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丙の巻 草原の群狼
参ノ参 競争、その中の現在、過去、未来
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最後の勝負は、馬追いの遠比(とおくらべ)という形式になる。
要するに競馬の長距離レースだ。
「このさき、きたのほうにずーっといったらな、ちんこいわってのがあるんだ」
地面に枝でガリガリと絵を描く、倭吽陀(わんだ)。
男子にはありがちな、卑猥な単語が発せられた。
まさに名前の通りの、男性器に似た棒状の長い岩であるという説明だ。
「剣岩(つるぎいわ)だって、何度言っても聞きゃあしないんだよ、この子」
女中に支えられて、包屋から外に出た邸瑠魅(てるみ)が呆れたように笑う。
二人の出発と帰着を見守るために、痛む体を押して出て来たのだ。
とにかく、地から天に勃(た)つようにそびえる、名物の岩があるらしい。
「その岩まで走って、先に戻った方が勝ちということか」
シンプルで分かりやすい、良い勝負だと斗羅畏は思った。
わかりやすく単純なものを好む傾向が、斗羅畏にはある。
斗羅畏の言葉に頷き、邸瑠魅は勝負条件の補足情報を告げた。
「剣岩には、毎年この時期にシロツバメって鳥が巣を作り始めるのさ。岩までたどり着いた証拠に、白い羽を持ち帰って来るんだよ」
「なるほど、不正がないようにということだな」
行ってもいないのに岩まで行ったというような、イカサマの自己申告は許さないという話である。
子どもと大人の、いわば遊びのような競争なのに。
勝負は勝負、真剣でなくてはならないという哲学が、この地に住むものたちにはあるのだ。
それを知ることができて、斗羅畏は少し嬉しくなった。
「よーし、つぎはまけねーからなー!」
仮に馬競争で勝ったとしても一勝一敗一引き分けで勝負はつかないのだが、倭吽陀は気にしていない。
最終レースの勝利者が、今日の勝利者なのだと思い込んでいて、なにも疑問はないようだ。
「用意はいいかい?」
震えを抑えて、邸瑠魅が手を高く掲げる。
倭吽陀も斗羅畏も自慢の愛馬にそれぞれまたがり、開始を知らされるのを真剣な目で待った。
「行きなーっ!!」
邸瑠魅が大声でスタートの合図を切り、袖を振り下ろした。
「どっりぁあああー!」
「せいっ!」
倭吽陀と斗羅畏、二人を背に乗せた馬が弾丸のように飛び出して行く。
「いけいけいけー!」
「こ、こいつ……ッ」
普段は体験しないような、鍛え抜かれた馬の、更に全力疾走。
尋常を超えた速さの中で並走しながら、斗羅畏は驚きに舌を巻いた。
大人でももてあますような、立派な体躯、筋骨隆々を誇る牡馬を、倭吽陀は完璧に操っている。
いや、家畜を操っているという表現は、この場合において的確でないかもしれない。
まさに人馬一体、鞍の上に人などいないように、のびのびと思い切りよく。
倭吽陀の馬は、他者に使役されているという次元を超えていた。
馬自身が今、心から力いっぱいそうしたいのだと言うかのように、全力でその脚を前に進めて、風を切って疾駆していた。
「負けるな、離されるぞッ!」
斗羅畏が馬の胴を足で叩き、ハミをおっつけて加速を促す。
戌族(じゅつぞく)には馬に鞭を打つ習慣がないので、座って接している足腰と、手に握るハミ、そして声だけが馬とのコミュニケーションの手段である。
しかし、倭吽陀の駆る白馬――ひょっとすると、覇聖鳳(はせお)の愛馬の子や孫かもしれない――に、喰らいついて行くので精一杯だった。
