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第五章 そして繭になる

三十五話 たましいはどこからきてどこへいくの

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 宦官の麻耶(まや)さんが姿を消しても、後宮の仕事は変わりなく続くし、季節も移ろいゆく。
 むしろ重要な戦力が欠けたせいで、私たちは若干、忙しい日々を送っている。
 
「夕べに玄兄(げんにい)さまから手紙が届いたわ。あんたのぶんはなかったけど」

 お寝坊して遅い朝ごはんを食べながら、翠(すい)さまが話す。
 玄霧(げんむ)さんも忙しい身なので、わざわざ私宛に別書を封入することはなかったようだ。

「どんなことが書かれてましたか?」
「国境から視認できる距離に戌族(じゅつぞく)の集団がうろつき始めたらしいわ。ちょくちょく小競り合いもあるみたいね。おっきな戦闘はないみたいだけど」

 手紙が届いたということは。
 書かれている内容は、六日か七日は古い情報だろう。
 早馬が手紙を届けたとしても、翼州(よくしゅう)北辺の国境から河旭(かきょく)の後宮まで、それくらいかかる。

「事態が悪化しないといいですね」

 半分本心、半分建前を私は述べる。
 本当は覇聖鳳(はせお)率いる青牙部(せいがぶ)を、玄霧さんや姜(きょう)さんに、ぎったんぎったんにやってもらいたい。
 その上で半死半生になった覇聖鳳をここに連れて来てもらって、私の手でトドメを刺してやりたいのだ。
 ま、そんなことはありえないとわかっているけどね。

「除葛(じょかつ)のやつが玄兄さまのいる翼州軍の参謀に収まったのは感じ悪いわね。二人ともいい大人だから喧嘩なんてしないでしょうけど」
「同じ軍にいるんですか」

 私は頭の中で二人の顔を並べる。
 愛想のいい嫌われものの姜さんと、愛想はそれほどよくないけど仲間の信任は篤い玄霧さん。
 ひょっとしていいカップリング、もとい、いいコンビなのではないかな、と思った。
 年頃も多分、近いと思うし。
 二人とも三十代前半くらいかな?
 あ、でも。
 玄霧さんは将軍じゃなくて左軍副使だから、参謀の姜さんの方がちょっと上の立場になっちゃうんだろうか。
 水と油な男二人の、微妙な立場の差による確執。
 うううん、いいね、はかどる。

「なにをニヤついてるのよ気持ち悪い」

 妄想に浸る私を呆れた顔で見て、翠さまは自分のお勤めに向かった。
 正妃、準妃の方々、そして偉い宦官さんたちと、後宮の工事に関する打ち合わせらしい。
 後宮は基本的に女の園なので、皇帝陛下と宦官以外の男性は立ち入り禁止になっている。
 でも建物や庭を工事する際に、どうしても業者さんの手が入る。
 さすがに宦官と女官だけでは、建物の大掛かりな補修、増改築や、庭の造成なんてできないから。

「一体今までどうしてきたんだろ」

 私にはわからないウルトラCを駆使して、作業の人たちを後宮に入れるんだろうけど。
 そのときになればわかるか。
 問題は、出入りの工事業者との契約文書、議事録と言った書類ごとを管理していた麻耶さんが、姿をくらましてしまったことだ。
 ひょっとするとこの仕事が面倒になって、一時的に雲隠れしているのかもしれない。

「わからないことを考えてても仕方ない。私は私のことを頑張ろう」

 お部屋、廊下、中庭とルーティーンになった毎日の掃除をこなし、隙間時間に私は「ガリ勉の塔」こと中書堂へ向かった。
 意味深な言葉を残して去ってしまった麻耶さん。
 彼という師がいなくなった分、そして彼の言葉を託された分だけ、私はより深く、より真剣に、書物と格闘しなければならない。

「わからないと素直に言えることは、麗どのの美点です」

 麻耶さんはそう言ってくれた。
 わかった気になって浅い理解で止まってしまったり、思い違いをしたままでいることへの戒めだろう。
 もちろん、わからないのにわかった風を装って、自分を無駄に大きく見せることへの警句でもある。
 
「お頼み申します。後宮のものです」

 毎回ちょっとだけ挨拶を変えて、私は中書堂の扉を敲くことにしている。
 意味はなく、単なる気分転換だ。
 いつかもっと慣れたときに「たのもー」と言ってみたい欲がある。
 扉を開けて私を迎えてくれたのは。

「百憩和尚、ごきげんよう」
「央那(おうな)さんでしたか。いやいや、和尚はおやめください」

 年齢不詳、なんなら性別もよくわからない沸教(ふっきょう)僧、百憩さんだった。
 姜さんが私を央那ちゃんと呼んでいたので、百憩さんにも気安く名前で呼ばれるようになってしまった。
 彼は遠い西の地から修業と布教のために昂国を訪れた僧侶だ。
 一時期は自分でお堂を構えたこともある立派な住職さんなのに、その立場を捨てて中書堂で学僧をしている。
 
「本を返しに来たんです。ついでに違う本を借りに」
「そうですか。拙僧も手伝いましょうか?」
「棚の場所はわかるので、高い所の本だけ、お願いしてもいいでしょうか」

 素直にお言葉に甘えて、手を借りる。
 翼州(よくしゅう)と角州(かくしゅう)の地理の本、薬や毒になる植物の本を返却。
 新しく借りる本は、八州の古い詩を集めた本にしよう。
 庶民から偉い人、インテリや世捨て人まで、様々な人々の詩や唄を記録している本があったのだ。
 要するに万葉集のような古典詩文集である。
 昂国と呼ばれるより前の古い時代に、この地に暮らした人々の、生の息吹を感じられる本だといいな。

