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第十三章 清算
百九話 柔らかな日々
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翠(すい)さまの庇護を受け、私たち一党は角州(かくしゅう)の司午(しご)本家でお世話になることになった。
「今までの日々が、嘘のような静けさだな……」
私と一緒に洗濯物をごしごししている翔霏(しょうひ)が、霞んでたなびく薄い雲を眺めて、しみじみと言った。
名門武家の屋敷らしく、塀と門扉で厳重に囲われた司午家の内側には、騒ぎらしい騒ぎと言うものが、なにひとつなかった。
一番うるさいのは翠さまであるほどで、その翠さまにしたって、妊娠の不安定期にあり、四六時中ぎゃあぎゃあと喚いているわけではない。
多くの日は玉楊(ぎょくよう)さんの弾く楽器に静かに耳を預け、日向ぼっこしたり、温めた果汁を飲んで、読書をして過ごしている。
「麗(れい)女史、こちらはもう干しても構わぬか」
ぬっ、と大きな体を音もなく出現させて、巌力(がんりき)さんが言う。
ゆうに30kgはありそうな、大量の洗濯物が入った籠を、片手で軽々と持ちあげた。
「お願いします。もう少ししたら終わりですから、一息入れましょう」
タダメシを食べさせてもらうのも忍びないので、おのおのが力になれる範囲で、司午家のお仕事を手伝っているのだ。
軽螢(けいけい)と椿珠(ちんじゅ)さんは、方々を遊び歩いたり、くだらない悪企みを語り合ってるけれどね。
もうホント、男子ってしょうがないわねー。
椿珠さんは変装の名人だし、軽螢はそもそもお尋ねものの人数に最初からカウントされていなかったという幸運にある。
ある程度は好き勝手出来るのが、私たちにはマジで羨ましい。
洗濯をひと段落させてお茶の間に戻ろうとしたら、広間の一つからガタガタと音が聞こえる。
「模様替えですか?」
人が出入りして、部屋の中の家具や調度品を忙しく移動している。
作業を仕切っているらしい毛蘭さんが、簡単に教えてくれた。
「翠さまの安産を祈願して、角州(かくしゅう)公さまが法師たちを遣わせてくれるのよ。祈祷のために簡単な祭壇を構えるから、少し場所を空けているの」
「ははあ、ありがたい心遣いですね」
要するにお坊さんか神官か知らないけれど、安産のお祈りをしに来てくれるということだな。
州公さまが直々に祈祷を差配してくれるなんて、さすが、皇帝の子を身籠った翠さまだ。
なにひとつ私の手柄ではないのだけれど、関係者の末席にいるというだけで、誇らしくめでたい気持ちになる。
「ええと、他に用意するものはあったかしら。ああ忙しい忙しい」
少しだけ足を引きずるようにして、毛蘭さんは仕事の続きに戻る。
後宮が襲われたときに怪我をした影響で、片方の足が弱ってしまって、力がまだ戻りきってないのだ。
「利(り)女史、無理をなさるな。体を使う仕事は奴才(ぬさい)にお任せあれ」
「ありがとう、巌力宦官。でも動いてないと萎えちゃうから」
たくましく言って、毛蘭さんはまさしく翠さまお付きの侍女らしいエネルギッシュぶりを発揮し、テキパキと働くのだった。
翌日、予定していた通りに祈祷師だか法師だかの小集団が、司午屋敷を訪れた。
日陰者暮らしをしている私たちは、祈祷の場に出ることはない。
控えの間で一人一人、思い思いに翠さまの安産を願って過ごした。
「こういうお祈りって、宗派とかがあるんでしょうか?」
私の質問に、玉楊さんが微かに聞こえてくる祝詞に耳を澄ませながら、答えてくれた。