確かに体重が軽い子どもの方が、乗せて走る馬の側にとって負担は少ない。
しかしそんな些細な数値上のハンデではないと、斗羅畏は思った。
「馬に、愛されているのか」
嫉妬ではなく。
羨望と憧れの心で、斗羅畏は斜め前方を楽しげに走る倭吽陀と、彼の愛馬を見つめた。
騎馬の氏族たる白髪部(はくはつぶ)、その大統の孫として生まれた以上、斗羅畏も馬の扱いには一家言のある玄人だ。
その技術や経験は、田畑に囲まれ馬に詳しくない暮らしをしているものから見れば、達人の域に踏み込んでいると言っても良い。
しかし、どんな世界であっても、どんな分野でも。
培った技術や経験、練習時間という数値や計算では説明のつかない「天賦」を持つものが、ごくまれに現れる。
奴隷のような境遇から、一転して白髪部を統治するようになった偉大な祖父、阿突羅(あつら)のように。
まさに、神からなにかをあらかじめ与えられて生まれたのではないか、とまで周りに思わせる人間が、世界には確実に存在する。
馬術に熟達した斗羅畏だからこそ「さらに、その先にある世界」に倭吽陀が足を踏み入れているのだと、すんなり実感することができた。
「おっしゃー! ちんこいわだー!」
目的地に到着した二人。
数馬身差で倭吽陀の方が先に岩に届いた。
「往く道では負けたか」
斗羅畏も馬から降りて、岩に近付く。
先に鳥の巣から羽を回収するべきは倭吽陀であると思い、彼の作業が終わるのを待っていたが。
「なんだよー、くそー! とどかねーじゃねーかよー!」
岩に入った亀裂。
確かにその隙間に、白い鳥が巣を作っている痕跡と、散らかった羽はあった。
斗羅畏は見たことのない鳥の巣なので、よほど珍しい生き物に違いないと思った。
「あの背丈では、届かんか」
失笑して、斗羅畏は倭吽陀が悪戦苦闘している場へ歩み寄る。
鳥の巣の位置が高すぎて、倭吽陀は羽を取ることができないのだ。
「ほら、これで取れるだろう」
斗羅畏は倭吽陀を肩車して、巣に届く高さまで持ち上げてやった。
「お? おー、これならとれるぞー! ちょっとまってろー!」
もそもそと斗羅畏の頭上で倭吽陀が小さく動き。
「やっ」
小さい掛け声とともに、斗羅畏の肩から地面へジャンプして降りた。
その手には、シロツバメの羽が二つ、握られていた。
「これ、とらいのぶん!」
倭吽陀がニカっと笑い、やり切ったドヤ顔で手に持つ羽の一つを、斗羅畏に突き付けた。
「俺のまで取ったのか。頼んでいないぞ」
「おれだけじゃなくて、ふたりで、とったんだぞ!」
そうまで言われては、斗羅畏に受け取らないという選択はなかった。
富も、収穫物も、戦利品も。
個人が独占していいという習慣は、覇聖鳳の一党には、なかったのだから。
「確かにお前の言う通りだな。俺たちが二人で、手に入れたものだ」
大事な宝物であるかのように。
斗羅畏は丁重にシロツバメの羽を懐の内に仕舞う。
そして、復路のレースを始める前に、倭吽陀にこう言った。
「お前の方が岩に着いたのは早かった。帰り道は先にお前が出発しろ。俺は五を数えてから出る」
勝負の公平性、フェアネスを斗羅畏なりに重んじたのだ。
しかしその真面目すぎる提案に、倭吽陀は疑問を返す。
「それだと、おれがかっちゃうぞー?」
「ふん、勝てると本気で思っているなら、めでたいことだな」
往路は負けたが、復路ではこっちにも秘策、勝算がある。
斗羅畏はあえて、言葉にせず倭吽陀に伝えたのだ。
こういう意思表示をしておけば、倭吽陀もこの条件に文句は言わないであろう。
いったいなにを斗羅畏は復路で仕掛けて来るのか?
