ダイヤモンド・ライト

須賀雅木

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第一章 王様と暗殺者

-9- 喚いて、叫んで、ウレキサイト!

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 この感情は、異常だ。
 仄かな灯りの浮かぶ薄暗い部屋、ベッドの上に腰掛けたアルマは、疲れ切った顔で溜息をついた。娼館の窓に掛かる薄いカーテンの向こうには、薄汚れたレンガの壁しか見えない。彼は虚ろな目で、脱ぎ捨てられていたインナーに手を伸ばした。
 異常者だと思った。アレキサンドラに――よりにもよって幼い少女に対してその感情を抱くことは、間違っている。普通じゃない。異常な病気は治して仕舞わないと。それなのに。

「……お客さん、あたしを抱いてる時、別の誰かと重ねてたでしょ?」

 艶めかしい女の声。背後から白い腕が首元に巻き付く。柔らかな身体が、傷だらけの背中に押し付けられる。亜麻色の長い髪からは香水のきつい匂いがした。
 こんな筈ではなかった。以前はこんなことは無かった。この異常を治すために、あの無邪気な少女からかけ離れた娼婦を選んだのに。その豊かな肉体を前に、彼は何も感じなかった。
 吐き気がする。

「結構いるんだよね~、別の人思い浮かべながらやる人。別にお客さんが変ってわけじゃないよ、普通普通」

 慰めるように腕を絡み付けて、女の指が胸の傷を撫でる。気楽そうな声を聞きながら、アルマは身体中から不快な汗が滲むのを感じた。
 結局、自分の異常性がより明瞭になっただけだった。脂肪の付いた手足も、ふくよかな胸も、猥らな声も、か細い少女に重なってしまう。その背徳感に溺れてしまう。
 罪悪感と嫌悪感。それが腹の中で渦巻いて頭が痛い。気持ち悪い。吐き気がする。

「だからさあ、お客さん……もう一回……」
「…………う、っ」

 耳元に顔を寄せた女が何か言い終わるよりも先に、彼はふらふらとトイレに駆け込んだ。空っぽの胃液を込み上げるままに吐き出してもなお、腹の中の不快感は消えなかった。

「……そんな吐かれるくらい嫌がられると、流石にあたしも傷つくんだけどな~」

 ドアの向こうから聞こえる嗚咽に、亜麻色の髪の女は呆れたように苦笑いを浮かべた。


♦♦♦♦

「あーるまっ!」
「うっ」

 飛び込んでくる少女を受け止めて、アルマは潰れた声を漏らした。勢いの良さに思わずふらつくのを何とか踏ん張って、満足そうに目を瞑っているアレキサンドラを抱き締める。
 指に絡んでぴょんと跳ねている柔らかな髪から香る、爽やかなシャンプーの匂い。否定できない愛おしさに、じり、と胸の奥が焦げるような感覚がある。複雑な表情で見下ろしていると、こちらを見つめる鮮やかな紅い瞳とばちりと目が合った。

「へへ……今日ずっとね、アルマに抱き締めて欲しくてしょうがなかったんだよ」
「……っ、そ……んなに抱き締められたいなら、俺じゃなくとも……頼めばいいだろ、婚約者とか……」
「うーん、グラナはね、別に嫌いじゃないけど……まあともかく、アルマがいいの! アルマじゃなきゃやだ!」

 真っ直ぐに見つめて恥ずかしげもなく飛んでくる彼女の言葉に、満更でもないと緩みそうになる口元をぎゅっと結ぶ。
 正直、期待していた。婚約者よりも自分を選ぶ言葉を聞きたかった。わざとその言葉を言わせようとした。卑しい自分が嫌になる。そんな彼の後ろめたさなどつゆ知らずに、胸に顔を埋める少女は嬉しそうに笑い声を漏らす。

「あのね、ハグすると、三分の二のストレスが消えるらしいんだよ。ちゃんとした研究で実証されてるんだ。あ、そうだ、ねえアルマ! しゃがんで!」
「な、なんだ」
「えへっ、はい! ぎゅーっ」

 膝をついたアルマの視界は、不意に真白なシャツで覆われた。細い指が髪を撫でる感覚に、彼の思考は一瞬停止する。上質なシャツ越しに聞こえてくるとくん、という小さな鼓動に、漸くそこが少女の胸の中だと気が付いた。
 以前の彼なら無理やりに引き剥がしただろうが、今の彼は決してそれを拒むことはない。そりゃあ、年下の少女に抱き締められるこの状況は、十九の青年としてどうかと思うし、そもそも俺は暗殺者で、こいつはターゲットなのだが……。

「……で、何……これは」
「ボクもぎゅってしたい!」
「……はあ」
「だってアルマのこと好きなんだもん。抱き締められるのもいいけど、するのもいいね」

 アレキサンドラの幸せそうに細めた目の間から、赤い瞳がきらきらと覗く。相変わらず、恥ずかしげもなくそんなことを言えるものだ。
 最近はもう、無理に拒否する気にはなれない。そもそも拒んだって聞かないだろうし――まあ、ハグくらい別にいいか……なんて。甘い甘い毒が、すっかり回ってしまっている。
 重なる心臓の音。少し早いくらいの少女の鼓動。楽しそうに笑うその表情にそれ以上の意味は無いなんてこと、分かり切っているのに。締め付けられるような痛みに、彼は険しい顔をした。

「よーし、いつもボクがアルマに元気貰ってるから、今日はボクが元気にする番! さ、ソファに座ってゆっくりして!」

 本当に、彼女の「好き」に他意は無いのだろうなあ。苦しいような、むず痒いような、諦めたような表情で、彼はソファに腰かける。
差し出されたティーカップに口を付けるアルマの表情は、彼の気持ちとは裏腹に存外穏やかに見えた。

「ねえアルマ、っよいしょ、ほっ……最近どう? 何か思い出したりした?」
「……そうだな、最近……昔の記憶が戻りつつある気がする、っんぶ」
「へえ! どんなの?」
「ロクなことが無かったって言ったろ……」

 小さな拳が振り上げられては、リズムよくトントンと肩に落ちてくる。口元に寄せたティーカップの水面が揺れて、ピーチの香りの温かい波が唇に直撃した。
 アレキサンドラは、ソファの後ろに立って楽しそうに肩を叩いている。強い殴打が続いたかと思うと、次はぎゅう、と肩を押さえつけられた。指圧しているのだろうが、彼女の細い親指はただ丘を滑ってゆくだけ。

「っ、ほっ、よいしょ……っどう? ボクこういうのやったことないし、やってもらったこともないんだけど、良いらしいって聞いてさ。どうかな」
「弱すぎてくすぐったい」
「むう」
「……はあ、じゃあ俺がやる。ほら、ここ座れ」
「あ、ちょっと待って! そのまま」

 不服そうに頬を膨らます少女に溜息を吐きながら、ティーカップをテーブルに置く。立ち上がろうとする彼を、アレキサンドラは咄嗟に引き留めた。不可解だと眉を顰めるアルマの前に回り込むと、彼女は満面の笑みでその脚の間に腰を下ろした。

「……いや、ちゃんとソファに座れって」
「ここがいい! 上向いたらアルマの顔が見えるもん」
「マッサージ中に上を向くな」
「それに、ボクが座ってアルマが立ったら、腰痛くなると思うよ」
「……分かったよ」

 無邪気な笑顔で飛んできた正論に、アルマは渋い顔をした。呆れたように目を逸らす彼の表情を見上げながら、少女は満足そうに顔を綻ばせる。ティーカップに口を付けながら、アレキサンドラは大きな手が肩に乗せられるのを感じた。

「……っうわ……お前……首と肩凝りすぎだろ」
「そうなの? あんまり気にしたことなっ、いだだ」
「……」

 小さな肩に触れた瞬間、凡そ十三歳の身体ではない感触に思わず声が漏れる。と同時に、指先から伝わる「やりがい」に小さく息を吐いた。
 アルマが黙り込むので、部屋には何とも言えない沈黙が広がっていた。時折アレキサンドラが漏らす潰れたような声が、やけに部屋に響き渡るように聞こえる。どこか懐かしいのだ。肩に乗る決して大きくはない手。細い指が筋肉を押す感覚。
 揺れる髪が時折腕に触れて良い香りがする。姿勢が悪いと笑う明るい声。頭上から聞こえてくる、いつもの歌。

「……はるのやよいの、あけぼのに……よものやまべを……」
「……? 何それ、歌?」
「っえ、う……っ今、……うわ……」
「ねえ! ねえアルマ! 何の歌?」

 少女の声が聞こえた時、アルマは漸く自分の口から零れていた掠れた声に気づいた。羞恥心と背中がすっと冷たくなる感覚から咄嗟に口を手で覆ったが、無意識のうちに紡がれた歌声は無かったことにはならない。アレキサンドラの好奇心は、既に火が付き燃え広がっていた。