「司午家は八畜(はっちく)の『亥(いのしし)』を祖神(おやがみ)に持つ氏族ですので、亥を祀るお堂の法師さまが来てらっしゃるようですね。焚いている香木は、わたくしには馴染みがないものですけれど。南西の方の物かしら」
ほほう、共通の祖先神を崇め奉る宗教組織が存在し、祭祀儀礼のときにはそこから法師とやらが派遣されるわけか。
神社の氏子制度に似ていると言えば似ているな。
恒教(こうきょう)と泰学(たいがく)を読みはしている私だけれど。
それらの教えが生活の中にどれだけ根付いているのか、どのような形で人々の暮らしに溶け込んでいるのか、まだまだ知らないことが多い。
聖書を読破しても、町の中にある教会の作法がわからないようにね。
「肩が凝ったわ。お香の匂いもなんだか気に入らなかったし」
長い祈祷が終わり、翠さまはぐるぐると肩を回して、おやつを食べに向かった。
妊娠で味覚が変わった影響からか、元々苦手だった肉や生臭ものを一切口にしなくなり、お粥や果物、豆腐、イモばっかり食べて過ごしている。
私たち女子グループもご相伴にあずかり、うららかな午後のティーブレイクと洒落込む。
ふかした小イモに塩を振るだけのシンプルイズベストな軽食を頬張りながら、翠さまが言う。
「洗濯なんて央那(おうな)と巌力にやらせておけばいいんだから翔霏はちょっと屋敷の連中に稽古をつけてやってくれないかしら。甥っ子もあと何年かしたらお役目に就かなきゃならないんだし今からでも多少は鍛えておかないと」
話を振られた翔霏は、翠さまが食べずにこっちに押しやったイカの塩辛をイモに乗せて、もぐもぐしながら答える。
「まだ仕官前と言うことは、十五歳に満たないくらいか」
「そうよ。あんたたちより少し下。弟だと思って仲良く厳しくしごいてやってちょうだい。多少なら泣かせちゃっても構わないから」
滅茶苦茶言ってるな、この叔母さま。
え、でも翠さまの甥っ子、きょうだいの息子と言うことは。
「玄霧さん、そんなに大きいお子さんがいらっしゃったんですか?」
驚いて聞いた私に、翠さまが特に珍しくもないと言う顔で答えた。
「別におかしなことはないでしょうよ。玄兄さまが十九の頃の子どもなんだから早くも遅くもないわ」
ははあ、そういうものですか。
計算すると、玄霧さんの年齢は三十三、四歳くらいということになるな。
もっとも昂国では満年齢と数え年を混在併用して使っているので、一、二歳の認識のずれが頻繁に発生する。
歳上に見せたい場面や、逆に若く見せたい場面で、年齢の数え方をフレキシブルに使い分けているのである。
もちろん厳格な書類や手続きで若干の混乱をきたす状況が発生したりするので、悪習慣と言わざるを得ない。
翔霏は特に否も応もないようで、いつもの無表情で淡々と答えた。
「子どもをいじめる趣味はないが、貴妃殿下がぜひにと言うのであれば、それなりに厳しく当たらせてもらうとするか」
「頼むわね。武官の家の嫡子である以上は気合と根性がなにより大切なんだから」
こんな烈女たちのペースでしごかれたら、甥っ子くんの心身は崩壊してしまうのではなかろうか。
私も折を見て様子を見に行かねばな、と心の中で静かに誓う。
「翠蝶、疲れているのではなくて?」
会話の途中、玉楊さんが翠さまの身を気遣った。
朝から法師たちを前に、正座して長々と祈祷を受けていたのだから、体もこわばっているだろう。
表情に出ないわずかな不調を、玉楊さんなりに感じ取ったのかもしれない。
「言われてみればなんか体が重い気がするわ。もう一人抱えてるんだから重くて当たり前なんだけど」
妊娠中期に差し掛かった翠さまのお腹は、冬服の上からでもわかる程度に膨らんで来ている。
毎日、玉楊さんが翠さまのお腹に耳を当てて、内部の胎児がちゃんとわずかながらも動いていることを確認している。
母子ともに健康な状態にあるけれど、油断は禁物だ。
