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プロローグ
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その人は、他の人とは違う匂いがした。
鮮やかな花の香りのような生の匂いと腐臭のような死の臭いが。
「……おかあさん、ここなんかくさいね?」
「またなの? 何も臭わないじゃない。相変わらず気持ち悪い子ね」
「ねぇ、あの子って、げんきじゃないのかなぁ?」
「ナコちゃんなに言ってるの?」
「ねぇねぇ……。ナコちゃんが言ってた子、びょうきでしんじゃったんでしょう?」
「うんうん。おかあさんが言ってた。なんかふちのやまい?だったって……」
「……なんでげんきじゃないって知ってたんだろうね。ナコちゃん」
「……ナコちゃん、あの子がしぬの知ってたみたい……」
「……気もちわるいね…」 「ね」 「キモチわるい……」 「キモチワル……」
「いらっしゃいませ」
今日も店中に広がるコーヒーの香りが私の鼻を擽る。
駅に程近いこのお店は、通勤途中の人達がコーヒーを持ち帰る為、朝はひっきりなしにお客様が訪れる。
プシュっと音を立てるエスプレッソマシンの前では、ベテランの先輩が鮮やかにオーダーを捌いていた。
「おねーさん、いつもの!」
「はい! アイスラテの氷少なめミルク多めですね! お支払いはカードでよろしいですか?」
「ほい。おねーさんいつもありがとねっ!」
「順番におつくりしていますので、カウンターをお進みになってお待ちください。次のお客様、お待たせいたしました」
常連のおじさまの後ろに並んでいたお客様に目を向けた瞬間、ぴくりと指先が跳ねた。
その人からは、花と死のにおいがした。
そのにおいにわたしだけが気づくのだと知ったのはいつだっただろう。
それに気づいてしまうという事が、他の人からすれば気持ち悪く、異質であると知ったのは。
幼い頃から、わたしの鼻は異質な臭いを嗅ぎ取っていた。
それは言うなれば死の臭い。腐臭にも似たそれがするのは決まって死期が近い人からだった。
早くて数時間後、遅くても一週間以内にはその臭いがする人は命を落としていった。
金気の強い血の臭いがする人は、事故などの突然な死が。
腐った生ゴミのような臭いがする人は、病による死が。
そして……。
何とも形容しがたい、人が不快に感じる臭いを集めて凝縮したような、例えようもなくキツい臭いがする人は……。
ナニカの抗いがたい不運によって命を奪われるのだ。
この臭いがなんだかわからなかった幼い頃のわたしは、このことを不用意に周囲に話しては、段々と気味悪がられ、疎まれていった。
大人になった今では、両親を始めとした血縁者とも、小・中学といった幼い頃の人間関係とも遠く離れ、臭いに慣れてしまった鼻腔をリセットするというコーヒーの香り漂うこの店で働きながら、静かに目立たぬように暮らしていた。
はずだったのに……。
再びカウンター越しに立つそのお客様を見る。
まだ梅雨前だというのにねっとりとした高い気温とむしむしとした湿度という、過ごしやすいとはとても言えない日和の中で、黒のシャツに黒の細身のパンツを穿いた彼は明らかに異質だった。
暑苦しく見える筈のコーデなのに、何故かその人の纏う空気は涼し気で。
そして摘み立ての花のような匂いと、むせ返るほどの死の臭い。
相反するソレを纏いながら、静かに彼は立っていた。
「……オーダー、いいですか?」
「っ! は、はいっ!! お待たせいたしました!」
完全に意識をとられていたわたしに、少しだけ訝し気に首を傾げた彼が、アイスコーヒーを注文する。