「ねえ~! 今のもう一回歌って!」
「…………絶っ対、嫌だ」
「じゃあ歌わないでいいから、なんなのか教えてよー」
「……」

 口元を隠した手が離れない。目下の熱視線から目を逸らしながら、アルマは黙りこくった。しかし、アレキサンドラが彼を逃がすわけがない。余裕なさげで焦っていて、本人は隠したがっているが恥ずかしがっている姿を、彼女の瞳は捉えて離さない。
 びいびいと喚く彼女に、痺れを切らしてアルマは溜息を吐いた。前を向くように促すと、再び少女の肩に手を乗せた。

「……何の唄か忘れたけど、よく聴いた唄だよ」
「へえ、なんか不思議で面白いな。でもなんで今急に?」
「よく、肩たたきされてる時に……誰かが歌ってた、気がする……多分」
「おおー! どんな意味の歌なの? 肩たたきの歌?」
「……覚えてない」

 アレキサンドラの問いに、アルマはたどたどしく答える。自然と紡がれた唄は、存外なんとなくしか覚えていなかった。首から肩にかけてを親指で擦ると、アレキサンドラは潰れた声を上げる。

「……『はるの、ややい』?」
「おい……やめろ、馬鹿にしてんのか」
「してるわけないでしょ! アルマの故郷の歌だから、ボクも歌ってみたいの、教えてよ」
「……はあ……『はるのやよいの』……」

 細くて小さくて気怠げな歌声を、弾けるような高い声が反芻する。アルマは苦い顔をした。こんなこと、恥ずかしくてたまらないのに、アレキサンドラの楽しそうな声が心臓を締め付ける。顔が緩んでしまう。
 何度も何度も自覚させられる。小さな手が心の奥に触れようとしてくる度、鼓動はおかしなリズムで跳ね、その温もりが嬉しくなる。ずっとそうしていて欲しくなる。自覚したくないのに、嫌なのに、愛しいと思ってしまう。
 どうせ後で空しくなるのは分かっているのに。

「あ、そういえば、前から思ってたんだけど」
「何……こっち向くな」
「アルマがピアス付けてるの、なんか意外だなあって。髪の隙間からたまに見えると、キラキラしてて綺麗だよね」

 不意に見上げた少女の赤い瞳に、眉を顰めた青年の姿が映り込む。耳元で二藍の色をした薄い石がゆらりとゆれ、灯りを反射して艶やかに煌めく。手袋越しに触れながら、アルマはまた頭の奥底に消えない靄を感じた。

「なんか大人って感じだなー、自分で選んだの? それ」
「いや……違う、と思う」
「じゃあ誰かからもらったの?」
「……どうなんだろうな」
「ほんとに昔の記憶が戻ってきてるの?」

 曖昧な返事に、アレキサンドラは訝し気な視線を上げてきた。何も言えなかったが、何処となくムカついたので、アルマは答える代わりに肩と首の間を親指でぐい、と押した。少女の潰れたカエルのような声が部屋に響く。

「ぐぇ……ってて、でもやっぱりかっこいいな、綺麗だなあ……そのピアス」
「……じゃあこれ、いるか?」
「え、いいの? 大切なものじゃないの?」
「別に……特に思い入れもないしな」
「あっ、アルマ、待って待って、片方だけ欲しい!」

 右耳のピアスを外し、左耳に手を掛けると、ソファから飛び降りたアレキサンドラの制止が飛んできた。紫の石は光を反射して様々な色に光って見える。手渡されたそれを一頻り眺めた後、彼女は両手で優しく握りしめる。

「片方でいいのか」
「うん! アルマとボクで一つずつ持ってたいの! お揃いで!」
「……そう」
「やったー! えへへ……お守りにするよ。これを持ってると、なんだって出来ちゃう気がする。アルマがずっと近くにいるみたい!」

 手の中の煌めきを映した赤い瞳がきらきらと煌めいて見える。左耳のピアスが、以前よりずっと重たく感じた。
 アレキサンドラの眩しい笑顔に、アルマは目を細める。押し寄せてくる感情を飲み込んだ。喉から込み上げそうになる言葉を飲み込んだ。素っ気なく突き放したいのに、素直な言葉が溢れそうになったから。
 焼けて焦がれて痛いのに、温かく満たされていた。全部飲み込んで最後に残る「好き」が心地良くて嫌だった。アルマは呆れたように、小さく溜息を吐いた。


♦♦♦♦


 細い月が薄雲の後ろに隠れる夜だった。
 作業中の画帳と丁寧に整頓された鉛筆。雑に蓋を被せられた錠剤の瓶。子猫がすっかり汁まで食べ切った空っぽの缶詰。夢を見たくないからとかえって薬で深く眠りについた青年。
 まるで死んでいるみたいだな。静かに眠る青年の顔を端正な顔で覗き込みながら、悪神はふとそう思った。本当なら家族とみんなで死んでいたはずなんだけど。

「本当、失敗だったかな、これ」

 家族とみんなで死んでいたらよかったのに――彼を生かし選んだのは自分だが。悪神はぼんやりと頬杖をついた。こんなことなら、多少我が強そうでも兄の方を選ぶべきだった。
 何事も上手くいかないものだ。さっさとあの小さく弱い王を殺し、魂を奪ってくれればいいものを。すっかり彼に心を許した彼女は隙だらけなのだから――だから、この男が彼女にすっかり心を許していては元も子もない。
 薄雲の隙間から顔を出した細い月の光が、悪神の顔を青白く照らす。恐ろしいほど美しい彼の顔には、焦りの色が滲み出していた。

「……それにしても……やっぱり、足りない」

 魂が足りないのだ。あの王の魂を以てしても、どうして足りない……? 窓枠に腰かけ、ぼんやりと仄かな朱い光の灯った提燈を掲げる。五〇〇の魂で完成されるはずなのに、計算通りのはずなのに。何事も上手くいかない。

「あー……どうしよう、嘘、どうして足りない? どうするか……取り敢えず、あの子の魂がなきゃ……あっても足りない、本当に足りない」

 端麗な顔が歪む。苦悩で歪む。また美しく歪む。悪神は頭の中で計算を繰り返す。何処で――何処から間違えていたのか分からない。最初から――「道具」選びの時点で間違えていたと言われたらそうだけれど。
 ああ、この「道具」も使い物にならない。いつまでも心の無い殺戮機器であれば良かったものを。何故か心を取り戻したどころか、勝手にターゲットの少女と仲良くなり、あまつさえ恋心なんか抱いていやがる。年端も行かぬ少女相手に! 気色が悪い。
 だが、その汚らわしい感情は武器になる……素直な欲望を向けてくれればの話だが。屈服させたいだとか、蹂躙したいだとか――これはそんな普通の感情を抱くこともない。抱いていても、彼は生来の気質かそれを只管抑え込む。これだからこの「道具」は使い物にならない。

「洗脳……は二度効かないし、こいつは手が掛かったから、最初にかなり使い尽くしたんだった。ああ、こんなの選ぶんじゃなかった。あと出来ることは……もうこれしかないか。代償が大きすぎる、けど仕方がないよね」

 悪神は手のひらを眺めながら、苛立った表情を浮かべる。何もかも上手くいかない。あんなに力を使って漸く従順で使い勝手の良い「道具」にしたのに、全部台無しだ。
 それでも、どうにかしなくてはならない。細い月が再び雲の後ろに隠れる。悪神の宵闇よりも漆黒の瞳に映るものは何も無いが、まるで何かを捉えているようだった。

「ああ……『あの人』に、振り向いてもらわなくちゃ。どうにかして、何とかなるはず、何とかして……ふふふ、そうしたら、『あの人』はきっと……うふ、ふふ、僕のことを好きになってくれる! 愛してくれる!」

 悪神は焦がれていた。『あの人』が自分に向ける笑顔を想像して、彼は嬉しそうに微笑んだ。想像の『あの人』が微笑みかけてくれるだけで、全ての怒りも苛立ちも焦りも忘れてしまった。なんとでもなるような気がした。
 悪神はまるで眼前に『あの人』が存在するみたいに、甘い声で呟いて、甘い溜息を吐いた。宵闇に溶けてゆく彼の顔は不気味なほど美しく――形容できない不気味さがあった。


♦♦♦♦


 憂鬱な時間がやってくる。この時間は相変わらず胸が苦しい。アレキサンドラは、溢れそうになる不安を隠すように表情を整えた。
 議場の一番高いところ。立っているだけで眩暈のするような不安に襲われるが、今日はきっと大丈夫。丁寧に布で包んで袋に入れた「お守り」をきゅう、と握り締める。温かな気持が胸の中に広がって、勇気が湧いてくる。
 今日はきっと大丈夫。近くに居なくても、アルマを傍に感じられるから。少女の表情は、いつもよりずっと力強く見えた。