その謎が、言外のミステリーが、倭吽陀を前向きな気持ちで楽しませる。
「おーし、じゃあおれがさきにいくぞー! あとでほえづらかくなよー!?」
「せいぜい後ろに気を付けろ」
不敵に笑って、斗羅畏は矢のように飛び出した倭吽陀を見送る。
もちろん、秘策も勝算も、なにもない。
ただでさえ速い倭吽陀に先行させて、勝てる見込みはない。
それでも、敢えて。
「勝負は勝負だからな」
自分が岩に向かう往路で負けたのは、事実なのだ。
倭吽陀を気持ちよく、疑問を持たれずに先に出発させるために、斗羅畏は「強がり」を演じなければならなかったのである。
斗羅畏に秘策があると、倭吽陀が思い込んでくれれば。
倭吽陀は、最後まで油断せず、全力で馬を駆るだろう。
相手も自分も、お互いに全力だからこそ勝負というのは尊く、美しいのだ。
「さて、勝てるか……?」
馬鹿正直に心の中で五つ数えて。
斗羅畏は、自分が信頼している愛馬を進ませる。
天才の倭吽陀と、倭吽陀を心から信頼している白い愛馬。
彼らほどの高みには昇れない、小さな自分と平凡な馬であっても。
「年の功で、なんとかするか」
実に幸せそうに笑い、斗羅畏は全力で馬を走らせる。
「はいやーっ!」
結果だけを見れば。
あくまで第三者視点の、結果論で言えば。
このとき斗羅畏は、倭吽陀を先行させるべきではなかった。
往路の勝負を有耶無耶にして、休憩なり世間話で少しばかり時間を潰して。
鳥の羽を入手した後の復路も、同時にスタートするべきだった。
周囲の状況を丁寧に把握するため、落ち着いた時間を過ごす必要が、二人にはあったのだ。
しかし、現実は上記のような様々な感情と事情が絡み合い、そうならなかった。
倭吽陀は、急き立てられるように数秒早く、全力で出発して。
斗羅畏は、それから数秒遅れて、全力で倭吽陀を追いかける。
両者の距離は2百メートル前後、十分に視認できるくらいだ。
倭吽陀の後ろを走る斗羅畏だから、視界に収めて、気付くことができた。
「そこから離れろーーーーーーッ!!」
斗羅畏の空気を震わすほどの叫び。
先ほどに丘での狩りの勝負で、熊の怪魔に襲われていた経験が役に立った。
「わ、うわあああっ!!」
倭吽陀は斗羅畏の声を聞くなり、馬から瞬時に飛び降りて山道の横の下、土手の斜面に転がった。
「ブヒヒィン!ッ?」
その直後。
山から滑るように落ちて流れてきた土砂と氷雪(ひょうせつ)の混合物が、倭吽陀の愛馬を襲うように覆い被さって来た。
スラッシュ雪崩などと呼ばれる、土砂と雪、水分の混合滑落現象である。
父の覇聖鳳は、雪崩が決め手の原因で死んだ。
斗羅畏はそのとき、すぐ近くにいながら、指を咥えて右往左往することしかできなかった。
「倭吽陀! おい、返事をしろ! 無事か!?」
まさか、遺された息子まで。
そんな理由で、自分の不用意で。
目の前で死なせてたまるか!
「倭吽陀ーっ! 死ぬなーっ! この俺が許さんぞーーーッ!!」
怒りと憤りにも似た感情で、斗羅畏は叫ぶ。
「と、とらいー! ここだよー!」
土手の中腹から、明るい返事が聞こえた。
声色の調子から、四肢や臓腑に重大な怪我を負っていることはないと斗羅畏は判断した。
「待ってろ! 今行くからな!」
いつの間にか、知らぬうちに涙を滲ませた瞳で。
倭吽陀のへばっている場所まで駆け寄り、肩を貸して支えて立たせるようにして。
「受け身を取ったんだな。偉いぞ」
全身に大きな負傷がないことを確認し、わしゃわしゃっと倭吽陀の頭や顔を撫でて、思いっきり抱き締めた。
急にこんなに優しくされて、倭吽陀は混乱と驚きの中にあったが。
