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序章

魔王がやってきたようです

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ゴオオオオオオォォォンッ!


「っな!」

「きゃあ!?」


 激しい轟音と共に床が大きく揺れた。

 慌てて座っていた椅子に掴まりやり過ごそうと試みる中で、家具や調度品が床とぶつかり合うけたたましい音がそこらじゅうに響き渡った。

 その時に頭上で大きく揺れた影に気付いて顔をあげられたのは偶然だった。

 真上に吊るされていた燭台の豪奢なシャンデリアが揺れ、ぱきん、と小さな音が聞こえる。幻聴ではない。小さなガラス片を皮切りに、シャンデリアが落下するのが見えた。

 ひどく、ゆっくりとした光景。


「アリア!」

「え? っ、ぁ」


 目を見開いて迫るシャンデリアの下で固まったアリアへ手を伸ばしたのは反射だった。

 椅子を蹴り倒し、テーブルを踏み越え、アリアを抱き抱えてその場を飛び退く。さして力を込めていない軽い跳躍ひとつで、広い部屋の壁際まで後退していた。

 滑らかに行われた一連の行為に一番驚いたのは間違いなくわたしである。


 なんだ今の。


 甲高い音と共に落下したシャンデリアはガラスのテーブルとわたしたちが座っていた椅子を巻き込んで砕け散り、足元にまで破片が散らばっていた。

 腕の中で未だ固まっているアリアの体は両腕に収まってしまうくらい小さくて、抱えていても腕に疲れが残らないくらい軽い。

 ふざけて同級生をお姫様だっこしたらプルプル震えて抱えるだけで精一杯だったのに。人ひとり抱えて飛び退くなんて芸当わたしが出来るはずもないのだ。

 これは、初代勇者の力だ。


「あ、ありがとうございます」


 震えるアリアの声が遠い。

 ようやく、わたしはわたしではない人間の体の中にいるのだという現実を呑み込めた。

 気持ち悪い。

 自分ではない体。ガラス片に反射する見知らぬ男。今のわたし。濁流のように押し寄せてくる違和感に耐えかねて、アリアを抱えたまま膝をついて背中を丸めた。


「クロノス様?」


 大丈夫ですか、と。

 躊躇いがちに背中を撫でられる感覚。じんわりと人肌の温度が、背中から、アリアを抱える腕から広がり、少しだけ平静を取り戻した。

 まったく大丈夫ではないが「大丈夫」と嘯いてゆっくりと立ち上がる。

 揺れはおさまっていた。


 なんだったんだろう、とアリアと視線を会わせるのと、面談のために人払いをされていた部屋の扉が開かれるのに時間差はなく、鎧の騎士が飛び込んでくる。


「姫様! ご無事で……っ!?」


 そして騎士は部屋を見てピタリと固まった。正確には私たちを見て。

 そこでアリアを抱えたままのことに気付き慌てながらもそっと彼女を下ろそうとし、彼女も床に立とうとしたが目の前で先程の轟音と揺れ、そしてシャンデリアが目の前で落下した動揺が抜けてないのかガクリと膝が折れ、ふらついたのを見て背中を支えた。

 アリアの深緑の目が何かを伺うようにわたしを見て、僅かに揺れたのを見て、とりあえずひとつ頷けば、彼女も小さく頷き返す。

 そして、飛び込んできた騎士に向き直った。


「何があったのですか? 報告をなさい」

「っは!」


 硬直していた騎士は勢いよく膝をつき頭を垂れる。


「魔王……孤城の魔王が、姫を迎えに来たと……!」


 ……魔王?

 魔王ってあれか。勇者が倒さなきゃいけないやつか。遭遇早くない? こういうのってもっと段階踏んでからラスボス戦挑むものだしわたし戦う気ないし強制敗北イベントを現実で発生させるのってあんまりにあんまりだと思う。