「……さて、次の議題は、金属製品における『国家認定』の悪用についてですが。では、産業大臣の方から説明をお願いします」

 大人たちの頭を見下ろしながら、アレキサンドラは議長の声に耳を傾ける。手元に配られた資料に目を通して、いつものように次に口にする言葉を考えた。どんなことを言われても、揺るがない姿で挑めるように。

「一定の基準を満たした製品に与えられる『国家認定』は、製品の品質を保証するものであります。それが、七年前から国家認定品に粗悪品が含まれているとの報告を受けておりました」

 大臣の粛々とした声が続く。アレキサンドラはポケットの中で、お守りのピアスを優しく撫でた。

「それが近年になり件数が急増し、国家認定品にも関わらず粗悪品を購入してしまう被害が多く確認されました。主な原因は認定基準の項目に不備があり、品質確認が十分に行われなかったとのこと。この件について、対策の提言を……」
「陛下。陛下はこの件についてどう思われますか? 対策の提言も必要ですが、損害を被った作り手への補償をお忘れになっては困ります」

 つらつらと読み上げられる文章に割って入ってくるしゃがれた声。来た。アレキサンドラはいつものように、全く動じない表情のまま資料から白髪の男に視線を移す。視線が集まる感覚に、彼女は小さく呼吸をして背筋を正した。

「この件で、『国家認定』の価値……延いては国家への信用は下落しかねないのです。その辺りの責任を示していただきたい」
「そうですね。一度失った信頼を取り戻すのは容易ではないでしょう。品質管理の徹底は勿論のこと、精査した上の明確な基準を国民に示すこと、理解を広めることが必要でしょう」
「そうではなく、補償の話ですよ、陛下。国家への信頼というのは、消費者だけでなく、『国家認定』の下で生活を成り立たせていた生産者の信頼もお忘れなく」

 よく通る凜とした声が議場に響く。しかし、紡ぎ出した言葉はすぐにはね除けられる。いつものように、アレキサンドラは動じなかった。机の下で、彼女はお守りを親指ですり、と撫でる。

「損益が出た生産者には、勿論補償が必要です。額に関しては、大臣や専門家の意見を伺いながら検討していきましょう」
「『国家認定』を受けているのは半数以上が第一市民であることは、陛下でもご存じですよね。補償は当然予算から拠出するものですが、予算……まあつまり、我々の税金は、誰が多く納めているのか……それも考慮していただかなくては」
「ははは、国に多くお金を払っているのだから、国に困らされた時にしっかり補償していただかないと、彼等も多く税を取られることに疑問を感じてしまいますからね」

 喉が詰まりそうになる。机の下で、アレキサンドラは手の甲を抓った。援護するように飛んでくる声に、彼女は平静を保ったまま言葉を返す。いつだって、彼らの声は自分を子供だと侮り馬鹿にしたように聞こえるのだ。
 結局、貴族は平民と「同じである」ことに耐えられない。結局は、これまでと同じように甘い汁を吸っていたいのである。彼女の揚げ足を取っては、これまでと同じであるようにと手引きするのである。
 そしてボクは子供だから、彼らを上手く言い破れない。結局、子供であることを理由に話を逸らされる。子供だから、未熟だから、大人ではないから、吐き出す言葉は説得力に欠けた綺麗事にしか聞こえない。

「そもそも七年前から同様の事態は発生していたのに、対策を放置していた結果が今回の件なのです。その責任についても問いたい」

 別の誰かの声。机の下で、アレキサンドラは手の甲に爪を立てた。七年前のことなんか知らないのに。先王――父がこの件をどうして放置したのかなんて、今となっては聞くことが出来ないのだから。

「産業部門の体たらくが主要因ではありますが、元をたどれば産業部門の人事を任命し、また当時この穴だらけの認可基準を承認した王家の責任も大きいと思いますが」
「当時のことは、私には分からないことが多い。リフォロフ産業大臣、後ほど今回の件について、原因を述べてください。話を本題に戻しましょう。対策の提言について」

 アレキサンドラは、机の下で手の甲を強く抓った。だから知らないんだってば。人事なんてその部署が勝手にやって、こっちは承認するだけだ。どうしてその部署の話をすっ飛ばして、ボクだけが責められるわけ? 表情は変えず、彼女はいつものようにはっきりした口調で答える。
 皆々、ボクに責任を押し付ければいいと思っている。都合が悪くなれば、全部国王が悪いことにすればいいと思っている。ああムカつく!

「陛下、人任せにするおつもりですか? 責任を放り出さないでください」

 アレキサンドラは表情一つ変えずに、机の下で手の甲を抓った。皆々楽で良い。全部ボクのせいにすれば、都合が良いのだから。歯を立てていた唇の端から、少しだけ血が滲んだ。



 身体の芯まで凍てつきそうな真冬の空は、一日の仕事を大方片付けた頃にはすっかり黄昏時に差し掛かっていた。最後の仕事に向かう馬車を待ちながら、アレキサンドラはこそこそとお守りの中から二藍のピアスを取り出した。
 薄暗い闇の中で、紫色の石は街灯の橙を反射して夕暮れ色に煌めく。少女の表情は、初めてそれを手にした時と相反するような浮かない顔だった。つるつるした表面を指で撫で、小さく溜息を吐く。

「……アルマ……」

 石を布の中に戻し、握り締めたそれを胸に押し付ける。馬車の確認をしているセレスに聞こえないよう、彼女は小さく囁いた。ふとした瞬間に、会いたくて会いたくて堪らなくなる。優しい声を、抱き締めてくれる温かさを、思い出しては胸が苦しくなる。
 早く帰りたい。今日はアルマが来てくれる日だから。早くアルマに抱き締めてほしい。穏やかに笑って頭を撫でてほしい、けれど。ポケットに戻したお守りの撫でながら、アレキサンドラは寒さに肩を竦めた。

「ああ陛下、ナターシャ様……ようこそおいで下さいました! 今、準備をさせているところです。グラナ、お二人を案内して差し上げなさい」
「はい、父上。二人とも、こちらへ」

 巨大な屋敷の玄関で、アレキサンドラとナターシャは数人の使用人たちに囲まれていた。出迎えに現れた宰相は上品に微笑むと、先に屋敷に到着していたグラナを呼びつける。
外套やマフラーを脱いで使用人たちに預ける。左手が痛かったので、白い手袋は着けたままにした。
 大きなテーブルに並べられる色とりどりの料理たち。少し息を吸い込むだけで、食欲をそそられる香りが鼻から喉を駆ける。
 二月に一度の会食――というよりは、両家の親睦会に近い。硬い椅子に腰掛けて皿の上を眺めていると、静かに部屋に入ってくる夫人と少女を視認した。

「ご機嫌よう、陛下」
「コルニ、今日は挨拶しなさい」
「……ごっ、ごき、きっ、き……げんん……んっ、よ、っ……」

 辿々しく――思い通りに紡げない声に苦痛そうに表情を固まらせる少女は、母親の隣でスカートの裾を持ち上げ頭を垂れる。席に着いていた宰相は困ったように苦笑する。グラナの歳の離れた妹であるコルニは、気まずそうに席に着いた。

「お見苦しいものをお見せしてすみませんね、あの子は頭が悪いものだから」
「いえ」
「さ、食事を始めましょうか」

 皿の上に小さく盛られた料理はまるで一粒の宝石のように見える。牛肉のテリーヌを口に運びながら、政治の話が飛び交う。瑞々しい青野菜のサラダ、口当たりの良いキノコのポタージュ・リエに柔らかなステーキは、どれも文句なしの絶品だ。
 宰相は先王である父とも親しく、現王であるアレキサンドラの政治に理解のある、彼女にとって数少ない頼れる人間であった。少し痩せているが健康的でハンサムで、五十代半ばにしては若く見える。
 食事が終わりに向かうにつれ、話題は個人的な話に移りつつあった。先に席を立って戻ったコルニ、積極的に口を開かない夫人を除き、話は花が咲く一方である。
 疲れを見せないように、アレキサンドラは楽しそうに声を弾ませた。満面の笑顔で、思ってもいないことを口にした。早く帰りたくて仕方がない。

「さて……この後はどうしようか」
「あっ僕、お茶とお菓子を用意しますよ」
「それくらい、給仕たちにやらせなさい。それより……」

 お茶の用意を、と立ち上がろうとしたグラナを、宰相は制止する。何か言いたげな目が、彼とアレキサンドラに向けられていた。二人は思わず顔を見合わせ、何とも言えない表情になる。
 いつも、宰相と夫人の関心は自分たちの仲なのだ。親として当然ではあるのだが……正直、心底面倒だ。何を期待されているのか、好奇の目で見られる事も不快である。アレキサンドラは口籠り、気まずい沈黙が流れる。

「えっと……」
「……あ、そうだ。アレキ、コルニと少しお茶でもするのはどうかな。あまり話したことないでしょ。その……表向きだけど、あの子はアレキの『妻』になるんだし、仲は良い方がいいと思うよ」
「あ……ああ、そうしようかな!」