そのとき、別の間に控えていた男子勢が私たちのいる部屋に顔を出す。
周囲の空気の匂いを嗅いで、軽螢がボヤく。
「なんだか変な匂いの煙だなァ。偉い人たちの儀式はわからんね」
玉楊さんや翠さまと同じことを、気にしていた。
些細な違和感と心配をよそに、その夜の翠さまはいつもより沢山、好き嫌いを言わずにモリモリと食べた。
お腹にいる赤ちゃんの分も食べている、とはまさにこのことだな。
「環家の方はどうなってる感じ? あんたたち街に行って情報を嗅ぎ回ってるんでしょ」
リスのように口いっぱいに食べ物を詰めた翠さまが、椿珠さんに訊く。
「ここからじゃ詳しいことはわかりませんがね。商売の帳簿と蔵の中の財物は、国の調査のために差し押さえられてるでしょう。親父どのや兄貴たちも毛州(もうしゅう)から出られない扱いを受けているらしい」
渋い顔で答えた椿珠さん。
ごくんと口中の食物を嚥下して、厳しくも救いのあることを翠さまは言う。
「戌族(じゅつぞく)を相手にした商売の免状をいくらか剥ぎ取られるくらいは覚悟しておいた方が良いわね。でもあれだけ大店(おおだな)の環家をいきなり取り潰したりはしないはずよ。昂国じゅうの商売が混乱するだけだから。今までほどの贅沢はできなくなるでしょうけどそれくらい我慢しなさいな」
環家の特権を削いで、独占状態だった商業分野のいくつかを、他の業者が参入できるようにする、ということだな。
大きくなりすぎた財閥が解体されるのは世の常なので、仕方のないことなのかもしれない。
「貴妃殿下にそう言っていただけると、気持ちも上向きます。なにからなにまで世話になりっぱなしで、かたじけない」
翠さまの前ではお酒を飲まずに良い子ちゃんを貫いている椿珠さんが、殊勝に頭を下げた。
「いいのよ。あとで何倍にもして返してもらうんだから。人に投資するってのはそう言うことでしょ?」
商人の常套句を、あえて商家生まれの椿珠さんに返し、翠さまはドヤッと笑った。
「かなわねえな、さすがは主上の寵愛篤い司午貴妃殿下……」
と、椿珠さんは苦笑するのだった。
その夜は少し夜更かしして、私と玉楊さんが北方での冒険譚を翠さま、毛蘭さんに寝室で話して聞かせる。
涙あり笑いあり、手に汗握る戦いの一幕がありの一大スペクタクル。
「お腹の中の赤ちゃんが無意識のうちに央那に対して恐怖心を抱いちゃうんじゃないかしら。武勇で知られる戌族の頭目をその手で仕留める女が近くにいるなんて胎教に良いのか悪いのかさっぱりわからないわ」
話を聞いて泣いてしまった翠さま。
照れ隠しのようにおどけて言った。
「皇子(おうじ)さまにも恐れられる侍女が後宮にいるようだ、なんて話が、いずれ国じゅうに広まるかもしれませんね。首狩り軍師よりも有名になっちゃうんじゃないかしら」
毛蘭さんも布で目尻の涙を抑えながら、大いにありそうな未来予想図を語る。
なんだろう、その場合に私に与えられる二つ名は。
毒炎の侍女、とかだろうか。
ふふ、悪くない。
そう呼ばれても、ちっとも嫌じゃないな。
私は、自分の意志でその在り方を選んだのだから。
仕方なく、不本意に、状況に流されてそう生きたわけではないのだから。
夜も遅いのでもう琵琶は鳴らさないけれど、指で弾く真似、エア琵琶をしながら、玉楊さんが少し恥ずかしそうに言った。
「わたくし、麗央那(れおな)とみなさまが戦い旅した物語を、長歌に仕上げたいと思っているの。ときが過ぎても、わたくしたちが死んでしまっても、いつまでも誰かに歌われて語り継がれるように。わたくしたちの物語を……」
そして、考えている途中だと言う冒頭の数句を、頬を染めて口ずさんだ。
戌来燃小邑
女哭誓復讐
研牙中後宮
待静朋友仇
戌が来たりて小さな邑を燃やす。
女は哭き復讐を誓う。
