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序章

彼女は守ることを決めました

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「それでこそ、我らが宿敵だ!」


 ぐわっと見開かれた眼は爛々と輝いている。獰猛に歪められた口から牙が覗き、吼えるような言葉に呼応するように、ぶわりと巨体を包む鱗が逆立ち膨張するように小刻みに震え、影が大きくなりはじめた。

 第二形態になるの早くない? なんて文句を言えそうにはない。

 拳を握り、構え、待って素手ってキツくない? と心許ない気持ちで視線を下げた。初代勇者の拳は大きく硬いが多分あの鱗や甲殻を粉砕できないと思う。でも、やるしかない。というよりやらされる。

 ぞわり、とした感覚が背筋を駆け上がり、糸が指の先にまで絡み付く。

 引き摺られてしまえば楽なのに、恐怖心だけが糸に抵抗していた。その怯えの心すらも縛り付けられそうになったとき。


「待ちなさいと、言ったはずです!」


 小さな背中が、金色の髪を揺らして視界を塞ぐ。両腕を大きく広げてわたしと魔王の間に立ち塞がっていた。

 闘気を隠す気もなかった魔王が静止した。すん、と糸が弛み思わず吐息を吐き出す。

 そして我に返った。

 飛び出してきたのはアリアだ。狙われてる張本人だ。危ない、下がってと再び引き戻そうとしたが、それよりも前に鋭いアリアの声が再び響く。


「わたくしの前で、これ以上の横行は許しません」

「……いいだろう。我が妻の願いだ、聞き入れぬわけにもいくまい」


 魔王の膨張し始めていた肉体が元のサイズに縮む……といっても巨体は巨体であるため威圧感は相変わらずだが、今にも飛び掛からんと持ち上げていた鉤爪の手はすっと下げられている。

 今になって、裂かれた傷が痛みを主張し始めた。

 溢れる血液の生ぬるくぬめついた感触の不快感に顔をしかめながら、じっとアリアと魔王の様子をうかがう。


「さて……では行こうか、姫君」

「…………」

「誓い通り、勇者が喚ばれるまでは待ったのだ。それとも、来ることをやめるか?」

「…………っ!」


 わたしの肩を裂いた手をアリアへ差し出す魔王の態度は、先程より柔らかいものに思えたが、それが見せかけのものであることなどわたしでも分かる。

 ここでアリアがその手を拒めば、なにが起きるか。

 アリアが行けば"積極的な敵対を行わない"が、行かなければ積極的な敵対行為が始まる。

 この世界の現状は知らないが、肩を跳ねさせたアリアを見れば、その結果、どのような事態が起きるのかは予想できた。

 選ばせているようで、選択肢などない。

 

 嗚呼、全くもって!

「反吐が出る」


 吐き捨て、アリアとアリアへ向けられていた魔王の視線がこちらへ向けられる前に目の前のアリアを飛び越えるように床を蹴り天井へ手をつく。肘を曲げ、伸ばす勢いで踵を魔王の頭部目掛けて左足を叩き付ける。

