うなず)いてから、斎藤のおじさまが、「シンジは馬鹿だが懐が深い男(やつ)だから何の心配もいらない。そのままのスズを受け止めてくれる男だっておっしゃってました。」と恥ずかしそうに言った。馬鹿は余計である。
 「君に抵抗がないとしても、男の性質はそれぞれで、例えば混浴の温泉に行くと女性が入って来た時に女性が湯舟に浸かるまでは後ろを向くという混浴のルールを守る男もいれば、裸を見るためだけに温泉に行くような不届きな男もいる。特に君のように魅力的な体だと卑わいな目で見られると思うのだけど。」と真二郎が亭主の心配事として言うと、「魅力的な体だなんて。」と美鈴は照れ、「ヨガの効果かしら、毎日欠かさずやっているのですよ。」と誇らしげであった。当然裸でやるのだなと気になり、「そのうち見せて欲しいな。」と頼むと、美鈴は、「ダウンドッグのポーズがヒップアップに効くらしくて大殿筋を鍛えているのです。」と今からヨガを始めそうな勢いだった。話題がそれたと気付いた美鈴はイヤイヤと手を振って、「確かに厭らしい目で無遠慮にジロジロ見る男(ひと)はいます。でも、私は露出趣味ではなく自分が心地よいと感じるから裸でいるので他人の目が気になる気にならないより、気にする必要はないと思っています。」と言った。真二郎はなるほどとは思ったものの、美鈴はこの家であれ実家であれ裸になるのは基本家の中であるはずである。美鈴が男たちの前で肌をさらす機会はないように思うのだが美鈴は男たちの不躾(ぶしつけ)な視線は体験済のような口ぶりであった。美鈴が混浴温泉の話をしているのかと思っていたら、美鈴が「シンジロウさんも混浴温泉に行くのですか。」と目を輝かせて聞いてきた。「行った事はあるけど、行ったところがたまたま混浴だったというだけだよ。」と女性の裸目的ではないとさり気なく伝えたつもりであったが、それは無視されて、「混浴温泉って泉質が独特のところが多くて、行ってみたいところが沢山あるのです。一人で行ってもつまらないし、友達を誘っても混浴と聞いたら皆嫌がるのですよ。シンジロウさんと行けるのなら素敵ですね。是非今度連れて行ってくださいね。」とお願いされた。どうやら美鈴は混浴は未経験らしい。違和感はあったが過去の体験なのだろうから特に気にする必要もなさそうだと思い直した。真二郎も温泉は好きだし、美鈴と温泉に行くのはかまわないが、本人は良くても美鈴の裸を他の男達からジロジロ見られるのは俺的にどうなのだろうと考えてしまう。もう少し裸族の妻を持つ亭主としての経験と覚悟が必要であった。「君の裸を他人に見られることを僕が抵抗無しに受け止められるようになるにはもう少し時間が必要かもしれないね。」と真二郎が正直な気持ちを言うと、美鈴は、「私の場合は自分の心を立ち直らせるという目的で服を脱いで、そのうち裸でいることが当たり前になったのですけど、でも、シンジロウさんが私の裸を他の人に見られるのが嫌だとおっしゃるのであれば、私も裸で生活する範囲をリビングだけにするとか、極力他人の目に触れないように気を付けるようにします。」とうな垂(だ)れた。「いやいや、別に悪い事をしている訳ではないのでその必要はないよ。多分、僕の慣れの問題だと思うよ。」と真二郎が苦笑いすると、美鈴はしばらく思い悩む諷(ふう)であったが、やがて意を決したように、「今度、シンジロウさんがいらっしゃる時に、私、宅急便を裸で受け取ってみましょうか。それでシンジロウさんがどう感じるかで私もこれからどうするかを決めたいと思います。」ととんでもない提案をしてきた。美鈴を窘(たしな)めるつもりで、「僕が居れば危険はないだろうけど、そんなことをしたら宅配業者の間で噂になって困るのじゃないの。」と真二郎が渋い顔をすると、「大丈夫です。日頃まったく使わない宅配業者がいるので、そこに頼んでシンジロウさんがいる時間に荷物を届けてもらいます。」と真二郎が宅配サービスをやっているとは知らなかった大手運送会社の名を告げた。「それって、自分が自分に時間指定して荷物を送るということ?」。「はい。」と美鈴はにっこりする。美鈴は過去に経験があるのだなと察すると、果たして美鈴はペロリと舌を出して、「これは洋子さんのところで何回かチャレンジした経験があるのです。最初の頃はやっぱり裸になることに恥ずかしさがあって、洋子さんに相談したら、『羞恥心を乗り越える良い方法があるよ』と教えられて、洋子さんの部屋で何回か裸で宅急便を受け取ったのです。最初はもちろん恥ずかしかったのですけど、2回、3回と繰り返すとだんだんと人から見られるのに慣れてくるというか。そうですね、裸になるのはストレスからの解放で快適なのですが、人から見られるというのも結構心地好いのかもって感じて。私、ブスだし、人から注目されることなんてなかったのです。宅急便のドライバーの方たちからはしげしげと見られるのだけど、こういうライフスタイルの人間だって結構理解して貰えますし、『プロポーション良いね。何だか今日得しちゃったな』なんて喜ぶおじさんもいて、恥ずかしいけどちょっと嬉しくなったりもしたのです。」とお嬢様育ちのお人好しの性質も見せた。「ブスだなんて、君はとても可愛い女(ひと)じゃないか。君と結婚できて僕は本当にラッキーだと思っているのだよ。」という真二郎の偽らざる気持ちに美鈴がイヤイヤと照れて顔の前で手を振る姿を見ながら、美鈴からの折角の申し出なのでやってみようかなと真二郎は考えていた。とんでもないチャレンジのような、単なるプロセスのような不思議な心持であった。
