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第一章 王様と暗殺者
-4- サンストーン、カンタービレ
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しっとりと少し濡れた髪、微かに紅潮した頰、風呂上りの身体は少し火照っている。清潔なシャンプーの香りを漂わせながら、乙女は悩ましげに溜息をついた。
焼き付いた言葉は刃の如く心を抉って、尚も塞がらない傷口は生々しく痛む。恋の悩み、と一言で言い表す程甘酸っぱくはない。
「姉上、本当に大丈夫なのですか? 昨日からずっとそうしてますけど」
「あら、アレキサンドラ……? こんな時間まで何をしていたの」
「将軍に剣の稽古をつけていただいてました」
少年のように軍服で身を固めた妹――アレキサンドラとナターシャは廊下で出くわした。眉を下げ少し顔を傾ける仕草から、幼いなりに心配をしてくれていることが読み取れる。
姉として情けない。ただそんな思いが募って、彼女はなんとかして微笑んだ。随分疲れ切ったような笑顔に、アレキサンドラも困惑した表情を浮かべる。
全ては昨日が原因なのだ。こんなにも胸が鈍く痛み続けるのも、曖昧な笑みも、疲れ切っているのも。だからと言って諦めることを許されない想いも、全て。
♦︎♦︎♦︎♦︎
ナターシャはめかした姿でグラツィアーニ男爵邸に赴いていた。昼間の日差しは陰っていて、二月らしく肌寒い風が吹いている。美しく整備された庭の温室は、その冷たさを知らないかのように暖かい。だがそんな乙女の憧れるシチュエーションの空気は、さながら気温の如く凍りついて張り詰めていた。
テーブルに法律書を広げ、青年はただ黙々とノートに何かを書き付けている。それをナターシャは困ったような哀しいような表情で眺めるしかない。気持ちばかりの手土産である紅茶は全く減る気配を見せない。
「あ、あの、カッツェ様……ここ……」
「ミロスラーヴァ王国憲法第六四条」
「あ……りがとう、ございます」
グラツィアーニ男爵の一人息子・カッツェは彼女に視線を合わせることもなく淡々と答える。触れるのも躊躇うほどに冷めたその態度は、彼女の熱い視線を受け付けないかの如く跳ね返す。
毎度期待しては落胆を免れない。それでもこうしてアタックを続ける彼女の姿は冒険譚の主人公の如く、賞賛に値するだろうが――ひたむきで健気な乙女の姿はカッツェの瞳には映らない。興味がない、というのはとっくに通り越した極端な女嫌いである。
「あ、あの、少し休憩でも」
「……いい加減気付かない?」
彼女の言葉を遮るように吐き出された声は普段より幾分か大きく、威圧的に聞こえた。ナターシャの気遣いを全く気にも留めない様子で、彼の蛇のように鋭い視線が彼女を向く。びくり、と彼女の体が小さく震える。
差し入れの菓子が不味かったか? 紅茶が口に合わなかったのか? そもそも、男爵に頼んで二人での勉強会を開いてもらっているのが迷惑だったか?
怯 えからか落としかけた視線をどうにか上げて、彼の険しい目を見つめ返す。ああ、これが恋慕の一幕だったらどんなに甘かっただろうか。どんなに幸せだっただろうか。
彼女が覚悟を決めた時、カッツェは不快そうに歪ませた口を開いた。
「君の好意、本当に気持ち悪いんだよ」
「……えっ?」
「色目を使ってくるその瞳、一言一言喋る度に反応するその艶かしい表情……好かれないようにこんなにも努力してるっていうのに。本当に虫唾が走る」
小さく聞き返した後、ナターシャは頭の中で三度ほどその言葉を繰り返した。脳天を凍てついたトンカチで叩き割られたように、鈍い痛みの後にすーっと血の気が引く感覚。
酷い聞き間違い? 酷い被害妄想? 状況が飲み込めずにいる彼女に、彼は追撃のごとく第二撃を撃ち込む。
「はっきり言ってしまえば、君は僕のタイプじゃない。いかに見目が美しかろうと、君はたかが美しいだけ。なんならもっと醜く這いつくばってみなよ」
「は……」
「ああ、君の弟君の方がよっぽど良いね。幼くして責務に囚われ少年としての意思を奪われて、可哀想……その苦悩はどんなに醜く、美しいんだろうね」
蔑んだように口角を上げて微笑む彼を見て、やっと自分が貶められていることに気がついた。否、気付きたくもなかったし認めたくもなかった。殴られたかのような頭の痛みに続いて、じわりと粘着質な痛みが胸に広がっていく。頭の中で彼の言葉を繰り返す度に、深く抉られるように痛みは広がっていく。
せめて、好きでいることくらい許されると思っていた、のに。いてもたってもいられず、彼女は荷物をまとめると軽く頭を下げて急ぎ足で立ち去った。酷く泣いた自分の顔が恐ろしくて、彼の表情を見るのが怖くて、その美しい顔は伏せたまま駆ける。
嫌いになってしまえれば良かった。街の中を駆け抜ける彼女の涙は、花弁のように散りゆく。それでも、どうしても愛おしいのだ。
何処かを見つめて曖昧に微笑むのも、出会ってすぐに感じた冷淡さの中の一瞬の淡い熱も。知らなければ良かった。好きにならなければ良かったのに……。
彼は私のことを「美しいだけ」と言ったけれど、私は美しいわけでもない。昨日の傷を掘り返しながら彼女は小さく呟く。ベッドの上のクッションに顔を埋めながら、抑えきれない溜息が漏れる。
アレキサンドラは可哀想――燻る不快感に眉をしかめる。そう、自分は美しくなんかないのだ。いつからか、こびり付いたような妹への劣等感。羨望。妬み――それは亡き父王が彼女を王として育て始めたところから始まっていた。
自覚したのは、あの子が五つの頃だっただろう。気がつかぬ間に、あの子は私の隣に並んでいた。四つ離れている筈だというのに、あの子は私より賢かった。私より運動ができた。私より身体が強かった。私よりも純粋で、くすみの無い目をしていた。
自分は王の器ではなかった。いや、王になんぞなりたくもなかったが、それは明確な劣等感としてやってくる。私には出来ない事を、あの子は出来る。
愛おしく可愛い妹なのに、もしも居なかったら、なんて。
「……本当に、私は……愚かで……」
誰かに必要とされたい。もっと、もっと。求められたい。
「……醜い……」
報われる世界を、焦がれる者に愛される世界を妄想することしか出来ない。そうやって、叶うはずもない幸せな夢の中に堕ちてゆくしかないのだ。腫れた瞼が重くなっていくのを、止めるものはなかった。
♦︎♦︎♦︎♦︎
「あっ、来た!」
窓の傍で頬杖をついていたアレキサンドラは、歓喜の声を上げて(勿論声量は自重しているが)窓の下を見下ろした。いつもの呆れ顔で此方を見上げるアルマと視線が合うと、彼女は満足げに笑みを返す。
白いシャツにミルクティー色のセーターを身につけた彼女は、冬だというのに随分暖かそうに見える。凍える外の空気と違って部屋の中はほんのりと温い。その上、この鼻腔をくすぐる香りは……。
アレキサンドラは期待を裏切らない。可愛らしいティーカップに注がれた紅い水からは華やぐ香りの湯気が沸き立っている。
「ふふん、期待してるね?」
「は? そんなわけないだろ……」
「今日はね、ウバだよ」
角砂糖を数個入れて混ぜると、彼女は小さなポットからミルクを注ぎいれた。ティーカップの中身が、ちょうど彼女が着ているセーターと同じ色に染まる。
期待していないと言いつつも、ソファに腰掛けたまに視線を向けてくるアルマは結構分かりやすい。アレキサンドラは小さく笑うと、ティーカップをテーブルの上に置いて差し出した。
いただきます、と小声で呟いて口を付ける。柔らかなミルクの味を噛みしめる。次の瞬間、ふわり、と爽やかさが駆け抜けた。一口目を飲み下すと、特徴的な芳香穏やかに香る。
「どうかな? 美味しい? けっこう良い茶葉なんだよ」
「……ああ、ミルクともよく合ってると思う」
アルマの口元が緩むのを見て、アレキサンドラは心底幸せそうに微笑む。この、無表情が一瞬崩れる瞬間が堪らなく愛おしい。そんな彼女の笑みに気づくと急いでアルマは口元を結んだ。
この緩みきった空気が恐ろしい。穏やかで満ち足りていて、そして幸せなこの空間が恐ろしい。言葉にできない不安感に駆られてしまう。そんなことを思いながら、アルマは二口目の紅茶を口にした。
きっと自分では顔を引き締めているつもりなんだろうけど、心は素直なものだ。そう思うと自然とこちらも笑顔になってしまう。そんな弛みかけている表情を眺めながら、アレキサンドラは姉のことを考えていた。その悩みの種は恐らくは恋愛の事だろうが、そうならば彼女に手伝えるようなことは何もない……何せ自分には経験が無いのだから。
ねえ、アルマ。ふと声を掛けてみる。訝しげに顔を上げる彼の隣に腰掛けると、その顔を覗き込むように見上げた。
「アルマは、恋ってしたことある?」
「はあ?」
やっぱりそういう顔するよね、とアレキサンドラは苦い顔をした。あまりに突拍子もない発言だ、その反応も仕方がない。アルマの「意味不明」と言わんばかりの表情に少々ムッとしたが、なんてったってボクは王様。寛大な心で話を続けようじゃないか。
「いやあ、ね。ボクの姉上が恋のお悩み中なんだよね。何か言葉をかけようにも、何せボクは恋なんてしたことがないから」
「アレキ、お前、姉がいたのか」
「言ってなかったっけ? まーアルマにこんなこと相談しても解決なんてするわけないかあ」
前述撤回。彼の前では王様だろうが何だろうが関係ないのだ!