 両親の期待するような含意のある視線に耐えかねて、グラナは何とか言葉を絞り出した。助かった、と彼女がそれに乗っかると、宰相は少し残念そうに眉を下げる。グラナの方を見ると、彼は困ったように微笑んでいた。
 これは両家の間で結ばれた密約だ。女児しか生まれなかった王家の血を絶やしてはならない――しかし、外の男に実権を握らせるわけにもいかない。だから、子を残すのは国王であるアレキサンドラだ。
 グラナから子種を受ける代わりに、妹であるコルニを王妃に据える。生まれてくる王子は両家の血を受けている、完璧で実に都合の良い計画であった。
 恐らくあの厭わしい視線は、そうやって子を作る時に嫌悪感を抱かないように。拒んだり他に目移りしてこの計画が上手くいかないことが無いように……そういう事なのだろう。

「ははは、冗談だろう、グラナ。あの子は本当に出来が悪くて頭が悪くて仕方ないのに」
「……グラツィアーニ殿、コルニとお話しさせてもらっても構いませんか」
「陛下が仰るなら構わないですよ。まあ……『お話』はできないと思いますが」

 煌びやかな装飾が至る所に施された廊下に、三つの足音が響く。使用人の案内の後ろ、アレキサンドラはナターシャの隣を歩いていた。ふと、緩やかにカールしたブロンドの髪が頬に当たって端正な顔が耳元に寄せられるので、彼女は訝しげな顔をした。

「……グラツィアーニ殿、お顔はハンサムだけど、ちょっとアレは無いわよねえ……」
「は、はあ……まあ……」
「……なんと言うか……小さい女の子に対してアレは可哀想よ」
「聞こえますよ……」

 ひそひそと囁いてくる姉に、アレキサンドラは困惑の表情を浮かべた。いくら小声とはいえ、先導する使用人に聞かれては堪らない。
 とはいえ、確かに宰相の言動はいささか不愉快であった。年端も行かない少女、しかも実の娘に対してあの嘲るような笑み。
そもそもコルニが表向きの妻になるというのも、彼女があのように「話せない」から――この秘密を漏らすことなぞ出来るわけないという意味で都合が良かったのである。その点で、アレキサンドラは彼女のことが気掛かりであった。

「コルニ様のお部屋はこちらでございます」

 コルニもまたアレキサンドラと同様に、選択肢が無い。自分ではない誰かに将来を決められた彼女から良く思われていないのは当然だろう。だから出来るだけ好感を持ってもらう方が良い。嫌な可能性は、不安の種は少しでも潰していたいのだ。
 使用人が扉をノックする音が廊下に響く。当然返事は無い。ガチャリ、とノブの回る音。

「コルニ様、陛下とナターシャ様とお茶を」
「あっ、う、や」
「えっ」
「あやっ、あ、えっ、う、う……!?」

 床に散乱する大量の紙。乱雑に放置された本や玩具。辛うじて空いている床から脱しようとしている焦った顔の少女。部屋の前で、三人は立ち尽くしていた。
 ふと、散らばっている紙の一つに目をやる。皆が硬直し静まり返る中、アレキサンドラは恐る恐る足を踏み入れてざらざらした紙を手に取った。

「『トーポリ管弦楽団』のポスター?」
「……! きっ、きょ、ううみ……みっ、ああっ、あ、ある……る……のっ……?」
「興味というか……運営してるのが国だから、良く知ってるよ。ボクも好きだし。好きなの?」
「……っ! ……んっ……」

 散らばったものを取り敢えず部屋の隅に押し退けて、埃を被った物置にされていたテーブルが引っ張り出される。使用人数人がかりで丁寧に拭き掃除された椅子に腰掛けると、檸檬の爽やかな香りのする紅茶が並べられる。
 コルニは角砂糖を五個、ミルクをたっぷり入れたティーカップにおずおずと口を付ける。緊張しているのか縮こまりながら、警戒中のリスのようにこちらの様子を窺っているようである。

「その年で音楽が趣味なのね、気品があるわねえ。あら、このレコードは私も持ってるわ! どれが好きとかあるの?」
「……え、えと……おっ、……おんっ、ん……が、がく、っく、と……い、い……い、うか……っか、か、お……がっ、す……っ、すす、すき……きっ、で……っ」
「顔」
「……こ、……っこ、この、の……っ……」

 床に落ちているスケッチブックを拾うと、コルニは新聞の切り抜きが大量に貼られたページを指し示す。美しい白髪で蒼い瞳の中性的な青年の写真が、所狭しと詰め込まれていた。銀色のフルートを吹く麗しい姿、リッププレートに乗った形の良い唇は、どこか妖艶さを感じさせる。

「……っ……『リペ様です。美しくてときおり可愛くて、美少年というかんじが好きです』」
「は~……確かに綺麗な顔だね。演奏者の顔とか気にしたことなかったな……」

 無理やり言葉を紡ぎ出すのが煩わしくなったのか、彼女は床に落ちていたノートとペンを手に取って書き付けた。お世辞にも綺麗とは言えない文字だが、彼女の「好き」が率直に伝わってくる。ナターシャは床に積み上げてある雑誌を手に取ると、徐にページを捲り始めた。

「あら! 確かにハンサムが多いわね。私は……あ、この人! 顔がとても素敵」
「『ヒューナさんもとてもかっこいいです。冷たそうだけど、笑顔が素敵で』……あ、っあ、あれっ、れ……き、さ……っ、さ、さま……っは……?」
「ほら、このページは若い団員が多いわよ。あ、でもアレキ、男性の顔に好みとかある?」

 ナターシャの人懐こい雰囲気に、不安そうに強張らせていたコルニの表情が少し緩む。正直なところ、アレキサンドラはこの話題にあまり共感が出来なかった。しかし、二人の期待するような目――「少女」を求められるのなら、「少女」でいなければ。アレキサンドラは差し出された雑誌に視線を落とす。

「うーん……あ、この人とか」
「あっ! ……っ、ん……『ニッチなところいきますね! メリサくんは一見地味ですが、前髪の隙間から見える切れ長の目が美しいのです』」
「そうそう! あと、背も高くて手が綺麗でかっこいいなって」
「あら意外ねえ、もっとキラキラした子が好きなのかと思ってたわ。グラナみたいな」

 何度も読みこんだのだろう、少し皺の入ったページを指差すと、コルニは目を輝かせた。敵意が無いことが分かるや否や、先の強張った様子が嘘みたいに、もうすっかり気を緩めてノートに何か書き付けている。
 思いの外、彼女は普通の女の子だ。自分の不安が杞憂であったと感じるに連れて、アレキサンドラはどっと脱力して途端に面倒臭くなってきた。
 コルニは嬉しそうに目を見開いて喜び、それに同調し談笑する少女たちの姿は傍からは微笑ましい様子に見えるだろう。アレキサンドラはティーカップに口を付けて、少女らしく可憐に微笑んだ。


♦♦♦♦

 重たい雪の降る日だった。二月も終わりに差し掛かっているが、相変わらず湿った冷たい空気が肌を刺す。それも、暖かな温室では不都合はない。寒さより胸が詰まるのは、目の前の青年の刺すような冷たい視線だ。
 もはや慣れてしまった――否、慣れて堪るか。嫌いになれたらいいのに、といつも思うのだが。彼の理由を知ってしまってからより一層、その伏し目がちな瞳に、ふと視線がぶつかった瞬間、一瞬の悪意のない無垢な表情に、胸が熱くなってしまう。
それに、こうして勉強会を一度も拒まないのも、もしかしたら……ほんの少しでも、脈があるのではないかと期待してしまうのだ。

「……な、なんでしょうか……」
「……いや、滑稽だと思って」

 カッツェは皿に取り分けられた焼き菓子に視線を落とす。コーヒーソースがたっぷりと垂らされた黒い生地のケーキを銀のフォークで何度か突きながら、嘲るように口元を歪めた。

「エトーレのブラウニーは好きだよ。甘くないし、僕はここのブラウニーしか食べない。誰に聞いたのか知らないけど、父上が言ったのかな」
「でしたらどうぞ……召し上がってください」
「実に滑稽だな。僕が好きな菓子を持って来れば、僕の機嫌が取れると思ったんだろう? 食べ物で釣ろうって魂胆なんだろう? 実に安直な考え、君のような女の考えることなど、想像するまでもなく見え透いてるんだよ」

 ああ出た! ナターシャは不快な痛みに眉を顰めた。長々と貶められ煽られる言葉。慣れて堪るか。一つ一つが胸に刺さって、心臓から涙が溢れているみたいに痛い。
 そして最近、どうしてか沸々と湧き上がる感情があるのだ。この感情は「好き」でもなければ当然「嫌い」でもない。何処か「苛立ち」に似ていて、彼女は机の下で拳を握り締めた。
 食べ物で釣ろうとしていたのは事実だった。それをまんまと見破られ、挙句わざわざ口に出されてしまった。恥ずかしさと惨めさで、腹の底で不快感がぐるぐると渦巻いている。
 ああ「悔しい」!