 真二郎の休みの日を宅急便の受取日に指定した。「父がお中元で貰った日本酒の詰め合わせを母に送ってくれるよう頼みました。」と美鈴はちゃっかりしたことを言ってリラックスムードであったが、真二郎は朝から変な緊張で落ち着かなかった。「別にシンジロウさんが応対する訳じゃないのでドーンと構えてくださいよ。」と美鈴は笑うが、トラブルが起きたケースをシミュレーションして、やはり美鈴を直ぐに助けられるように服は着ておいた方が良いのではないか、この家は裸族の家ということを証明するために俺も裸でいた方が説得力があるのではないかと色々と考え、服を脱いだり着たりして美鈴に呆(あき)れられていた。配達予定時刻は2時間の枠があったが時間になると直ぐにドアホンが鳴り美鈴が応対すると、「マツダ様、宅急便です。」と応答があり、「はーい。ご苦労様です。今開けます。」と美鈴が門扉の鍵を解除した。「では、行ってきまーす。」と全裸の美鈴はお道化て見事なヒップを振って玄関に消えた。真二郎はリビングのドアの傍に移動して、万一美鈴の悲鳴でも聞こえたら飛び出せるように全裸で身構えていたのだが、「お世話になります。」という美鈴の声が聞こえて、玄関の鍵が開錠されるカチという音に続いて、男のボソボソした声と美鈴の「はい。」。「はい。」と言う声が聞こえるだけであった。そのうち、美鈴の笑い声が聞こえて、被せるように男の笑い声が響いた。しばらくして、「今日はありがとうございました。また、宜しくお願いします。」という男の明るい声がして、美鈴の、「お疲れさまでした。」の声に続いてバタンと玄関が締まる音がした。時間にして1分かそこらだろうが、真二郎にはかなり長い時間に感じ、美鈴の裸を前にした男の笑い声が不愉快であった。「シンジロウさん、荷物運んでもらえますか。」と玄関から美鈴に呼ばれ、慌ててリビングのドアを開けると予想したよりも大きな段ボールを横にした美鈴がニコニコと立っていた。多分、どうでしたかと言うつもりだったのだろう、「どうで、」とまで言った美鈴が、「キャッ。」と小さく驚きの声を上げ、「シンジロウさん、おちんちん。」と目を丸くして真二郎の下腹部を見るので、「えっ。」と視線を落としたら、真二郎の息子は大きくなって鎌首を上げていた。呆然とする真二郎と完全勃起した息子を前にして、「おちんちんどうしちゃったのでしょうね。」と美鈴が首を傾げて不思議そうな顔をした。真二郎は慌てて手のひらで奔放な息子を押さえて、「ちょっとしたアクシデント。」と何事もないような顔を作ったが、不肖の息子が反応した理由は明確であった。真二郎が前を押さえたままリビングに引っ込もうとしたら、「シンジロウさん、荷物。キッチンまで運んでください。」と背中に美鈴の声が掛かった。
 「別に何という事もなかったですよ。」と美鈴は笑った。「確かに玄関を開けた瞬間はお兄さん一瞬怯(ひる)んだ様子で上から下に視線が動きましたけど、後は『受け取りにサインお願いします』のいつものやりとりです。」。「でも、何を二人で笑っていたの?」と真二郎が気になったことを聞くと、「あぁ、あれは、ボールペンを返そうとしてお兄さんが掴み損ねて落としちゃったの。『すいません、緊張してしまって』と言うから、『気にしないで、家ではいつも裸なの』って言ったら、『結構流行っているらしいですね』って言うものだから、『配達をしていて会うことがあるのですか』って聞いたら『おじさんとは時々。でも、あれは単にクーラー持っていなくて暑いからですかね』って言うから笑っていたの。」と美鈴は楽しそうに教えてくれた。他人の目が気になる気にならないより、気にする必要はないという美鈴の裸への信念は本物のようである。「で、シンジロウさんはどうでしたか。」と美鈴は遠慮なしに聞いてくる。「どうもこうも見ての通りかな。」と苦笑したら、美鈴も笑った。「俺が考えるまでもなく息子の方が歓迎してしまった。」と未だおさまる気配の無い息子を指で弾いた。「おちんちんが歓迎してくれるという意味が良く分からないのですが。おちんちんはシンジロウさんとイコールではないのですか。」と美鈴はなかなか機微なことを聞く。「イコールかどうかは微妙なところなのだけど、少なくとも、君が他人の前で裸で居ることに対して俺が平常心ではいられないということと、でも俺と息子はそれを嫌がってはいないということは分かったよ。」と教えてあげると、「そうかぁ。おちんちんが喜んでくれるのなら多分大丈夫ですよね。でも混浴の時は気を付けないと、私以外の女性が入浴していたら勘違いされますよ。」と美鈴は変な心配をした。自分の妻の裸を他人に見せて喜ぶ一定数の亭主たちが居て、その性癖が進むと他の男に妻を抱かせる俗に言う寝取られという行為になるということは真二郎も知識としては知っていた。愛情と嫉妬と葛藤が複雑に絡まるそうした心情も理解できないことはない。事実、宅急便の男の前で美鈴が盛り上がった尻や未処理の陰毛を晒しているという現実を前にして、真二郎は不覚にも息子を勃起させてしまった。夫婦の性の持ち方は夫婦それぞれであろうし、単なる生殖行為ではなく性を楽しみとして工夫する夫婦の方がいつまでも仲良くしているとも聞くが、美鈴が裸で暮らして時に裸体を他の男に晒してしまうことを夫婦の性的興奮やプレイに繋げてしまうことはできないだろう。美鈴が裸になる行為は不快なものから自分を解放する試みで始まり、裸でいること、隠さないでいることの心地よさで裸になっているに過ぎない。美鈴の振る舞いを見る限りにおいて美鈴が裸になることに性的な要素はなく、美鈴が性的に欲情するのは別のプロセスになる。裸族の妻を持つことはなかなかに難しい。「おちんちんにお礼をしなければいけませんね。」と恥ずかしそうに言う美鈴を見て、夫の性的興奮は妻である美鈴にとってさほど不快なものではないのかもしれないとも思う。自然体でいるのが一番良いのかも知れない。少々変わってはいるが、なんとなく夫婦の形を作れそうじゃないかと真二郎は満たされた気分になっていた。