「う、うまが……とうちゃんからもらった、うまが……」
ぐすっ、ひぃぃんと泣き濡れたくしゃくしゃの顔を、斗羅畏の懐にうずめたのだった。
倭吽陀の馬のいななきは、もう聞こえない。
土砂に飲まれて、石か岩の当たり所が悪く、絶命してしまったのだった。
斗羅畏は。
倭吽陀が泣き止むまで、ずっと、しばらくの間。
小さな頭と顔を、その胸の中に抱き続けたのだった。
要するに競馬の長距離レースだ。
「このさき、きたのほうにずーっといったらな、ちんこいわってのがあるんだ」
地面に枝でガリガリと絵を描く、倭吽陀(わんだ)。
男子にはありがちな、卑猥な単語が発せられた。
まさに名前の通りの、男性器に似た棒状の長い岩であるという説明だ。
「剣岩(つるぎいわ)だって、何度言っても聞きゃあしないんだよ、この子」
女中に支えられて、包屋から外に出た邸瑠魅(てるみ)が呆れたように笑う。
二人の出発と帰着を見守るために、痛む体を押して出て来たのだ。
とにかく、地から天に勃(た)つようにそびえる、名物の岩があるらしい。
「その岩まで走って、先に戻った方が勝ちということか」
シンプルで分かりやすい、良い勝負だと斗羅畏は思った。
わかりやすく単純なものを好む傾向が、斗羅畏にはある。
斗羅畏の言葉に頷き、邸瑠魅は勝負条件の補足情報を告げた。
「剣岩には、毎年この時期にシロツバメって鳥が巣を作り始めるのさ。岩までたどり着いた証拠に、白い羽を持ち帰って来るんだよ」
「なるほど、不正がないようにということだな」
行ってもいないのに岩まで行ったというような、イカサマの自己申告は許さないという話である。
子どもと大人の、いわば遊びのような競争なのに。
勝負は勝負、真剣でなくてはならないという哲学が、この地に住むものたちにはあるのだ。
それを知ることができて、斗羅畏は少し嬉しくなった。
「よーし、つぎはまけねーからなー!」
仮に馬競争で勝ったとしても一勝一敗一引き分けで勝負はつかないのだが、倭吽陀は気にしていない。
最終レースの勝利者が、今日の勝利者なのだと思い込んでいて、なにも疑問はないようだ。
「用意はいいかい?」
震えを抑えて、邸瑠魅が手を高く掲げる。
倭吽陀も斗羅畏も自慢の愛馬にそれぞれまたがり、開始を知らされるのを真剣な目で待った。
「行きなーっ!!」
邸瑠魅が大声でスタートの合図を切り、袖を振り下ろした。
「どっりぁあああー!」
「せいっ!」
倭吽陀と斗羅畏、二人を背に乗せた馬が弾丸のように飛び出して行く。
「いけいけいけー!」
「こ、こいつ……ッ」
普段は体験しないような、鍛え抜かれた馬の、更に全力疾走。
尋常を超えた速さの中で並走しながら、斗羅畏は驚きに舌を巻いた。
大人でももてあますような、立派な体躯、筋骨隆々を誇る牡馬を、倭吽陀は完璧に操っている。
いや、家畜を操っているという表現は、この場合において的確でないかもしれない。
まさに人馬一体、鞍の上に人などいないように、のびのびと思い切りよく。
倭吽陀の馬は、他者に使役されているという次元を超えていた。
馬自身が今、心から力いっぱいそうしたいのだと言うかのように、全力でその脚を前に進めて、風を切って疾駆していた。
「負けるな、離されるぞッ!」
斗羅畏が馬の胴を足で叩き、ハミをおっつけて加速を促す。
戌族(じゅつぞく)には馬に鞭を打つ習慣がないので、座って接している足腰と、手に握るハミ、そして声だけが馬とのコミュニケーションの手段である。
しかし、倭吽陀の駆る白馬――ひょっとすると、覇聖鳳(はせお)の愛馬の子や孫かもしれない――に、喰らいついて行くので精一杯だった。