牙を研ぐは後宮の中。
静かに待つ、朋友たちの仇を。
「う、うっう、ううう……ひぃん……」
聞いた瞬間、私はこらえきれずに、ベッドに腰掛ける翠さまの足元に上体を突っ伏し、泣き崩れた。
頑張って、苦しくて辛い思いをたくさん経験して。
それでも今、こうして帰って来られたのだ。
大事な人たちと共に、穏やかで幸せな日々を、この手に取り戻した。
玉楊さんの優しい声で、これまでの艱難辛苦を振り返ってもらい。
私はやっと、十六歳のしょぼくれた女の子に戻り、自分のためにめそめそと泣くことができたのだ。
物語にしてもらえば、辛い経験は過去の思い出になる。
もう、恐怖にも恩讐にも、自分が背負ってしまった殺業にも、怯えなくていいのだ。
「あんたたちはよくやったわよ……あたしが言うんだから間違いないわ。今はゆっくりお休みなさい」
翠さまに頭を撫でられながら。
私は夜遅くまで、いつまでも、いつまでも泣き続けたのだった。
翌朝。
宵っ張りしていたから、翠さまのお目覚めは遅い。
後宮で勤めた最初の日の夜、二人でタコとサメの話をしたのを思い出すな。
なんてことを気楽に思い出しながら。
「洗濯を日のあるうちに片付けるか」
と、翔霏が言う通りに、昨日と同じく作業に取り掛かろうとしていたら。
寝室周りのお世話をしている毛蘭さんが、血相を変えて痛む足を庇うのも忘れ、走って来て、言った。
「お、央那。翠さまが、お目覚めにならないの……!」
笑顔を消した私たちは、言葉もなく翠さまの寝室に駆けるのだった。
「今までの日々が、嘘のような静けさだな……」
私と一緒に洗濯物をごしごししている翔霏(しょうひ)が、霞んでたなびく薄い雲を眺めて、しみじみと言った。
名門武家の屋敷らしく、塀と門扉で厳重に囲われた司午家の内側には、騒ぎらしい騒ぎと言うものが、なにひとつなかった。
一番うるさいのは翠さまであるほどで、その翠さまにしたって、妊娠の不安定期にあり、四六時中ぎゃあぎゃあと喚いているわけではない。
多くの日は玉楊(ぎょくよう)さんの弾く楽器に静かに耳を預け、日向ぼっこしたり、温めた果汁を飲んで、読書をして過ごしている。
「麗(れい)女史、こちらはもう干しても構わぬか」
ぬっ、と大きな体を音もなく出現させて、巌力(がんりき)さんが言う。
ゆうに30kgはありそうな、大量の洗濯物が入った籠を、片手で軽々と持ちあげた。
「お願いします。もう少ししたら終わりですから、一息入れましょう」
タダメシを食べさせてもらうのも忍びないので、おのおのが力になれる範囲で、司午家のお仕事を手伝っているのだ。
軽螢(けいけい)と椿珠(ちんじゅ)さんは、方々を遊び歩いたり、くだらない悪企みを語り合ってるけれどね。
もうホント、男子ってしょうがないわねー。
椿珠さんは変装の名人だし、軽螢はそもそもお尋ねものの人数に最初からカウントされていなかったという幸運にある。
ある程度は好き勝手出来るのが、私たちにはマジで羨ましい。
洗濯をひと段落させてお茶の間に戻ろうとしたら、広間の一つからガタガタと音が聞こえる。
「模様替えですか?」
人が出入りして、部屋の中の家具や調度品を忙しく移動している。
作業を仕切っているらしい毛蘭さんが、簡単に教えてくれた。
「翠さまの安産を祈願して、角州(かくしゅう)公さまが法師たちを遣わせてくれるのよ。祈祷のために簡単な祭壇を構えるから、少し場所を空けているの」
「ははあ、ありがたい心遣いですね」
要するにお坊さんか神官か知らないけれど、安産のお祈りをしに来てくれるということだな。
州公さまが直々に祈祷を差配してくれるなんて、さすが、皇帝の子を身籠った翠さまだ。
なにひとつ私の手柄ではないのだけれど、関係者の末席にいるというだけで、誇らしくめでたい気持ちになる。
