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第一章 王様と暗殺者
-3- ノクターン・ラブラドライト
しおりを挟む軽く焼いたバゲットに、ベリーのジャムとクロテッドクリームを塗る。一口かぶりついて味わうと鼻の奥に突き抜ける香ばしさに、思わず少し目を閉じた。
皇族の朝は早い。死んだ先王が行っていた仕事を、二十にも満たない娘たち二人で遣り繰りしているのだから。アレキサンドラはティーカップの紅茶を一口啜る。今朝の茶はローズティーだ。喉から鼻にかけて広がるフローラルさをしばし噛みしめる。
忙しない毎日の中、美味しい食事というのは無くてはならないものだ。一日のモチベーションは朝食から始まるのだから。
ふわふわのオムレツをひとくち口にしたところで、アレキサンドラは、正面に座る姉がどこか落ち着かない様子なことに気が付いた。今日は公務がないからか、普段とは違う年頃の娘の着るドレスを身につけている。目元に頬に丁寧に化粧を施している姉を眺めて、ふと、何かを察したように彼女は口を開いた。
「姉上、今日はグラツィアーニ男爵のご子息の所へ?」
「へ!? や、やっぱり分かるかしら?」
まさに図星、と分かりやすい反応。茹で上がったように真っ赤な顔を抑え、乙女らしく恥じらう姿にアレキサンドラは困惑しながら微笑む。
姉であるナターシャは妹と同様に整った顔立ちで、顔を紅潮させて悶えるその姿は艶美さを感じさせる。アレキサンドラの若々しく瑞々しい魅力とは違い、彼女は成熟し切る前の女性の初々しい色気がある。艶やかな赤い唇からは、言葉にならない呟きが零れ続ける。
「カッツェ君かあ……あの人、結構変な人ですけどね」
アレキサンドラの隣で同じように、グラナは苦笑した。彼――グラナ=ロスティスラフ=カシュペロフは、彼女の婚約者である。眉目秀麗で文武両道、おまけに父は宰相。将来を望まれた彼は、先代の王が直々に指名した許婚だ。その人当たりの良さは、マダムから貴紳から人気を集めるほど。……の割に、甘いものに目が無かったり、趣味が料理だったりと少々女っぽいのは秘密だ。
グラナと顔を見合わせて、アレキサンドラは困ったような、呆れたような表情を浮かべる。姉がその男にぞっこんなのは知っていたが、彼女の恋の病は思っていた以上に重病だ。その瞳の奥にはハートマークが見えるくらいに、もう戻って来ることが出来ないくらいに。
「姉上って……あの人の何処を好きになったんですか?」
「まあ失礼! アレキサンドラ、人を見た目で判断しては駄目なのよ」
「見た目っていうか……むしろ中身……」
ねえ、と彼女は再びグラナと顔を合わせた。妙なところで意気投合している二人に、ナターシャは不満げにむっと眉を顰める。
「というか、そもそも今日はお勉強会なの。真面目な勉強会なの。下心なんてこれっぽっちも無いのよ」
「お洋服もお化粧もばっちりなのにですか?」
「ぐっ、ぐむむ……」
ちょっかいを出してくる妹に反論できずに、ナターシャは唇を噛んだ。アレキサンドラはくす、と小さく笑う。その軽やかな笑顔に、ナターシャとグラナは少し驚いたように彼女の顔を見た。
最近、彼女はよく笑う――否、以前も普段からアレキサンドラは笑みを浮かべていたのだが。今目の前の彼女の表情は、以前より幾分か自然で、柔らかく緩んだ表情は以前よりずっと「幸せそう」なのだ。
以前よりもずっと、心から笑っているような。
「アレキサンドラも、何か良いことがあったの?」
「……うん、最近よく眠れるから。夜が待ち遠しいんです」
少し間をあけて、彼女は微笑んで答えた。
♦♦♦♦
「相変わらず、音も無くやってくるよね! アルマ」
「そっちこそ、気づかれないようにやって来てるのに相変わらずよく気付くな」