確かに体重が軽い子どもの方が、乗せて走る馬の側にとって負担は少ない。
しかしそんな些細な数値上のハンデではないと、斗羅畏は思った。
「馬に、愛されているのか」
嫉妬ではなく。
羨望と憧れの心で、斗羅畏は斜め前方を楽しげに走る倭吽陀と、彼の愛馬を見つめた。
騎馬の氏族たる白髪部(はくはつぶ)、その大統の孫として生まれた以上、斗羅畏も馬の扱いには一家言のある玄人だ。
その技術や経験は、田畑に囲まれ馬に詳しくない暮らしをしているものから見れば、達人の域に踏み込んでいると言っても良い。
しかし、どんな世界であっても、どんな分野でも。
培った技術や経験、練習時間という数値や計算では説明のつかない「天賦」を持つものが、ごくまれに現れる。
奴隷のような境遇から、一転して白髪部を統治するようになった偉大な祖父、阿突羅(あつら)のように。
まさに、神からなにかをあらかじめ与えられて生まれたのではないか、とまで周りに思わせる人間が、世界には確実に存在する。
馬術に熟達した斗羅畏だからこそ「さらに、その先にある世界」に倭吽陀が足を踏み入れているのだと、すんなり実感することができた。
「おっしゃー! ちんこいわだー!」
目的地に到着した二人。
数馬身差で倭吽陀の方が先に岩に届いた。
「往く道では負けたか」
斗羅畏も馬から降りて、岩に近付く。
先に鳥の巣から羽を回収するべきは倭吽陀であると思い、彼の作業が終わるのを待っていたが。
「なんだよー、くそー! とどかねーじゃねーかよー!」
岩に入った亀裂。
確かにその隙間に、白い鳥が巣を作っている痕跡と、散らかった羽はあった。
斗羅畏は見たことのない鳥の巣なので、よほど珍しい生き物に違いないと思った。
「あの背丈では、届かんか」
失笑して、斗羅畏は倭吽陀が悪戦苦闘している場へ歩み寄る。
鳥の巣の位置が高すぎて、倭吽陀は羽を取ることができないのだ。
「ほら、これで取れるだろう」
斗羅畏は倭吽陀を肩車して、巣に届く高さまで持ち上げてやった。
「お? おー、これならとれるぞー! ちょっとまってろー!」
もそもそと斗羅畏の頭上で倭吽陀が小さく動き。
「やっ」
小さい掛け声とともに、斗羅畏の肩から地面へジャンプして降りた。
その手には、シロツバメの羽が二つ、握られていた。
「これ、とらいのぶん!」
倭吽陀がニカっと笑い、やり切ったドヤ顔で手に持つ羽の一つを、斗羅畏に突き付けた。
「俺のまで取ったのか。頼んでいないぞ」
「おれだけじゃなくて、ふたりで、とったんだぞ!」
そうまで言われては、斗羅畏に受け取らないという選択はなかった。
富も、収穫物も、戦利品も。
個人が独占していいという習慣は、覇聖鳳の一党には、なかったのだから。
「確かにお前の言う通りだな。俺たちが二人で、手に入れたものだ」
大事な宝物であるかのように。
斗羅畏は丁重にシロツバメの羽を懐の内に仕舞う。
そして、復路のレースを始める前に、倭吽陀にこう言った。
「お前の方が岩に着いたのは早かった。帰り道は先にお前が出発しろ。俺は五を数えてから出る」
勝負の公平性、フェアネスを斗羅畏なりに重んじたのだ。
しかしその真面目すぎる提案に、倭吽陀は疑問を返す。
「それだと、おれがかっちゃうぞー?」
「ふん、勝てると本気で思っているなら、めでたいことだな」
往路は負けたが、復路ではこっちにも秘策、勝算がある。
斗羅畏はあえて、言葉にせず倭吽陀に伝えたのだ。
こういう意思表示をしておけば、倭吽陀もこの条件に文句は言わないであろう。
いったいなにを斗羅畏は復路で仕掛けて来るのか?