「という訳で、僕は不愉快なので絶対にこれを食べないね。どうしてくれる、君の所為で僕の好きなブラウニーに不愉快なイメージが付いてしまった。はあ」

 不意に、カッツェはブラウニーの乗った皿を手に取る。瞬間、黒い洋菓子が宙を舞った。放り出されたブラウニーは、成す術なく温室の地面にぶつかって転がる。

「……な、っ……!?」
「這いつくばって食べてみたら? そうしたら、少しは君の事、好きになるかもしれないけど」

 彼の嘲笑に、ナターシャは悲愴とも憤りとも言えない顔をした。心が折れそうだった。
しかし、彼女が這いつくばって汚れた洋菓子を口にすることは無い。それでは言いなりになっているだけだから。
ああ悔しい! 負けたくない! ナターシャは机の下で、ぐっと拳を握り締めた。



「ということがあってね……傷ついたの」
「姉上……ボク、割と本気で止めたいのですが……」
「……ひっ、ひ、ど……『やはり現実の男はダメですね。ロクな男がいません』」

 憂いを帯びた表情で語ったナターシャに、アレキサンドラはいつもの苦い顔をし、コルニはこの世の男に絶望したかのような表情でノートに書きつけた。
 山積みの雑誌を手に取りつつ、紅茶を飲んで茶菓子を口にしつつ、テーブルを囲んだ三人の少女たちは何気ない雑談に興じていた。しかし、そろそろいい時間だ。機を見て話しを切り上げたいところだが、楽しそうな二人を見ているとどうも切り出しにくい。アレキサンドラは退屈さを隠して、また一口茶菓子のクッキーを口にした。

「『男の人の、なんでもこっちを見すかしてるみたいな態度、腹立ちません? なんでも分かってるみたいな』」
「分かるわ。まあ……今回は本当に見透かされたんだけど」
「そういうものなのか……コルニも経験が?」
「……っえ、と……『小説とか歌劇とか見ていてちょっと、そういうの合わないなって』」

 久々に……というか、殆ど初めてなのだろう、家族や家の関係者以外との会話に、コルニは興奮している様子である。必死に何か書き付けては、目をらんらんさせて話を楽しんでいる。

「わ……っわ、わる、る……いっ、こ……こと、……し……しま、ま……しょ……! こ……こ、こ、……っそ、そ……り……」
「んー、悪いことねえ……例えば?」
「ん……『次に持って行くお茶菓子を、一回地面に落としたものにするとか』」
「はは、ちょっと姉上に変なこと勧めないでよ」

 ちょっとしたジョークを交えながら、コルニは悪い顔をした。割と真剣に検討し始めたナターシャを、アレキサンドラは笑いながら止めに入る。
 言葉こそ辿々しいが、彼女は非常に頭の回る子だ。上手く喋ることさえ出来れば、きっと普通の少女として自由に生きられたのだろう。

「というか、悪い男の人ばかりでもないんじゃないか、グラナとか」
「!……にっ、にに、にい…っ……『兄さまは少し怖いのです。お父様がああなのに、お父様と一緒にいる兄さまが私に優しくするなんておかしいです! 信じられない!』」
「そう?」
「……あ……『婚約者のアレキさまにする話ではないですけど』……ご、ごめ……ん、……な、っな、さ……さ、い」
「あはは、気にしないよ! コルニの素直な気持ちでしょう? グラナには秘密にしておくね」

 不安げに目を逸らす彼女に、アレキサンドラは気さくに笑いかけた。年が近いこともあり、彼女の笑顔はコルニに親しみを感じさせる。
 王様と聞いて身構えていたが、案外年相応の少女らしい。それに、二人とも上手く喋れない「異常者」ではなく、普通の女の子として接してくれる。コルニはほっと息を吐いて、おかわりの紅茶をカップに注いだ。彼女の表情は、今までにないくらい穏やかだ。

「そういえば、この部屋の壁にいっぱいある線路は?」
「あ、こ……っこ、これ、れ……っこ、こ、う……さく、く……に、っ、は、は……ま、た……った、とき……きっ、に……っつ、つく……って……」

 ふと、アレキサンドラは手元の雑誌から視線を上げて、壁中に設置された小さな線路に目を遣る。所々に蒸気機関車の模型が置かれたそれはとても精巧で、今にも走り出しそうだ。コルニは立ち上がると、人差し指を小さな機関車に向ける。

「る……っ、るち、……っ『ルチア』……」
「……っわ、ええ!」

 一瞬、小さな掌に仄かな光が灯る。そして、木製の部品が擦れる音。埃を被った機関車が、ゆっくりと走り出した。驚いた声を上げると、少女は少し頬を赤くした顔を俯けて、ノートに何か書き付け始めた。

「……『工作に熱中した時、ヨッドで動かせる仕組みのを作ったのです』」
「何これ! 普通にすごいじゃない! 他にはないの?」
「……ん……『でも本を見て作ったものですし、飽きっぽくて、これ以外はあまりないです』」

 ガタガタと音を立てる線路の下、よく見ると埃を被った山の中には様々なものが埋まっている。クラリネットを模した木工細工やフリルのドレスを纏ったウサギのぬいぐるみ、描きかけで放置された大きなキャンバス……。
 コルニは少し困ったようにはにかみながら、埃塗れの山からそれらを引き抜いて説明した。時折雪崩れる山からは、布から金属片から画材まで、様々なものが顔を出す。

「へえ、コルニは多趣味なんだ」
「……え、へ……『お父様はああですから、私が何をしようと興味がないのです。だったら、好きなことを好きなだけやってやろうって。お金はいくらでもありますし』」

 彼女のきらきらした笑顔を見て、アレキサンドラは目を細めた。勘違いをしていた。コルニもまた、自分と同様だなんて。選択肢が無く、ただ決められた将来に向かうしかないだなんて。
 彼女は自由だった。そこが決して出られない鳥籠の中だとしても、彼女は自由に生きていた。作られた箱庭の中だとしても、やりたいことをやりたいのだと言い、箱庭を楽しんで生きていた。
 沢山の「好き」の中で生きる彼女は楽しそうで、自分よりずっと不自由で力もないのに満ち満ちている。不自由で力のない彼女のことを「誰も見ていないから」、彼女の世界は自由だった。

「……『今は、リペ様にあこがれて、フルートを練習しています』」
「おお、いいね! ボク、ピアノは得意だから、今度一緒にやろう」

 勘違いをしていた。コルニと自分は全く違うのだ。常に「誰かが見ている」から。常に何かに追われ、走り続けなければならない自分に、何かを好きになる余裕なんてなかった。
 アレキサンドラは抗いたいわけではなかった。決められた道から外れたいわけではなかった。今更何か趣味を作りたいわけでもなかった。自由でないことなどどうでもよかった。
 早くアルマに会いたくて会いたくて堪らない。何故か無性に寂しくなった。
だって、ボクにはアルマしかいないのだ。

「アレキ、今ちょっといい?」

 ノック音の後、グラナの声で我に返る。すぐにアルマでいっぱいになっていた頭を切り替えた。彼はドアから半分だけ顔を出して、申し訳なさそうにこちらを窺っている。

「あら、そろそろいい時間ね。私は帰り支度をしているから、いってらっしゃい、アレキ」
「うん、じゃあコルニ、今日はありがとう! 楽しかったよ。言ってたトーポリの次の公演、夫人とコルニの分の招待状を送るね」
「……ん……! あ、あり……り、がっ、……と……と、う……!」

 腰を上げて立ち上がると、アレキサンドラはコルニに目配せした。ぶわ、と頬を赤くして、彼女はふりふりと控えめに手を振る。たどたどしく紡がれた感謝の言葉だが、抑えきれない嬉しさが溢れていた。
 グラナに連れられたのは、月明かりに照らされた人気のないテラスだった。少し疲れた様子の彼は、柵に凭れかかると困ったように笑みを浮かべた。

「やっと二人になれた……ごめんね、父上や母上にあんな目で見られたら、落ち着かなくて」
「ううん、どうかした?」
「コルニと仲良くしてくれたみたいで良かった。大丈夫だった?」
「うん。楽しい時間だったよ。いい子だよね、コルニ」

 早く帰りたいなあ。他愛ない会話の中、気疲れしたアレキサンドラはアルマの事ばかり考えていた。帰ったらどんな話をしよう、何をしよう、今日はどの紅茶を淹れようか……そうして、お守りのピアスのことを思い出し、なんとも言えない気持ちになる。