窓の方を振り返って悪戯っぽく笑うアレキサンドラに、アルマは眉を顰めた。嫌悪というよりは諦めによく似た表情である。週に三回、彼は少女の部屋にやってくる。待ち遠しい夜の密会は、彼女の唯一の楽しみだ。
アレキサンドラは嬉々としてアルマをソファに座らせると、散らかった机の上、乱雑に積んだ本の山の上に置いてある皿を取る。色鮮やかな花の描かれた皿に乗ったそれは、彼の生活の中で無縁のものであった。
「じゃーん! ボクの婚約者が焼いてくれたんだよ」
「……ケーキ?」
「はい、あげる! ボクはさっきもう食べたから。余ってたやつを夜食って貰っておいたんだ」
「え……俺が食うのか」
「いいんだって! アルマに食べてほしいんだよ」
申し訳なさそうに渋る彼に、皿の菓子と銀のフォークをぐいぐいと押し付ける。顔一面に塗りたくったような笑顔の圧があまりに強いので、渋々彼はそれを受け取った。
真っ白な生クリームがふんだんに塗られたスポンジの上には、真っ赤な苺が宝石の如く艶めいて主張している。添えられたブルーベリーも、クリームの白との対比が鮮やかで美しい。
小さく手を合わせて、躊躇いながらフォークを入れる。一口口にすると、繊細な甘さが広がる。口当たりの良い生クリームと柔らかなスポンジ。その間に挟まれているのはクリームだけではない。ジャムのほんのりとした酸味がクリームの甘さと対比して、とろけそうなハーモニーを奏でている。素材から調理法まで、間違いなく一級品だ。
舌の上の感覚を噛み締める。アルマは最後に取っておいた苺を口にしてフォークを置いた。そこでふと、彼の頭に疑問が浮かぶ。彼女の婚約者……料理が出来る婚約者……。
アレキサンドラは、「どっち」だ? 今まで考える気すらしなかったし、その必要もなかったから。甲高く耳を貫いてくるその声に、疑う余地もなく「少女」だと思い込んでいた。
確かに、アレキサンドラは少女のようにも見えるが中性的であるし、この国は確か女王が禁じられていた筈だ。そもそも、自分のことを「ボク」と呼んでいるし、十四の少女ならもう少し(何がとはいわないが)発育だって良いはず。そして、婚約者は料理の上手な出来る奴……。
正直こんなことどうだっていいし、どっちだろうが何も自分には関係ない。どうしてこんな無駄なことを、もう気にしないでおこう……。
「……ありがとう、美味かった」
「そうでしょそうでしょ!」
「……ところで、その婚約者とやらって……その、どっちだ、性別」
「えっ」
その返事で確信した。聞かなきゃよかった。遠回しに聞こうとしたそれが間違っていた。
彼の問いに少し驚いたように表情を固めてから、彼女はまるで玩具を前にしたような、凶悪な笑みを浮かべた。分厚い本を抱えながら、彼女は嘲笑と苦笑が入り交じったように言う。
「キミ、ボクの性別分かんなかったんだあ?」
「いや、だって……お前……王は男だろ、その辺のこと考えたら誰だって」
「目の前の相手の性別が分かんないなんて、君の目は節穴かな~」
そこまで口にしたところで、アレキサンドラは咄嗟に持っていた本を頭の上に掲げた。数コンマも経たずにナイフが降ってくる。ゴッ、と分厚い表紙に鋭く尖った先端が突き刺さる感覚に、彼女は背中がスッと寒くなるような気がした。
殺意を留めておく必要などあるまい。彼はそもそも彼女を殺すのが目的なのだから。それは今でも変わっていない。
「むう、大人の男が女の子相手に酷いなあ! ちょっとからかっただけなのに」
「……うるさい」
「この本だって大切なんだからさ」
アルマがナイフを仕舞うと、アレキサンドラは頭上の本を下ろした。片付ける途中だった図鑑の表紙には、小さくナイフの窪みが出来ている。
本の表紙を軽く手で払う。彼女は自分の手が小さく震えていることに気がついた。それもそうだ、ナイフを向けられて恐れない者など歴戦の軍人くらいだろう。それが頭の上から降って来たのだから。
