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本編
第19話 最終修練、灰色の荒野ハデス
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イグノールたちと別れ、大聖堂の私室に戻った私は、身を清めた後、遅めの昼食を食堂で摂った。
数名の神官たちと他愛ない話を交わし、穏やかな時間を過ごす。
食後の紅茶の香りがまだ喉奥に残る頃、私はエレノーラ様の部屋を訪れた。
「あらタクト、早かったですね。待っていましたよ」
柔らかな笑みと共に迎えられたが、その瞳の奥にはわずかな緊張があった。
そのまま中広間まで移動し、二人きりになる。
「今日で最後の修練です。戻ってきたら聖女のもとへ行ってもらいますが、私が共に稽古をつけるのはこれが最後になります」
「はい。それで、今日はどこへ?」
エレノーラ様はわずかに眉を寄せ、低い声で告げた。
「最後の修練として、次元界ハデスに行ってもらいます」
「ハデス?」
……冥界の神様の名前だったな、確か。
「ええ。灰色の荒野が広がる世界です。一応、町や住人、魔物や神々も存在しますが――」
「そこで何を?」
「貴方には、絶望と虚無を経験してもらいます」
「……えっ?」
絶望と虚無……ただならぬ場所だと直感する。
「本当はもっと様々な場所で、色々な修練をさせたかったのですが、私にはもう時間がありません」
「それで、何をすればよいのですか?」
「何もしなくてよいです」
「……はい!?」
「何もせず、絶望を一時間、虚無を二時間、体験してもらいます」
「ただ、それだけですか?」
「ええ。しかも、他者が襲ってきたり干渉したりしない場所でやります」
「は……はぁ」
最後の試練の割には、今までのような激しさは無いのか?
一体どんな意図があるのだろうか――。
エレノーラ様は私の疑問を見透かしたように、意味深な笑みを浮かべた。
「では、行きましょう」
エレノーラ様の詠唱と共に、私たちは転移魔法陣に包まれた。
次の瞬間、視界から色がすべて抜け落ちる。
足元には灰色の土。
見渡す限りの岩と丘陵、ねじれた木々――全てが色を失っている。
自分の手も、髪も、肌も、ただの灰色に染まっていた。
遠方からは、低く唸る轟音と断末魔が混ざり合い、風がそれを運んでくる。
それは奈落と地獄の軍勢が果てなき流血戦争を繰り広げる音だ。
「ここは第1階層、オイノス。だが修練は別の階層で行います」
再び魔法陣が展開し、景色が変わった。
辿り着いたのは、灰色の霧が峡谷を覆う第二階層――ニヴルヘイム。
霧は冷たく湿り、吸い込むたびに肺の奥が重くなる。
「ここで一時間、絶望を味わいなさい。付与魔法は禁止です。何もせず、ただ感じなさい」
私は岩に腰を下ろした。
霧が肌を舐めるようにまとわりつき、音は様々なものが混沌と反響し、世界はゆっくりと閉じていく。
十分もしないうちに、胸の奥から焦燥と重苦しさが湧き出す。
過去の記憶が勝手に浮かんでくる。
逃げた日、守れなかった日、全否定された時、誰かに背を向けられた瞬間――忘れたいはずの情景が、まるで霧が形を成したかのように目前で再現される。
気づけば心の中で「もういい」と呟いていた。
抗う気力は削られ、痛みを拒むよりも、そのまま受け入れた方が楽だと悟ってしまう。
重石のような絶望は、もはや敵ではなく、背もたれのように身体を支えていた。
◆◆◆
一時間後、エレノーラ様の手が肩に触れた。
その温もりが、辛うじて私を立たせた。
「いかがでしたか? 楽な修練でしたか?」
エレノーラ様は見透かすように私に問いかける。
「……いいえ、師匠が何故ここを最後の修練に選んだのかわかった気がします」
「ふふ、そうですか。……貴方の顔つきを見ればどうだったかはわかりますわ」
エレノーラ様はうっすら微笑んで答えた。