ドリップのコーヒーは、カウンターではなくレジで渡すことになっているので、慌てて用意をする。
「ご、ごゆっくりお過ごしください!」
そう告げて、しまった! と思っても後の祭りで。
持ち帰り用のプラカップにストローを刺した状態で、確かにわたしが渡したアイスコーヒーを片手に持った彼が、少しだけ微笑んで去って行った。
僅かな死臭と、鮮やかな花の香りを残しながら。
そんな事が起きてから、早半月。
あの日の相反する香りを纏った彼の事など、すっかり忘れていた仕事からの帰り道にそれは起きた。
宵闇迫る逢魔が時。あの不快な臭いが一番強く感じられるこの時間がわたしは苦手だ。
仕事先で用意してきたコーヒーのタンブラー片手にうつむきがちに家路を急いでいたその時、鼻に忍び込んできたのは、あの匂いだった。
ふと視線を上げれば、あの時の彼が向こうから歩いてくる。
今日も全身真っ黒コーデだが、相変わらず纏う空気は清涼で。
だけど……。
「……なんで生きてるの?」
迂闊なその言葉は、思いもかけずよく響いてしまい、彼の耳にも届いたようだ。
何故なら。
わたしの言葉ににんまりと嗤った彼が、わたしの腕を掴んでビルとビルの間の暗がりに連れ込んだからだ。
そこにも僅かな腐臭が漂っていた。それが現実的な、飲食店から出されたゴミの臭いなのか、わたしだけが嗅ぎ取る例の臭いなのか、それすらわからぬまま、わたしは壁を背に彼の腕の中にいた。
傍から見ればいわゆる壁ドン状態で、見上げた先にあった彼の顔の顔面偏差値を鑑みれば、もしかしたらご褒美になり得たかもしれない。
射干玉のという表現が相応しい黒髪は少し長めに、でも伸ばしっぱなしといった感じではなく整えられていて。
同じく黒曜石のような光を内包した瞳と、少しだけ目尻の上がった目は、ともすれば冷たそうに見えるが、左目尻にぽつりと落とされた小さな泣きぼくろが、柔らかな艶やかさを足している。
すっと通った鼻筋と、薄めの唇が緩く弧を書いていて……。遠くから見ているだけなら、感嘆のため息の一つでも零せそうなのだが……。
……彼の浮かべる表情が、それをありありと裏切っていた。
「ねぇ、君さ。この先のカフェの店員さんだよね? それって仮の姿とかで、実は俺の命を狙っているスパイとか? ってそれなんて漫画だよ。ありがち過ぎて面白くねぇな。
で? なんで俺が生きてる事がそんなに不思議な訳? 君、男に易々とここまで引きずり込まれてさ、スパイとか暗殺者向いてなさ過ぎない? それとも何? これも作戦なの?」
怒涛のように告げられて、返事をする隙間もない。
いや、とか、あのとかしか答えられないまどろっこしい時間だけが過ぎていき……。
「……なぁ? 聞いてんの? ……ちゃんと答えろよ」
ぐっと顎を掴まれて彼としっかり目が合う。壁ドン状態の時から感じていた花の香りが一層濃くなり、酔いそうになった。
だけど……それを上回る勢いで強くなる死の臭い。それは目の前にいる彼からと……奥へと続く暗がりから強く漂ってきた。
「おい。よそ見すんなって」
「ひぅっ!」
思わず臭いの元に視線を向けてしまうと、強く顎を掴まれた。だけど、痛みに歪む視界の端に映ったソレに、思わず悲鳴を上げてしまう。
ソレは暗がりからのそりと現れた。ビルとビルの隙間だけあって、この通路の向こう側も別の路地に面していた筈で、そこまで大きくもないビルだったからこそ、連れ込まれた時には向こうの路地の灯りも、行き交う人の雑踏も見えていた。……見えていたはずだった。
それが今はどういう訳か真っ暗だ。そして一片の光もない、真っ暗な暗闇から姿を現したのは……。
正に異形。
ずるずると引き摺っているのは手足なのだろうか? あり得ない程細く長いソレを纏わせ、胴体と言えそうな部分を引きずりながら、恐らく顔であろう部分は醜く崩れ、落ちくぼんだ眼窩から更に深い闇を乗せたソレは暗がりからのそりと姿を現した。
