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プロローグ 仕事辞めて実家に帰る

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「……辛い」

 会社のデスクでパソコンと睨み合い、キーボードを打ちながら呟く。
 眠くて頭が痛い。身体も怠い。
 まともに睡眠時間がとれていないせいで、ずっとこんな調子だ。
 大して給料がいい訳でもないのに、どうしてこれ程までに働かなければならないのだろうか。

「おい、安国! こっちの書類も頼む!」

 心の中で愚痴を吐きながらキーボードを叩いていると、上司が俺の机にドンッと書類を置いてきた。

 今の俺の仕事分は明らかに一人でこなす量ではない。それなのにこんな量の仕事を追加されてはとてもじゃないが回らない。
 というか今でもサービス残業をしまくっても追いついていない状態なのだ。絶対に無理に決まっている。

「え、ええ? すいません、さすがにこれ以上は……もう手一杯で」

 ふざけんな! 他の奴にやらせろなどと言えないのが社会人という生き物であって、俺は遠慮がちながらも無理だと述べる。

 すると、上司の表情が真顔になり、明らかに怒気のようなものを放ち出した。

「はぁ? そんなの皆同じだろうが。ったく、これだから若い奴は性根がなってないんだよ。ほら、文句言わずにやっとけよ! 週末までだからな!」

上司はそう怒鳴り、何ら取り合うことなく去って行った。

 おいおい、週末って今日水曜日だぞ? つまり期限は明後日までではないか。なんと横暴なスケジュールか。これは今日も会社に泊まり込みかな。
 俺は深くため息を吐いて、画面に向き直った。
 そして理不尽なまでの仕事量を押し付けてくる上司への、怒りをぶつけるようにキーボードを叩いていく。

 労働基準法を守らないのは当たり前。パワハラなんて当たり前。
 少ない給料に、終わらない仕事、etc……。
 社会人になって四年目だが、相変わらずこの会社は酷い。
 友人に会社での出来事を話すと、全員からブラックだから辞めた方がいいと言われる。

 俺だってそんな事言われなくても辞めたいに決まっている。
 だけど、俺が田舎から上京し、都内の大学に進学して受かったのはこの会社だけ。
 百に届くような数の企業に申し込んだが、そのほとんどが落とされてしまったのだ。
 あの時の自分の全てを否定されるような思いをもう一度するのは嫌だ。それだったら、変わらないままでも、給料が安いままでも今の会社で働いてお金を貰っている方がいい。

 それに俺は、親の反対を押し切って上京してきたのだ。
 今さら実家に帰ることなんてできない。
 そう、だから俺はここで働き続けるしかないのだ。

 ここがブラック企業だとわかっていても……。




 木曜日の二十三時。
 さすがに三連続会社の泊まり込みでは身体がもたないので、俺は終電ギリギリの時間に会社を出る。

 ここから電車に乗って家の近くに着くのは二十四時くらいか。
 これなら今日は七時間も寝ることができるな。
 たった七時間の睡眠。人間にとっては当たり前のことなのに、そんなことで喜びを覚えている自分が虚しく感じられた。

 それでも今は、この疲弊した身体と心を休めたい。
 深く考えると色々と限界に達しそうなので、そのことだけを考えて電車へと乗り込む。
 ギュウギュウの電車で揺られて乗り継ぐこと一時間。ようやく俺は自分の家へと帰ってきた。
 とはいっても、一人暮らしの賃貸。俺のような安月給のサラリーマンが住める部屋など狭いものだ。

 靴を脱いで、カバンを放り投げるとベッドへと倒れ込む。
 スーツの上着が皺になるなどの弊害があったが、そんなことはどうでもよかった。
 明日も朝から会社か。上司に押し付けられた仕事がまだ終わっていない。
 くそ、あれさえなければ昨日だって泊まり込みする必要もなかったというのに。

 会社に行きたくねえ。心の底からそう思える。

 それでも行かなければいけないのが社会人というもの。
 俺はため息を吐いて現実逃避するように目を瞑る。
 すると、上着のポケットの中でスマホが激しく振動した。

 まさか上司からの呼び出しとか、追加の仕事とかではないだろうな?

 なんとなく見ないと安心できない気がしたので、目を開けて恐る恐るスマホを確認。

『安国香苗』

 画面に表示される文字は、実家にいる母からの着信であった。

 上司からの呼び出しではないことにホッとしたが、こちらの電話も中々対応が難しいものであった。
 また俺の心配でもしているのだろうか。母からはよく心配のメールや電話がくるが、忙しさと怠惰さにかまけて俺は中々返信できないでいる。
 いや、それは嘘だ。単に情けない状態を察せられることを嫌ったからだ。
 その事に業を煮やして母さんは、深夜に電話という強硬手段を使ってきたのだろう。
 
 俺はどうするか迷った挙句、放置することにした。
 そのまま目を瞑って寝入ろうとするも、中々母さんは諦めない。
 もう一分以上経過しているというのに、いつまでコールし続ける気だろう。
 ブーブーうるさくて敵いやしない。いっそのこと電源を切ってしまおう。