「実に様々な本をお読みになるのですね。中書堂でも噂になっていますよ」
「え、やだな。どんな噂ですか?」
「桑の葉を貪る蚕のように、本を片っ端から読む女の子が後宮にいる、と」

 なんでも食べちゃう腹ペコな青虫な言い草だな。
 食いしん坊だった翔霏(しょうひ)や神台邑のおカイコさんたちを思い出して、ちょっと切なくなる私。

「右も左もわからない身の上なもので。たくさん勉強しないと、色々と追いつかないんです」
「謙虚なのですね」

 麻耶さんも本ばかり読んでいる私を、桑の葉をモチュモチュと一心不乱に食べまくるおカイコさんの幼虫に例えていた。

「頼りにしていた師匠の麻耶さんも、いなくなってしまいました。百憩さんはなにか知っていますか?」
「いえ、まったく分かりません。いったいどうしたのでしょうね。なにか思うところがあれば、相談してくれれば良かったのにと、いまさら思っても仕方がありませんが」

 昔馴染みである麻耶さんの失踪に関して、どのように感じて、考えているのか。
 百憩さんの表情からはわからない。
 姜(きょう)さんや麻耶さんは百憩さんと浅からぬ縁があるようだけど、私が百憩さんをどうにも苦手に思う理由は、その正体の知れなさからである。
 笑っているのか啼いているのか、はたまたなにも感じていないのか。
 よくわからない普段の表情もそうだし、男なのか女なのか、一見では判別しかねる体全体の雰囲気も、だ。
 哀しい話題や喜ばしい話題になれば、百憩さんの表情は確かに変化するのだけど、私はどうにもそれが、演技なのか本心なのか、わからないのだ。 

「わからないついでに、一つ和尚に聞いていいでしょうか」
「和尚はやめましたが、なんでしょう。私で答えられることであれば」

 曖昧な笑みを浮かべて、百憩さんは了承した。
 私の他愛ない質問に答えてくれるということは、さほど忙しくはないらしい。
 普段、中書堂でいったいこの人がなにをしているのか、いよいよ謎である。

「沸教の理屈では、水が蒸発して雨になり地に降り注ぎ、また蒸発して雲になるというように、万物は循環するという前提がありますよね」

 まさか小娘にいきなり宗教論議を吹っ掛けられると思っていなかったのか、百憩さんはきょろりと目を大きく開く。
 そして演技ではない、心から楽しそうな笑顔で答えた。

「ええ、まさにその通り。この広い大地、宇宙の万物は、巡り巡って姿かたちを変えて、常にどこかに在り続ける。それが沸の教えの中核と言えます」

 常在、というやつだな。
 見てくれが氷から液体に変わっても、蒸発して見えなくなっても、水分がそこに存在し続けることは疑いもない事実なのだ。

「でも私、わからないんです。彩林(さいりん)さんのお葬式のときに、和尚は『魂は虚空に還る』とおっしゃいました。虚空に還るのであれば、循環して元の世界には戻ってこない、という意味に聞こえました」

 私の質問に再度、今度は楽しそうな雰囲気を微塵も見せずに。
 百憩さんは心底驚き、疑うような顔をしたのだ。
 前に、亡くなった彩林さんを送る追悼の辞を百憩さんが述べた。
 その内容は、善と悪、秩序と混沌をすっぱりと二分する昂国、恒教(こうきょう)の理念に囚われない、異国の宗教ならではの哲学があったと思う。
 万物は循環する。
 循環するのだから、新しく生まれもしなければ、どこかに消え失せて滅することもない。
 理科の教科書的に言えば質量保存、エネルギー量保存の法則に合致しているわけだ。
 しかし、私は疑問を投げ続ける。

「全てのものが循環し、形を変えてどこかに存在し続けるなら、おそらく概念上に定義された領域である『虚空』に魂が還るというのはおかしいと思うんです。魂も、同じように天地の中で循環して、例えば生まれ変わりであるとか、そういう別の形で、新しく生まれる命に宿るのではないでしょうか」

 私の並べた見解に、百憩さんはしばらく言葉を失った。
 しばらく考え込む様子ののち、真面目な顔でこう言った。

「少し、外に出ましょうか」

 気付けば、熱っぽく語る私はいつの間にか、中書堂で学び働く他の人の視線を集めてしまっていた。

「ごめんなさい、つい夢中になってしまって」
「いえいえ。しかし、中書堂はあくまでも『中道、中庸』を重んじる学府です。この建物の中で私が長々と、沸の教えを解釈して開陳するのにはふさわしくない」

 政治的、宗教的な事情から、百憩さんが中書堂の中で話せることには、制限があるらしい。
 個人で勉強したりその成果を文書にまとめる分にはいいけど、他人に布教したり他人と宗教問答するのは、都合が悪いのだろう。
 もっともその制限は建物から一歩でも出れば効力を失うようで、外で話す分には問題ないようだ。
 こう言った四角四面な秩序形態も、昂国の伝統なのだ。
 私たちは外に出て、後宮の南門に面する池のほとりの石に座る。
 そこで私は、百憩さんから沸教における「魂」と「万物循環」について、詳しくを聞くのだった。
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