 当然防がれ、ビリビリとした痺れを伴う痛みが走った。

 反撃されるよりも前に右足でもう一度魔王へ蹴りを放ちその反動でアリアの傍まで後退し、アリアを抱えてもう一度後退。魔王と距離をとる。


「……貴様、なんのつもりだ」


 険呑とした魔王の眼と視線がかち合うが負けじと睨み返す。

 中二女子のキレやすさと情緒不安定さを舐めないで頂きたい。


「わたしはっ女を力付くで抑え込もうとするような奴、大っ嫌いなんだよ!」


 這い上がっていた熱に魘されたのか、とても腹が立った。それはもう先程までの恐怖心が吹き飛ぶ程度には腹が立った。

 頭に血が上るとはこう言うことか。


「ク、クロノス様!?」

「アリア、言ってやれ。お前なんか好みじゃないからお断りだって!」

「い、いいんです! わたくしが、わたくしが嫁げば孤城の魔王は……」

「そうだよ! 魔王であることしか取り柄のない爬虫類の進化系なんてごめん被るって! 言ってしまえ!!」

「でも……そんなこと、したら……」


 腕の中で縮こまりながら今にも泣きそうなアリアに、思わず追い討ちをかけていた。

 魔王は黙って事の成り行きを見守っている。


「それともアリアはアイツが好み!?」

「それはあり得ませんっ!」

「ありえないのか!?」

「むしろなんで可能性があると思った!?」


 恐らく反射的にであろう、アリアの絹を裂く悲鳴のような拒絶の言葉にわたしより先に魔王が反応した。その爬虫類面でこの芸術品の人形のような完璧な愛らしさを備えたアリアと吊り合うと思うのは自意識過剰が過ぎるので魔王は今すぐ鏡を見て絶望すべきだ。

 分かりづらいがややショックを受けたような魔王に僅かなりとも溜飲が下がり、少しだけ落ち着いた。


「アリア、わたしはすっごく臆病なんだよ。魔王と戦うなんて本当は怖くてしたくない。だから、今が最後のチャンス」

「チャンス……?」

「今なら何でも出来るくらいに頭に血が上ってるから。……今、アリアが助けてっていうなら、わたしは魔王と殴り合える」


 アリアが顔をあげた。

 深緑の瞳をこれでもかと見開いて、じわじわと瞳は濡れ、目尻からポロポロと涙が零れ落ちる。血の気の引いた唇で、何かを言おうとしては飲み込む。

 そりゃ怖かっただろうさ。あんな怪物の妻になれだなんて。そうしないととても恐ろしいことがおこる。それを防ぐべき召喚の儀も横槍が入って失敗して。

 怖いだろうさ。魔王に逆らえばどんなことが起こるか。さっきの殴り合いはどんなに贔屓目に見てもわたしの劣勢だったし。

 わたしだって怖いさ。


「くろのす、さま……」


 震える舌足らずな声ですがり付くアリアを見下ろす。

 わたしは残念ながらヒロイン志望だったのだけど。


「わたくしたちを、たすけていただけるのですか?」


 この娘のヒーローになら、なってやろう。


「応ともさ」


 アリアへ笑いかけ、魔王を睨み付ける。

 じっと腕を組んで仁王立ちする魔王から、肌に突き刺さるような怒気を感じた。表皮が凍るような心臓をわし掴まれるような感覚。

 これが殺気と言うものなのか。喉がひくつきそうになるが、強がって歯を食い縛る。

 むしろ頭が冷えて丁度いいわ、と拳を向け、いつでも殴りかかれるように構えた。

 しかし、予想に反して魔王はくるりと踵を返し、ぶち破られた壁の穴へと進んだ。


「1ヶ月待とう」


 ぞっとするほどに低い声だ。

 溢れんばかりの怒気を押し止め、もし殺意が物理的に突き刺さるのならばわたしはきっと串刺しにされていると想像できるほどの、濁流のような感情が叩き付けられる。


「姫君とふたりだけで俺様の城へ来い。貴様を嬲り殺してやろう。……そこで再び、姫君の返答を聞いてやる」


 アリアの返答なら今さっき叩き付けたろ爬虫類、と野次を飛ばしたくなるのは流石にぐっと堪えた。

 猶予があるなら貰っておきたい。


 「ファヴニール!」


 魔王の怒号と同時に暴風が吹き荒れ踏ん張って耐える。顔面に叩き付けられた砂埃から腕で顔を庇った。

 太陽の光を遮る影。

 赤い竜が翼を広げて降下してきた。

 その巨大さといったら。崩れた壁から突っ込んできた頭だけで魔王の倍はある。

 その巨頭に魔王は当然のように足をかけ登り、それを認めると赤い竜は再びゆっくりと上昇を始めた。


「死ぬ準備をしておくがいい」

「わたしが死んでもアリアの心が靡くことはないと思うけど?」


 脅し文句に鼻をならして煽る。

 竜の翼がはためくたびに砂埃が舞い、ゴロゴロと瓦礫が崩れる音がする。

 よく晴れた青い空の向こう側へと赤い影が消えるまで、その場でじっと睨み続けていた。
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