 そんな事を思ってスマホを手に取ると、画面には母さんの名前だけでなく、その顔写真まで目に入った。

 ……確か、上京する前に親の顔を忘れないように自分の顔写真を設定してくれたんだっけ。四十五歳という年齢ながら、父さんとは正反対に機械に強い人だったよな。

 そんな事を思い出していると、なんだか無性に母さんの声が聞きたくなった。
 やっぱり、ずっと何も言わないのは悪いよな。これだけ心配してくれているんだし。
 俺は意を決してスマホの通話ボタンをタッチする。

「……はい」
「やっぱりまだ起きていたのね。それに酷い声してる」

 久し振りに聞いた母さんの声は随分と柔らかく、それでいて優しかった。
 二徹して今にも眠りたいだなんて、情けない状態を言いたくないがために俺は差しさわりのない嘘を装う。

「……今、何時だと思ってるんだよ。今から寝るところだったんだ」
「家にいる時は、もっと遅くまでゲームしていたじゃない」
「今は社会人なんだから、昔のようにはいかないよ」
「あら、そう? それで社会人としての生活はどうなのよ?」

 そんな台詞を言った瞬間、母さんに会話を誘導されていたことが気付いた。
 そういう事を聞かれたくなかったというのに。相変わらず母さんは強かだ。

「……ちゃんとやってるよ」
「そんなわけでないでしょ。ちゃんとやってる社会人はお盆や年末くらい親に顔を見せるものよ」
 
 母さんに即座に言われて俺は思わず閉口してしまう。

「そ、それは、父さんと母さんの反対を押し切って出て行ったからで……」
「私と父さんが、そんなことで本気で怒っていると思うの? 何度もメールや電話してるじゃない」

 それもそうだ。父さんや母さんは上京することに反対したものの、最後にはちゃんと見送りにきてくれたし、定期的に連絡もくれる。本気で怒っていないことは明らかだった。

「…………」
「いい加減意地張るのはやめなさい」

 そう、母さんの言う通り、俺が勝手に意地を張っているだけ。

「で、今はどんな生活しているの。ちゃんと教えてちょうだい」

 ここでは建前や嘘だっていらない。
 久し振りにかけられた母さんの優しい声に、俺は涙ぐみながら上京してからの生活を語った。




「……そう」

 最近までの状況を語り終える頃には、深夜の3時であったが、母さんは眠気や退屈さを一切出さずに耳を傾けてくれた。

「で、忠宏は今の状況に平気なの?」
「平気なわけないよ。身体だってボロボロだし、給料は安い。パワハラだってあるブラック企業だし、辞めたいに決まってる」
「じゃあ、辞めたらいいわ」

 俺の心中を吐露した言葉に母の返した言葉は簡潔だった。

「……え?」
「仕事なんて辞めたっていいわよ。仕事と自分。大事なのは自分の身体に決まってるじゃない。仕事を辞めて実家に帰ってきなさい」
「い、いや、仕事を辞めるって、その後とか……」
「仕事仕事って、忠宏はそんなに仕事が好きなの?」

 戸惑いながらも言うと、母から呆れたような声音が返ってくる。
 いや、そう聞かれたらほとんどの大人はNOと答えるだろう。

「いや、好きじゃない。というか大嫌い」
「だったら、辞めたらいいじゃない」
「でも、辞めてからどうするの?」
「しばらくは実家でゆっくりしながら考えればいいんじゃない?」

 いいんじゃない? って、随分と適当なことを言う母親だ。

「別に人生仕事だけじゃないんだから、ゆっくり過ごす時間があってもいいじゃない。世の中には働かずに世界旅行してる人、バイトしながら好きな事に打ち込んでいる人……そんな人がたくさんいるわ」
「いや、でもそういう人は、何か自分の目標があったり……」
「そうかしら? 大半の人は自分の時間を自分のために使っているだけだと思うけど?」

 母さんのスマホから送られてきた画像を見ると、そこには学校が同じだった知人が世界一周旅行をしている写真をネットでアップしていた。
 彼の実家は特別裕福ということもない、うちと同じ農家だ。親からの金銭的な支援はあっても、それは微々たるものであろう。

 俺と同じ二十六歳だけど、働かずに生きて楽しそうにしている。
 他の画像では社会人を辞めて漫画家を目指しているものや、何となく小説家になった友人。
 仕事を辞めて、何をするでもなく休活なるものを送っているのびのびとした時間を送っている写真が見える。

「別にやることがなかったとしても、これから探せばいいだけじゃない。ずっと働かなくちゃいけないなんてルールなんて何もないのよ?」

 確かにそれもそうだ。人生というのは誰もが同じではない。
 ニートだろうが、社会人だろうが、変わった職業についていようが。それもその人の人生。世の中の枠組みに押し込んで、社会人だから会社に通勤して働かなければいけないなんて絶対のルールなんてないんだ。