嫌味っぽく口角を上げると頬を掴まれた。饅頭みたいだな、これ……彼は一瞬感心したが、今は遊んでいるわけではない。この悪ガキはすぐに調子に乗る……。
ぴよぴよと泣きわめく雛鳥のように抵抗する彼女を無表情で眺めて、アルマは溜息をついた。
「恋くらいしたことあるに決まってるだろ……だからってアドバイスなんか出来ないけど」
「じゃあ、恋ってのがどんなものなのかだけでも教えてよ」
「その辺の恋愛小説でも読んでろよ」
彼の言葉に否定的な顔をして、アレキサンドラは散らかった机に向かった。積み重なった本の山から慎重に一冊の薄い書物を取り出す。巷で一時期流行したそれをぱらぱらと数ページめくり、暫く黙り込む。数秒経って、下げていた目線をあげると困ったように小さな声で呟いた。
「……胸が苦しくなる、と言うのが分からない」
「はあ」
「確かに、運動したり風邪の時は胸が苦しくてしんどい。でも、そういうのじゃないでしょ?」
微妙な顔のアルマをよそに彼女は更に本のページを薦め、話を続ける。
「相手に近付きたい、触れたいと思うのか」
「おう」
「どうして?」
何かの哲学か? アレキサンドラが神妙な顔で聞いてきた質問に、アルマは黙り込んだ。そんな理由なんて考えたこともない。
彼が何も答えないからか、彼女は一人分厚い辞書の「恋」の項目を指でなぞりながら、目を顰めてぶつぶつと呟き始める。黙り込んでその様子を眺めていると、彼女は閃いた様子で急にこちらを向いた。
「そうだ、アルマの恋の話を聞こう」
「は……いや……」
「どんな話が来ても笑ったりしないから、ね! 聞きたい!」
目を輝かせて迫ってくる彼女に、アルマは困惑した。俯く彼の顔を覗き込むように、ソファの前に座り込んで彼の瞳を見つめる。透き通った色の中に悩みのような濁りが見える。
彼女に苛立ちを覚えるわけではなかった。ただ、その問いに対する回答が見つからない。そういえば以前からそうだったかもしれないが、何かを思い出そうとすると靄がかかったようにして阻まれる。
次第に彼女の期待に満ちた瞳が、不安の色に変わっていくのが分かった。彼は自分の眉間に皺が寄っていることに気がつく。要らぬ心配をされても仕方ない。彼は顔を上げた。
「……昔のことが思い出せない」
「そっか……うーん、それじゃあ、しょうがないね」
「し、思い出せたとしてもお前には言わない」
キミって本当に意地悪だね! そう言ってぷくっと頬を膨らませて睨んでくる彼女だが、威圧感は全くない。飼い猫の機嫌を損ねたようなものだ。
にしても、少し意地悪が過ぎたかな。彼女だって真剣に悩んでいることは、その目を見ていればよく分かる。仕方なく溜息を吐くと、相変わらず子供の様に目を細めて威嚇しているアレキサンドラに向かった。
「……分かった。代わりに何か一つお前の願いを聞いてやるから」
「やりい! アルマのそういうとこ、優しくて良いと思うよ」
「……まあ、何でも良いから早く言え」
心の隙を突いてくる言葉の動揺を隠して目線を逸らす。この時はすっかり忘れていたのだ――彼女が良識的な答えを出すわけがない。
「じゃあ、夜の町に連れて行って!」
「……はあ!?」
優しさなんていらなかったのだ――彼女の弾けるような眩しい笑みに頭痛がした。思わず出た大きな声に慌てて口を塞ぐ。彼女がまともな要求をしてこないことなど、少し考えれば分かることだったのに。急激な疲労感に肩が鉛のように重くなる。
「流石にそれは無理だろ……」
「えー! 何でも良いって言ったもん」
「……」
彼の言葉に、アレキサンドラは不服そうに口を尖らせる。考え込むように口を結んで黙り込んでしまう。彼とてそれが出来ないわけではない。あまりにリスクが大きいのだ。
見つかってしまうかもしれない。気づかれてしまうかもしれない。何せ自分がやったのは殺人未遂、誘拐未遂、国王侮辱罪その他諸々――面倒ごとに巻き込まれかねない。
ふと視線が交わった。いつだって純粋な好奇心に満ちていて、真っ直ぐに見つめてくる瞳だ。そんな風に見つめられたら断りづらい。アルマは苦い顔をした。
「……何が起きても、俺は一切の責任を負わないからな。それでもいいなら」
「やったあ! 最高!」
「分かったらさっさと準備をしろ」
まるで踊るように軽やかな一連の動作でアレキサンドラは支度をする。ひらりと翻したパーシアンレッドのコートに袖を通すと、宙を舞うリボンの如く靡いたベージュのマフラーを纏った。部屋の明かりを消せば、部屋の主は眠ったも同然だ。
窓際に立つ彼の瞳は、差し込む月光で少し青っぽく輝いて見える。次の瞬間、ふわりと抱きかかえられると気が付けば目下は遙か遠い地面だ。ぎゅう、とアルマの身体にしがみつく。
「なんだ、怖いか」
「……そんなことないよ? アルマがナイフ向けてくる時のが、よっぽど怖いもん」
「……ふ、まあいいや。しっかり掴まってろよ」
彼の小さな笑い声が聞こえて思わず顔を見た、その瞬間急降下する感覚にひゅう、と喉が締まる。無意識に先ほどよりも強く彼の身体を抱き締めると、抱き締め返されるよう身体を強く抱えられた。
目を強く瞑るとまるでどこまでも落ちていくような気がしたし、時間にして一瞬のそれはずっと長く感じた。長くて短いその時間の中、不意にぶわっ、と身体が花弁になったかのように風に舞い上げられ、ゆっくりと静かに地面に着地した。
「怖かったか?」
「ううん、全然……嘘、……ちょっとだけ」
「……じゃあ次は俺の背中に掴まってろ」
アレキサンドラが怖がれば怖がるほどに、アルマの声が心なしか楽しそうに弾む。聞いたことのない声色に戸惑いながらも少し嬉しくて、彼女は彼の背中に登ると首元に手を回した。彼の頭に顔を近づけると、清潔感のある爽やかな香りがする。
そういえば、彼に負ぶわれているというのはなかなかに密着した状態だ。少し面白くてくすりと笑うと、くすぐったかったのか彼の身体がびくりと震えた。
「というかアルマって、風のヨッド使えたんだね」
「まあ……だからさっきみたいに飛ばしていくから、ちゃんとしがみついてろよ。吹っ飛ばされるなよ」
了解! 軽快な返事をすると、風に身体が包み込まれる。彼の足が地を蹴ったその時――それはまるで森を駆ける狼の如く――風に乗って森に向かって飛び出した。
『ヨッド』……それは、人が使える「嘗て神だった名残」の力。彼は風を身に纏って軽やかに、ざわめく木々の隙間を駆け抜けていく。最小限の力でスピードを出し、なおかつ縫うように緻密な走りは美しい。顔に当たる風は冷たいが、何より楽しいのだ。ボクは今、彼と同じ速度で世界を見ているのだから!