「……アレキ、最近僕と話してる時、何か別のこと考えてるよね」
「……え、いや、そんなことは……」
「いや、良いんだよ。仕事だって、最近は特に色々大変だろうし」

 グラナは笑顔だ。けれど流し目で見つめる瞳は何処か寂しそうに見えて、アレキサンドラはぎこちなく表情を歪めた。まるで頭の中を見透かされていたみたいだ。適切な表情を作り直して、彼女はすまなそうに俯いた。

「……ごめん、そんな風に見えた?」
「はは! なんとなく分かるんだよ。……やっぱり好きな人と話してる時は、自分の事考えていて欲しいしね」
「うん……」

 上目遣いに見上げた先のグラナは、あっけらかんと笑っている。でも、少し声色は力なくて、切なげな響きに聞こえた。この場をどう収めようか――頭を巡らせながらぼんやりと返事をして、少ししてアレキサンドラは気が付いた。
 「好きな人」。彼の言葉を反芻した。ああ、早く言葉を返さなきゃ、グラナが望む答えを……。彼女は彼の目を真っ直ぐ見つめて、言葉を絞り出す。

「あ……の、ボクはちゃんと、グラナのことが好きだよ」
「あ! いや……ううん、気を使わないでいいんだよ! 分かってるから。無理に言わせてごめん。そういうつもりじゃなくて」
「……なんかごめんね」

 グラナが動転して後退りするのを見て、アレキサンドラは血の気が引くのを感じた。また間違えた。言葉が出なくなって、きまり悪そうに目を逸らすしかない。と同時に、彼とやり取りすることが酷く煩わしく感じた。
 楽しくないのだ。ずっと何かを考え、不安に追い詰められている気分。知らぬ間に結ばれた密約さえなければ、彼の事なんかどうだっていいのに。グラナには申し訳ないけど、本当に面倒だ。
 好きでもない相手のことを「好きにならないといけない」のが酷く苦痛に感じた。好きであろうとなかろうと、どうせ結ばれるのに。どうせこの道は決まっているのに、皆それを望む。ボクの「好き」すら好きにさせてくれない。

「……あの、せめてボクが何かしてあげられることは無い? いつもグラナに何もできてないから」
「……じゃあ、抱き締めてもいい?」

 気まずい沈黙を破る。アレキサンドラの言葉に、グラナは目を細めた。いつもより低い、落ち着いた声色。笑っているのに、泣きそうに……苦しそうに見えた。

「うん、そのくらいなら、いつでも」
「ふふ、ありがとう。じゃあアレキ、こっちに寄ってくれる?」

 彼女はすぐに頷いた。ああ面倒だ、さっさと終わらせて帰ろう。今日は本当に疲れたから、アルマに沢山抱き締めてもらいたい。
 青白い月明かりに照らされて、青年と少女が見つめ合っていた。グラナの手が肩に触れる。アレキサンドラは、アルマの事を考えていた。伸ばした腕が背中に回る。柔らかく微笑みながら、アレキサンドラは大好きなアルマのことを考えていた。
 腰に回った手に身体を引き寄せられ――た瞬間、勢いの良い足音と共に、二人の視界に猪突猛進に飛び込んでくる巨大な毛玉が入ってきた。

「っわーーっ⁉ ちょ、うわ、カンパニュラっ! 落ち着いっ……ステイ、ステイ!」

 咄嗟に身体を離されると、興奮したゴールデンレトリバーがグラナに飛びついた。尻もちを付いた彼の顔を、カンパニュラは嬉しそうにべろべろと舐める。呆然としたアレキサンドラが立ち尽くしていると、後を追うように二つの足音が近づいてきた。

「あーもう、カンパニュラ! いきなり走り出して……って、あら」
「……に、にっ、にい、……っ、さ、ささ……ま……⁉」
「なになに! こら、くすぐったいってば、もー……どうしたの?」

 小走りでテラスに足を踏み入れて、何かを察したように口元に手を当てるナターシャ。がに股のまま不格好に固まるコルニ。苦笑する主人と戯れながら、カンパニュラの大きな尻尾は乱暴にぶんぶん揺れている。

「……お取込み中だったかしら……?」
「い、いや……大したことじゃないので……というか、もうこんな時間だ、帰りましょうか」

 申し訳なさそうに身を屈めるナターシャに、アレキサンドラは苦笑いを浮かべつつグラナに背を向けた。思い掛けなかったが、丁度良い頃合いだろう。逸る気持ちを抑えながら、足早で帰り支度に向かう。
 振り返って目が合ったグラナは相変わらず愛犬に押し倒されながら、名状しがたい表情で手を振るので、彼女は遠慮がちに手を振り返した。
 実家に残るグラナを残し、アレキサンドラとナターシャは屋敷を後にする。帰りの馬車の中、流石に疲れ切ったアレキサンドラは、背凭れに身体を預けぐったりと目を閉じた。



「ああ! もうこんな時間!」

 部屋に戻るなり、アレキサンドラは雑にマフラーと外套を脱ぎ捨て、慌ただしく動き回り始めた。急いで入浴を済ませると、時計は九時半を大きく回ったところを示している。疲れて動きたくもないが、のんびりしている暇はない。
 アルマが来てしまう! 彼と少しでも長く一緒に居たいから、少しでも長く喋りたいから、完璧に準備を終わらせておかなければ。
美味しいからアルマと一緒に飲みたかった紅茶を用意して、アルマに食べてほしくて用意したマドレーヌいい感じに皿に乗せて――

「……忙しないな」
「っあ! アルマ! 待って、今紅茶淹れてるところだから……」

 窓の方から聞こえてくる声に、アレキサンドラは飛び上がった。振り返ると、窓枠に足を掛けて呆れたように微笑んでいる彼の姿を視認する。急いで蒸らし終えたティーポットから茶葉を取り出し、部屋に降り立った彼の下へ向かう。

「何をそんなに急いでるんだ……ほら、はい」
「えへへ……アルマ!」

 待ち望んだ胸の中に飛び込む。細い腕で抱き締めると、抱き締め返され頭を撫でられる感覚に、少女は目を閉じた。会いたくて堪らなかった気持ちが溢れて、言葉が溢れてくる。

「あのね、今日は本当に大変で、ボクすごい疲れて――」

 溢れ出した言葉が急にせき止まる。視線の先で煌めく二藍の石。少し早く鼓動を刻んでいた胸の中に影が差す。今日一日を回想し、出かかった言葉を飲み込んだ。

「――ううん、やっぱりなんでもない! えへ」
「……? 何かあったのか」
「なんでもないってばー。それより、お茶用意するから、はい! ソファで待ってて」

 なんでもない笑顔を作る。胸の中でもやもやと燻る影を仕舞いこんで、アレキサンドラはいつもの明るい顔でアルマを見上げた。するりと彼の腕の中から抜けると、用意したティーカップに蜂蜜の香りの紅茶を注ぐ。
 鼻孔をくすぐる甘い香り。立ち昇る芳香に包まれながら、明らかな不信感にアルマは眉を顰める。表情に影があるわけではなかったが――視線を落とす。彼女の左手を見て苦い顔をした。

「大丈夫か」
「何が? さっきのはなんでもないんだよ」
「……大丈夫じゃないだろ」
「だから、なんでもないって!」

 思わず出た少し大きな声に、驚いたのはアレキサンドラ自身だった。もしかして、またボクはやってしまった? 何か言おうと思ったが、喉が詰まって言葉が出てこない。
 こんなつもりじゃなかったのに。疲れてイライラして当たり散らして――よりによって、大好きで会いたくて堪らなかったアルマに。そして口から出た後になって後悔する。
 背後でアルマが溜息を吐くのが聞こえた。惨めで恥ずかしくて情けなくて、アレキサンドラはこの場から逃げてしまいたかった。いつも外では清廉な振りをして、どうしてボクは好きな相手の前でばかり惨めな姿を晒しているんだろう。
 大好きなのに、こんな恥ずかしい姿ばかり見せて、何が「好き」なんだろう。

「お前……今更、俺に何を隠すんだ。俺は前にアレキの弱いところも子供っぽいところも散々見たから、今更どんな所を見せられようと、別に失望したりしないけど」
「……」
「ああ、それとも……思ってたほど信用されてないのか。心外だな」
「っそれは、それは違う!」

 自嘲するようなアルマの声。咄嗟に否定しようと振り向くと、彼の表情は想像に反して柔らかな微笑だった。アレキサンドラの瞳が泣きそうに歪む。何も言わず腕を広げたアルマに、少女の足は自然と向かってゆく。先程の様にひしとしがみつくと、ぎゅう、と抱き締め返された。

「……で、何。どうしたんだ」
「……あのっ……アルマ……違くて、あのね……アルマにピアスを貰って、何でもできるって思ったんだ。ずっとアルマが近くにいるみたいって……」

