山田の記憶

とある、山田

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第六章

誰も笑わない

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山田は今日も、6時半に起きる。

目覚ましの音が鳴るより少し前に目を覚まし、布団の中で天井を見つめるのが習慣だ。窓の外から差し込む淡い朝の光が、寝室の壁紙にぼんやりとした色を落とす。今日の光は、まるで色の記憶をなくしたように、無表情だった。

顔を洗い、電気ケトルで湯を沸かす。パンはトースターで軽く焼き、コーヒーを淹れる。

一口飲む。温かいだけで、味はない。酸味も苦味も、風味という概念ごと消えていた。ただ、口の中に何かが流れたという感覚だけが残る。

窓の外に目をやる。空も家も道も、すべてが静止画のように見える。動いているはずの雲すら、どこか止まっているような錯覚に陥る。
(色が……抜け落ちてる?)
思わず呟いた声も、自分のものではないようだった。

作業服に袖を通す。布の擦れる音がやけに大きく聞こえる。昨日のメモをポケットから取り出す。文字はすでに読み取れないほどに滲んでいた。

「またか……」

呟いて、家を出る。玄関を閉めた音が、やけに重く響いた。

通勤路。今日も同じ道。すれ違う人々が、笑っていない。いや、それどころか、表情というものがない。喜怒哀楽の「顔の変化」が存在しないまま、みな同じ角度で歩き、同じ速さで過ぎていく。

工場の門をくぐると、佐藤がいた。

「おはようございます、山田さん。今日も宜しくお願いします。」

その声も、表情も、まるで録音とマネキンだった。昨日と同じ敬語。だが、それ以上に今日は、何かが“欠けて”いる。

「おはよう……」

山田は、反射的に返す。

佐藤は軽く会釈をした。その顔には、笑みがなかった。無表情、無機質、無感情。まるで皮膚の下の筋肉の動かし方を忘れたようだった。

(……怒ってるわけでも、疲れてるわけでもない。ただ、表情が“ない”)

工場の中に入っても、その違和感は続く。

誰もが黙々と仕事をしている。声もある。会話もしている。でもそこに、笑いがない。感情の抑揚がない。誰一人として、口元を緩める者がいない。

今日の作業は布を染める工程のチェックだ。機械の稼働状況を確認し、異常がないかを細かく見て回る。

「温度は……正常。脱水機も、問題な――」

ふと、反物に目を落とす。今日の生地はブルー系のはずだったが、そこに広がっていたのは、まるで“色の概念”をなぞっただけの影のようなものだった。

「これは……」

思わず手に取ってみると、生地の手触りさえも曖昧になっていた。色、質感、温度――あらゆるものが“そこにあるだけ”で、存在感を失っている。

「山田さん、本日の染色工程、問題ございませんでした」

また佐藤の声。感情の欠片もない、丁寧なだけのセリフ。そこに“人間”はいなかった。

山田は、返事をしなかった。ただ、視線だけを佐藤に向けた。
すると佐藤も、微動だにせず、瞬きさえ忘れたように、立ち尽くしていた。

(ここは、本当に現実か?)

一瞬、そう思ってしまうほどに、すべてが“つくりもの”だった。色も、言葉も、感情も。
自分以外の全員が、どこかの誰かによって操作されているような――そんな錯覚に囚われた。

だが周囲は、いつも通りだった。
誰も異常に気づいていない。
いや、そもそも「感じる」という感情が、周囲には存在していないようだった。

山田だけが、その異常を「感じている」。

それが、今日も変わらない一日だった。



最後までお読みいただきありがとうございました。
この物語は、「日常のかけらが少しずつ崩れていく恐怖」と「それでも朝はやってくる」という回復をテーマに描いています。
次の章でも、山田の変わらぬ朝に、少しずつ“何か”が混ざっていきます。
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