隠れ家の屋敷と町を隔てる森はかなりの大きさのはずだが、一瞬だった。本当に一瞬だったのかは分からないが、そう感じさせた。気が付いた頃には、目の前に濃紺に橙色を灯した町が広がっていた。
城下町であるウィーシニャの一角、夜でも明かりの灯るグリープ通りは夜中だというのにその賑わいは昼とさして変わりは無かった。所謂中流階級の夜の街である。
愉快そうな音楽、客引きをする女の甲高い声、酔いの回った下品な笑い声。それらが混ざり合ったそこは決して居心地が良い場所ではないが、不思議と惹き付けられてしまう魅力がある。ふらふらと落ち着き無く歩くアレキアンドラを引っ張ると、アルマは彼女を自分の元に寄せた。
「危ないから俺の側を離れるなよ。あと、顔もバレるだろ、ほらフード被れ」
「うん! これで良いかな」
彼女はアルマの横にぴったりくっつくと、彼のマントの裾を握りしめた。些かくっつきすぎにも思えたが、まあはぐれるよりはよっぽど良いだろう。
夜の街を歩く二つ大小の人影を、人々は気にも留めず騒ぎ立てる。妖しくて危ない街の中が、少女にはきらきらと輝いて見えた。
「そういえば、どうして夜の街なんかに出たかったんだ」
「うん? ボクは元々あんまり人目の付くところには行けないからなあ。それに」
「それに?」
「『クラブ』に行ってみたいんだよね!」
到底一国の王とは思えない発言に、裾を握る少女に視線を下ろすと、彼女は心底楽しそうに目を輝かせていた。見えるものすべてが新しくて、聞こえるものすべてが面白くてしょうがないのだ。
とはいえ、ここから先は流石に彼女には毒だろう。通りの半ばに差し掛かったあたりで、二人の影は道を外れる。大通りから少し離れた路地裏に足を踏み入れると、街の喧騒が遠くなって無機質な静けさが広がっていた。
「えー、もう帰るの? ボク、もっと見たいものあるんだけど」
「あれ以上行くのは俺でも躊躇う」
「でもクラブ……」
有無を言わせない様子で進んでゆく彼の後ろに付いて、彼女は寂しそうに小さく呟く……が、それ以上は何も言わなかった。一転した彼女の調子に、アルマの胸の内は鈍く燻る。立ち止まって振り返ると、アレキサンドラはこちらを見上げてきゅ、と口角を上げた。
「……なんで、そんなにクラブに行きたいんだ」
「えへ、ボク、踊るのが好きなんだ。ボクって王様でしょ? 忙しいしから夜くらいしか遊べないんだ」
「はあ」
「そんな時間に一緒に遊んでくれる人ってそう居ないし、一人でできることって少ないんだよね。テーブルゲームなんて一人じゃ無理だし」
少女の隣に並んで、彼女の甲高い声を聞きながら路地裏を歩く。彼女の小さな歩幅に合わせるように、足音はゆっくりと響く。彼女の頭を見下ろしながら、彼の足は自然ととある場所へと向かっていた。
「楽器は一通りやれるけど、夜遅くに演奏するのは煩いし……その点、踊るのは一人でできるし、誰にも迷惑が掛からない! だから好き」
「……なるほどな」
「って、あれ? アルマ、なんでこんな複雑な道に……ん?」
話すのに夢中で細い路地に入り込んでいることに気が付かなかった。少し不安げに彼を見上げていると、ふとアレキサンドラは気が付いた。薄暗い中、遠くに見える微かな明かりと、静寂の中で近付いてくる音楽。街の中の喧騒とは違ったそれに、思わず先へ先へと早足になってゆく。
「!」
限られた者のみ入ることを許される上流階級のナイトクラブ。入り組んだ道の中、建物の隙間に隠されるように存在していた。ドアや窓の隙間から漏れる薄暗い光とジャズのメロディは、先の街に比べ幾分も上品だ。
「……何これ、すごい! 本の中に出てくる貴族の溜まり場みたい!」
「前にここを見つけたのをさっき思い出してな」
「仮面付けて、身分も隠して……ってやつだ! 実在するんだあ……! じゃあ早速入ってぐえっ」
「こら」
「open」の札の掛かった扉の方へ歩き出した彼女のマフラーを掴んで引っ張ると、アレキサンドラは蛙の潰れたような声を上げた。眉を顰めて彼は扉の方を見る。店にはかなり客がいるようで、談笑する声やヒールの足音が聞こえてくる。
「お前は小さいから目立ちすぎる。そうなると俺が困る……だから流石に中は無理だ」
「ええ~せっかくここまで来たのに……」
「……じゃあ、そこで存分に踊れば良い」
肩を落とす彼女に、アルマは店の裏の少し開けた場所を指さした。ここなら誰かに見られることも、気づかれることもなさそうだ。自由に存分に、気が済むまで踊って良いのだ。
目の前の彼は、壁に凭れながらこちらを見ている。なんだか気恥ずかしくて躊躇いそうになる気持ちは、ピアノのメロディに掻き消された。ドラムが刻むテンポとテナーサックスの音色に合わせて、気が付けば身体が動いていた。
「あはっ! なんだか身体が軽いような気がする!」
腕を伸ばして、指先の神経まで細やかに。滑らかな足運びには音楽に乗せて緩急を付けて。軽く跳んでくるりと回って。柔らかな髪は風に乗って揺れて、まるで重力を無視しているかのように鮮やかに靡く。
嘗て母親が好きだった、バレエダンサーの踊りを思い出す。ああ、そうだ、ボクはあの時の母上の嬉しそうな笑顔が大好きだったんだ。
艶やかに変化する表情にアルマは目を奪われた。幸せそうな笑顔、何かを慈しむような微笑み、そうかと思えば挑発的に変化する。指先から足のつま先まで、全てが『アレキサンドラ』なのだ。
足を高く蹴り上げて、ピンと伸びたつま先で地面をなぞって、手をついて身体を落として。人差し指は点に向けてしなやかに弧を描く。赤いコートは紅のドレス、翻すマフラーは艶やかなヴェールに変化する。ただただ彼女が楽しいのだと、その思いが強く伝わってくる。
アレキサンドラは、その柔らかな微笑みを彼に向けた。
「アルマ! 来て!」
「え、あっ」
手を引かれて彼女の元に呼び寄せられると、彼女は片手を彼の上腕に回した。さりげなく彼の手を掴むと腰に手を回させる。
「ね、一緒に踊ってよ! 簡単だからさ」
「なっ」
「はい、左足を引いて?」
言われるがままに足を引くと、スイと彼女の右足が出る。次は右足、そして左足を横に。不思議と身体がそう動く。まるで彼女に上手く誘い込まれているようで、気が付けばがっちりと手を繋いでいた。
「アルマ、意外と踊れるんだね! ね、楽しいでしょ?」
「……さあ」
「ふふふ、そうか、そうかあ……」
満更でもない彼の返事に、アレキサンドラは心底楽しそうに声を弾ませた。引っ張るように大きく動いてみたり、ふわりと回ってみたり、その度に少しずつ彼の表情が綻ぶのが彼女は嬉しくて堪らなかった。
ふとした瞬間に、自分は人殺しなのだと思い出す。目の前の少女ですら殺そうとしていたことを思い出す。霞掛かった記憶が度々主張して頭が痛くなる。でも、その度に眩しい笑顔が自分を見つめるから――その一瞬だけ、全て赦された『アルマ』で居られるのだ。
「昔話で、女暗殺者が舞踊で魅了して惚れさせて殺すってあるよね。そういうのって本当に出来るの?」
「……ああ、暗殺の武器は刃物や銃器だけじゃない。話術や知識のような技術も役に立つ。舞踊や色仕掛けもその一つだ。武器はいくらあっても困らないな」
「へえ、じゃあ、キミがボクの心を掴むのも技術だなあ。今ならボクはアルマに殺されるかもしれないな」
「はは……俺には到底アレキは殺せないかな」
一瞬、ネメシアがそこで花開いたように感じた。紅茶を飲んでいるときも自分をからかっているときにも見せなかった。見上げた先の彼の微笑みは驚くほどに綺麗で優しくて、胸の奥にじわりと何か暖かいものが広がる。驚いたのか、なんと言えば良いか分からなかったのか、見上げたまま声も出さず黙り込む。うっかり手も足も動かすのを忘れてしまうくらい……ただただ見惚れるくらいに、彼は綺麗だった。