「ええと、他に用意するものはあったかしら。ああ忙しい忙しい」
少しだけ足を引きずるようにして、毛蘭さんは仕事の続きに戻る。
後宮が襲われたときに怪我をした影響で、片方の足が弱ってしまって、力がまだ戻りきってないのだ。
「利(り)女史、無理をなさるな。体を使う仕事は奴才(ぬさい)にお任せあれ」
「ありがとう、巌力宦官。でも動いてないと萎えちゃうから」
たくましく言って、毛蘭さんはまさしく翠さまお付きの侍女らしいエネルギッシュぶりを発揮し、テキパキと働くのだった。
翌日、予定していた通りに祈祷師だか法師だかの小集団が、司午屋敷を訪れた。
日陰者暮らしをしている私たちは、祈祷の場に出ることはない。
控えの間で一人一人、思い思いに翠さまの安産を願って過ごした。
「こういうお祈りって、宗派とかがあるんでしょうか?」
私の質問に、玉楊さんが微かに聞こえてくる祝詞に耳を澄ませながら、答えてくれた。
「司午家は八畜(はっちく)の『亥(いのしし)』を祖神(おやがみ)に持つ氏族ですので、亥を祀るお堂の法師さまが来てらっしゃるようですね。焚いている香木は、わたくしには馴染みがないものですけれど。南西の方の物かしら」
ほほう、共通の祖先神を崇め奉る宗教組織が存在し、祭祀儀礼のときにはそこから法師とやらが派遣されるわけか。
神社の氏子制度に似ていると言えば似ているな。
恒教(こうきょう)と泰学(たいがく)を読みはしている私だけれど。
それらの教えが生活の中にどれだけ根付いているのか、どのような形で人々の暮らしに溶け込んでいるのか、まだまだ知らないことが多い。
聖書を読破しても、町の中にある教会の作法がわからないようにね。
「肩が凝ったわ。お香の匂いもなんだか気に入らなかったし」
長い祈祷が終わり、翠さまはぐるぐると肩を回して、おやつを食べに向かった。
妊娠で味覚が変わった影響からか、元々苦手だった肉や生臭ものを一切口にしなくなり、お粥や果物、豆腐、イモばっかり食べて過ごしている。
私たち女子グループもご相伴にあずかり、うららかな午後のティーブレイクと洒落込む。
ふかした小イモに塩を振るだけのシンプルイズベストな軽食を頬張りながら、翠さまが言う。
「洗濯なんて央那(おうな)と巌力にやらせておけばいいんだから翔霏はちょっと屋敷の連中に稽古をつけてやってくれないかしら。甥っ子もあと何年かしたらお役目に就かなきゃならないんだし今からでも多少は鍛えておかないと」
話を振られた翔霏は、翠さまが食べずにこっちに押しやったイカの塩辛をイモに乗せて、もぐもぐしながら答える。
「まだ仕官前と言うことは、十五歳に満たないくらいか」
「そうよ。あんたたちより少し下。弟だと思って仲良く厳しくしごいてやってちょうだい。多少なら泣かせちゃっても構わないから」
滅茶苦茶言ってるな、この叔母さま。
え、でも翠さまの甥っ子、きょうだいの息子と言うことは。
「玄霧さん、そんなに大きいお子さんがいらっしゃったんですか?」
驚いて聞いた私に、翠さまが特に珍しくもないと言う顔で答えた。
「別におかしなことはないでしょうよ。玄兄さまが十九の頃の子どもなんだから早くも遅くもないわ」
ははあ、そういうものですか。
計算すると、玄霧さんの年齢は三十三、四歳くらいということになるな。
もっとも昂国では満年齢と数え年を混在併用して使っているので、一、二歳の認識のずれが頻繁に発生する。
歳上に見せたい場面や、逆に若く見せたい場面で、年齢の数え方をフレキシブルに使い分けているのである。
もちろん厳格な書類や手続きで若干の混乱をきたす状況が発生したりするので、悪習慣と言わざるを得ない。
翔霏は特に否も応もないようで、いつもの無表情で淡々と答えた。