 真二郎が美鈴と結婚して3か月が過ぎていた。いつまでも他人行儀に美鈴のことを『君』と呼ぶのもどうだろうかと美鈴に相談したら、『美鈴と名前で呼んでください』と頼まれたが、それも厚かましい気がして齋藤社長を真似(まね)て試(ため)しに『スズさん』と呼んでみたら、真二郎的にしっくりきたので自然と『スズさん』と美鈴のことを呼ぶようになっていた。真二郎の仕事も一段落して遅ればせながら新婚旅行にも行った。斎藤社長に休暇をお願いすると、「休んでいる暇があるのか。」とまず嫌味を言われたが、新婚旅行の話をすると、「おぅ、スズか。そうか、まだだったな。行って来い。旅行ケチるんじゃないぞ。」と言って、辞退したのだが10万円を無理やり押し付けられた。斎藤社長は本当に美鈴が可愛くて仕方ないらしい。ハワイにでも行こうかと美鈴に相談したら、美鈴が、「行ってみたい温泉がいくつかあるので温泉を梯子して良いでしょうか。」とリクエストしてきたので車で東北の温泉地を巡るという変な新婚旅行となった。美鈴が選んだ温泉には当然のごとく混浴温泉が入っていたがシーズンオフの平日ということもあり、客も少なく二人でのんびりと入浴することができた。「シンジロウさんと一緒に大きなお風呂に入れるのは嬉しいですね。」と美鈴は喜んだ。人数は多くなくても混浴温泉には他の入浴者もいて、美鈴の裸を不躾にジロジロ見る不届き者もいたが美鈴は惜しげもなく尻を振って歩き男達の目を喜ばせていた。話しかけられれば平気に受け答えもするので、真二郎はその度に自分の連れであるアピールをする必要があった。最初の旅館での夕食の際、美鈴は当然のごとく裸で寛いでいたのだが、給仕をしてくれる女中さんの”心得ていますとも”のサインが鬱陶(うっとう)しく、『お仲間の方々はもうお着きなのですか』と聞かれるに至って、もう我慢出ずに、日頃から裸で生活するスタイルで性プレイ的要素はないことを説明するはめになった。女中さんは恐縮して、『うちは混浴なもので、そうした特別な楽しみ方をするお客様も多く見えられて皆さんで楽しまれるもので、つい勘違いをしてしまいました。』と言い訳をして謝ってくれたが、これに懲(こ)りて美鈴は次の旅館からは部屋の中でも浴衣を羽織るようになった。
 新婚旅行から帰ると早速、義父となった松田社長から家に来るように電話があった。『敏江がうるさく言うから』と言い訳をしたが、自分が愛娘に会いたいからなのは見え見えであった。新婚旅行のお土産を渡すために美鈴と訪問したが、真二郎は、自分が修行僧であると言い聞かせ、視界と感情を遮断しまくって実家への訪問をなんとか乗り切った。最初、「お昼にご挨拶だけ。」と申し出ると、「シンさん、何を他人行儀なこと言うて。もう親子なんやから遠慮はなし。それに美鈴が帰ってくるのに敏江が離す訳ないやろ。」と松田社長に言われ、松田の実家に一泊することとなった。裸の松田夫妻が満面の笑みで迎えてくれて、さぁ、入って、入っての代りに、「さぁ、脱いで、脱いで。」と家に迎えてくれた。「パパ。シンジロウさんは私のライフスタイルを理解しているだけで、別にシンジロウさんが裸で生活をしている訳じゃないのよ。」美鈴が嗜(たしな)めても、「何言うとる。婿に来たんやから松田の家のルールに従ってもらわんと困るわ。それにシンさんは儂(わし)が見込んだ男や。どんな難題も眉ひとつ動かさずに捌(さば)く殺し屋みたいな男やで。裸になるぐらいなんでもない男や。」と義父である松田社長は美鈴を不安させるようなことを平気で言って真二郎が裸になることを強要した。「お義父さん、それぐらいで。大丈夫です。大分慣れましたから、脱がせてもらいます。」と真二郎が慌てて言うと、「母さん。聞いたか。お義父さんやて。儂(わし)も念願の息子が出来て嬉しいわ。」と松田社長が豪快に笑うと、「お父さんは朝からシンさんと美鈴が来るってソワソワしてましたのよ。シンさん、シャワーでも浴びてスッキリしてどうぞ遠慮なくリラックスしてくださいな。」と敏江夫人は言ってから、「折角だから夜は皆でお風呂に入りましょう。シンさん、うちの浴室はその辺の旅館に負けないぐらい広いのよ。」と自慢し、オホッホッと樽のような裸を揺らした。青ざめて卒倒しそうな真二郎の横で美鈴が心配そうに顔を覗き込んでいた。敏江夫人の手料理を振舞われて、それなりに美味しかったとは思うのだが視界の端にうろうろする夫人の裸体を消し去る作業に忙しく味わうどころではなかった。変な緊張からか松田社長の話に相づちを打ちつつ飲んでも飲んでも酔いを感じることはなかった。幸運なことに、敏江夫人が早々に美鈴とのおしゃべりに夢中になって風呂の話を忘れてくれたせいで真二郎は早々に寝室に下がって就寝することができた。

 その日は美鈴がボランティアに誘われて隣の市に行くこととなっていた。美鈴は不登校になった時にお世話になった洋子さんと今だにお付き合いがあり、洋子さんがやっているなんとかという団体のお手伝いだと美鈴から聞いており、月に一度か二度頼まれているようであった。美鈴は朝食の準備をして、寝ている真二郎に「お味噌汁は温め直してくださいね。後は冷蔵庫に小鉢をいくつか入れているので宜しくお願いします。」と声を掛けて泡だしく出て行った。真二郎は前日の接待疲れもあり昼までは寝かせてもらおうと二度寝を決め込んでウトウトしていたら美鈴からの電話で起こされた。時間を見たら10時半であった。「どうした?」と寝ぼけた頭で聞くと、「シンジロウさん、申し訳ありませんが南署まで来ていただけないでしょうか。」と美鈴からいきなり言われた。「ミナミショ?」。「警察です。××南署です。」と言うので、ハッとして、「どうした。事故か。大丈夫か。」と飛び起きると、「事故ではありません。私は大丈夫ですがちょっとややこしいことに巻き込まれてしまって。詳しい事はこちらで説明しますが、警察の方がシンジロウさんからお話を聞きたいそうです。」と申し訳なさそうに言った。いずれにしても警察に行くしかなさそうだった。「分かった。すぐに行くから。」と慌てて顔を洗って着替えながら、警察が俺に話を聞きたいとなると多分政治家や役人絡みの贈賄(ぞうわい)の疑いということになるのだろうとは思ったものの、本人への出頭要請もないままに妻の美鈴経由というのが妙だったし、美鈴の声も切羽詰まったようには聞こえなかった。斎藤社長に電話を入れておくべきかどうか迷ったが、美鈴本人のトラブルの可能性もあることから、取り敢えず警察に行ってからの出たとこ勝負だと覚悟を決めてタクシーを呼んだ。