ボクは王様じゃなくて、アルマも暗殺者じゃない。ボクはただの生意気な子供で、アルマはただの優しい青年なのだ。
「……っ!」
「……あ、アルマ? うわっ」
急に世界が暗転したかと思えば、手を引っ張られて身体を寄せられる。石の壁が背中にぶつかると同時に、小さな身体はすっぽりとアルマのマントの中に収まった。頭を胸元に押し当てられると、アルマの匂いがした。きっと清潔に洗われたのだろう衣服からは、石鹸の優しい香りがする。
複数の話し声と足音が近付いては遠のいていく。背中に回された手に力が入るのが分かった。頭上で息を殺している彼につられて、彼女の呼吸も浅くなってゆく。
緊張状態は暫く続き、どれくらいたっただろうか、遠のいた足音が消えると、漸く彼女の身体は解放された。
「危な……そこまで来てたのに、気付かなかったな……急で悪かっ」
「アルマ!」
「なん、んん!?」
彼女に引っ張られた彼の手が、彼女の胸に触れる。思わずアルマの口からくぐもった声が出る。アレキサンドラは真剣、尚且つ好奇心旺盛な顔で見つめてきた。
「この心拍数の上昇、もしかして……恋ってこんな感じだったり……」
「……はぁ、じゃないだろ。そもそも分厚いコート越しじゃ何も伝わらないからな」
「そっかあ……まあ、びっくりしたし、キミにつられて息止めちゃったもんね」
拍子抜けしたように呆れた顔をするアルマの前で、アレキサンドラは真剣に考察を始めた。何事かと緊張した自分が馬鹿らしくて、彼は溜息をついた。己の鼓動が速くなっていることも、なんだか無性に恥ずかしい。
なんだかんだ言って、彼女と居る時間が心地良いというのは認めなければならないな。そんなことを考えながら、彼は帰り道を歩く。隣で声を弾ませる彼女を見る目は、いつもより優しいように見えた。
♦♦♦♦
ほんのりと桃色のチーク、艶やかに色づく紅いリップグロス。長い睫毛が初雪のように真白な肌に影を落とす。化粧台の鏡に映り込む女は言葉に出来ぬほど美しい。流行色のコートを身につけたナターシャは、重い鞄を片手に部屋を出る。悩ましげに溜息をついたところで、小さな足音に彼女は振り向いた。
「……あ、姉上。グラツィアーニ男爵邸へ行かれるのですか? 大丈夫ですか?」
「あら、アレキサンドラ。そうよ。あまり気は乗らないのだけど、わざわざ男爵から勉強会のお誘いを頂いたし、断るわけにはいかなくてね」
不安げに見つめてくる妹に、姉は柔らかな笑みで答える。胸の奥の傷は消えないかさぶたとなって、時々ずきりと痛むが耐えられる。ただずっと気分は暗いままだ。
公務に向かうのだろうアレキサンドラは幾つかの本を抱えている。自分には難しくてきっと理解も出来ないだろう。
「ああ、そうだわ……書斎の本はちゃんと戻すのよ。机の上に山積みにしていたら埃が積もっちゃうもの」
他愛ない話題で振り切ろうとする。今は彼女と話す気分ではない。この暗い気持ちのままでは、きっと自分は醜くなってしまう。無意味に妬んだり羨んだりしてしまう自分が嫌いになりそうだ。
暫くは困惑したように眉を下げていたアレキサンドラだったが、姉の笑顔を見ると少し表情も明るくなる。そろそろ時間も時間だ。話を切り上げて玄関へ向かおうとした時、不意にアレキサンドラは呟いた。
「姉上はお強いですね」
「……っ、どうして?」
「え、と……本当は姉上にそんな顔させるなんて、そんな人のところに行ってほしくないんです、けど……でも、それでも、真正面から向き合おうとできる姉上は……なんだか軍人みたいだなあって。あ、じゃあ男爵のご子息は難攻不落の要塞かな」
恐らく、彼女なりに慰めの言葉を掛けようとしているのだろう。相変わらずそういった言葉選びは下手くそだが、年相応に必死そうなその姿が可笑しくて可愛らしい。伝わっているか不安なのか、少し頬を染めて目は泳いでいる。見ていて面白かったので、ナターシャは次にその口から紡がれる言葉を待った。
「あ、軍人っていうのは、姉上は多彩な武器を持っていらっしゃるのもあって……落とせないものはないくらいに」
「武器?」
「はい! 美しい見た目、愛嬌、丁寧な心遣い、学問の才とか……何というか、そんな姉上でも振り向かせるのが難しい彼は、すごく変わってるんですね」
そう言ってアレキサンドラは少しはにかんだ。出てくる言葉は素っ頓狂で、結局あまり何が言いたいのか分からない。それに、彼女の口から「美しい」だなんて、まるで皮肉のようだ。けれど、そんな彼女の姿に幼き日々を思い出した。
小さくて可愛くて、好奇心旺盛の妹は、なんでも姉の真似をして後ろをついてきた。自分に元気がないと、同じように彼女もしゅん、と悲しい顔をするのだ。しかし、いつしか彼女が「王」の自覚を持ち始めた頃からか、次第に薄い壁が出来ていったような……いや、自分がそうやって壁を作っていた、そんな気がする。
「……そうねえ、じゃあ足りないのは……戦術かしら」
「ああ、なるほど! ボクには恋が分かりませんが……姉上、恋とはそういうものなんですか?」
「ふふ……恋とは戦争よ」
人差し指を口元に近づけると、ナターシャは妖しく微笑んだ。ああ、なんて皮肉なことね。妹に対する燻りが、その妹自身の言葉で晴れるなんて。しかし彼女の胸の中に暗くて重い感情は無かった。
自分に魅力が無いと思ったことはない。相手が変わっているだけ。ならば彼を探れば良い。少しばかり上向きになった気持ちに彼女は拳を握りしめた。アレキサンドラと比べられたってしょうがない。彼女を超えれば良い。相手の言葉に振り回されてばかりじゃ嫌だもの。
「あら、そろそろ時間だわ! じゃ、アレキ、帰ったらまた貴方の話を聞かせてね」
「っはい! 姉上も!」
劣等感は未だ残る。痛みも傷も完全には消えない。けれど、彼女の瞳にもう暗い色は残っていない。ちゃんと向き合うべきものが見えているから。
暫く振りに姉とこんな話をした気がする。緊張からか手のひらは汗でべたついている。幾分か明るくなった彼女の背中を、安堵したようにアレキサンドラは見つめた。
ああ、良かった……。透明になった二人の間の薄い壁に向かって、彼女は小さく呟いた。
焼き付いた言葉は刃の如く心を抉って、尚も塞がらない傷口は生々しく痛む。恋の悩み、と一言で言い表す程甘酸っぱくはない。
「姉上、本当に大丈夫なのですか? 昨日からずっとそうしてますけど」
「あら、アレキサンドラ……? こんな時間まで何をしていたの」
「将軍に剣の稽古をつけていただいてました」
少年のように軍服で身を固めた妹――アレキサンドラとナターシャは廊下で出くわした。眉を下げ少し顔を傾ける仕草から、幼いなりに心配をしてくれていることが読み取れる。
姉として情けない。ただそんな思いが募って、彼女はなんとかして微笑んだ。随分疲れ切ったような笑顔に、アレキサンドラも困惑した表情を浮かべる。
全ては昨日が原因なのだ。こんなにも胸が鈍く痛み続けるのも、曖昧な笑みも、疲れ切っているのも。だからと言って諦めることを許されない想いも、全て。
♦︎♦︎♦︎♦︎
ナターシャはめかした姿でグラツィアーニ男爵邸に赴いていた。昼間の日差しは陰っていて、二月らしく肌寒い風が吹いている。美しく整備された庭の温室は、その冷たさを知らないかのように暖かい。だがそんな乙女の憧れるシチュエーションの空気は、さながら気温の如く凍りついて張り詰めていた。