 呆然としているのはわたしだけで、アリアと騎士はどことなく事情を察しているらしい。

 アリアは小さく唇を噛んで、騎士はハッとした顔でわたしへ視線を投げ掛ける。


「……あなたが、今代の勇者様なのですよね?」

「やめなさい、この方は……」

「お願いいたしますっお助けください! 我々には、どうすることも……勇者様ならば!」

「やめなさいと言っているのです!」


 すがりつかんばかりの騎士へ、アリアはピシャリと叱責を放つ。

 彼女の体はわたしの手を離れ、支えられずとも凛と背筋を伸ばして立っていた。


「この方は、邪教徒どもにより巻き込まれた被害者であり、我らを救う責務などありません。勇者ではなく……今は、我々が守るべき民のひとりです」


 そして、アリアは踵を返し、わたしへ向き直り眉尻を下げ困ったように微笑んでいた。


「申し訳ありません、クロノス様。あなたへ、最後までお力添えできず」

「……魔王が、迎えにって……」

「婚姻を、申し込まれていたのです。わたしが妻となれば、孤城の魔王はエルメリアへ積極的な敵対を行わない、と」


 その言葉に思わず絶句する。

 それは政略結婚というやつなのだろうが、なんだその積極的な敵対を行わない、などという曖昧な条件。

 せめて世界の半分くらい寄越しとけよ魔王。


「待遇について、とかは」

「……クロノス様に、これ以上の心労はかけられませんわ」


 微笑みを崩すことなく、騎士へ向き直る。

 わたしと同じくらいの歳で、とても小さくて軽くて、なのにこんなにもしゃんとしている気高い背中。部屋を出ていこうとする彼女の腕を思わず、掴んで引き留めた。

 驚いたように目を見開いたアリアが振り返り。

 そして。


 二度目の轟音がすぐ近くから鼓膜へ叩き付けられた。


 ゴオオオオオオン、と太鼓のような音と突如吹き荒れる突風。わたしは咄嗟に踏ん張れたが、勢いに押されたか騎士があっけなく吹き飛び壁に叩き付けられる様が視界の端に写る。

 瓦礫や細かい石が共に散らばり、アリアを引き寄せ身を屈めてやり過ごした。


「迎えに来たぞ、我が姫君」


 地を這うような低いしわがれた声。

 壁と、天井の一部が吹き飛び大穴が空き、青空が垣間見える。

 それを背景にして、澄み渡った空に不釣り合いな異形が、いた。

 2メートルを簡単に超える巨体、全身が鱗と甲殻に覆われ、二本足の爬虫類のようで、四肢は太く、手足には鉤爪。そして頭部に二本の巨大な角がある、白い怪物。太い尾が、ゆらりと揺れた。

 ずん、とそれが歩を進めるだけで、重たい音が響く。


「……孤城の魔王」


 心臓が不自然なほど跳ね上がり、息が詰まる。

 冷えきった熱情が背筋を駆け上がり、警笛が魂を震わせる。

 わたしの中のあらゆるものがわたしに訴える。

 ……こいつは、わたしの、宿敵だ。


「なるほど」


 ギョロり、と縦長の瞳孔をした金色の眼球が、わたし勇者を写した。


「貴様が、我らの敵か。勇者!」


 まるで糸に引っ張られるように、体が動いた。

 急速に移動した視界。引き摺られる手足。

 魔王へ急接近し振り抜かれた拳を、その巨体に見合わない素早い動きで回避し、それを認めたわたしの足が振り抜かれる。

 だが、それも腕で防がれ、弾き飛ばされた。

 蹴りつけた足が痛い。僅かにふらついた隙に、魔王の腕が迫る。身をよじるがかわしきれず、鉤爪に肩口を引き裂かれ、ぱっと血飛沫が舞う。

 傷口があつい。

 いやだ、いたい。こわい。やだ、やだよ、やめて。にげたい。

 頭のなかはそんな泣き言で一杯になってるのにそれは声に出ず、体を引きずる糸は止まらない。

 跳躍し拳を振るう。受け止められ、逆に腕を捕まれた。そのまま乱暴に振り回され投げ飛ばされる。

 空中で身を捻り、壁に足をつき、再び跳躍。

 迎撃するように振り抜かれた拳をかわし腕に手をおき身を跳ねさせ背後に周りと間髪入れずに蹴りを放とうとすれば尾に足を払われ転倒した。

 体重を乗せた魔王の足が振り下ろされ、転がってそれから逃げる。落とされた足の威力に耐えきれず、その部分から床がひび割れた。食らっていたら内臓がどうなっていたか、考えるだけでぞっとする。


「ふん、興醒めだな」


 魔王の言葉に、プツリと自分の中の糸が切れて力が抜けて膝をついた。

 アリアが慌てて駆け寄ってくる。

 心臓がうるさい。指先の震えが止まらない。


「貴様、本当に勇者か」

「待ちなさい、孤城の魔王!」

「アリア、下がって」

「クロノス様!?」


 静かな目で見下ろしてくる魔王の前に、わたしを庇うようにアリアが飛び出してくる。そんなアリアの腕を引いて下がらせた。

 こわい。こわい。こわい。

 心のなかはそれ一色なのに、心臓よりも脳よりも深い根幹に叩き付けられる熱はやまない。

 それに押されるように震える体に力を入れて魔王の前に立ち塞がる。

 多分、これは、初代勇者の訴え。


「そう。わたしが、今代勇者だ」


 魔王の口端が、僅かに上がるのを見た。

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