アレキサンドラはぷくっと頬を膨らませてアルマを睨む。気にも留めていないような彼の表情に、かえって腹が立ってしまう。
「で、女王は禁制のはずなのに何でお前が国王なんだ、女王」
「女王じゃないもん、王様だよ! こっちにも複雑な事情があるんだよっ」
「事情?」
「うん、父上と母上の間には、男の子が出来なかったんだ」
要は、一家の王としての血筋を絶やしたくなかっただけ。よそ者に奪われるのが嫌だったから。そんな単純な理由。病弱な母には、これ以上の出産は不可能だった。二人目の子供・アレキサンドラが女の子だった時点で、彼女は男として――王として育てられることを決められたのだ。
だから国民は知らない。皆の信じる「彼」が女だということを。否、知られてはいけないのだ。
「……まあ訳は分かったけど、よくこんな見た目と雰囲気で男だと思ってもらえるな」
「ふふん、それはもちろん……『こうするんだよ』」
「……っ! なるほど……」
訝しげに見つめてくる彼に、机に向って何かを探していたアレキサンドラは自慢げに鼻を鳴らす。一息吐いてアルマを見据えると、表情を引き締めた。喉の奥から絞り出した二段ほど低い声は、声変りを控えた少年のような青さを感じさせる。
ブロンドの柔らかな髪が揺れる。穏やかに落ち着いた表情と立ち振る舞いからは、先の無邪気さは感じられない。艶やかな白肌と長い睫毛も少女らしいはずなのに、目の前に立つそれは何処からどう見ても「美少年」だった。
「彼」を目にして、その雰囲気の急変にアルマは思わず息をむ。その反応を見て満足したのか、また元のように少女は表情を緩めた。
「……で、なんださっきから……」
「うん? そうそう、キミのことを知りたくて、取り寄せたんだよ」
あったあった、と本の山の中から引っ張り出した分厚い本の表紙には、『説話集』の文字が刻まれている。東の国の童話や説話がびっしりと敷き詰めてあり、所々に挿絵やスケッチが描かれている。
アレキサンドラはアルマの隣にゆったりと腰掛けると、ぱらぱらとページを捲る。暫く文字達と睨めっこをした後、彼女は本の真ん中あたりのページを開いて見せた。
「キミの肌の色、東の国のあたりのでしょ?」
「……それが何だ」
「あのね、『月の姫君』の話、ボクすごく好きなんだよね」
そう言って見せられたページを、彼は少し目を細めて眺める。一文字一文字を目で追って、頭の中で咀嚼するが、思考は理解することを拒む。
長い間、過去のことを思い出していなかった。長い間、故郷のことなど考えていなかった。その長い間に、思い出せるはずの記憶が塞がれてしまっていた。
でも、この名を聞いたことがある。この物語を知っている。
「ほら、竹から生まれるのもファンタジックでさあ」
「……紙とペン、あるか」
「ん? ああ、あるけど」
ノートとペンを受け取ると、彼はおもむろに何かを描き付けた。呆気に取られたアレキサンドラが傍で眺めていることも気にせず、ただ眉を顰めて描き付ける。故郷のことなど覚えていない、思い出そうともしていなかったはずなのに、自然とペンが動く。この感覚を強く覚えている。
静かな部屋に、ただ紙の上をペンが走る音だけが響く。そんな彼の姿に、そしてそこに出来上がるものに、アレキサンドラは一瞬で夢中になった。
「……こんな、感じ……姫はもっと髪が長いし、十二枚の衣を着て……た、ような」
「……すっごいよ、アルマ!」
紙の上の美女の姿に、彼女は思わず感嘆の声を上げて手を叩く。幾枚の衣を羽織り川のように流れる黒髪。白い肌によく映える黒い眉。
何が素晴らしいって、彼の画力である。その紙に穴が開きそうなほど眺めた後、アレキサンドラは期待と尊敬に満ちた瞳でアルマを見上げた。戸惑ったように彼は目を逸らす。
「アルマって絵が得意だったんだね! すごい!」