 南署に着いて、受付で名を告げると中年の制服警官が階段を降りて来て松田真二郎さんでしょうかと確認されたので名刺を出すと警官も名刺を出した。名刺には三田村某、××南署生活安全課警部補とあった。贈賄であれば捜査二課が担当するはずなのでこの時点で自分への贈賄の疑いという懸念は消えてひとまず安堵した。ただ生活安全課という部署には違和感が残った。「妻から電話があったので来たのですが、何があったのですか。妻は何処でしょうか。」と勇んで聞くと、「立ち話も何なので上でご説明します。」と三田村警部補はのんびりした口調で言い、階段を昇り始めたので真二郎も後に続いた。小部屋に案内されたが、「申し訳ありません。こんな部屋しか空いてなくて。取り調べではありませんので。」と特に申し訳なさそうでもなく警部補が言って、「早く説明いただけませんか。」と真二郎が被せるのに、「痴漢です。」と警部補は苦笑した。「家内が痴漢?」と驚くと。「いえ、奥様は被害者です。」と言葉を切り、「今は婦人警察官がケアしていますが、行為に及んですぐに痴漢を捕捉しましたので奥様のショックも最低限に留めることが出来たのではないかと我々も安堵しています。」と真二郎を安心させてからことの顛末を説明してくれた。痴漢常習で目を付けていた男がいて、今朝私服警官を配置して様子を伺っていると電車内で実行に移ったので迷惑行為防止条例違反で現行犯逮捕した。その時の被害者が美鈴だったのだが、連行した男は痴漢行為ではなくSNSで連絡を取り合った上での合意に基づく遊びであったと主張をしている。その証拠に女性には下着を付けないで電車に乗るよう指示しており、女性もその指示を守って下着を穿かずに指定した時間の指定した車両に乗っている。なお、お互いに面識はなくSNSでのやり取りも全て削除したと主張しているとのことであった。「奴(やつ)の苦し紛れの嘘であることは確かなのですが、女性警察官が奥様に確認したところ下着を穿(は)いていないのは事実ではあるが、SNSで男と連絡を取ったことはないとおっしゃる。まぁ、奥様の話の通りだとは思うのですが、何故下着を穿かないのですかと聞くと日頃から穿いていないと説明なさるだけなのです。」と言ってから、警部補は少し慌てて、「誤解なさらないように。奥様からその話を聞いたのは婦人警察官で私ではありません。」と付け加えた。「確かにそういう方もいらっしゃるとは思うのですが、立場上といいますか奥様の話を一方的に鵜呑みするわけにもいかないので、念を入れて、『日頃から下着を身に付けないことを証明してくれる方はどなたかいますか』と聞くと、まずお友達の名前をあげられたのです。」。真二郎はピンと来て、「洋子さん。」と思わず話を遮って漏らすと、三田村は、ホゥと感心した顔をして、「戸塚洋子さんをご存じでしたか。」と聞くので、「お会いしたことはありませんが、家内から時々彼女のことは聞いています。」と言う真二郎に警部補は頷いて、「戸塚さんはご友人ですので、できれば生活を共にするご家族の方から話を聞かせていただくことは出来ませんかとお願いしたところ迷ったご様子でしたがご主人の名前を出されましたので、ご連絡をお願いしたところです。」と言ってから、「無論、被害者である奥様を疑ったり、困らせようという意図はまったくなく、あくまでもけしからん男を逮捕するための手続きとご理解いただけると助かります。」と警部補は恐縮する素振(そぶ)りを見せた。全貌が見えた真二郎は頷いて、「妻は裸族です。」と堂々と事実を告げた。
 「奥様は下でお待ちです。」と告げる三田村警部補に「お手数をお掛けしました。」と頭を下げて、真二郎が一階に降りると美鈴が婦人警察官とにこやかに話をしていた。真二郎を認めると美鈴はびょこんと立ち上がり、深々とお辞儀をして、「シンジロウさん。ご迷惑をお掛けしました。」と謝った。「大丈夫なの。」と聞いて美鈴が頷(うなず)くのを確認してから、ここで何かしらの苦言を言うとDV亭主と婦警から疑われる可能性もあるなと危惧した真二郎は、「誤解が解けて良かった。」となるべく穏やかに言ったつもりではあったが、美鈴は不思議そうな顔をして、「誤解?。何の誤解ですか。」と聞くので、そうか痴漢男の言い分は美鈴には何も伝えられていないのだと気が付いた。何と返そうかと困っていたら、「松田さん。下着を身に付けないというのは今の社会では色々と誤解を生んでしまうのです。今の社会が正しいのか正しくないのかは私には分かりませんが、今回のように女性がリスクを伴うことにもなりかねないので、どうか外出する際はなるべく下着は身に付けるようになさってください。これは警察というよりも私からのお願いです。」と婦人警官がサポートしてくれた。美鈴はしばらく下を向いていたがすぐに顔をあげて、「そうですね。皆さんにご心配を掛けてしまったのは事実です。理解されなくても良いというだけでは駄目なのかもしれません。私も今後外出する際には下着を身に付けることとします。」と言って、美鈴が常にノーパンで外出していたという事実を初めて知った真二郎を驚かせた。美鈴は婦警に向かって、「あの方はどうなるのでしょうか。」と多分痴漢男のことを聞いた。「現行犯で逮捕されたので罪に問われることは間違いないと思いますが、私にはどの程度の罪になるかは分かりません。」と親切に答える婦警に対して、「あの人(かた)にもなんだか悪い事をしてしまいました。」と美鈴はお嬢様育ちのお人好しの性質を警察署でも炸裂(さくれつ)させていた。
 美鈴は家に帰るタクシーの中でソワソワしていたが、家に着くと裸になる前に電話を掛けてしきりに今日のボランティアに参加できなかったことを謝っていた。多分相手は洋子さんであろう。美鈴は外出から戻ると、『あぁ、しんどかった。』と裸になるのが最優先なのであるが、それに優先するのが洋子さんへの連絡らしい。美鈴が欠席したことで先方に何らかの迷惑を掛けたのであれば致し方ないとは思ったが、真二郎には少し気を使いすぎるような感じを受けた。電話を終えた美鈴は裸になってリビングのソファーに座ってから、「シンジロウさんの休日をこんな形で潰してしまい申し訳ありませんでした。」と深々と頭を下げた。「それは良いのだけど、痴漢の被害者はPTSDとか被害の後にも苦しむことがあると聞くのだけど本当に大丈夫なの。無理してないか。」と真二郎が心配すると、美鈴はうん、うんと首を振って、「そりゃ怖かったですよ。何が起こったのか分からなかったのです。突然大勢の男の人達が私の方に唸(うな)りながら突進してきて、潰されるって思ったら隣にいた女の人が私の盾になってくれて騒ぎの中から私を引っ張りだしてくれたの。それがあの婦警さんだったのです。男の人は可哀そうに潰されちゃって『うーん、うーん』って唸っていた。