その謎が、言外のミステリーが、倭吽陀を前向きな気持ちで楽しませる。
「おーし、じゃあおれがさきにいくぞー! あとでほえづらかくなよー!?」
「せいぜい後ろに気を付けろ」
不敵に笑って、斗羅畏は矢のように飛び出した倭吽陀を見送る。
もちろん、秘策も勝算も、なにもない。
ただでさえ速い倭吽陀に先行させて、勝てる見込みはない。
それでも、敢えて。
「勝負は勝負だからな」
自分が岩に向かう往路で負けたのは、事実なのだ。
倭吽陀を気持ちよく、疑問を持たれずに先に出発させるために、斗羅畏は「強がり」を演じなければならなかったのである。
斗羅畏に秘策があると、倭吽陀が思い込んでくれれば。
倭吽陀は、最後まで油断せず、全力で馬を駆るだろう。
相手も自分も、お互いに全力だからこそ勝負というのは尊く、美しいのだ。
「さて、勝てるか……?」
馬鹿正直に心の中で五つ数えて。
斗羅畏は、自分が信頼している愛馬を進ませる。
天才の倭吽陀と、倭吽陀を心から信頼している白い愛馬。
彼らほどの高みには昇れない、小さな自分と平凡な馬であっても。
「年の功で、なんとかするか」
実に幸せそうに笑い、斗羅畏は全力で馬を走らせる。
「はいやーっ!」
結果だけを見れば。
あくまで第三者視点の、結果論で言えば。
このとき斗羅畏は、倭吽陀を先行させるべきではなかった。
往路の勝負を有耶無耶にして、休憩なり世間話で少しばかり時間を潰して。
鳥の羽を入手した後の復路も、同時にスタートするべきだった。
周囲の状況を丁寧に把握するため、落ち着いた時間を過ごす必要が、二人にはあったのだ。
しかし、現実は上記のような様々な感情と事情が絡み合い、そうならなかった。
倭吽陀は、急き立てられるように数秒早く、全力で出発して。
斗羅畏は、それから数秒遅れて、全力で倭吽陀を追いかける。
両者の距離は2百メートル前後、十分に視認できるくらいだ。
倭吽陀の後ろを走る斗羅畏だから、視界に収めて、気付くことができた。
「そこから離れろーーーーーーッ!!」
斗羅畏の空気を震わすほどの叫び。
先ほどに丘での狩りの勝負で、熊の怪魔に襲われていた経験が役に立った。
「わ、うわあああっ!!」
倭吽陀は斗羅畏の声を聞くなり、馬から瞬時に飛び降りて山道の横の下、土手の斜面に転がった。
「ブヒヒィン!ッ?」
その直後。
山から滑るように落ちて流れてきた土砂と氷雪(ひょうせつ)の混合物が、倭吽陀の愛馬を襲うように覆い被さって来た。
スラッシュ雪崩などと呼ばれる、土砂と雪、水分の混合滑落現象である。
父の覇聖鳳は、雪崩が決め手の原因で死んだ。
斗羅畏はそのとき、すぐ近くにいながら、指を咥えて右往左往することしかできなかった。
「倭吽陀! おい、返事をしろ! 無事か!?」
まさか、遺された息子まで。
そんな理由で、自分の不用意で。
目の前で死なせてたまるか!
「倭吽陀ーっ! 死ぬなーっ! この俺が許さんぞーーーッ!!」
怒りと憤りにも似た感情で、斗羅畏は叫ぶ。
「と、とらいー! ここだよー!」
土手の中腹から、明るい返事が聞こえた。
声色の調子から、四肢や臓腑に重大な怪我を負っていることはないと斗羅畏は判断した。
「待ってろ! 今行くからな!」
いつの間にか、知らぬうちに涙を滲ませた瞳で。
倭吽陀のへばっている場所まで駆け寄り、肩を貸して支えて立たせるようにして。
「受け身を取ったんだな。偉いぞ」
全身に大きな負傷がないことを確認し、わしゃわしゃっと倭吽陀の頭や顔を撫でて、思いっきり抱き締めた。
急にこんなに優しくされて、倭吽陀は混乱と驚きの中にあったが。
「う、うまが……とうちゃんからもらった、うまが……」
ぐすっ、ひぃぃんと泣き濡れたくしゃくしゃの顔を、斗羅畏の懐にうずめたのだった。
倭吽陀の馬のいななきは、もう聞こえない。
土砂に飲まれて、石か岩の当たり所が悪く、絶命してしまったのだった。
斗羅畏は。
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