「いや、得意って程じゃ」
「本当にすごいよ、これ! 綺麗だし可愛いし、言葉では言い表せないくらい……」
興奮した様子で、彼女はまだその美女を眺めている。その姿に困惑しつつ、アルマは胸が少し苦しくなるのを感じた。
その本の記述はいくつかの物語が混ざって滅茶苦茶だった。それ故、不意にこの物語の内容ははっきりと思い出したが、何故自分は描こうと思ったのか。何故こんなにも筆が進んだのか。何故。
嬉しい、のか、これは。
自分が「描ける」ことなのか、彼女のきらきらとした表情なのか、胸が昂ぶってくる。心が満たされる。
「ねえ! ねえねえ、これも描ける?」
その夜の彼は、少し機嫌が良かった。
♦♦♦♦
『♦♦♦殿は優れた子だが、兄の♢♢♢殿に比べるとなあ』
少年は、いつもそんな風に囁かれていたような気がする。
少年は優れていた――剣術も学業も、作法だって誰にも負けず努力した。だが、少年の目の前にはいつだって高い壁があった。
『♢♢♢殿は武術も才もお有りで、礼儀作法も素晴らしい。その上、なんて麗しいお姿だこと!』
『流石は殿下の自慢のご子息だ』
『……ああ、♦♦♦殿か。彼も素晴らしい。だが、やはり兄上と比べると可哀想だなあ。お顔も整っておられるが、どこか頼りない』
少年は、比べられることが嫌ではなかった――寧ろ、そんな素晴らしい兄を持っていることが誇らしかった。自慢の弟でいなければ。兄上の名誉を汚さぬ弟でいなければ。
少年は努力した。
『絵なんか描けたってどうする。それで何が変わるんだ。そんなことをする間があるなら、お前も♢♢♢のように力と学を付けなさい』
別に褒められたいとは思わない。少年は「あの素晴らしい♢♢♢の弟」でいられるならそれで良かった。
別に認められなくったって良い……。
『……兄上』
『何かな』
『あ、あの、僕が……その、兄上より優れているところって、何ですか、ね』
別に、認められなくたって。
『……♦♦♦は、私よりずっと優しいですよ』
♦♦♦♦
嫌な夢を見た。
既に日が高く昇る真昼間に、アルマは目を覚ました。冬だというのに不快な汗が体を濡らしている。薬を飲まなければ寝付けないのに、薬を飲んだ次の朝は死んだように眠ってしまうのだ。
どんな夢だったかは覚えていないが――ただひたすらに不快だった。逃げていないのに逃げ続けて、踏みつぶされそうになって藻掻くような。どこにも逃げられないのに、何処までも走っているような。朦朧とした意識のまま頭を掻き毟る。珍しく目覚めが悪い。
「……シャワーでも浴びよう」
酷く怖い夢を見た後のように、指先が少し震えていた。
窓から部屋に足を踏み入れた途端、花畑のようなフローラルな香りがアルマの鼻をくすぐった。足音すらしないのに、相も変わらずアレキサンドラは嬉しそうに振り返る。
「待ってたよ! さあ座って」
駆け寄ってきた彼女に手を引かれて、今夜も彼はソファに着席させられた。勢いよく押された為ぼふん、と身体が跳ねる。
彼をソファに座らせるやいなや、アレキサンドラは机の上から可愛らしいティーカップを持ってきた。うっすらと湯気の昇り立つそれが、恐らくフローラルの原因らしい。彼女は側に置いてある角砂糖を二つばかりティーカップに沈めると、スプーンで少しかき混ぜてアルマに差し出した。
「今日は良い茶葉を貰ってね、一杯淹れてみたんだ」
「……お茶か」
「そう! カモミールティーだよ!」
少し香りを確かめてから、勧められるがままに彼はそのティーカップを口にした。恐る恐る、飲み込んでみる。
「!」
その時、彼に衝撃が走る。
フローラル! 鼻から喉にかけてがお花畑。身体の内部に染み渡る熱。程良い甘みと鮮やかな紅い水。何もかもが初めてで、彼は一瞬固まった。
ふと、アレキサンドラの方を見てみると、彼女は頬杖を付きながら穏やかに微笑んでいた。いつもの意地悪い笑顔ではない……彼の反応を心底嬉しそうに眺めている。
