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第五章
敬語
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山田は今日も、6時半に起きる。
目覚ましの音が鳴るより少し前に目を覚まし、布団の中で天井を見つめるのが習慣だ。窓の外から差し込む淡い朝の光が、寝室の壁紙にぼんやりとした色を落とす。今朝の光は、まるで曇ったガラス越しのようににごって見えた。
顔を洗い、電気ケトルで湯を沸かす。パンはトースターで軽く焼き、コーヒーを淹れる。
一口飲んだとき、山田はしばらく固まった。液体の温度はあるのに、舌に何の反応も返ってこない。ただ、口の中がわずかに乾いたような気がした。味という味が、すっぽりと抜け落ちていた。
窓の外に視線を移す。ポストも電柱も、建物も、すべてが濃淡の少ないグレーに染まっている。まるで、現実の世界が印刷ミスを起こしたかのように、色が乱れていた。
「おかしいな……」
思わず呟いたその声も、どこか自分のものではないような気がする。
気を取り直して作業服に袖を通す。手触りは確かにいつものものだが、色はやはり“色”ではなく、ただの“濃淡”にしか見えない。昨日のメモをポケットから取り出すと、インクの色が薄れて、ほとんど読めなかった。
「書き直すか」
そう言いながら、玄関のドアを開けた。どこか、空気までもが無機質なものに変わってしまったような錯覚にとらわれながら、工場へと向かう。
通勤路。今日も同じ道を歩いているはずなのに、すれ違う人々の顔がどれも似ている気がした。表情も服装も、まるでテンプレートのようだ。
工場の門をくぐったとき、いつもの声が聞こえた。
「おはようございます、山田さん。今日も宜しくお願いします。」
……?
「おはよう……どうした、敬語なんか使って」
そう訊ねようとしたが、佐藤はすでに他の社員と会話を始めていた。彼の声は落ち着いていて、どこか芝居がかったように聞こえた。
「こちらのラインは、先ほど確認しました。問題ございません」
“しました”?“ございません”?
妙にかしこまった言葉遣いが、耳に残る。
今日の作業は布を染める工程のチェックだ。機械の稼働状況を確認し、異常がないかを細かく見て回る。
「温度は正常……脱水機も問題な――」
ふと、反物に視線を落とす。染まっているはずの生地の色が、今日もまた灰色だった。いや、もはや灰色ですらなく、どこか透明に近いようにも見える。
(目がおかしいのか、それとも……)
山田は目をこすった。だが色は戻らない。生地の質感すら、手触りだけでしか感じられなかった。
「山田さん、午後の工程ですが、お時間のあるときにご確認をお願いします」
背後から、佐藤の声。
やはり丁寧だった。
振り返ると、彼はきちんとした口調で、表情もどこか“つくりもの”のように見えた。作業着の色は、もう色ではなく、鉛筆で塗られたような陰影にすぎなかった。
「……ああ、わかったよ」
自分の声が、誰かのセリフのように聞こえた。
どこかで、何かが変わっている。
でも――それに気づいているのは、自分だけだ。
最後までお読みいただきありがとうございました。
この物語は、「日常のかけらが少しずつ崩れていく恐怖」と「それでも朝はやってくる」という回復をテーマに描いています。
次の章でも、山田の変わらぬ朝に、少しずつ“何か”が混ざっていきます。
ご感想・応援コメント、お気軽にお寄せください。
目覚ましの音が鳴るより少し前に目を覚まし、布団の中で天井を見つめるのが習慣だ。窓の外から差し込む淡い朝の光が、寝室の壁紙にぼんやりとした色を落とす。今朝の光は、まるで曇ったガラス越しのようににごって見えた。
顔を洗い、電気ケトルで湯を沸かす。パンはトースターで軽く焼き、コーヒーを淹れる。
一口飲んだとき、山田はしばらく固まった。液体の温度はあるのに、舌に何の反応も返ってこない。ただ、口の中がわずかに乾いたような気がした。味という味が、すっぽりと抜け落ちていた。
窓の外に視線を移す。ポストも電柱も、建物も、すべてが濃淡の少ないグレーに染まっている。まるで、現実の世界が印刷ミスを起こしたかのように、色が乱れていた。
「おかしいな……」
思わず呟いたその声も、どこか自分のものではないような気がする。
気を取り直して作業服に袖を通す。手触りは確かにいつものものだが、色はやはり“色”ではなく、ただの“濃淡”にしか見えない。昨日のメモをポケットから取り出すと、インクの色が薄れて、ほとんど読めなかった。
「書き直すか」
そう言いながら、玄関のドアを開けた。どこか、空気までもが無機質なものに変わってしまったような錯覚にとらわれながら、工場へと向かう。
通勤路。今日も同じ道を歩いているはずなのに、すれ違う人々の顔がどれも似ている気がした。表情も服装も、まるでテンプレートのようだ。
工場の門をくぐったとき、いつもの声が聞こえた。
「おはようございます、山田さん。今日も宜しくお願いします。」
……?
「おはよう……どうした、敬語なんか使って」
そう訊ねようとしたが、佐藤はすでに他の社員と会話を始めていた。彼の声は落ち着いていて、どこか芝居がかったように聞こえた。
「こちらのラインは、先ほど確認しました。問題ございません」
“しました”?“ございません”?
妙にかしこまった言葉遣いが、耳に残る。
今日の作業は布を染める工程のチェックだ。機械の稼働状況を確認し、異常がないかを細かく見て回る。
「温度は正常……脱水機も問題な――」
ふと、反物に視線を落とす。染まっているはずの生地の色が、今日もまた灰色だった。いや、もはや灰色ですらなく、どこか透明に近いようにも見える。
(目がおかしいのか、それとも……)
山田は目をこすった。だが色は戻らない。生地の質感すら、手触りだけでしか感じられなかった。
「山田さん、午後の工程ですが、お時間のあるときにご確認をお願いします」
背後から、佐藤の声。
やはり丁寧だった。
振り返ると、彼はきちんとした口調で、表情もどこか“つくりもの”のように見えた。作業着の色は、もう色ではなく、鉛筆で塗られたような陰影にすぎなかった。
「……ああ、わかったよ」
自分の声が、誰かのセリフのように聞こえた。
どこかで、何かが変わっている。
でも――それに気づいているのは、自分だけだ。
最後までお読みいただきありがとうございました。
この物語は、「日常のかけらが少しずつ崩れていく恐怖」と「それでも朝はやってくる」という回復をテーマに描いています。
次の章でも、山田の変わらぬ朝に、少しずつ“何か”が混ざっていきます。
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