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第十章
声が聞こえない
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山田は今日も、6時半に起きる。
目覚ましの音が――鳴らなかった。
それでも彼は、時間通りに目を覚ます。布団の中で天井を見上げる。光は差し込んでいるが、静寂が張り詰めていた。
(目覚まし、壊れたのか?)
枕元の時計を見る。針は6時29分を指している。秒針の動きは見えるが、カチカチという音がしない。まるで時計そのものが映像でしかないような、奇妙な不気味さを伴っていた。
洗面所へ向かい、水を出す。蛇口をひねる――水の流れる音がない。
代わりに、自分の鼓動が耳の奥に不気味に響いている。じん、じん、と重く。
食パンをトースターに入れる。やがて焼きあがるが、「カチン」という跳ね上がる音がしない。
ケトルは湯気を出しているのに、沸騰音が存在しない。コーヒーを淹れる過程も、まるで映像のように無音で進んでいく。
カップを口に運ぶ。味も香りも、昨日と同じく、ない。
それでも、何かが足りない。
「音」が、ない。
ドアの鍵を開けるときも、玄関を閉めるときも、すべてが無音だった。自分の足音も、衣擦れも聞こえない。
通勤路。自転車のベル、遠くの工事の音、鳥のさえずり。
すべてが、存在しているはずなのに、聞こえない。
周囲の人間が会話していても、口の動きは見えるのに、何も伝わってこない。
まるで、音声を消したモノクロ映画の中にいるようだった。
工場の門をくぐると、佐藤がいつもの位置に立っている。
彼は口を開いた。だが、声が聞こえない。
(なんだって?)
口の動きから、どうやら「おはようございます」と言っているのはわかる。
だが、音はない。まったく。
山田は困惑しながら、軽く頭を下げてすれ違う。
工場の中も、すべてが無音だった。
染色機の稼働音、機械のアラーム、素材が流れるベルトの振動――一切、聞こえない。
今日の作業は布の染め上がりチェックだ。
昨日と同じく、すべての布は色を持たず、ただの白。
機械のパネルに表示されたデータも、すべて「0」と「-」だけが点滅していた。
山田は染色槽の前で立ち尽くす。
急に、背後から肩を叩かれた。振り向くと佐藤がいた。
彼は何かを必死に話しているようだった。口が激しく動いている。だが、声は、まったく聞こえない。
(やめてくれ……聞こえないんだ……)
山田は首を横に振った。佐藤は困ったような顔をして、何かを指差した。
その指の先――そこには、自分が見たことのない機械があった。
いつ設置されたのか、どこから来たのか、分からない。誰も説明しないし、誰も見向きもしない。
まるで、音のない世界にだけ存在する、新しい現実のように、それはそこにあった。
山田の頭の中に、ざわざわとした不安が渦巻く。
耳を塞いでも、開けても、音は戻ってこない。
(これは現実なのか? それとも……)
そのとき、不意に心の中で声が聞こえた。
「――シンカ、ガ、ハジマッテイル」
誰の声でもなかった。ただの機械音のような、感情のない無機質な音。
山田は、崩れ落ちそうになる膝をどうにか堪えて、工場の隅で目を閉じた。
目を閉じても、無音の世界は続いていた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
この物語は、「日常のかけらが少しずつ崩れていく恐怖」と「それでも朝はやってくる」という回復をテーマに描いています。
次の章でも、山田の変わらぬ朝に、少しずつ“何か”が混ざっていきます。
ご感想・応援コメント、お気軽にお寄せください。
目覚ましの音が――鳴らなかった。
それでも彼は、時間通りに目を覚ます。布団の中で天井を見上げる。光は差し込んでいるが、静寂が張り詰めていた。
(目覚まし、壊れたのか?)
枕元の時計を見る。針は6時29分を指している。秒針の動きは見えるが、カチカチという音がしない。まるで時計そのものが映像でしかないような、奇妙な不気味さを伴っていた。
洗面所へ向かい、水を出す。蛇口をひねる――水の流れる音がない。
代わりに、自分の鼓動が耳の奥に不気味に響いている。じん、じん、と重く。
食パンをトースターに入れる。やがて焼きあがるが、「カチン」という跳ね上がる音がしない。
ケトルは湯気を出しているのに、沸騰音が存在しない。コーヒーを淹れる過程も、まるで映像のように無音で進んでいく。
カップを口に運ぶ。味も香りも、昨日と同じく、ない。
それでも、何かが足りない。
「音」が、ない。
ドアの鍵を開けるときも、玄関を閉めるときも、すべてが無音だった。自分の足音も、衣擦れも聞こえない。
通勤路。自転車のベル、遠くの工事の音、鳥のさえずり。
すべてが、存在しているはずなのに、聞こえない。
周囲の人間が会話していても、口の動きは見えるのに、何も伝わってこない。
まるで、音声を消したモノクロ映画の中にいるようだった。
工場の門をくぐると、佐藤がいつもの位置に立っている。
彼は口を開いた。だが、声が聞こえない。
(なんだって?)
口の動きから、どうやら「おはようございます」と言っているのはわかる。
だが、音はない。まったく。
山田は困惑しながら、軽く頭を下げてすれ違う。
工場の中も、すべてが無音だった。
染色機の稼働音、機械のアラーム、素材が流れるベルトの振動――一切、聞こえない。
今日の作業は布の染め上がりチェックだ。
昨日と同じく、すべての布は色を持たず、ただの白。
機械のパネルに表示されたデータも、すべて「0」と「-」だけが点滅していた。
山田は染色槽の前で立ち尽くす。
急に、背後から肩を叩かれた。振り向くと佐藤がいた。
彼は何かを必死に話しているようだった。口が激しく動いている。だが、声は、まったく聞こえない。
(やめてくれ……聞こえないんだ……)
山田は首を横に振った。佐藤は困ったような顔をして、何かを指差した。
その指の先――そこには、自分が見たことのない機械があった。
いつ設置されたのか、どこから来たのか、分からない。誰も説明しないし、誰も見向きもしない。
まるで、音のない世界にだけ存在する、新しい現実のように、それはそこにあった。
山田の頭の中に、ざわざわとした不安が渦巻く。
耳を塞いでも、開けても、音は戻ってこない。
(これは現実なのか? それとも……)
そのとき、不意に心の中で声が聞こえた。
「――シンカ、ガ、ハジマッテイル」
誰の声でもなかった。ただの機械音のような、感情のない無機質な音。
山田は、崩れ落ちそうになる膝をどうにか堪えて、工場の隅で目を閉じた。
目を閉じても、無音の世界は続いていた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
この物語は、「日常のかけらが少しずつ崩れていく恐怖」と「それでも朝はやってくる」という回復をテーマに描いています。
次の章でも、山田の変わらぬ朝に、少しずつ“何か”が混ざっていきます。
ご感想・応援コメント、お気軽にお寄せください。
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