「ひっ!」
より強くなる腐臭と、今目にしているナニカとても恐ろしいモノが怖くて、身体が震え出す。
「……お前……見えてんのか?」
その言葉は、恐ろしいモノから視線を外すのに一役買ってくれた。
いきなり震え始めたわたしを訝しむ言葉ではなく、ソレが在る事を認めた上でのその言葉に驚いて、彼の顔を呆けたように見つめるしかできなかった。
「……へぇ」
彼の手が顎から離れた。
「……あ」
さっきまで見えていたナニカが姿を消した。が、残された腐臭がまだ危機が去っていない事を告げていた。
「ん? 見えなくなったのか? ……あぁ、こうか?」
「ひっ!?」
男の手がわたしに触れた瞬間、先程の異形が再び現れる。むしろさっきより近づいてきている。
「へぇ。視るには少し足りないのか? それとも俺と相性がいいのか……。こりゃめっけもんだったかもなぁ」
のんびりと話す彼とは裏腹に、わたしはここから逃げ出したくて仕方がない。
ソレが近づくほどに強くなる腐臭が恐怖を煽る。
カクカクと震える足には既に力が入らず、壁に背を預けていなければこの汚れた路地に腰を落としてしまった事だろう。
「に、逃げないと……」
わたしの手を握っていた男の手を、逆に縋るように握って、ここから一刻も早く立ち去る事を願う。
縋りついた男の身体からは、やはり花の匂いがした。
「まぁ、待てって。せっかくだからコレも見せてやるよ」
焦りを一片も感じさせない、余裕綽々を体現したような男の言動と共に、彼の指には何かが書かれた白い紙が挟まれていた。
そして。
ふわりと放たれた紙が人型を結び、そこには巫女のような衣装を身に着けた幼女と言っても差し支えない年頃の女の子が一人。
「なんぞなんぞ。これほどの穢れがこのような街中にいるとは珍しいのぉ」
見た目を裏切るような古風な言葉遣いと共に、おもむろに幼女が手にしたのはこれまた見た目を裏切る物で。
それは、いわゆる死神と呼ばれる存在が持っていそうな柄の長い大きな鎌だった。それこそ幼女の身の丈以上あるその武器を、彼女は軽々と振り回した。
一条の光のように煌めいた大鎌が、躊躇なくソレを切り裂き、悲鳴もなくソレが消えていく。
瞬きの後には、路地の向こうにはいつもと変わりない灯りと喧騒が戻ってきていた。
「な、な、なな、なななぁ!!」
かっくりと腰が抜けて、彼の身体に縋りつくよう身を預けてしまう。
異性とこれほどまでに接近したのは人生初であるにも関わらず、それすら気にならない程動揺していた。
「なんじゃ葵。其方が女連れとは珍しいのぉ……ほぉ、なかなか面妖な力を持った女子じゃの」
すいっと音もなく近づいてきた幼女に、下から顔を覗き込まれ、何やら勝手な事を言われている。
「ななな……」
「ふむ。なかなか良い拾い物をしたようじゃの」
「だろう? 俺に触れていれば、俺より良く視えてるっぽい。だからコレは俺の物にする。決まりだな」
「よいよい。なるほどなるほど。穢れを鼻で感じる能力か。葵が触れていれば視認も可能と……うむ。よきよき」
じぃとわたしを見透かすように見ていた幼女の言葉に驚く。ようにではなく、明らかに見透かされていたからだ。
誰も信じなかった、この異常な嗅覚を。
「という事だ。ちょっと俺と一緒に来てくれるか?」
拒否は許さねぇと言わんばかりの表情で告げられるそれに、もはやわたしの意識は限界で。
彼の放つ花の香りに包まれながら、ふつりと気を失った事を誰にも責められないと思う。
……その結果。
男の部屋に連れ込まれるわ、幽霊やら異形やらその存在自体俄に信じがたい物の怪退治のアシスタントとして駆り出されるわと、わたしの人生はこれまでとだいぶ変化してしまう事にこの時はまだ気づいていなかった。