テーブルに法律書を広げ、青年はただ黙々とノートに何かを書き付けている。それをナターシャは困ったような哀しいような表情で眺めるしかない。気持ちばかりの手土産である紅茶は全く減る気配を見せない。
「あ、あの、カッツェ様……ここ……」
「ミロスラーヴァ王国憲法第六四条」
「あ……りがとう、ございます」
グラツィアーニ男爵の一人息子・カッツェは彼女に視線を合わせることもなく淡々と答える。触れるのも躊躇うほどに冷めたその態度は、彼女の熱い視線を受け付けないかの如く跳ね返す。
毎度期待しては落胆を免れない。それでもこうしてアタックを続ける彼女の姿は冒険譚の主人公の如く、賞賛に値するだろうが――ひたむきで健気な乙女の姿はカッツェの瞳には映らない。興味がない、というのはとっくに通り越した極端な女嫌いである。
「あ、あの、少し休憩でも」
「……いい加減気付かない?」
彼女の言葉を遮るように吐き出された声は普段より幾分か大きく、威圧的に聞こえた。ナターシャの気遣いを全く気にも留めない様子で、彼の蛇のように鋭い視線が彼女を向く。びくり、と彼女の体が小さく震える。
差し入れの菓子が不味かったか? 紅茶が口に合わなかったのか? そもそも、男爵に頼んで二人での勉強会を開いてもらっているのが迷惑だったか?
怯 えからか落としかけた視線をどうにか上げて、彼の険しい目を見つめ返す。ああ、これが恋慕の一幕だったらどんなに甘かっただろうか。どんなに幸せだっただろうか。
彼女が覚悟を決めた時、カッツェは不快そうに歪ませた口を開いた。
「君の好意、本当に気持ち悪いんだよ」
「……えっ?」
「色目を使ってくるその瞳、一言一言喋る度に反応するその艶かしい表情……好かれないようにこんなにも努力してるっていうのに。本当に虫唾が走る」
小さく聞き返した後、ナターシャは頭の中で三度ほどその言葉を繰り返した。脳天を凍てついたトンカチで叩き割られたように、鈍い痛みの後にすーっと血の気が引く感覚。
酷い聞き間違い? 酷い被害妄想? 状況が飲み込めずにいる彼女に、彼は追撃のごとく第二撃を撃ち込む。
「はっきり言ってしまえば、君は僕のタイプじゃない。いかに見目が美しかろうと、君はたかが美しいだけ。なんならもっと醜く這いつくばってみなよ」
「は……」
「ああ、君の弟君の方がよっぽど良いね。幼くして責務に囚われ少年としての意思を奪われて、可哀想……その苦悩はどんなに醜く、美しいんだろうね」
蔑んだように口角を上げて微笑む彼を見て、やっと自分が貶められていることに気がついた。否、気付きたくもなかったし認めたくもなかった。殴られたかのような頭の痛みに続いて、じわりと粘着質な痛みが胸に広がっていく。頭の中で彼の言葉を繰り返す度に、深く抉られるように痛みは広がっていく。
せめて、好きでいることくらい許されると思っていた、のに。いてもたってもいられず、彼女は荷物をまとめると軽く頭を下げて急ぎ足で立ち去った。酷く泣いた自分の顔が恐ろしくて、彼の表情を見るのが怖くて、その美しい顔は伏せたまま駆ける。
嫌いになってしまえれば良かった。街の中を駆け抜ける彼女の涙は、花弁のように散りゆく。それでも、どうしても愛おしいのだ。
何処かを見つめて曖昧に微笑むのも、出会ってすぐに感じた冷淡さの中の一瞬の淡い熱も。知らなければ良かった。好きにならなければ良かったのに……。
彼は私のことを「美しいだけ」と言ったけれど、私は美しいわけでもない。昨日の傷を掘り返しながら彼女は小さく呟く。ベッドの上のクッションに顔を埋めながら、抑えきれない溜息が漏れる。
アレキサンドラは可哀想――燻る不快感に眉をしかめる。そう、自分は美しくなんかないのだ。いつからか、こびり付いたような妹への劣等感。羨望。妬み――それは亡き父王が彼女を王として育て始めたところから始まっていた。
自覚したのは、あの子が五つの頃だっただろう。気がつかぬ間に、あの子は私の隣に並んでいた。四つ離れている筈だというのに、あの子は私より賢かった。私より運動ができた。私より身体が強かった。私よりも純粋で、くすみの無い目をしていた。
自分は王の器ではなかった。いや、王になんぞなりたくもなかったが、それは明確な劣等感としてやってくる。私には出来ない事を、あの子は出来る。
愛おしく可愛い妹なのに、もしも居なかったら、なんて。
「……本当に、私は……愚かで……」
誰かに必要とされたい。もっと、もっと。求められたい。
「……醜い……」
報われる世界を、焦がれる者に愛される世界を妄想することしか出来ない。そうやって、叶うはずもない幸せな夢の中に堕ちてゆくしかないのだ。腫れた瞼が重くなっていくのを、止めるものはなかった。
♦︎♦︎♦︎♦︎
「あっ、来た!」
窓の傍で頬杖をついていたアレキサンドラは、歓喜の声を上げて(勿論声量は自重しているが)窓の下を見下ろした。いつもの呆れ顔で此方を見上げるアルマと視線が合うと、彼女は満足げに笑みを返す。
白いシャツにミルクティー色のセーターを身につけた彼女は、冬だというのに随分暖かそうに見える。凍える外の空気と違って部屋の中はほんのりと温い。その上、この鼻腔をくすぐる香りは……。
アレキサンドラは期待を裏切らない。可愛らしいティーカップに注がれた紅い水からは華やぐ香りの湯気が沸き立っている。
「ふふん、期待してるね?」
「は? そんなわけないだろ……」
「今日はね、ウバだよ」
角砂糖を数個入れて混ぜると、彼女は小さなポットからミルクを注ぎいれた。ティーカップの中身が、ちょうど彼女が着ているセーターと同じ色に染まる。
期待していないと言いつつも、ソファに腰掛けたまに視線を向けてくるアルマは結構分かりやすい。アレキサンドラは小さく笑うと、ティーカップをテーブルの上に置いて差し出した。
いただきます、と小声で呟いて口を付ける。柔らかなミルクの味を噛みしめる。次の瞬間、ふわり、と爽やかさが駆け抜けた。一口目を飲み下すと、特徴的な芳香穏やかに香る。
「どうかな? 美味しい? けっこう良い茶葉なんだよ」
「……ああ、ミルクともよく合ってると思う」
アルマの口元が緩むのを見て、アレキサンドラは心底幸せそうに微笑む。この、無表情が一瞬崩れる瞬間が堪らなく愛おしい。そんな彼女の笑みに気づくと急いでアルマは口元を結んだ。
この緩みきった空気が恐ろしい。穏やかで満ち足りていて、そして幸せなこの空間が恐ろしい。言葉にできない不安感に駆られてしまう。そんなことを思いながら、アルマは二口目の紅茶を口にした。
きっと自分では顔を引き締めているつもりなんだろうけど、心は素直なものだ。そう思うと自然とこちらも笑顔になってしまう。そんな弛みかけている表情を眺めながら、アレキサンドラは姉のことを考えていた。その悩みの種は恐らくは恋愛の事だろうが、そうならば彼女に手伝えるようなことは何もない……何せ自分には経験が無いのだから。
ねえ、アルマ。ふと声を掛けてみる。訝しげに顔を上げる彼の隣に腰掛けると、その顔を覗き込むように見上げた。
「アルマは、恋ってしたことある?」
「はあ?」
やっぱりそういう顔するよね、とアレキサンドラは苦い顔をした。あまりに突拍子もない発言だ、その反応も仕方がない。アルマの「意味不明」と言わんばかりの表情に少々ムッとしたが、なんてったってボクは王様。寛大な心で話を続けようじゃないか。
「いやあ、ね。ボクの姉上が恋のお悩み中なんだよね。何か言葉をかけようにも、何せボクは恋なんてしたことがないから」
「アレキ、お前、姉がいたのか」
「言ってなかったっけ? まーアルマにこんなこと相談しても解決なんてするわけないかあ」
前述撤回。彼の前では王様だろうが何だろうが関係ないのだ!