「子どもをいじめる趣味はないが、貴妃殿下がぜひにと言うのであれば、それなりに厳しく当たらせてもらうとするか」
「頼むわね。武官の家の嫡子である以上は気合と根性がなにより大切なんだから」
こんな烈女たちのペースでしごかれたら、甥っ子くんの心身は崩壊してしまうのではなかろうか。
私も折を見て様子を見に行かねばな、と心の中で静かに誓う。
「翠蝶、疲れているのではなくて?」
会話の途中、玉楊さんが翠さまの身を気遣った。
朝から法師たちを前に、正座して長々と祈祷を受けていたのだから、体もこわばっているだろう。
表情に出ないわずかな不調を、玉楊さんなりに感じ取ったのかもしれない。
「言われてみればなんか体が重い気がするわ。もう一人抱えてるんだから重くて当たり前なんだけど」
妊娠中期に差し掛かった翠さまのお腹は、冬服の上からでもわかる程度に膨らんで来ている。
毎日、玉楊さんが翠さまのお腹に耳を当てて、内部の胎児がちゃんとわずかながらも動いていることを確認している。
母子ともに健康な状態にあるけれど、油断は禁物だ。
そのとき、別の間に控えていた男子勢が私たちのいる部屋に顔を出す。
周囲の空気の匂いを嗅いで、軽螢がボヤく。
「なんだか変な匂いの煙だなァ。偉い人たちの儀式はわからんね」
玉楊さんや翠さまと同じことを、気にしていた。
些細な違和感と心配をよそに、その夜の翠さまはいつもより沢山、好き嫌いを言わずにモリモリと食べた。
お腹にいる赤ちゃんの分も食べている、とはまさにこのことだな。
「環家の方はどうなってる感じ? あんたたち街に行って情報を嗅ぎ回ってるんでしょ」
リスのように口いっぱいに食べ物を詰めた翠さまが、椿珠さんに訊く。
「ここからじゃ詳しいことはわかりませんがね。商売の帳簿と蔵の中の財物は、国の調査のために差し押さえられてるでしょう。親父どのや兄貴たちも毛州(もうしゅう)から出られない扱いを受けているらしい」
渋い顔で答えた椿珠さん。
ごくんと口中の食物を嚥下して、厳しくも救いのあることを翠さまは言う。
「戌族(じゅつぞく)を相手にした商売の免状をいくらか剥ぎ取られるくらいは覚悟しておいた方が良いわね。でもあれだけ大店(おおだな)の環家をいきなり取り潰したりはしないはずよ。昂国じゅうの商売が混乱するだけだから。今までほどの贅沢はできなくなるでしょうけどそれくらい我慢しなさいな」
環家の特権を削いで、独占状態だった商業分野のいくつかを、他の業者が参入できるようにする、ということだな。
大きくなりすぎた財閥が解体されるのは世の常なので、仕方のないことなのかもしれない。
「貴妃殿下にそう言っていただけると、気持ちも上向きます。なにからなにまで世話になりっぱなしで、かたじけない」
翠さまの前ではお酒を飲まずに良い子ちゃんを貫いている椿珠さんが、殊勝に頭を下げた。
「いいのよ。あとで何倍にもして返してもらうんだから。人に投資するってのはそう言うことでしょ?」
商人の常套句を、あえて商家生まれの椿珠さんに返し、翠さまはドヤッと笑った。
「かなわねえな、さすがは主上の寵愛篤い司午貴妃殿下……」
と、椿珠さんは苦笑するのだった。
その夜は少し夜更かしして、私と玉楊さんが北方での冒険譚を翠さま、毛蘭さんに寝室で話して聞かせる。
涙あり笑いあり、手に汗握る戦いの一幕がありの一大スペクタクル。
「お腹の中の赤ちゃんが無意識のうちに央那に対して恐怖心を抱いちゃうんじゃないかしら。武勇で知られる戌族の頭目をその手で仕留める女が近くにいるなんて胎教に良いのか悪いのかさっぱりわからないわ」
話を聞いて泣いてしまった翠さま。
照れ隠しのようにおどけて言った。