鮮やかな花の香りのような生の匂いと腐臭のような死の臭いが。
「……おかあさん、ここなんかくさいね?」
「またなの? 何も臭わないじゃない。相変わらず気持ち悪い子ね」
「ねぇ、あの子って、げんきじゃないのかなぁ?」
「ナコちゃんなに言ってるの?」
「ねぇねぇ……。ナコちゃんが言ってた子、びょうきでしんじゃったんでしょう?」
「うんうん。おかあさんが言ってた。なんかふちのやまい?だったって……」
「……なんでげんきじゃないって知ってたんだろうね。ナコちゃん」
「……ナコちゃん、あの子がしぬの知ってたみたい……」
「……気もちわるいね…」 「ね」 「キモチわるい……」 「キモチワル……」
「いらっしゃいませ」
今日も店中に広がるコーヒーの香りが私の鼻を擽る。
駅に程近いこのお店は、通勤途中の人達がコーヒーを持ち帰る為、朝はひっきりなしにお客様が訪れる。
プシュっと音を立てるエスプレッソマシンの前では、ベテランの先輩が鮮やかにオーダーを捌いていた。
「おねーさん、いつもの!」
「はい! アイスラテの氷少なめミルク多めですね! お支払いはカードでよろしいですか?」
「ほい。おねーさんいつもありがとねっ!」
「順番におつくりしていますので、カウンターをお進みになってお待ちください。次のお客様、お待たせいたしました」
常連のおじさまの後ろに並んでいたお客様に目を向けた瞬間、ぴくりと指先が跳ねた。
その人からは、花と死のにおいがした。
そのにおいにわたしだけが気づくのだと知ったのはいつだっただろう。
それに気づいてしまうという事が、他の人からすれば気持ち悪く、異質であると知ったのは。
幼い頃から、わたしの鼻は異質な臭いを嗅ぎ取っていた。
それは言うなれば死の臭い。腐臭にも似たそれがするのは決まって死期が近い人からだった。
早くて数時間後、遅くても一週間以内にはその臭いがする人は命を落としていった。
金気の強い血の臭いがする人は、事故などの突然な死が。
腐った生ゴミのような臭いがする人は、病による死が。
そして……。
何とも形容しがたい、人が不快に感じる臭いを集めて凝縮したような、例えようもなくキツい臭いがする人は……。
ナニカの抗いがたい不運によって命を奪われるのだ。
この臭いがなんだかわからなかった幼い頃のわたしは、このことを不用意に周囲に話しては、段々と気味悪がられ、疎まれていった。
大人になった今では、両親を始めとした血縁者とも、小・中学といった幼い頃の人間関係とも遠く離れ、臭いに慣れてしまった鼻腔をリセットするというコーヒーの香り漂うこの店で働きながら、静かに目立たぬように暮らしていた。
はずだったのに……。
再びカウンター越しに立つそのお客様を見る。
まだ梅雨前だというのにねっとりとした高い気温とむしむしとした湿度という、過ごしやすいとはとても言えない日和の中で、黒のシャツに黒の細身のパンツを穿いた彼は明らかに異質だった。
暑苦しく見える筈のコーデなのに、何故かその人の纏う空気は涼し気で。
そして摘み立ての花のような匂いと、むせ返るほどの死の臭い。
相反するソレを纏いながら、静かに彼は立っていた。
「……オーダー、いいですか?」
「っ! は、はいっ!! お待たせいたしました!」
完全に意識をとられていたわたしに、少しだけ訝し気に首を傾げた彼が、アイスコーヒーを注文する。
ドリップのコーヒーは、カウンターではなくレジで渡すことになっているので、慌てて用意をする。
「ご、ごゆっくりお過ごしください!」
そう告げて、しまった! と思っても後の祭りで。