私本当に何が起こったのか分かってなくて、婦警さんと一緒に次の駅からパトカーに乗って警察署に連れていかれて、その時に痴漢を逮捕したことと、私を助けてくれたのが婦警さんだったって教えてもらえたのです。」。と真二郎の心配をよそに美鈴らしいピントの外れた体験談を話をした。「痴漢行為はどうだった。酷いことはされなかったの。」と聞くと、「私は大丈夫。」とケロッとして、「あっと言う間の出来事で、あれ?、触られてるのかな?、お尻触られてるよな、これ絶対に触られてると思った瞬間にガーって大集合で痴漢さん押し潰されちゃったの。だから酷い事されたのは私じゃなくて痴漢さんの方。鼻血も出して痛そうだった。婦警さんは女の敵ですよって憤慨していて、確かに痴漢は良くないことだけど、ちょっとやり過ぎじゃないかと思った。」と美鈴独特の感性を示した。「婦警さんから色々と聞かれたのだけど、パンティを穿いていない理由について聞かれたので、理由も何もいつも穿いていないからですと説明してもなかなか理解して貰えずに苦労しました。最後に警察の方からご家族に説明しなければいけないので呼んでいただけますかとお願いされたので申し訳ないとは思ったのですがあなたに電話してしまいました。」と事の顛末を話してくれた。美鈴から話を聞いて、美鈴を痴漢の被害者として傷つけないように丁寧に対処してくれた警察には感謝しかなかった。美鈴はおっとりとした優しい性質(たち)であり、痴漢行為よりも目にした鼻血を出して抑え込まれた痴漢に同情を寄せるのは美鈴らしいのだが、そうした美鈴の態度が痴漢の主張をあながちホラとは決めつけられない状況を生んでしまったのだなと理解した。もっともその最大の原因は美鈴がパンティを穿いていなかったということであるが、その事実を知った痴漢が歓喜して周囲に対する注意力が散漫になったのかも知れないと考えると真二郎も苦笑するしかなかった。
 「外出の時にいつもパンティを穿いていないとは知らなかったな。」と冗談めかして聞くと、「スカートを捲って見せる必要もないですからね。」と美鈴は生真面目に答えて、「真冬は別ですけど、下着は肌の締め付けが辛いので余程のことが無い限り身に付けません。ブラで形を整えるほど胸も大きくないのでインナーを着ればプラも必要ないし、服を着ている限り誰にも分かりませんもの。」と真二郎が知らなかったことを教えてくれた。「それでも今回のようなこともあるからね。」と美鈴が警察署で婦警に言った、『今後外出する際には下着を身に付けることとします』という言葉を前提にして真二郎が注意を促すと、「痴漢ですか?」と美鈴は手を顔の前で横に振って、「今日みたいなことはもうないですよ。今日の痴漢さんは多分相手を間違えちゃったのです。そもそも私は男の方にセールス以外で声を掛けられたこともないのですよ。」と明るく言ってから、「婦警さんが親身になって心配してくれたのでああは言いましたけど。」と美鈴は考える素振りを見せ、「説明するのはちょっと難しいのですが、他人との関係で裸になるならないを決めることはありません。ただ、これから先子供が生まれたりして自分を取り巻く生活環境が変わると思いますし、シンジロウさんは他人ではなく私の家族です。家族から言われたら私も真剣に考えたいと思います。」と美鈴は言って真二郎の目を見た。美鈴の裸になるライフスタイルへの信念は確固たるものがある。今日のトラブルはトラブルとして夫としてはしばらく美鈴を見守るべきであろう。盾になるべきところでは喜んで盾にもなろうと真二郎は心に決めて、「俺から言うことは何もないよ。ただ何も言わないからといってスズさんを突き放しているのではないことは忘れないで。」とだけ言った。美鈴は、「シンジロウさん。」と目に涙を溜めて、「ありがとうございます。」と震える声で頭を下げた。
 「あのぅ。」と美鈴は言い難そうに話し始め、「シンジロウさん、警察から洋子さんの名前を聞きましたか。」と聞いてきた。「あぁ。聞いたよ。スズさんが最初に連絡を取ろうとしたお友達が戸塚洋子さんだって、警察からは最初名前は出なかったけど、俺が『洋子さんですか』と反応したら、ご存じでしたかという程度だけどね。」。美鈴は頷くと、「婦警さんから私が日ごろから下着を身に着けないスタイルであることを話していただける人はいませんかと聞かれて、思わず洋子さんの名前を出してしまいました。」と申し訳なさそうに言った。「俺と話しをしたのは生活安全課のおじさんだったけど、彼が言うには、なるべく家族の人ということで俺に電話してもらったということだったよ。」と真二郎が伝えると、「すいません。まずシンジロウさんにお伝えするべきでした。」と美鈴は変な気を使ってきた。「いやいや、スズさんが外出時に下着を身に着けないということは俺は知らなかった話なので、洋子さんが話をしてくれれば良かったのだろうけど、警察としては関係がはっきりしている方を選んだということだと思うよ。」と気に病む程のことではないと伝えた後、「今日のボランティアも洋子さんのお手伝いだったのだろう?」とこれまで特に関心もなかった美鈴のポランティアについて聞いてみた。「はい。洋子さんは大学を出てから福祉関係の仕事をなさっていたのですが、しばらくして友人たちと介護施設で働く人たちをサポートするNPO法人を作ったのです。ご存じではないと思いますが介護業界は人手不足で長時間労働が横行している施設も多くあります。職場を越えて介護士さんたちの相談に乗ったり、職員さんが気兼ねなく休みが取れるように、毎日は無理だけど時々は働けますという方に登録してもらって施設や職員さんをサポートしてもらう組織を運営なさっています。」。と詳しく教えてくれた。「スズさんはそのボランティアしているの?」と聞くと、美鈴は笑って、「私、福祉短大を出ていて介護士の資格も持っているのですよ。」と真二郎が知らなかった事実を告げて、「でも私はその法人に介護士登録はしていないので実際に施設で働くことはありません。私は洋子さんが主催するプログラムのお手伝いを時々やっているだけです。」と続けた。「それは知らなかった。」と美鈴が介護士の資格を持っていることにまず驚いて、「そういえば、お見合いをする前にスズさんの経歴とか何も教えてもらえなかったし、見合い写真すら見せてもらえなかったな。