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第五章 そして繭になる

三十四話 宮中の蚕、天道を知らず

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 不覚にも環(かん)貴人に遭遇してしまい、心臓が止まりそうになった、その数日後。
 翠(すい)さまは故郷の角州(かくしゅう)からお客さまが来たので、先輩侍女を連れてお城の方にお出かけ中である。
 ワンオペのお留守番でも私は日々の当たり前の業務をこなし、その合間に座り慣れた椅子で、飲み慣れたお茶を味わいながら一服中。
 そこに、翠さまとは昵懇(じっこん)の関係である、麻耶(まや)宦官がやって来た。

「秋の収穫に合わせて、ひもじさに耐えかねた戌族(じゅつぞく)めらが国境を越えて昂国(こうこく)を荒らしに来る、という噂がありますな」

 茶飲み話に上述の内容を教えてくれた。
 お茶うけに甘く煮詰められた栗の実を持って来てくれて、それはとても嬉しいけれど、話題は不穏だった。

「玄霧(げんむ)さんたち、大丈夫でしょうか」

 翠さまの兄上である司午(しご)玄霧さんは、翼州(よくしゅう)左軍副使として、国境最前線の警備に当たっている。
 農村が穀物を収穫し終える晩秋は、騎馬民族である戌族にとって乾きの時期だ。
 馬や羊は遥か北の地の野原の草を食べ尽くし、部族全体が南下する。
 食うに困った一部の騎馬民は、国境を越えて昂国の邑や街を襲うのだ。

「除葛(じょかつ)帥(すい)が赴かれたということは、昂国の地を荒らすもの、なんびとたりとも許さず、という意志の表れでしょう。主上、及び幕下(ばくか)百官におかれましても、一歩たりとて譲る気はない、という固い想いが感じられまする」

 麻耶さんの見解は、おおよそ正しいと思う。
 神台邑という小さな集落であっても、鏖(みなごろし)の憂き目に遭ったことで、国境警備は大きく動いた。
 トチ狂った戌族諸部が無計画に、散発的に侵攻を仕掛けて来ても、訓練された軍隊の迎撃があっては、徒労に終わるはずだ。
 首切り魔人と称される除葛(じょかつ)姜(きょう)軍師の北辺赴任は、その決定打とも言えた。

「応援とかお見舞いのお手紙を送りたいなと思うんですけど、麻耶さん、お力をお貸し願えますか?」
「ほっほ、それは素晴らしいこと。拙(せつ)でよろしければ、どうぞお使いください」

 私は麻耶宦官の協力と教導を得て、玄霧さんと姜さん宛てにお手紙を書いた。
 油断なさらず、お体を大切に。
 そんな要点以外は、他愛ない後宮での世間話を記載して。
 自分からは決して誇らないけれど、麻耶宦官は文芸の教養がとても深い。
 私の書いた手紙を添削し、小粋な表現を教えてくれて、なんとかいい感じに手紙は仕上がったと思う。

「まるで砂が水を吸うが如きでございますな、麗どのの知の貪欲さは」
 
 作業を終えて、甘栗をかじりながら麻耶さんが褒めてくれた。

「知らないことばかりなので、一生懸命覚えようとしているだけです」

 正直なところ、そう答えるしかなかった。
 私はなにもわからない、見えない霧と闇の中で、夢中にあがいてるだけなのだ。
 神台邑の畑仕事も、後宮の雑務も。
 昂国と北の戌族の、敵対なのか、警戒なのか、牽制なのかはっきりしない、曖昧な関係も。
 わからないから、勉強するしかない。
 かつて熾烈な受験戦争を潜り抜けた私にできることは、それしかないのだから。
 私が消沈気味にそう答えたので、麻耶さんはなにかを悟り、諭すように言った。

「拙も学問を修めようと、若い頃は蛍雪(けいせつ)を灯(とも)しとして書を読み、文(ふみ)を書いて過ごしました。しかし己の才に壁が立ちはだかるを知り、加えて罪を得て浄身(じょうしん)の運びになりましたが、その道行きに微塵の後悔もありませぬ」

 私は驚いて麻耶さんの顔を見た。
 罪を得て浄身した、ということは。
 自発的ではなく、刑罰として彼は宦官になったのだ。
 麻耶さんは自分の意志ではなく、国に、男性器を奪われたのだ。

「知りませんでした。そんなことがあったんですね」

 私はアホ面を下げて、率直な感想を述べるしかできなかった。
 一体どんな罪で麻耶さんは、大事なものをちょん切られなければならなかったのか。
 こんな良識と教養の塊のような人に、国は一体なんの罪で、処罰を下したのだろうか。

「姉の婿が、公金の横領を働きましてな。しかも宦官と謀って主上の台所費用をかすめたというのだからたちが悪い。姉婿は首を斬られ、姉は首をくくりましたが、残った親族の拙はいかにすべきか、ということになりまして」
「そんな、そんな」