持ち帰り用のプラカップにストローを刺した状態で、確かにわたしが渡したアイスコーヒーを片手に持った彼が、少しだけ微笑んで去って行った。
僅かな死臭と、鮮やかな花の香りを残しながら。
そんな事が起きてから、早半月。
あの日の相反する香りを纏った彼の事など、すっかり忘れていた仕事からの帰り道にそれは起きた。
宵闇迫る逢魔が時。あの不快な臭いが一番強く感じられるこの時間がわたしは苦手だ。
仕事先で用意してきたコーヒーのタンブラー片手にうつむきがちに家路を急いでいたその時、鼻に忍び込んできたのは、あの匂いだった。
ふと視線を上げれば、あの時の彼が向こうから歩いてくる。
今日も全身真っ黒コーデだが、相変わらず纏う空気は清涼で。
だけど……。
「……なんで生きてるの?」
迂闊なその言葉は、思いもかけずよく響いてしまい、彼の耳にも届いたようだ。
何故なら。
わたしの言葉ににんまりと嗤った彼が、わたしの腕を掴んでビルとビルの間の暗がりに連れ込んだからだ。
そこにも僅かな腐臭が漂っていた。それが現実的な、飲食店から出されたゴミの臭いなのか、わたしだけが嗅ぎ取る例の臭いなのか、それすらわからぬまま、わたしは壁を背に彼の腕の中にいた。
傍から見ればいわゆる壁ドン状態で、見上げた先にあった彼の顔の顔面偏差値を鑑みれば、もしかしたらご褒美になり得たかもしれない。
射干玉のという表現が相応しい黒髪は少し長めに、でも伸ばしっぱなしといった感じではなく整えられていて。
同じく黒曜石のような光を内包した瞳と、少しだけ目尻の上がった目は、ともすれば冷たそうに見えるが、左目尻にぽつりと落とされた小さな泣きぼくろが、柔らかな艶やかさを足している。
すっと通った鼻筋と、薄めの唇が緩く弧を書いていて……。遠くから見ているだけなら、感嘆のため息の一つでも零せそうなのだが……。
……彼の浮かべる表情が、それをありありと裏切っていた。
「ねぇ、君さ。この先のカフェの店員さんだよね? それって仮の姿とかで、実は俺の命を狙っているスパイとか? ってそれなんて漫画だよ。ありがち過ぎて面白くねぇな。
で? なんで俺が生きてる事がそんなに不思議な訳? 君、男に易々とここまで引きずり込まれてさ、スパイとか暗殺者向いてなさ過ぎない? それとも何? これも作戦なの?」
怒涛のように告げられて、返事をする隙間もない。
いや、とか、あのとかしか答えられないまどろっこしい時間だけが過ぎていき……。
「……なぁ? 聞いてんの? ……ちゃんと答えろよ」
ぐっと顎を掴まれて彼としっかり目が合う。壁ドン状態の時から感じていた花の香りが一層濃くなり、酔いそうになった。
だけど……それを上回る勢いで強くなる死の臭い。それは目の前にいる彼からと……奥へと続く暗がりから強く漂ってきた。
「おい。よそ見すんなって」
「ひぅっ!」
思わず臭いの元に視線を向けてしまうと、強く顎を掴まれた。だけど、痛みに歪む視界の端に映ったソレに、思わず悲鳴を上げてしまう。
ソレは暗がりからのそりと現れた。ビルとビルの隙間だけあって、この通路の向こう側も別の路地に面していた筈で、そこまで大きくもないビルだったからこそ、連れ込まれた時には向こうの路地の灯りも、行き交う人の雑踏も見えていた。……見えていたはずだった。
それが今はどういう訳か真っ暗だ。そして一片の光もない、真っ暗な暗闇から姿を現したのは……。
正に異形。
ずるずると引き摺っているのは手足なのだろうか? あり得ない程細く長いソレを纏わせ、胴体と言えそうな部分を引きずりながら、恐らく顔であろう部分は醜く崩れ、落ちくぼんだ眼窩から更に深い闇を乗せたソレは暗がりからのそりと姿を現した。
「ひっ!」
より強くなる腐臭と、今目にしているナニカとても恐ろしいモノが怖くて、身体が震え出す。