マツダ工務店のお嬢さんとだけ教えてもらって、ノコノコ見合いの席に行ったのだよ。」と苦笑すると、「シンジロウさんのことは齋藤のおじさまが良く話していたので私は存じ上げていました。実はシンジロウさんの顔も知っていたのですよ。」と美鈴は意外なことを言った。「えっ、いつ。」とビックリすると、「工務店の創立30周年のパーティでした。」と教えてくれた。確かに何年か前にマツダ工務店の創立パーティには齋藤社長と出席した記憶があるが誰と会って何を話したかなんて何も覚えてはいなかった。「覚えていないのは当たり前ですよ。父から、『彼が玉木君だよ』と教えてもらっただけですから。齋藤のおじさまは非常識な奴だっておっしゃっていたのでヤクザさんみたいな怖い人かもって期待していたら、なんだ普通の男(ひと)じゃないのってガッカリしました。」と美鈴は笑った。「それは酷いな。」と真二郎も苦笑すると、「私はずっと結婚するつもりはないと両親に言っていて、お見合い写真も撮ってはいないのです。そんな私が急にあなたのところへならお嫁に行っても良いと言い出したので、両親が歓び驚いて慌てて齋藤のおじさまに相談をしたら、おじさまは『悪くない話だ』と両親に勧めて、後はトントン拍子でした。私は、お見合いをして、あなたが『こんなブスはお断りだ』と言われることだけが不安だったのですよ。」。美鈴は可笑しそうに話した。「結婚するしないはその人の人生感だろうけど、何故スズさんは俺となら結婚しても良いと思ったの?。一目惚れということはないだろうし。裸で過ごすライフスタイルに理解を示したというのは後の話だよね。」と真二郎としては当然の疑問に首をかしげると、「一目惚れだったのかもしれません。」と美鈴は真二郎をまっすぐ見つめた。「シンジロウさんにお願いがあります。」。美鈴は突然改まって、「洋子先生と一度お会いいただけないでしょうか。」と多分美鈴が日ごろ呼んでいるであろう呼び方で洋子さんの名前を出した。「実は、洋子先生から一度シンジロウさんとお会いしたいとお願いされているのです。」。「俺と?。何か話でもあるの?」。美鈴から不登校になった時に洋子さんに助けられた話は聞いていたので、美鈴にとって洋子さんは恩人であり、なおざりにできない関係だというのは理解できるが、その洋子さんが亭主の俺に会いたいというのは妙な話であった。「洋子先生は私の結婚式に出席なさっていないので、シンジロウさんがどういう人なのか一度見ておきたいということだと思うのですが。」と美鈴の話も今一つ要領を得なかった。ただ、別に拒否する理由もないので、「じゃあ、三人で食事でもしようか。」と誘うと、「洋子先生はシンジロウさんと二人きりで会いたいとおっしゃっています。」と美鈴は首を横に振った。
 迷ったのだが、真二郎は仕事で使う料亭で洋子さんと会うことにした。この時点で真二郎には、洋子さんの話はなんとなく予想が付いたというか、面識のない自分に二人だけで会いたいというのは彼女は誰にも聞かれたくはない話をしたいのだろうなと覚悟はしていた。そしてそれが美鈴の話であることは間違いなかった。洋子さんが落ち着いて話ができるよう静かな場所を選んだつもりだった。『個人的に使いたいのだけど』と女将に言うと、女将は『あら、めずらしい』と驚いて、『客は女だ』と告げると太ももを思い切りつねられたが、『女将が想像するような粋なことで時には使わせてもらいたいものだよ』と真二郎が苦笑すると、女将は頷いて、『お料理の方はおかませください』と客の年齢を確認した。
 「こんなお高いお店でなくても喫茶店でもファミレスでも良かったのですが。あのぅ、ちゃんと半分はお支払いしますので遠慮なく請求してください。」とかしこまって申し出る洋子さんに、「まずはお楽になさってください。」と膝を崩すように薦め、「この店は会社というか社長が接待に使っている店で支払いは会社の方に回しますのでお金の方は心配しないでください。税金を払うぐらいなら接待で使えというのが弊社社長の口癖ですから。」と嘘を言うと、洋子さんは安心したのか、「私がお願いしたのに、申し訳ありませんと。」と小さく頭を下げて、「私、こんなお店初めてですの。調度品にもお金を掛けているのでしょうね。」と部屋を見回して、床の間の掛け軸に目を止めた。「さぁ、その方は私はさっぱりでして。」と真二郎は苦笑しつつ、さりげなく洋子さんを観察した。美鈴が中学生の時に大学生だったということ聞いていたので、多分自分と似たような年齢であろう。美人の部類に入るのだろうが面長の大人っぽい印象の顔は緊張しているせいか笑顔がなく冷たい感じがした。「本日お会いしたいとお願いしたのは、」と言いかけた洋子さんを手で制して、「せっかくなので、食べながら話をしませんか。ここの料理は女将が客の年齢に合わせて工夫して出してくれます。手を付けないと女将もがっかりします。」と冗談ぽく言って、「お酒も少しどうですか、私は緊張しているので飲みながらでないとちゃんと話を聞けないような気がしています。」と笑うと、洋子さんも、「はい。私も緊張しています。そうですね、お酒をいただきます。私結構いける口なのです。」と笑顔になった。見かけによらず割と気さくな女(ひと)らしい。仕事以外で女性と話をするのはどうも苦手で、ましてや同年代の一般女性と普通に口が聞けるのか不安だったが、互いに酒を飲みながらであったら大丈夫そうだった。洋子さんはプロ野球球団がある地方都市の出身で、小さい頃からその球団の大ファンだったと教えてくれて、同じく小さい頃に在京球団のファンだった真二郎と過去に活躍したマニアックな選手の話で盛り上がった。「お正月の特番にはその選手もテレビに出てかくし芸とかやっているの。かくし芸を練習するくらいなら野球の練習をして代打でヒットの1本でも打てよって怒ってました。」。気づいたら洋子さんは手酌で飲み始めていた。さすがに自分でいける口だと言うだけはある。洋子さんが真二郎のことを『ご主人』と呼ぶので、「ご主人はやめて貰えますか。まだ主人らしいことは何もしてないのです。苗字で呼ばれるのも養子に入ったばかりの身ですので、どうも落ち着かないのですが。」と言うと、「では、何と呼ばせてもらえばよいでしょうか。」と洋子さんが面白そうに聞くので、「普段はシンジロウという名前で呼ばれるのことが多いのですが、親しい人というかガサツな人は短縮して『シンジ』や『シン』と呼んでますね。」と言うと、洋子さんは、「それじゃ別の名前じゃないですか。」と笑って、「私は『シン』にします。『シンさん』で良いですか。」と言うので、「じゃあ、私も遠慮なく『洋子さん』と呼ばせてもらいます。」と真二郎も笑った。かなり打ち解けた雰囲気にはなったが、洋子さんは会ってから一度も美鈴の名前を口にしてなかった。