「どう?」
「俺の故郷のお茶と全然違う。驚いた……」
「へえ、君の故郷のお茶ってどんななの?」
「色が緑でもっと……こう、渋い。うん……これは良いものだな」
そう言いながら、再びティーカップに口を付ける。期待通りの返答が嬉しかったのか、満面の笑みを浮かべながら、自身もティーカップを手に取って角砂糖を三つ入れた。
穏やかな時間が流れる。見つめられながら紅茶をすするのも、気は散るが悪くはない気分だ。このお茶のお陰か気が安らぐ。飲み終えてカップを置くと、彼女はぼんやりと呟いた。
「アルマって、暗殺者に向いてないよね」
何気ない一言だったのかもしれない。ただ、それは彼の表情を一瞬で険しくさせた。まるで睨みつけるように、不快感を露わにするような目つきだ。ボク、何か間違えた? どきりとして、アレキサンドラは肩をびくりと震わせたが、なんとかぎこちない笑顔を保ち続ける。
「だって、アルマは優しいから……」
「優しい? 俺が」
「うん、君は優しい人だよ」
「馬鹿にしてるのか」
その言葉には静かな怒りが込められていた。反論する間も無く、彼の手が彼女の首を捉える。なんとか振り解こうにも、締め付けてくる手は簡単には離れそうにない。
首を絞められたことより、彼が怒っていることにアレキサンドラは驚いた。何が気に障ったのか、全くわからないのだ。彼女はただ褒めていただけなのに。目の前のこの人が、どうしてボクにそんな憎しみを向けてくるんだろう。
殺意というより、その憎悪が怖い。
「く、苦しい、放し……」
「俺は殺そうと思えばお前を殺せる。感情で妥協するほど優しくない」
首を締め付ける指に力が入る。息苦しさに、アレキサンドラは掠れたような助けを乞うた。彼から殺意を向けられて、怖かったことがないと言えば嘘になる。いつだって平気なふりをして、だけど少し怖かった。
それは今回も同じだ。だけど、アルマは多分ボクを殺さない。殺せない。彼はどうしようもなく優しいから。ヒトの心を手に入れた殺人マシーンは、もう機械ではいられないから。それは暗殺者としては致命的に中途半端だ。殺そうとしているのに、どうしてそんなにも悲しそうな顔をするんだろう。どうして、締め付けるその手が震えているのだろう。
「本当に、アルマはよくわからないよ……どうしてそんなに怒るの……」
少々頭が冷えたのか、アルマが手を離すまでそう時間はかからなかった。流れ込んでくる新しい息を吸い込んでむせながら、アレキサンドラは小さく呟く。
アルマは自分の両手を眺めて苦い顔をした。手を離したのは、ここで抵抗されると危険だったから。そう信じたかったが、理由が別にあるのはよく分かっていた。残酷にもなれなければ、優しくもなり切れない。中途半端な欠陥品に成り果ててしまった。……いや、初めからそうだった。
「……俺は優しくない。その上お前を殺すことも出来ない。ずっと昔から誰よりも中途半端で、どうしようもない出来損ないだ」
アルマは自嘲するように笑った。どこまでも悲しそうな笑みだった。疲れ切ったようにソファに座り込む。隣で立ち尽くすアレキサンドラの顔が見れなかった。
きっと嫌われた。恐れられた。早く立ち去ってしまいたい。これからはもうここには来られないだろう。こんなことになるなんて分かっていただろうに。
初めから、出会わなければ良かっただろうに。
「そんなことないよ!」
弾けるような声。
「アルマが出来損ないの中途半端って? キミって本当に分からないな、キミは色んなこと知ってるし絵だって描けるでしょ! すごいよ」
「絵なんか描けたって、別に誰もすごいなんて思わないだろ」
「じゃあちょっと待ってね」
止まっていた時がいきなり動き出したように、アレキサンドラは飛び出した。ペンを握り、机の上で何かを一生懸命に描き付ける。猪突猛進に動き回るその姿は、ウサギか何かの小動物のようだ。