嫌味っぽく口角を上げると頬を掴まれた。饅頭みたいだな、これ……彼は一瞬感心したが、今は遊んでいるわけではない。この悪ガキはすぐに調子に乗る……。
ぴよぴよと泣きわめく雛鳥のように抵抗する彼女を無表情で眺めて、アルマは溜息をついた。
「恋くらいしたことあるに決まってるだろ……だからってアドバイスなんか出来ないけど」
「じゃあ、恋ってのがどんなものなのかだけでも教えてよ」
「その辺の恋愛小説でも読んでろよ」
彼の言葉に否定的な顔をして、アレキサンドラは散らかった机に向かった。積み重なった本の山から慎重に一冊の薄い書物を取り出す。巷で一時期流行したそれをぱらぱらと数ページめくり、暫く黙り込む。数秒経って、下げていた目線をあげると困ったように小さな声で呟いた。
「……胸が苦しくなる、と言うのが分からない」
「はあ」
「確かに、運動したり風邪の時は胸が苦しくてしんどい。でも、そういうのじゃないでしょ?」
微妙な顔のアルマをよそに彼女は更に本のページを薦め、話を続ける。
「相手に近付きたい、触れたいと思うのか」
「おう」
「どうして?」
何かの哲学か? アレキサンドラが神妙な顔で聞いてきた質問に、アルマは黙り込んだ。そんな理由なんて考えたこともない。
彼が何も答えないからか、彼女は一人分厚い辞書の「恋」の項目を指でなぞりながら、目を顰めてぶつぶつと呟き始める。黙り込んでその様子を眺めていると、彼女は閃いた様子で急にこちらを向いた。
「そうだ、アルマの恋の話を聞こう」
「は……いや……」
「どんな話が来ても笑ったりしないから、ね! 聞きたい!」
目を輝かせて迫ってくる彼女に、アルマは困惑した。俯く彼の顔を覗き込むように、ソファの前に座り込んで彼の瞳を見つめる。透き通った色の中に悩みのような濁りが見える。
彼女に苛立ちを覚えるわけではなかった。ただ、その問いに対する回答が見つからない。そういえば以前からそうだったかもしれないが、何かを思い出そうとすると靄がかかったようにして阻まれる。
次第に彼女の期待に満ちた瞳が、不安の色に変わっていくのが分かった。彼は自分の眉間に皺が寄っていることに気がつく。要らぬ心配をされても仕方ない。彼は顔を上げた。
「……昔のことが思い出せない」
「そっか……うーん、それじゃあ、しょうがないね」
「し、思い出せたとしてもお前には言わない」
キミって本当に意地悪だね! そう言ってぷくっと頬を膨らませて睨んでくる彼女だが、威圧感は全くない。飼い猫の機嫌を損ねたようなものだ。
にしても、少し意地悪が過ぎたかな。彼女だって真剣に悩んでいることは、その目を見ていればよく分かる。仕方なく溜息を吐くと、相変わらず子供の様に目を細めて威嚇しているアレキサンドラに向かった。
「……分かった。代わりに何か一つお前の願いを聞いてやるから」
「やりい! アルマのそういうとこ、優しくて良いと思うよ」
「……まあ、何でも良いから早く言え」
心の隙を突いてくる言葉の動揺を隠して目線を逸らす。この時はすっかり忘れていたのだ――彼女が良識的な答えを出すわけがない。
「じゃあ、夜の町に連れて行って!」
「……はあ!?」
優しさなんていらなかったのだ――彼女の弾けるような眩しい笑みに頭痛がした。思わず出た大きな声に慌てて口を塞ぐ。彼女がまともな要求をしてこないことなど、少し考えれば分かることだったのに。急激な疲労感に肩が鉛のように重くなる。
「流石にそれは無理だろ……」
「えー! 何でも良いって言ったもん」
「……」
彼の言葉に、アレキサンドラは不服そうに口を尖らせる。考え込むように口を結んで黙り込んでしまう。彼とてそれが出来ないわけではない。あまりにリスクが大きいのだ。
見つかってしまうかもしれない。気づかれてしまうかもしれない。何せ自分がやったのは殺人未遂、誘拐未遂、国王侮辱罪その他諸々――面倒ごとに巻き込まれかねない。
ふと視線が交わった。いつだって純粋な好奇心に満ちていて、真っ直ぐに見つめてくる瞳だ。そんな風に見つめられたら断りづらい。アルマは苦い顔をした。
「……何が起きても、俺は一切の責任を負わないからな。それでもいいなら」
「やったあ! 最高!」
「分かったらさっさと準備をしろ」
まるで踊るように軽やかな一連の動作でアレキサンドラは支度をする。ひらりと翻したパーシアンレッドのコートに袖を通すと、宙を舞うリボンの如く靡いたベージュのマフラーを纏った。部屋の明かりを消せば、部屋の主は眠ったも同然だ。
窓際に立つ彼の瞳は、差し込む月光で少し青っぽく輝いて見える。次の瞬間、ふわりと抱きかかえられると気が付けば目下は遙か遠い地面だ。ぎゅう、とアルマの身体にしがみつく。
「なんだ、怖いか」
「……そんなことないよ? アルマがナイフ向けてくる時のが、よっぽど怖いもん」
「……ふ、まあいいや。しっかり掴まってろよ」
彼の小さな笑い声が聞こえて思わず顔を見た、その瞬間急降下する感覚にひゅう、と喉が締まる。無意識に先ほどよりも強く彼の身体を抱き締めると、抱き締め返されるよう身体を強く抱えられた。
目を強く瞑るとまるでどこまでも落ちていくような気がしたし、時間にして一瞬のそれはずっと長く感じた。長くて短いその時間の中、不意にぶわっ、と身体が花弁になったかのように風に舞い上げられ、ゆっくりと静かに地面に着地した。
「怖かったか?」
「ううん、全然……嘘、……ちょっとだけ」
「……じゃあ次は俺の背中に掴まってろ」
アレキサンドラが怖がれば怖がるほどに、アルマの声が心なしか楽しそうに弾む。聞いたことのない声色に戸惑いながらも少し嬉しくて、彼女は彼の背中に登ると首元に手を回した。彼の頭に顔を近づけると、清潔感のある爽やかな香りがする。
そういえば、彼に負ぶわれているというのはなかなかに密着した状態だ。少し面白くてくすりと笑うと、くすぐったかったのか彼の身体がびくりと震えた。
「というかアルマって、風のヨッド使えたんだね」
「まあ……だからさっきみたいに飛ばしていくから、ちゃんとしがみついてろよ。吹っ飛ばされるなよ」
了解! 軽快な返事をすると、風に身体が包み込まれる。彼の足が地を蹴ったその時――それはまるで森を駆ける狼の如く――風に乗って森に向かって飛び出した。
『ヨッド』……それは、人が使える「嘗て神だった名残」の力。彼は風を身に纏って軽やかに、ざわめく木々の隙間を駆け抜けていく。最小限の力でスピードを出し、なおかつ縫うように緻密な走りは美しい。顔に当たる風は冷たいが、何より楽しいのだ。ボクは今、彼と同じ速度で世界を見ているのだから!