 せき止められていた言葉が、再び溢れてくる。重なる心音が心地良い。

「うん」
「……なのに、ボク……嫌なことを言われて、嫌な気持ちになって……お守り、くれたのに……っ、嫌な気持ちになったのが、嫌だった……アルマがせっかくくれたのに……何も変わらなくて、傷ついて……」
「いや……それはそうだろ。そのピアスに、持ってるだけで嫌なことが嫌じゃなくなる効果はないぞ」

 彼の言葉に胸の中から顔を上げると、優しくこちらを見下ろす瞳と目が合った。細い髪が指に絡められる。とくん、と心臓が跳ねるようなリズムを刻む。

「嫌なことを言われたら嫌な気持ちになるのは当然だろ。それに、嫌な思いをしたなら、いくらでも俺に吐き出せばいい。少しは気が楽になるだろうし」

 いつもは気まずそうに逸らす目が、潤んだ赤い瞳をじっと見つめる。幼い子にするみたいに頬を撫でると、強張っていた少女の表情が幼子の様に綻ぶ。
 彼女が感情を露わにする度、ただの子供の表情を見せる度、筆舌に尽くしがたい気持ちになる。しがみつく少女を抱き締めながら、アルマは愛おしげに眺めた。
 この顔は、彼女が誰にも見せない顔だ。自分にしか見せない顔だ。それは邪な独占欲でもなく、下卑た下心でもない。純粋な庇護欲。
 王様は誰から見ても、強く堂々と立っている。だけどアレキサンドラは――一三歳の少女はいつだって一人きりで、か細くて傷だらけの姿も泣きそうに歪んだ口元も、決して誰にも見られることは無い。
 だから自分が十三の子供を肯定してあげたい。叫びたい言葉を聞いて、壊れそうな身体を優しく抱き締めて、十三の子供を認めてあげたい。それが出来るのは自分だけなのだから。

「あと、俺と会う時の準備で焦ったり忙しくしなくていい。俺のことでわざわざ自分を追い込むなよ」
「だ、だって! アルマと……少しでも長く遊びたいし、喋りたいんだもん……」
「別に準備しながら喋ったらいいだろ……何なら手伝うし。お前は無理をし過ぎなんだよ。喋るのだっていくらでも聞くから、ほら、何でも思うこと言ってみたら」

 呆れたように笑う顔。アレキサンドラは胸が高鳴るのを感じた。アルマには何でもお見通しだ。何もかも見透かされているみたいだ。それがアレキサンドラは嬉しかった。アルマがボクを見る瞳は温かくて、嬉しくて顔が熱くなる。
 言いたいことが沢山あるのだ。溢れて止まらないくらい、話したいことが沢山あるのだ。伝えたくて堪らなかった言葉があるのだ。

「……あのね、アルマ。好きだよ」
「⁉ な……んだ急に……」
「えへ……何でも思う事って言うから……えっと、じゃあ、言うね」

 予想だにしなかったのだろう、アルマの面食らった表情に、アレキサンドラは屈託のない笑みを浮かべた。背中に回した手で、彼の身体をぎゅうと抱き締める。
 アルマは優しいなあ……これを言ったら怒るんだろうけど。その優しさで甘やかされてどろどろに溶けてしまう。他に形容しようのない「好き」の言葉で胸の中がいっぱいになる。
 彼の胸に頬を押し付けて、アレキサンドラは満ち足りた様子で目を細めた。彼の体温を感じながら、喉の奥から込み上げる言葉を零し始めた。

「みんな、なんでもボクのせいにするんだよ! 誰かがやったことなのに、上の立場だからってボクが全部悪いことになるんだ、意味わかんない! ムカつく! ボクだって人間だから傷つくし腹立つのに、なんてことない振りをしてたら更に嫌なことを言ってくるんだよ!」

 ソファに腰掛けた青年の腕の中で、少女の苛立ちは爆発した。ぎゃんぎゃんと喚き散らしながら、細い腕で彼の身体をぎりぎりと締め付ける。小さな手でアルマの服の裾を握り締めながら、アレキサンドラは収まりきらない言葉を吐き出す。

「大体、子供だからってちょっと馬鹿にされてるんだよね。何も知らない分からないから、小馬鹿にしていいと思ってるんだよね、見下されてるんだよね。あー! むーかーつーくーうー! ていうか、子供相手にこんな真似、大人として普通に恥ずかしくないのかなあ⁉」

 言葉が止まらない。思ったことが何でも口をついて出る。呪文のように早口言葉を唱えながら、アレキサンドラはソファの上で足をバタつかせた。

「知らないんだよ! 父上もういないし! 死んじゃってるし! あの時父上は何を考えてましたか? って。じゃあ過去に戻って聞いて来たらいいよ、自分で聞きに行けばいいよ! バーカバーカ! みんな馬鹿なんだ、ボクばっかり……ボクばっかり……」
「……うん、何でもアレキの所為にされるってのは、国王の立場なら仕方ないことだが……仕方なくないんだよな。仕方なくて堪るか。王様だからって、何でも責任を押し付けられても我慢しなきゃいけない理由は無いからな」
「だよ! そうだよ!」

 暴れるアレキサンドラの背中を擦りながら、アルマは落ち着いた声で彼女を宥める。顰め面の少女は、未だ興奮の冷めやらぬ様子で彼の胸に何度も頭突きしている。彼の優しい声色に、甲高い乱暴な声が共鳴する。

「アレキ、その無理矢理な責任の押し付けに、論理的な反論はできるんだろ」
「もちろん! でも、子供だからって、綺麗事だって突っぱねてくるんだよ」
「なら大丈夫だ。ちゃんと反論した上で、その後またお前の所為にされるのなら、それはただの言い掛かりだから。まともに聞かなくていい」

 アルマの言葉を、彼女は素直な表情で真剣に聞き入る。こくこくと頷くと、いい子だと褒められているみたいに頭を撫でられるので、眉間に寄っていた皺が消えて思わず顔が緩んだ。

「……とはいえ、適当にあしらうにしても嫌なことは言われるだろうな。どうしても耳に入って傷つくこともあるだろうし……そんな時は、今みたいに俺に吐き出したらいい。気が晴れるまで幾らでも聞いてやるから」
「ん……」
「……まあ、聞くしかできないけど……このアドバイスも、正直正しいか知らん……」
「なんで急に自信なくなるの! ボク、今すごい救われてる感じするよ。アルマ、ありがとう。えへへー、大好き!」

 途中から急に萎んでいったアルマの声に、アレキサンドラは胸の中から顔を出した。ぐっと顔を近づけて覗き込むと、近い近いと億劫そうに目を逸らされる。心臓が弾むのを感じた。
 あんなに嫌な気持ちで、苛立って、腹立たしくて堪らなかったのに、どうしてか今は幸せなのだ。胸がいっぱいで温かくて、幸せでどきどきしているのだ。

「少しは楽になったか。落ち着いたか」
「うん、あのね、まだまだ聞いてほしいことがあって。いい?」
「ああ、幾らでも」

 アルマが大好きだ。ボクの唯一の「好き」なんだ。



「それでね、なんかグラナのこと好きになれないボクが悪いみたいな流れなの。好きになれって圧がある感じ。どうでもいいし、面倒だよ。勝手に結婚すること決められてたのに、好きになる相手も決められなきゃいけないの!」
「……それを、アレキが『好き』って言ってくる俺に言うんだな……」
「だってボクはアルマが好きなんだもん」
「……知ってる」

 知ってる。それが自分の「好き」と違うことも。アルマは呆れたようにぼそりと呟いた。
 胸の中で、少女は言葉を吐き出し続けている。怒りに身を任せているその姿は存外楽しそうで、子供っぽく吠えている彼女にアルマは何処かほっとしていた。
 他意なんて無くて良い。これ以上何も求めない。ソファに凭れながら少女の頬を撫でさすると、アレキサンドラは蕩けた笑みを浮かべた。感じたくない幸福感が満ち満ちる。
 それと同時に、感じたくない胸の痛みがじりじりと心臓を焦がす。

「……あーっ! もしかしなくても、紅茶冷めちゃってる!」
「急に大きい声出すな……」
「あーあー、今すぐ淹れ直すね!」
「いや、いいよ。冷たいのでも十分美味しいだろ」
「でも、このマドレーヌはあったかいお茶と一緒に食べたいの!」

 アレキサンドラの声が耳をつんざく。生温くなった蜂蜜の紅茶に口を付けて、彼女はしょんぼりと眉を下げた。忙しなくしなくていいと言ったそばから、彼女はヨッドでカップの紅茶を温めようと躍起になっている。
 できた! とティーカップを手渡す無垢な笑顔。彼女はすっかり元気を取り戻したらしい。溢れんばかりの満面の笑みが堪らなく可愛くて、アルマの口元は思わず緩みそうになった。
 ああ、紛れもなく、自分は彼女が「好き」なんだなあ。しっとりと甘いマドレーヌを口に運びつつ、温かな蜂蜜の風味が喉に広がるのを感じた。