今度は彼が呆気に取られる。何を訴えたいのか、彼女はすぐに紙を持って戻って来た。そこには、何とも言えぬ獣が描かれている。
「さあ、アルマ!こ れ、なんだと思う?」
「……ね、猫?」
「残念! 馬でした」
これ見よがしに見せつけて、彼女は自慢げな顔をした。盛大に間違えられても溢れんばかりの笑顔だ。驚いたら良いのか呆れたら良いのか、アルマは何とも言えない顔をした。
ソファに座る彼に視線を合わせるように少し前屈んで、アレキサンドラは真剣な顔をした。怒っているのでもなく、諭したいのでもない。ただこの気持ちを分かってほしいとばかりに彼を見つめる。
「ボク、絵だけは本当にダメで、真剣に描いても上手くいかないんだ。だから絵が上手いアルマのこと、心底尊敬するし、すごいと思う」
貫くような声で続ける。
「ボクがすごいと思ったんだ。誰かが、でもないこのボクが。誰かと比べる必要もないよ。ボクがすごいと思ったから、すごいって言ったんだ。だからアルマはすごいんだよ!」
それは、彼が自分でも気づかぬ間に望んでしまった言葉だった。
「えっ……ちょっと待って、どうして泣いてるの!」
涙が流れていた。気が付いて、情けなくて、馬鹿らしくて言葉も出なかった。ただ、この目の前の少女に戸惑われている自分が恥ずかしくて、でも止めることが出来ない。
いつ振りに泣いたのだろう、お陰で泣き方すら思い出せない。止めどなく溢れてくるそれを抑える術が分からない。
「怒ったり泣いたり、本当に君のこと全然分からないよ! ボクまた変なこと言っちゃった? うーん、泣かれた時はどうすれば良いのかなあ」
一人で慌てながらくるくると表情を変える彼女がおかしくて堪らなくて、何故か涙が溢れてくる。アルマに近づくと、アレキサンドラはぎゅう、と彼を抱き締めた。彼の頭を腕の中に抱え込んで、優しく撫でる。焦りながら、困りながら、「どうしたらいいんだろう」と呟きながら、ふわりと撫でた。
一瞬、彼は驚いて抵抗しようとした……が、それは出来なかった。まるで呪いのように、動くことが出来なかった。あまりにも心地が良かった。
少し早い鼓動の音、体温、人の匂い、温もり。抵抗する気も失せて、微睡んでゆく。「生きている」心地が安心する……。
「……は」
ふと意識を取り戻すと、朝ではなかった。少女の腕の中だった。抱き締められた時よりも驚いて、反射的に彼女から離れたると、アレキサンドラはいつもの明快な笑みを浮かべている。
青ざめていたか、はたまた真っ赤になっているのか、彼自身よく分からなかったが、彼女の表情から察するに恐らくよっぽど面白い顔をしてしまっていたらしい。
「アルマ、疲れてたんじゃない? びっくりするくらい爆睡してたよ。ちゃんと寝てる?」
「……どれくらい寝てた」
「うーん、そんなに。十分かそこらだよ」
ほっと安堵すると、すぐに立ち上がって窓に足を掛ける。一刻も早く帰りたい。先の失態を思い出し、アルマは顔が燃えるように熱くなるのを感じた。屋根にロープの刃を引っかけて窓の外に出ると、部屋の中からアレキサンドラが彼を見つめてきた。楽しそうに笑って小さく手を振る。
「またね、アルマ!」
「……ああ、また……アレキ」
彼女は一瞬きょとんとして、そして零れるような笑みを浮かべた。彼の口から出た自分の名前に、嬉しくて頬が赤くなる。彼女はその後ろ姿が見えなくなるまで、大きく手を振り続けた。
地上に降り立つと、館から漏れる柔らかな光を背に感じる。泣いたせいか目が開け辛い。情けなくて仕方がないか、胸の内はじんわりと温かい。
アルマは少しだけ、ほんの少しだけ穏やかに微笑んだ。
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