 麻耶さんは、なにも悪くないじゃないか!
 なにも悪いことをしてないのに、そんな、そんな仕打ちがあってたまるものか!
 と、激情に駆られて私は。
 一つの、真実を、思い出し、思い知る。
 なにも悪いことをしていなかった、神台邑(じんだいむら)の愛すべき人たちだって。
 不意に、思いがけず、鏖(みなごろし)にされたのだから。
 私がわなわなして、顔をひしゃげさせていると、麻耶さんは優しく私の肩を撫でて言った。

「法と秩序は、なによりも尊ぶべきものでございます。学を修めて高官に登る夢は叶いませなんだが、司午家(しごけ)の温情により、拙は大層可愛がっていただきました。それがなかりせば、拙の首は繋がっておりませぬゆえな」

 ほっほ、と軽やかに笑って麻耶さんは言った。
 昂国の法秩序が彼から大事なものを奪ったと同時に、その昂国の名門、司午家の人々が、彼の命を繋いだのだ。
 その結果として麻耶さんは、かつて目指していたであろう中書堂の学士たちを目の前に眺めながら、後宮の使用人である宦官として働いている。
 なにが、一体なにが正しいんだ。
 善悪とは、正邪とは、是非とは。
 世の中を真っ二つに分けて定めとする、麻耶さんが口にして、恒教(こうきょう)の中に書かれている秩序とは、一体なんなんだ!

「わかりません、私には。なぜ、どうして、どうなって、まるでわからない」
  
 精一杯の答えだった。
 もしも仮の話として、自分にそんなことが降りかかったとしたら。
 私は、混乱と怒りで、おそらく頭がおかしくなってしまうだろう。
 出来の悪い教え子を優しく導くように、教師である麻耶さんは言った。

「麗どの美点はそこにありまする。わからないことをわからないと認める心。それは、誰に教わっても、百の書を読んでも身に着くものではございませぬ」
「そんなんじゃないんです。私は、ただの無知でバカな、小娘なんです」

 涙をこらえながら、震える声で私は言う。
 そんな私に麻耶さんは、まだそれほど遠い過去ではない思い出を語る。

「北網(ほくもう)から河旭(かきょく)へ向かう馬車の中、ともに恒教と泰学(たいがく)を読み下したのを、覚えてらっしゃいますかな」
「もちろん覚えてます。麻耶さんが教えてくれた字句の一つ一つまで、全部覚えてます」
「拙はもう子を成せる体ではございませぬが、それでも後に遺せるものがあるのだと、麗どのを見て思い至りました。あなたが真剣なまなざしで書を読み、わからないことがあれば恥じることなく、むしろ喜々として拙に問いを投げかけるその姿」

 あの馬車の中、私はどう思っていただろう。
 詳しい人が身近にいてラッキー、くらいにしか思っていなかったのではないか。

「馬車の中で、拙は報われたのです。若き日に昼を夜を問わず、学問と書文に身を捧げたのは、この日のためであったかと。拙は、麗どのというまこと大きな蚕に桑の葉を与えるために、今まで生を長らえておったのだ、と」
「そんな、私は、私なんて」

 麻耶さんにそこまでのことを思われて、言われて。
 なにも言葉にできなかった。
 私は、私なんか、そんな。
 そんなに、大したものであるわけがないのに。
 粗末な糸をわずかばかりに吐いて、そして煮殺される小さな蚕蛾でしかないかもしれないのに。

「麗どの。あなたは今にきっと美しい、見事な糸を吐くを蚕に育ちます。大事な日が来るそのときまで努々(ゆめゆめ)、変わらず学に勤しむがよろしいでしょう。拙に人相の見はございませぬが、なぜだかそう思えるのでございます」


 深く重い期待と、わずかの身の上話を打ち明けて。
 後日、麻耶宦官は、後宮から、皇都の河旭城から、姿を消した。
 ツーカーの仲である翠さまにさえ、なにも知らせない上での突然の出奔、いわば逐電であった。

「いやいやいやちょっとどういうことよ!? まさか最近噂の人攫いにでも遭ったんじゃないでしょうね!? 中年の宦官を誰が攫いたがるのか知らないけど」

 あまりにも突拍子のない麻耶さんの失踪は、大いに翠さまを混乱させた。
 私もそうだし、先輩侍女のみなさんも、深く困惑した表情を浮かべる。
 それだけ翠蝶貴妃殿下のお部屋の業務は、麻耶さんを頼りにしている部分が大きかったのだ。

「宮中のお仕事が、嫌になったんでしょうか」
「どういう意味よそれ」

 私のなにげないコメントに、翠さまが睨みを返した。
 いや、翠さまがいつも無茶振りばかりするとか、そういう意味ではないんですよ、ホント。

「困ったわねえ、麻耶宦官ほど、なんでも相談できる人はいなかったのに」

 毛蘭さんも頬に手を当てて、溜息を吐いた。

「なんか頭が痛くなってきちゃった。もう寝るわ」

 信頼していた人が突然目の前から消えたショックからか、翠さまも早めのご就寝。
 私も心の師を失ったことで、胸に大きな穴が開いたような気がした。
 その穴の中を、秋の涼風が虚しく通り過ぎて行った。
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