隠れ家の屋敷と町を隔てる森はかなりの大きさのはずだが、一瞬だった。本当に一瞬だったのかは分からないが、そう感じさせた。気が付いた頃には、目の前に濃紺に橙色を灯した町が広がっていた。
城下町であるウィーシニャの一角、夜でも明かりの灯るグリープ通りは夜中だというのにその賑わいは昼とさして変わりは無かった。所謂中流階級の夜の街である。
愉快そうな音楽、客引きをする女の甲高い声、酔いの回った下品な笑い声。それらが混ざり合ったそこは決して居心地が良い場所ではないが、不思議と惹き付けられてしまう魅力がある。ふらふらと落ち着き無く歩くアレキアンドラを引っ張ると、アルマは彼女を自分の元に寄せた。
「危ないから俺の側を離れるなよ。あと、顔もバレるだろ、ほらフード被れ」
「うん! これで良いかな」
彼女はアルマの横にぴったりくっつくと、彼のマントの裾を握りしめた。些かくっつきすぎにも思えたが、まあはぐれるよりはよっぽど良いだろう。
夜の街を歩く二つ大小の人影を、人々は気にも留めず騒ぎ立てる。妖しくて危ない街の中が、少女にはきらきらと輝いて見えた。
「そういえば、どうして夜の街なんかに出たかったんだ」
「うん? ボクは元々あんまり人目の付くところには行けないからなあ。それに」
「それに?」
「『クラブ』に行ってみたいんだよね!」
到底一国の王とは思えない発言に、裾を握る少女に視線を下ろすと、彼女は心底楽しそうに目を輝かせていた。見えるものすべてが新しくて、聞こえるものすべてが面白くてしょうがないのだ。
とはいえ、ここから先は流石に彼女には毒だろう。通りの半ばに差し掛かったあたりで、二人の影は道を外れる。大通りから少し離れた路地裏に足を踏み入れると、街の喧騒が遠くなって無機質な静けさが広がっていた。
「えー、もう帰るの? ボク、もっと見たいものあるんだけど」
「あれ以上行くのは俺でも躊躇う」
「でもクラブ……」
有無を言わせない様子で進んでゆく彼の後ろに付いて、彼女は寂しそうに小さく呟く……が、それ以上は何も言わなかった。一転した彼女の調子に、アルマの胸の内は鈍く燻る。立ち止まって振り返ると、アレキサンドラはこちらを見上げてきゅ、と口角を上げた。
「……なんで、そんなにクラブに行きたいんだ」
「えへ、ボク、踊るのが好きなんだ。ボクって王様でしょ? 忙しいしから夜くらいしか遊べないんだ」
「はあ」
「そんな時間に一緒に遊んでくれる人ってそう居ないし、一人でできることって少ないんだよね。テーブルゲームなんて一人じゃ無理だし」
少女の隣に並んで、彼女の甲高い声を聞きながら路地裏を歩く。彼女の小さな歩幅に合わせるように、足音はゆっくりと響く。彼女の頭を見下ろしながら、彼の足は自然ととある場所へと向かっていた。
「楽器は一通りやれるけど、夜遅くに演奏するのは煩いし……その点、踊るのは一人でできるし、誰にも迷惑が掛からない! だから好き」
「……なるほどな」
「って、あれ? アルマ、なんでこんな複雑な道に……ん?」
話すのに夢中で細い路地に入り込んでいることに気が付かなかった。少し不安げに彼を見上げていると、ふとアレキサンドラは気が付いた。薄暗い中、遠くに見える微かな明かりと、静寂の中で近付いてくる音楽。街の中の喧騒とは違ったそれに、思わず先へ先へと早足になってゆく。
「!」
限られた者のみ入ることを許される上流階級のナイトクラブ。入り組んだ道の中、建物の隙間に隠されるように存在していた。ドアや窓の隙間から漏れる薄暗い光とジャズのメロディは、先の街に比べ幾分も上品だ。
「……何これ、すごい! 本の中に出てくる貴族の溜まり場みたい!」
「前にここを見つけたのをさっき思い出してな」
「仮面付けて、身分も隠して……ってやつだ! 実在するんだあ……! じゃあ早速入ってぐえっ」
「こら」
「open」の札の掛かった扉の方へ歩き出した彼女のマフラーを掴んで引っ張ると、アレキサンドラは蛙の潰れたような声を上げた。眉を顰めて彼は扉の方を見る。店にはかなり客がいるようで、談笑する声やヒールの足音が聞こえてくる。
「お前は小さいから目立ちすぎる。そうなると俺が困る……だから流石に中は無理だ」
「ええ~せっかくここまで来たのに……」
「……じゃあ、そこで存分に踊れば良い」
肩を落とす彼女に、アルマは店の裏の少し開けた場所を指さした。ここなら誰かに見られることも、気づかれることもなさそうだ。自由に存分に、気が済むまで踊って良いのだ。
目の前の彼は、壁に凭れながらこちらを見ている。なんだか気恥ずかしくて躊躇いそうになる気持ちは、ピアノのメロディに掻き消された。ドラムが刻むテンポとテナーサックスの音色に合わせて、気が付けば身体が動いていた。
「あはっ! なんだか身体が軽いような気がする!」
腕を伸ばして、指先の神経まで細やかに。滑らかな足運びには音楽に乗せて緩急を付けて。軽く跳んでくるりと回って。柔らかな髪は風に乗って揺れて、まるで重力を無視しているかのように鮮やかに靡く。
嘗て母親が好きだった、バレエダンサーの踊りを思い出す。ああ、そうだ、ボクはあの時の母上の嬉しそうな笑顔が大好きだったんだ。
艶やかに変化する表情にアルマは目を奪われた。幸せそうな笑顔、何かを慈しむような微笑み、そうかと思えば挑発的に変化する。指先から足のつま先まで、全てが『アレキサンドラ』なのだ。
足を高く蹴り上げて、ピンと伸びたつま先で地面をなぞって、手をついて身体を落として。人差し指は点に向けてしなやかに弧を描く。赤いコートは紅のドレス、翻すマフラーは艶やかなヴェールに変化する。ただただ彼女が楽しいのだと、その思いが強く伝わってくる。
アレキサンドラは、その柔らかな微笑みを彼に向けた。
「アルマ! 来て!」
「え、あっ」
手を引かれて彼女の元に呼び寄せられると、彼女は片手を彼の上腕に回した。さりげなく彼の手を掴むと腰に手を回させる。
「ね、一緒に踊ってよ! 簡単だからさ」
「なっ」
「はい、左足を引いて?」
言われるがままに足を引くと、スイと彼女の右足が出る。次は右足、そして左足を横に。不思議と身体がそう動く。まるで彼女に上手く誘い込まれているようで、気が付けばがっちりと手を繋いでいた。
「アルマ、意外と踊れるんだね! ね、楽しいでしょ?」
「……さあ」
「ふふふ、そうか、そうかあ……」
満更でもない彼の返事に、アレキサンドラは心底楽しそうに声を弾ませた。引っ張るように大きく動いてみたり、ふわりと回ってみたり、その度に少しずつ彼の表情が綻ぶのが彼女は嬉しくて堪らなかった。
ふとした瞬間に、自分は人殺しなのだと思い出す。目の前の少女ですら殺そうとしていたことを思い出す。霞掛かった記憶が度々主張して頭が痛くなる。でも、その度に眩しい笑顔が自分を見つめるから――その一瞬だけ、全て赦された『アルマ』で居られるのだ。
「昔話で、女暗殺者が舞踊で魅了して惚れさせて殺すってあるよね。そういうのって本当に出来るの?」