 「シンさん。」と洋子さんが姿勢を正したので、さて何を言ってくるのかと真二郎は身構えた。「実は、美鈴にシンさんとの結婚を勧めたのは私なの。」と意外な話を始めた。「美鈴からシンさんの話は時々聞いていた。変な人がお父さまの友人の会社にいるのだって。騙されて作った借金を返すために喜んで保険を掛けてマグロ漁船に乗ろうとしていた頭のおかしい人だって興味津々だった。他人のことも自分のことも興味がなくて滅多に笑わない人らしいって。」。真二郎はイヤイヤと手を振って、「それはうちの社長が適当に言っている話で、社長がマツダ社長の家で飲んだ時に面白おかしくスズさんに話しただけだよ。喜んでヤクザのマグロ漁船に乗る馬鹿はいないよ。」と反論したが、「へぇー。シンさんは美鈴のことスズさんって呼ぶんだ。優しい呼び名。私も使わせてもらおうっと。」と洋子さんは真二郎の言い分には関心がないようだった。「美鈴は私の恋人だったの。」と洋子さんは唐突に言ってから、探るようにしばらく真二郎を見て、「驚かないんだ。つまらないな。」と薄笑いを浮かべて、「美鈴が何か言ったの?。」と続けて聞いてきた。真二郎がかぶりを振って、「初めて聞いた。」と告げると、「やっぱりシンさんって変だわ。美鈴が言っていたよ。悠然(ゆうぜん)としている男(ひと)だって。」。真二郎の驚愕(きょうがく)する顔を期待していたのか洋子さんは不満そうだった。真二郎とて確信があった訳ではないが、美鈴を見ていてなんとなく違和感を感じていたのは事実であり、女性同士の恋愛というのは真二郎には分からないが、互いに三十何年生きてきた過去をほじくり返しても仕方のない話であった。「スズさんを抱いた時に違和感はあった。処女じゃないのになんだか男慣れしていなくて、その時には単に経験が少ないだけかなとも思った。スズさんから裸になることの理由を聞いた時に、洋子さんから助けられた話を聞いて、それこそ自死しかねないその時の状況から考えると洗脳ではないけれど、もっと洋子さんに対する依存があって良いのにスズさんは結構自立しているというか、それなりに自分の考えを持って自己主張もできている。それで、なんとなくね。まぁ、フラットというか安定した関係を洋子さんと維持してきたのだろうなと。別に決めつけた訳じゃなく、なんとなくそうなのかなとは思っていた。」となるべく淡々と話をした。洋子さんは手酌でグイグイ日本酒を飲んでいたが、「つまらない男だな。」と独り言ちして、「誤解して欲しくないのは、美鈴はねビアンじゃないの。優しい娘(こ)だから私に付き合ってはくれたのだけど、知り合いの赤ちゃんを抱っこしてあやしている姿を見ていると、あぁ、お母さんになりたくてたまらない娘なのだなって分かるの。ここで美鈴を開放してあげないと子供を産むには難しくなるなと思うとね。だから、美鈴との恋人関係は解消した。美鈴は泣いて嫌だとは言ったけど、男と女の関係とは違って女同士はセックスだけが目的じゃないからね。別に金輪際会わないということもないし、友人としての関係は続くのだからって説得したらやっと納得してくれた。私は赤ん坊は煩(うるさ)いだけで嫌いなのだけど、美鈴の赤ちゃんなら抱っこできそう。だから、美鈴の話に唯一出てくる男、シンさんと手っ取り早く一緒になればと勧めた。シンさん、分かる?。私だって辛かったのだよ。」と洋子さんは最後には涙声になった。
 二号徳利に替えてからもう3本倒しており、洋子さんは4本目の徳利を摘まんで真二郎に酌をしながら、自分の杯にも酒を満たしていた。二人でもう一升以上楽に飲んでいる勘定である。何かいける口だ、ウワバミである。洋子さんは美鈴との関係を解消したと言ったが、多分美鈴の半生は洋子さん抜きでは語れないものであり、美鈴が真二郎と家庭を持つという社会的枠組みに自分を置いても、現時点美鈴自身は洋子さんとの関係を断つつもりはないだろう。美鈴にとっては洋子さんとのセックスはビアンである洋子さんの庇護の下にいるための手段であり、さほど重大なことではなかったはずだ。洋子さんは『恋人関係』と言ったが、美鈴にとって大事だったのは、洋子さんの羽の下にいさえすれば外敵から身を守れる安心できるポジションであり、恋人でも妹でも良かったはずである。これから美鈴は子供を持つことになるだろう。そんなに遠い将来ではない。自分の翼の下で子供を守る立場に変わるのである。その時に洋子さんとの関係をどうするのか、俺との関係をどうするのか。奇妙な三角関係、その時には四角ではあるが、その関係をどうするのかは、その時の美鈴が決めるしかないのである。美鈴と結婚してから真二郎は驚かされることばかりであるが、そのどれをとっても特に不快と思うことはない。裸族の妻を持つということはこういうことなのかという新鮮な驚きで美鈴との生活を送ることができていた。