「皇子(おうじ)さまにも恐れられる侍女が後宮にいるようだ、なんて話が、いずれ国じゅうに広まるかもしれませんね。首狩り軍師よりも有名になっちゃうんじゃないかしら」
毛蘭さんも布で目尻の涙を抑えながら、大いにありそうな未来予想図を語る。
なんだろう、その場合に私に与えられる二つ名は。
毒炎の侍女、とかだろうか。
ふふ、悪くない。
そう呼ばれても、ちっとも嫌じゃないな。
私は、自分の意志でその在り方を選んだのだから。
仕方なく、不本意に、状況に流されてそう生きたわけではないのだから。
夜も遅いのでもう琵琶は鳴らさないけれど、指で弾く真似、エア琵琶をしながら、玉楊さんが少し恥ずかしそうに言った。
「わたくし、麗央那(れおな)とみなさまが戦い旅した物語を、長歌に仕上げたいと思っているの。ときが過ぎても、わたくしたちが死んでしまっても、いつまでも誰かに歌われて語り継がれるように。わたくしたちの物語を……」
そして、考えている途中だと言う冒頭の数句を、頬を染めて口ずさんだ。
戌来燃小邑
女哭誓復讐
研牙中後宮
待静朋友仇
戌が来たりて小さな邑を燃やす。
女は哭き復讐を誓う。
牙を研ぐは後宮の中。
静かに待つ、朋友たちの仇を。
「う、うっう、ううう……ひぃん……」
聞いた瞬間、私はこらえきれずに、ベッドに腰掛ける翠さまの足元に上体を突っ伏し、泣き崩れた。
頑張って、苦しくて辛い思いをたくさん経験して。
それでも今、こうして帰って来られたのだ。
大事な人たちと共に、穏やかで幸せな日々を、この手に取り戻した。
玉楊さんの優しい声で、これまでの艱難辛苦を振り返ってもらい。
私はやっと、十六歳のしょぼくれた女の子に戻り、自分のためにめそめそと泣くことができたのだ。
物語にしてもらえば、辛い経験は過去の思い出になる。
もう、恐怖にも恩讐にも、自分が背負ってしまった殺業にも、怯えなくていいのだ。
「あんたたちはよくやったわよ……あたしが言うんだから間違いないわ。今はゆっくりお休みなさい」
翠さまに頭を撫でられながら。
私は夜遅くまで、いつまでも、いつまでも泣き続けたのだった。
翌朝。
宵っ張りしていたから、翠さまのお目覚めは遅い。
後宮で勤めた最初の日の夜、二人でタコとサメの話をしたのを思い出すな。
なんてことを気楽に思い出しながら。
「洗濯を日のあるうちに片付けるか」
と、翔霏が言う通りに、昨日と同じく作業に取り掛かろうとしていたら。
寝室周りのお世話をしている毛蘭さんが、血相を変えて痛む足を庇うのも忘れ、走って来て、言った。
「お、央那。翠さまが、お目覚めにならないの……!」
笑顔を消した私たちは、言葉もなく翠さまの寝室に駆けるのだった。
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大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。
生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。
しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。
「すまない。私は父としての責任を果たす」
かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。
だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。
これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。
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