「……ああ、暗殺の武器は刃物や銃器だけじゃない。話術や知識のような技術も役に立つ。舞踊や色仕掛けもその一つだ。武器はいくらあっても困らないな」
「へえ、じゃあ、キミがボクの心を掴むのも技術だなあ。今ならボクはアルマに殺されるかもしれないな」
「はは……俺には到底アレキは殺せないかな」
一瞬、ネメシアがそこで花開いたように感じた。紅茶を飲んでいるときも自分をからかっているときにも見せなかった。見上げた先の彼の微笑みは驚くほどに綺麗で優しくて、胸の奥にじわりと何か暖かいものが広がる。驚いたのか、なんと言えば良いか分からなかったのか、見上げたまま声も出さず黙り込む。うっかり手も足も動かすのを忘れてしまうくらい……ただただ見惚れるくらいに、彼は綺麗だった。
ボクは王様じゃなくて、アルマも暗殺者じゃない。ボクはただの生意気な子供で、アルマはただの優しい青年なのだ。
「……っ!」
「……あ、アルマ? うわっ」
急に世界が暗転したかと思えば、手を引っ張られて身体を寄せられる。石の壁が背中にぶつかると同時に、小さな身体はすっぽりとアルマのマントの中に収まった。頭を胸元に押し当てられると、アルマの匂いがした。きっと清潔に洗われたのだろう衣服からは、石鹸の優しい香りがする。
複数の話し声と足音が近付いては遠のいていく。背中に回された手に力が入るのが分かった。頭上で息を殺している彼につられて、彼女の呼吸も浅くなってゆく。
緊張状態は暫く続き、どれくらいたっただろうか、遠のいた足音が消えると、漸く彼女の身体は解放された。
「危な……そこまで来てたのに、気付かなかったな……急で悪かっ」
「アルマ!」
「なん、んん!?」
彼女に引っ張られた彼の手が、彼女の胸に触れる。思わずアルマの口からくぐもった声が出る。アレキサンドラは真剣、尚且つ好奇心旺盛な顔で見つめてきた。
「この心拍数の上昇、もしかして……恋ってこんな感じだったり……」
「……はぁ、じゃないだろ。そもそも分厚いコート越しじゃ何も伝わらないからな」
「そっかあ……まあ、びっくりしたし、キミにつられて息止めちゃったもんね」
拍子抜けしたように呆れた顔をするアルマの前で、アレキサンドラは真剣に考察を始めた。何事かと緊張した自分が馬鹿らしくて、彼は溜息をついた。己の鼓動が速くなっていることも、なんだか無性に恥ずかしい。
なんだかんだ言って、彼女と居る時間が心地良いというのは認めなければならないな。そんなことを考えながら、彼は帰り道を歩く。隣で声を弾ませる彼女を見る目は、いつもより優しいように見えた。
♦♦♦♦
ほんのりと桃色のチーク、艶やかに色づく紅いリップグロス。長い睫毛が初雪のように真白な肌に影を落とす。化粧台の鏡に映り込む女は言葉に出来ぬほど美しい。流行色のコートを身につけたナターシャは、重い鞄を片手に部屋を出る。悩ましげに溜息をついたところで、小さな足音に彼女は振り向いた。
「……あ、姉上。グラツィアーニ男爵邸へ行かれるのですか? 大丈夫ですか?」
「あら、アレキサンドラ。そうよ。あまり気は乗らないのだけど、わざわざ男爵から勉強会のお誘いを頂いたし、断るわけにはいかなくてね」
不安げに見つめてくる妹に、姉は柔らかな笑みで答える。胸の奥の傷は消えないかさぶたとなって、時々ずきりと痛むが耐えられる。ただずっと気分は暗いままだ。
公務に向かうのだろうアレキサンドラは幾つかの本を抱えている。自分には難しくてきっと理解も出来ないだろう。
「ああ、そうだわ……書斎の本はちゃんと戻すのよ。机の上に山積みにしていたら埃が積もっちゃうもの」
他愛ない話題で振り切ろうとする。今は彼女と話す気分ではない。この暗い気持ちのままでは、きっと自分は醜くなってしまう。無意味に妬んだり羨んだりしてしまう自分が嫌いになりそうだ。
暫くは困惑したように眉を下げていたアレキサンドラだったが、姉の笑顔を見ると少し表情も明るくなる。そろそろ時間も時間だ。話を切り上げて玄関へ向かおうとした時、不意にアレキサンドラは呟いた。
「姉上はお強いですね」
「……っ、どうして?」
「え、と……本当は姉上にそんな顔させるなんて、そんな人のところに行ってほしくないんです、けど……でも、それでも、真正面から向き合おうとできる姉上は……なんだか軍人みたいだなあって。あ、じゃあ男爵のご子息は難攻不落の要塞かな」
恐らく、彼女なりに慰めの言葉を掛けようとしているのだろう。相変わらずそういった言葉選びは下手くそだが、年相応に必死そうなその姿が可笑しくて可愛らしい。伝わっているか不安なのか、少し頬を染めて目は泳いでいる。見ていて面白かったので、ナターシャは次にその口から紡がれる言葉を待った。
「あ、軍人っていうのは、姉上は多彩な武器を持っていらっしゃるのもあって……落とせないものはないくらいに」
「武器?」
「はい! 美しい見た目、愛嬌、丁寧な心遣い、学問の才とか……何というか、そんな姉上でも振り向かせるのが難しい彼は、すごく変わってるんですね」
そう言ってアレキサンドラは少しはにかんだ。出てくる言葉は素っ頓狂で、結局あまり何が言いたいのか分からない。それに、彼女の口から「美しい」だなんて、まるで皮肉のようだ。けれど、そんな彼女の姿に幼き日々を思い出した。
小さくて可愛くて、好奇心旺盛の妹は、なんでも姉の真似をして後ろをついてきた。自分に元気がないと、同じように彼女もしゅん、と悲しい顔をするのだ。しかし、いつしか彼女が「王」の自覚を持ち始めた頃からか、次第に薄い壁が出来ていったような……いや、自分がそうやって壁を作っていた、そんな気がする。
「……そうねえ、じゃあ足りないのは……戦術かしら」
「ああ、なるほど! ボクには恋が分かりませんが……姉上、恋とはそういうものなんですか?」
「ふふ……恋とは戦争よ」
人差し指を口元に近づけると、ナターシャは妖しく微笑んだ。ああ、なんて皮肉なことね。妹に対する燻りが、その妹自身の言葉で晴れるなんて。しかし彼女の胸の中に暗くて重い感情は無かった。
自分に魅力が無いと思ったことはない。相手が変わっているだけ。ならば彼を探れば良い。少しばかり上向きになった気持ちに彼女は拳を握りしめた。アレキサンドラと比べられたってしょうがない。彼女を超えれば良い。相手の言葉に振り回されてばかりじゃ嫌だもの。
「あら、そろそろ時間だわ! じゃ、アレキ、帰ったらまた貴方の話を聞かせてね」
「っはい! 姉上も!」
劣等感は未だ残る。痛みも傷も完全には消えない。けれど、彼女の瞳にもう暗い色は残っていない。ちゃんと向き合うべきものが見えているから。
暫く振りに姉とこんな話をした気がする。緊張からか手のひらは汗でべたついている。幾分か明るくなった彼女の背中を、安堵したようにアレキサンドラは見つめた。
ああ、良かった……。透明になった二人の間の薄い壁に向かって、彼女は小さく呟いた。
0
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