 「洋子さんはスズさんに何のボランティアをさせているの?」。これは亭主として聞いておくべことだろう。「させているって人聞き悪いなぁ。自主的にやるからボランティアなんだよ。」。洋子さんの口調もラフになっている。「洋子さんがやるから、スズさんだって参加しているのさ。別にスズさんがボランティアそのものに意義を感じている訳ではないと見ているのだけど。」と言うと、「あんたって本当に性格悪いね。人の心理分析して何が面白いのだろう。」。『シンさん』が『あんた』に変わってしまった。「別にボランティアを辞めろとスズさんに言うつもりはないさ。スズさんが俺と結婚するひとつの条件がボランティアを続けさせてくださいということだった。それは洋子さんとの関係を結婚してからも続けさせてくださいというスズさんの願いだったということが今日良く分かった。でも、俺はあの時『わかった』とスズさんと約束したんだ。俺は妻と一旦交わした約束を理屈を付けて違(たが)えるような無責任な亭主じゃない。」。洋子さんは美鈴が出した結婚条件の話に感動したのかハンカチで目を抑えて、「美鈴は小動物のような気の小さい娘(こ)で、弱い生き物は相手が自分の敵か味方か本能で分かるっていうけど、美鈴はシンさんがそういう男だって分かっていたのだろうね。」と『あんた』を『シンさん』に戻した。「ただ、今回の痴漢騒ぎの時にスズさんが外出の時には下着を履かないということを初めて知った。俺は驚くとともに、当然のことながらスズさんはこれに懲りて今後は下着を履くのだろうなと思ったが、スズさんは、他人との関係で裸になるならないを決めることはない。ただ、俺は他人ではなく家族。家族から言われたら私も真剣に考えたいと言った。そんなスズさん対して、俺から言うことは何もない。ただ何も言わないからといってスズさんを突き放しているのではないと俺は格好(かっこ)付けた。俺は裸族ではないが、裸族の妻を持つ亭主だ。妻が裸でいることで抱えるリスクは全て把握しておきたい。」と真二郎が理屈を付けると、「わかったよ。屁理屈合戦じゃあんたに敵わないことはよーく分かった。」と洋子さんは4本目の二号徳利を倒して、「無いよ。」と真二郎に告げた。
 「私は今ある試みをやっていてね。シンさんはお年寄りの介護施設って行ったことある。」という洋子さんの質問に、「幸運なことにない。」と真二郎が答えると、洋子さんは舌打ちして、「介護施設はお年寄りの健康状態や経済状況に応じて色々なタイプに分かれるのだけど、介護業界は介護保険で賄われているので、余程のお金持ちの有料ホームを除き慢性的人手不足と低賃金による職員の負荷が問題なの。職員さんはもっと一人一人のお年寄りに寄り添ってお世話をしてあげたいのだけど人手の関係で限界があって、人が生きていく上で最低限の食事と排泄の世話で手一杯の施設が多いの。それでね、どの介護施設でもそうなのだけど、食事と排泄の次に求められる介助って何か分かる。」。「お風呂かい。」と真二郎が言うと、洋子さんは大きく頷いて、「分かっているじゃない。」と誉めてくれた。「施設でも介護サービスでも入浴介助は欠かせないものなのだけど流れ作業になっているのが実態で男性職員が女性入居者の入浴介助をすることも多い。これは仕方がないの。浴室は事故の起きやすいところでお年寄りが転倒してケガでもしたら施設の責任となってしまうから。でも、お風呂って本来もっとのんびりと楽しむ所でしょう。だから介護目的じゃなくてお年寄りと一緒にお風呂に入ってみたの。最初は別に深い意味はなかった。あるご婦人が男性職員がお風呂場にいるのが嫌でお風呂は遠慮してますって言うから、じゃあ、私と一緒に入ろうかぐらいな感じでやっていたら、その方ちょっと施設で問題があった方だったのだけど、施設の方から『すっかり変わられて皆さんとも仲良くなってますよ』と感謝されたの。これちょっと面白いなと思って、知り合いの施設に頼んでお年寄りと一緒にお風呂に入っていたら、どの施設でもお年寄りたちに良い変化が現れるのね。穏やかになったり、会話が増えたり。施設やご家族にもすごく喜んでもらえたの。でも、一人だと多くの方のお世話まではできないから、職員さんに一緒にやりましょうと呼びかけても『業務マニュアルにないし、裸になるのはちょっと無理です』って敬遠されて、それで介護士の資格を持っている美鈴にお願いしたら『良いですよ』って簡単に引き受けてくれたの。」。洋子さんの言いたいことは理解できたし、美鈴のお手伝いも立派なことだとは思ったが、真二郎は一点引っ掛かることがあった。「その試みって男性相手にもやっているの。」と聞くと、「もちろん。美鈴はお爺ちゃん達に大人気でね。皆さん美鈴が来る日を心待ちにしているよ。私しかいないと洋子さんだけかってガッカリした顔になるの。蹴っ飛ばしてやろうかって話よ。美鈴とお風呂に入ると少し認知が入って暴力的な問題行動があるお爺ちゃんがすっかり温和になったって施設の人喜んでいたよ。『そんなことすると美鈴さんが一緒にお風呂に入ってくれませんよと言うと本当に改まるのです』って職員さんビックリだよ。」。「でも、年寄とはいえ、男なのだから危ないことはないの。」。と真二郎が心配すると、「これまでに特に大きな問題は起きてないね。職員さんも一緒に居るし、お爺ちゃん達はさすがに男終わっているでしょう。オッパイやお尻を触る不届き者は時にいるけど、私は手をひっぱたくしね。美鈴は優しいから怒りもしないけど、だから美鈴は人気があるのかもね。」と洋子さんは大きな声で笑った。どうやら美鈴は混浴のベテランだったらしい。混浴温泉での美鈴の堂々とした振る舞いにも納得がいった。美鈴が嫌でなく、危険がないのであればとやかく言う話でもないだろうが、男の職員もいるだろうし妻の裸が衆目に晒されるのは亭主としては何とも言えない気持であると同時に、不遜(ふそん)なことではあるが宅急便の時に味わった奇妙な興奮も感じていた。
 「もう一軒。私の行きつけの店に行こうよ。」と騒ぐ洋子さんをタクシーに押し込み、女将から倒した徳利の数に驚かれて真二郎は帰路についた。酔い覚ましのために缶コーヒーを買って駅まで歩いた。美鈴は寝ないで俺の帰りを待っているはずだ。洋子さんがとんでもないウワバミであったことの他に何を美鈴に言えば良いのだろうかと悩んだ。洋子さんが言ったことをそのまま伝えても、結局は俺がどう思ったのか、これからの夫婦の関係をどうするのかを絶対に聞いてきて、迂闊(うかつ)な返答をしたら美鈴を悲しませることになりそうだった。とんでもない女ウワバミに付き合わされてひたすら眠かった。『詳細は洋子さんに聞いてくれ』で済ましたどうだろうかというアイデアが浮かんだ。それから、『明日から子作りに励もう』と言うのが今の自分の気持ちにピッタリくる気がした。優しい美鈴はそれで納得してきっと寝かせてくれるだろう。でも、『今日からにしてください』と裸の妻からお願いされたらどうしよう。栄養ドリンクも飲んで帰るかと真二郎は思い悩んだ。

― 妻は裸族 (完) ―
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