彼女の転移の光に包まれ、次に立ったのは第三階層――プルトン。
音のない世界。
枯れかけた木々の幹に、うっすらと人の顔のような影が浮かんでいる。
スティクス河は濁った水を静かに運び、流れる音すら吸い込まれて消える。
「ここで二時間、虚無に身を置きなさい」
「わかりました」
私は立ったまま、何もせず、ただそこにいた。
やがて、思考が摩耗し、時間の感覚が消える。
絶望で削られた心は、空洞となって静まり返る。
呼吸も鼓動も遠く、自分の存在が風景の一部に溶けていく。
その瞬間、私は悟った。
これは死ではない。生きながら世界そのものと同化することだ。
痛みも喜びもない。
あるのは灰色の「無」と、そこに等しく漂う私という影だけ――。
どれほどそうしていたのか分からない。
気づけば私の輪郭は曖昧で、空も地面も、自分も区別できなかった。
私は、虚無と一つになっていた。
――色が戻った。
視界が鮮やかさを取り戻すと同時に、胸の奥に熱が広がる。
息を吸うと、空気が甘くすら感じた。
あの同化感は消え、再び「私」という輪郭が戻ってくる。
「生きる意味を見失わぬ強さを得たでしょう?」
エレノーラ様は静かに微笑む。
「絶望を受け入れ、虚無と溶け合うこと。それは本来、魂を殺す毒です。それに耐え、戻ってこられた貴方なら――きっとどんな困難も乗り越えられます」
その言葉に、私はただ頷くしかなかった。
こうして最終修練は終わった。
エレノーラ様からのご指導、転移してから今まで、長いようで短かった気がする。
私たちは灰色の世界をあとにし、転移によって元の世界に戻る。
転移陣の光が二人を包み、次の瞬間にはいつもの中広間が現れる。
「お疲れ様でした。これで私が貴方に授ける修練はすべて修了しました。あとは貴方が自ら考え、道を切り開きなさい」
「はいっ! 今日までご指導いただき、ありがとうございました!」
私は次の任務――新たな聖女のもとへ向かうことになった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【まめちしき】
【ハデス】……色彩を失った灰色の荒地が果てしなく広がる次元界。太陽や月、星、季節もなく、蔓延する疫病と暗鬱、諦め、絶望のみがある。すべての神格、悪魔などからも見捨てられた魂が流れ着く先。ハデスは奈落と地獄の中間地点にあり、彼らの軍勢が荒野で戦い続けている。
数名の神官たちと他愛ない話を交わし、穏やかな時間を過ごす。
食後の紅茶の香りがまだ喉奥に残る頃、私はエレノーラ様の部屋を訪れた。
「あらタクト、早かったですね。待っていましたよ」
柔らかな笑みと共に迎えられたが、その瞳の奥にはわずかな緊張があった。
そのまま中広間まで移動し、二人きりになる。
「今日で最後の修練です。戻ってきたら聖女のもとへ行ってもらいますが、私が共に稽古をつけるのはこれが最後になります」
「はい。それで、今日はどこへ?」
エレノーラ様はわずかに眉を寄せ、低い声で告げた。
「最後の修練として、次元界ハデスに行ってもらいます」
「ハデス?」
……冥界の神様の名前だったな、確か。
「ええ。灰色の荒野が広がる世界です。一応、町や住人、魔物や神々も存在しますが――」
「そこで何を?」
「貴方には、絶望と虚無を経験してもらいます」
「……えっ?」
絶望と虚無……ただならぬ場所だと直感する。
「本当はもっと様々な場所で、色々な修練をさせたかったのですが、私にはもう時間がありません」
「それで、何をすればよいのですか?」
「何もしなくてよいです」
「……はい!?」
「何もせず、絶望を一時間、虚無を二時間、体験してもらいます」
「ただ、それだけですか?」
「ええ。しかも、他者が襲ってきたり干渉したりしない場所でやります」
「は……はぁ」
最後の試練の割には、今までのような激しさは無いのか?