「……お前……見えてんのか?」
その言葉は、恐ろしいモノから視線を外すのに一役買ってくれた。
いきなり震え始めたわたしを訝しむ言葉ではなく、ソレが在る事を認めた上でのその言葉に驚いて、彼の顔を呆けたように見つめるしかできなかった。
「……へぇ」
彼の手が顎から離れた。
「……あ」
さっきまで見えていたナニカが姿を消した。が、残された腐臭がまだ危機が去っていない事を告げていた。
「ん? 見えなくなったのか? ……あぁ、こうか?」
「ひっ!?」
男の手がわたしに触れた瞬間、先程の異形が再び現れる。むしろさっきより近づいてきている。
「へぇ。視るには少し足りないのか? それとも俺と相性がいいのか……。こりゃめっけもんだったかもなぁ」
のんびりと話す彼とは裏腹に、わたしはここから逃げ出したくて仕方がない。
ソレが近づくほどに強くなる腐臭が恐怖を煽る。
カクカクと震える足には既に力が入らず、壁に背を預けていなければこの汚れた路地に腰を落としてしまった事だろう。
「に、逃げないと……」
わたしの手を握っていた男の手を、逆に縋るように握って、ここから一刻も早く立ち去る事を願う。
縋りついた男の身体からは、やはり花の匂いがした。
「まぁ、待てって。せっかくだからコレも見せてやるよ」
焦りを一片も感じさせない、余裕綽々を体現したような男の言動と共に、彼の指には何かが書かれた白い紙が挟まれていた。
そして。
ふわりと放たれた紙が人型を結び、そこには巫女のような衣装を身に着けた幼女と言っても差し支えない年頃の女の子が一人。
「なんぞなんぞ。これほどの穢れがこのような街中にいるとは珍しいのぉ」
見た目を裏切るような古風な言葉遣いと共に、おもむろに幼女が手にしたのはこれまた見た目を裏切る物で。
それは、いわゆる死神と呼ばれる存在が持っていそうな柄の長い大きな鎌だった。それこそ幼女の身の丈以上あるその武器を、彼女は軽々と振り回した。
一条の光のように煌めいた大鎌が、躊躇なくソレを切り裂き、悲鳴もなくソレが消えていく。
瞬きの後には、路地の向こうにはいつもと変わりない灯りと喧騒が戻ってきていた。
「な、な、なな、なななぁ!!」
かっくりと腰が抜けて、彼の身体に縋りつくよう身を預けてしまう。
異性とこれほどまでに接近したのは人生初であるにも関わらず、それすら気にならない程動揺していた。
「なんじゃ葵。其方が女連れとは珍しいのぉ……ほぉ、なかなか面妖な力を持った女子じゃの」
すいっと音もなく近づいてきた幼女に、下から顔を覗き込まれ、何やら勝手な事を言われている。
「ななな……」
「ふむ。なかなか良い拾い物をしたようじゃの」
「だろう? 俺に触れていれば、俺より良く視えてるっぽい。だからコレは俺の物にする。決まりだな」
「よいよい。なるほどなるほど。穢れを鼻で感じる能力か。葵が触れていれば視認も可能と……うむ。よきよき」
じぃとわたしを見透かすように見ていた幼女の言葉に驚く。ようにではなく、明らかに見透かされていたからだ。
誰も信じなかった、この異常な嗅覚を。
「という事だ。ちょっと俺と一緒に来てくれるか?」
拒否は許さねぇと言わんばかりの表情で告げられるそれに、もはやわたしの意識は限界で。
彼の放つ花の香りに包まれながら、ふつりと気を失った事を誰にも責められないと思う。
……その結果。
男の部屋に連れ込まれるわ、幽霊やら異形やらその存在自体俄に信じがたい物の怪退治のアシスタントとして駆り出されるわと、わたしの人生はこれまでとだいぶ変化してしまう事にこの時はまだ気づいていなかった。
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