「あ、そうだ! 今日の本題にしたかったんだけど、面白い本があって!」
「ああ」
「昨日寝る前に読んだんだけど、占い? って言うのかな……まあ見てよ。持ってくるから!」

 飲みかけのティーカップをテーブルに置くと、アレキサンドラはベッドに向かってるんるんと駆け出した。尻尾を振った子犬が嬉しそうに跳ね回っているようだ。小さな後姿を眺めながら、アルマはぼんやりとソファに凭れかかる。

「うーん、あれ? 何処にいったんだろ、読みながら寝ちゃったから布団の中にあると思ったのに」
「……ふ」

 部屋の隅、アレキサンドラはベッドの上を四つん這いで漁っている。机の上といい、アレキサンドラは案外片付けが苦手だ。彼女には聞こえなかったようだが――アルマは珍しく小さく声を出して苦笑古 嫗 恋 沈 手童
 刹那、ちりんと鈴の鳴る音がした。

「あ、あったあった! こんなとこに落ちてた」
「な……?」

 漸く見つけた本を手に取って、アレキサンドラは表紙を撫でながら一息吐いた。その姿を瞳で捉えながら、青年の意識はそこに無かった。
 君 恋 甚 術 山 小松 下 立 嘆
 左耳のピアスが妖しく光る。左の耳元で艶めかしく囁く声がした。胸の中が不快に騒めくのを感じる。ちりん、ちりんと気味の悪い鈴の音が、頭蓋の中に直接響いてい夏 野 茂 咲 姫 百合 知 恋 苦 勢 海 磯 寄 浪 恐 人 恋 渡

「アルマ?」

 すぐに聞いてはいけない言葉だと分かったが、耳を澄ませてしまった。考えてはいけないと思ったのに、頭が勝手にその言葉を反芻してしまった。思ってもいないことが、考えたくもないことが、思考を上書きして蝕み侵略する。
 杜鵑 鳴 五月 草 知 恋 恋 恋 時 愛 言 長 思
 頭蓋の中に響く声を反芻する。そのように考える。
 この非力で抵抗もしない、従順で柔らかい少女を組み敷けばいいのだ。卑しい欲に塗れているくせに、無欲で清らかな振りをするのは愚かである。ただ一度くらいなら、己の欲を曝け出しても誰も咎めぬ。
 好きで好きで愛しくて愛しくて可愛いこの子を、陵辱したとて、嫌、この少女は俺を受け入れるだろう。そうだろう? 好きだ好きだと宣うのだから。誰も咎めない、きっと楽しいよ? 楽しいことをしようよ。
 そして何もかもを奪って、奪って、奪って! 肉体も魂も、永遠に我が物にしてしまえ。
 身体が動く。そこへ行こうと歩みを進める。己の意思で――上書きされた意思で、身体が動く。眼下で寝台に腰掛ける少女を、鈍色の瞳が捉える。

「あ、アルマ! これはね」
「アレキ」
「え、わわ⁉」

 少女の肩を、大きな手が乱暴に突く。バランスを崩したアレキサンドラの身体は、ベッドに押し倒されぼふんと跳ねる。弾むベッドの上、青年は逃げ道を塞ぐように彼女に覆い被さる。吃驚したアレキサンドラの見開かれた瞳に、彼の虚ろな顔が映り込む。
 ぎし、とベッドの軋む音。勢いのまま彼女の顔の横に肘をついた――時、どうしてか、急に目の前の少女の顔がはっきり見えた。自分が彼女を押し倒していることに気が付いた。
 左耳の傍で、ぴし、という小さな破裂音が聞こえた。


「……アルマ?」
「……!」
「転んだの? 大丈夫?」

 アレキサンドラの声に、一気に意識が現実に戻される。身体の下で、少女はあっけらかんとした表情でこちらを見つめていた。

「……どうしたの?」

 穏やかに微笑む少女の小さな手が、頬に触れる。驚くほど胸の内は静かだった。ただ、心臓が心地良くリズムを刻んでいるのは分かった。

「……あっ! そう、アルマのこの黒子! 目元のがね、この本によるとね!」
「……っ! ちょ、ちょっと……お前、近……む、向こうで聞くから……」

 まだぼんやりする意識の中、急にアレキサンドラのきらきらした表情がぐっと近づいてきて、アルマは思わず狼狽えた。顔が熱くなるのが分かって咄嗟に顔を逸らして身体を起こし、彼女に背を向けてソファの方へ歩き出す。
 そもそもどうしてベッドで少女の上に四つん這いになっていたんだ。色づいた頬を隠すように俯いて、ふと左耳のピアスに触れると、以前には無かった小さなヒビのような手触りがあった。
 ついさっきの不明瞭な意識と、内心に直接触れられたような不快感――以前、何度も何度も感じた気がする。深く考えようとすると何故か強い嫌悪感に襲われ、アルマはそれ以上の詮索を止めた。
 それに、後ろから駆けてくる少女の話を聞くのが先だ。

「えっとね、目元に黒子がある人は思慮深い場合が多いらしくてね、特に左目は人のことを思い遣れる性格が多いんだって。ほらアルマ、すごい当て嵌まってるなーって!」
「言う程か?」
「そうだよ! あ、因みにボクは尾てい骨の所にあるんだけど、健康に気を使わないタイプだって。まあ全部根拠ないけどね! 他にもあるよ!」

 隣で楽しそうに声を弾ませるアレキサンドラを、アルマは和やかに眺めた。ずっとこの笑顔を眺めていたいと思った。
 この感情は、異常だ。決して叶わない――叶ってはいけない、こんな間違った「好き」なのに、どうか叶って欲しいと願ってしまう。これより多くを望まないのに、もっと多くが欲しくなってしまう。
 「ずっとこの時間が続けばいいのに」なんて――分不相応な願いを抱いてしまうのだ。



♦♦♦♦

 何事も、何事も何事も何事も上手くいかないものだ。
 ぱりん、と鈴が砕け散るのを見て、悪神は目を見開いて固まった。銀色の破片は、きらきらと輝きながら地面に落ちた途端、真っ黒な泥の様になって朽ちる。青白い月の下で美しい顔は一層その青白さを増し、摘まんだ指の先で先の汚れた赤い紐がゆらゆらと揺れている。

「……何もかも、何もかも何もかも何もかも……全て‼ 上手くいかない‼」

 ヒステリックな独り言が澄み切った星空に響き渡る。その金切声は誰にも届かない。宿屋の古寂びた屋根の上に立ち尽くす姿は誰の目にも映らない。恐ろしいくらいの美少年は、頭を抱えてふらふらとその場にしゃがみ込んだ。

「うそ、うそ、どうしよう、どうして? どうしよう、いや、なんで?」

 失敗する筈が無かった。全て上手くいく為の手段だった。こんなに手を尽くしたのに、これで今までの分を取り返す筈だったのに。
 その為に、集めた魂を使ったのに。

「っい、いくつ、いくつ使ったっけ……ひーふーみー、よ……」

 橙の提燈を掲げながら、悪神は細い指を一本ずつ折る。こんな筈ではなかったのだ。震える指を折る。指を折る。指を折る。
こんな筈ではなかった。指を折る。この損失だって、あれさえ手中に収められれば簡単に取り返せるはずだった。指を折る。念の為、決して失敗しないように、念には念を入れて、仕方ないけれど、失敗しない為だったのだ。

「……はたち、あまり、ひとつ」

 二一本目の指を折る。ああ、もしかして――もしかしなくても、やってしまった? 脳裏に浮かんでいた『あの人』の笑顔が霞んでゆく。『あの人』が何処かへ行ってしまう。あの時のように!
 彼の表情は焦りではなかった。苛立ちでもなかった。口元は笑顔みたいに歪んでいるが、そこにあるのはもう手遅れた絶望だった。頭が真っ白になった。なんで失敗した? とかどうすれば良かった? とか、そんなことは一度も浮かばなかった。
 ただ只管、悪神の中には「どうしよう」が渦巻いていた。

「ああ、どうしよう、どうしよう、『あの人』が行っちゃう、どう、どうしよう」

 ふらりと立ち上がり、彼の足は何処にか向かって進み始める。紅血を塗ったように赤く奇麗な唇の隙間から、ぶつぶつと「どうしよう」が零れて風の中に溶ける。宵闇ほどに漆黒の瞳は見開かれたまま、虚ろな穴から一筋水が溢れて流れた。

「あー、あー、どうしよう、かなりあさま、金糸雀さま……! 行かないで、嫌だ、いやだよお! こんなに頑張ったのに、こんなにがんばったのに‼」

 その悲鳴は誰にも届かない。その姿は誰の目にも映らない。麗しい美少年の姿は、黒い闇の中へ消えてゆく。
 青白い月の上る夜。街はいつも通り平穏で、澄み切った冬の空には数多の星が煌めいていた。
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