一体どんな意図があるのだろうか――。
エレノーラ様は私の疑問を見透かしたように、意味深な笑みを浮かべた。
「では、行きましょう」
エレノーラ様の詠唱と共に、私たちは転移魔法陣に包まれた。
次の瞬間、視界から色がすべて抜け落ちる。
足元には灰色の土。
見渡す限りの岩と丘陵、ねじれた木々――全てが色を失っている。
自分の手も、髪も、肌も、ただの灰色に染まっていた。
遠方からは、低く唸る轟音と断末魔が混ざり合い、風がそれを運んでくる。
それは奈落と地獄の軍勢が果てなき流血戦争を繰り広げる音だ。
「ここは第1階層、オイノス。だが修練は別の階層で行います」
再び魔法陣が展開し、景色が変わった。
辿り着いたのは、灰色の霧が峡谷を覆う第二階層――ニヴルヘイム。
霧は冷たく湿り、吸い込むたびに肺の奥が重くなる。
「ここで一時間、絶望を味わいなさい。付与魔法は禁止です。何もせず、ただ感じなさい」
私は岩に腰を下ろした。
霧が肌を舐めるようにまとわりつき、音は様々なものが混沌と反響し、世界はゆっくりと閉じていく。
十分もしないうちに、胸の奥から焦燥と重苦しさが湧き出す。
過去の記憶が勝手に浮かんでくる。
逃げた日、守れなかった日、全否定された時、誰かに背を向けられた瞬間――忘れたいはずの情景が、まるで霧が形を成したかのように目前で再現される。
気づけば心の中で「もういい」と呟いていた。
抗う気力は削られ、痛みを拒むよりも、そのまま受け入れた方が楽だと悟ってしまう。
重石のような絶望は、もはや敵ではなく、背もたれのように身体を支えていた。
◆◆◆
一時間後、エレノーラ様の手が肩に触れた。
その温もりが、辛うじて私を立たせた。
「いかがでしたか? 楽な修練でしたか?」
エレノーラ様は見透かすように私に問いかける。
「……いいえ、師匠が何故ここを最後の修練に選んだのかわかった気がします」
「ふふ、そうですか。……貴方の顔つきを見ればどうだったかはわかりますわ」
エレノーラ様はうっすら微笑んで答えた。
彼女の転移の光に包まれ、次に立ったのは第三階層――プルトン。
音のない世界。
枯れかけた木々の幹に、うっすらと人の顔のような影が浮かんでいる。
スティクス河は濁った水を静かに運び、流れる音すら吸い込まれて消える。
「ここで二時間、虚無に身を置きなさい」
「わかりました」
私は立ったまま、何もせず、ただそこにいた。
やがて、思考が摩耗し、時間の感覚が消える。
絶望で削られた心は、空洞となって静まり返る。
呼吸も鼓動も遠く、自分の存在が風景の一部に溶けていく。
その瞬間、私は悟った。
これは死ではない。生きながら世界そのものと同化することだ。
痛みも喜びもない。
あるのは灰色の「無」と、そこに等しく漂う私という影だけ――。
どれほどそうしていたのか分からない。
気づけば私の輪郭は曖昧で、空も地面も、自分も区別できなかった。
私は、虚無と一つになっていた。
――色が戻った。
視界が鮮やかさを取り戻すと同時に、胸の奥に熱が広がる。
息を吸うと、空気が甘くすら感じた。
あの同化感は消え、再び「私」という輪郭が戻ってくる。
「生きる意味を見失わぬ強さを得たでしょう?」
エレノーラ様は静かに微笑む。
「絶望を受け入れ、虚無と溶け合うこと。それは本来、魂を殺す毒です。それに耐え、戻ってこられた貴方なら――きっとどんな困難も乗り越えられます」
その言葉に、私はただ頷くしかなかった。
こうして最終修練は終わった。
エレノーラ様からのご指導、転移してから今まで、長いようで短かった気がする。
私たちは灰色の世界をあとにし、転移によって元の世界に戻る。
転移陣の光が二人を包み、次の瞬間にはいつもの中広間が現れる。
「お疲れ様でした。これで私が貴方に授ける修練はすべて修了しました。あとは貴方が自ら考え、道を切り開きなさい」
「はいっ! 今日までご指導いただき、ありがとうございました!」
私は次の任務――新たな聖女のもとへ向かうことになった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【まめちしき】
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