「うん、わかった。仕事を辞めて実家に帰るよ」
「ええ、待ってるわ」

 母さんの声を聞いて、通話を切ろうとすると付け加えるように声が聞こえてくる。

「あ、でも何十年も寄生してニートするのは辞めてね? 私と父さんのお墓ぐらい立派なものを作って欲しいから」
「はいはい、わかってますよ。そっちで過ごすのは休活みたいなもんだから」
「休活?」
「仕事を辞めて、しばらく働かない期間を目いっぱい楽しむ……みたいな?」

 休学活動とも微妙に違うので、自分の中で作った言葉だ。
 しかし、母さんは気に言ったのかクスクスと笑っていた。

「ふふ、いいわね休活。それじゃあ、帰ってこれる時期がわかったら教えてね」
「わかった。それじゃあお休み母さん」
「ええ、お休み」







 久し振りに心身共に回復させた俺は、翌日の金曜日に仕事を片付けて上司に辞表を提出した。
 俺の上司は「このくらいの事で辞めたら、社会で通用しない」などと言っていたが、俺が右から左に聞き流し、辞める決意は変わらないと言うと、引き継ぎ作業を終わらせてから退職が決まった。

 無職になることに恐れを抱いていた俺であったが、母さんと電話して吹っ切れたせいかそんな思いを抱くこともなく、晴々とした気持ちであった。

 そうやって賃貸を引き払ったり、不要な物を処分しながら、退職する頃には季節が夏になっていた。
 キャリーケースとリュックに荷物を入れ込んだ俺は、四年間住んでいたボロアパートを出て、都内へと向かう。
 そこから新幹線や電車、バスを乗り継いで、およそ六時間。

 俺は、ようやく生まれ育った故郷に帰ってきた。

 誰もいないバス乗り場で、一人だけ降りる。
 汚れた時刻表を確認してみると、次にバスがやってくる時間は二時間後。

「相変わらずここは酷い田舎だな」

 都内と比べることすらおこがましいレベルだが、その不便さが何故だが嬉しく、懐かしく思った。
 そんなことを再確認しながら、俺は車一つ通ってもいない道を歩く。
 どこからともなく蝉の鳴き声が聞こえてき、照り付ける日の光が俺の肌を焼く。

「都内よりは涼しいけど、やっぱり夏だから暑いな」

 コンクリートに囲まれていないので、暑さはマシであるが暑いものは暑い。

 事前に母さんに帰ってくることは伝えている。車で迎えに行ってあげようかとも言われたが、景色を見たいがために遠慮したのだが失敗だったかもしれない。
 デスクワークばかりの社会人に、荷物を持ちながらの真夏の散歩は酷だな。
 俺は急ぐように緩やかな坂道を下り、田んぼに囲まれた道を延々と真っ直ぐに進む。
 ポツポツと見える友人の家や、よく通っていた駄菓子屋が懐かしいが、残念ながら寄り道する体力はない。

 少し残念ではあるが、明日からは時間は余る程にあるのだ。気が向いた時に思う存分顔を出せばいい。
 そう思いながら歩いていくことしばらく。

 俺は懐かしき実家へとたどり着いた。

 畑と木々に囲まれるようにひっそりと佇む、木造式の二階建て。
 見慣れた家を見ると、実家に帰ってきたということを痛感する。
 しばらく玄関先で家を眺めていると、誰かがちょうど玄関から出てきた。

「あら、お帰り忠宏」
「ただいま、母さん」

 出てきたのは俺の母さんである香苗。
 その顔は、電話で表示される画像とほぼ変わらぬ若々しいものであった。
 変わった点といえば、長い黒髪をセミロングになっていることだろうか。
 確か四年ぐらい経っているはずだけどな……。

 俺が不思議に思っていると、母さんの後ろから紺色の甚平を着た男性が出てきた。
 安国繁勝。俺の父親だ。

「おうおう、見事に東京から逃げ帰ってきたな。バカ息子」
「こら、お父さん。久し振りに帰ってきてくれた息子に、その言葉はどうなのよ?」

 挑発の笑みを浮かべる父さんのお尻を、母さんが手で叩いた。

「……おい」
「なによ?」
「なんでもない」

 父さんは反抗的な視線を向けるも、母さんが鋭い視線を向けると黙り込んだ。
 夫婦の力量関係が変わらないのも相変わらずらしい。
 父さんはどこか気まずそうにしながらこちらを見てくる。
 東京で働くことを一番に反対していたのは父さんであり、社会人になる前に衝突したっきりだ。メールでぶっきら棒な連絡こそきたものの、それに返信したこともない。

 正直言って、父さんと顔を合わせるのはかなり気まずい。
 どうしたものかと悩んでいると、父さんが口を開いた。

「……そんなところで立っててもなんだ。とりあえず上がってけ。ここはお前の家なんだ」
「…………あ、うん」

 母さんの言っていた通り、父さんが本気で怒っていなかったことがわかりホッとした。
 そして、父さんの口から出た最後の言葉がとても嬉しかった。

「ただいま、父さん」
「ああ」
「もう、ああじゃないでしょ」

 母さんが微笑みながら言うと、父さんは恥ずかしさを誤魔化すように急いで家へと引っ込んだ。
 そんな父さんの行動が面白くて、俺と母さんは笑いながら家に入った。
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