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第九章
色のない日
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山田は今日も、6時半に起きる。
目覚ましの音が鳴るより少し前に目を覚まし、布団の中で天井を見つめるのが習慣だ。窓の外から差し込む朝の光は、白い。ただの白だ。いつも感じていたはずの青みや温もりが、今日はまるで抜け落ちていた。
壁紙の模様も――見えない。
視界はぼやけていないが、色がない。すべてが、灰色か、無彩色になっているような錯覚。いや、錯覚ではない。
掛け布団も、カーテンも、ベッドフレームも、全部、白と灰色の世界に沈んでいる。
山田は、起き上がる前に深呼吸した。
(今日は……何か……変だ)
洗面所へ行き、顔を洗う。冷たい水は、確かに冷たかった。だが、洗面台に置かれた歯ブラシは、赤でも青でも緑でもなかった。ただの「暗い色」だった。
ケトルで湯を沸かす。トースターに食パンを入れる。焼き上がったパンは香ばしい匂いを立てているのに、見た目は真っ白だった。焦げ目もない。
ペーパードリップでコーヒーを淹れる。
湯が落ちる。蒸気が上がる。だが、カップに注がれた液体は――透明だった。
一口含む。
苦味も香りもない。ただ、喉に落ちていくぬるい水の感触だけが残る。
山田は目を閉じた。
(これは夢だ。そうに違いない)
制服に袖を通す。かつて淡いブルーだった作業服は、今では色が抜け落ちたような白と灰色の布にしか見えなかった。
名札も、文字がかすれて見えない。ただの小さな長方形の板。
ポケットに手を入れると、昨日のメモが出てきた。だが紙ではなかった。触れると指にざらついた金属の冷たさがあった。そこには、何の記号も、文字も刻まれていない。
山田は思わず口にした。
「おかしい……やっぱり……おかしいだろ……」
家を出る。通勤路。空は白かった。雲も太陽も見えない。ただ、明るいという情報だけがそこにある。
周囲の家並みは、白と黒の映像のように無機質だった。車も標識も、花壇の花も、色を持たない。すれ違う人々の顔も――モノクロの仮面のように感じられた。
工場の門をくぐると、佐藤が立っていた。
「おはようございます、山田さん」
その声だけが、唯一現実に感じられた。が、佐藤の作業服も顔も髪も、すべてが白黒写真のようだった。
胸の名札は、無地の紙になっていた。
工場の中。今日の作業は布を染める工程のチェックだ。
染色機の制御盤を確認する。温度は表示されていたが、数値はすべて「0」。反応染料の投入口には液体が流れていたが、その液体には色がなかった。
染色槽に布を入れる。同じく、白い液体の中に沈む白い布。時間が経っても、布の色は何も変わらない。
液から引き上げた布は、ただの白布のままだ。
山田は、染色機に向かって何度も首をかしげたが、誰も何も言わない。
同僚たちは、普段どおりの顔で作業を続けている。
開反機の横を通ると、ベルトコンベアの上を流れる布地も、すべて同じ色――いや、無色だった。
レッド、ブルー、カーキ、グレー。記録にある染色レシピと一致していない。
(なぜ誰も、何も言わないんだ……)
山田の喉の奥に、言葉にならない不安がつっかえた。
そのとき、背後から声がした。
「ヤマダさん、きょうはナニイロですか?」
佐藤の声だった。だが、どこか、平坦で、人工的な抑揚だった。
山田は、答えられなかった。
そもそも「色」とは何だったのか――それすら、思い出せなくなってきていた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
この物語は、「日常のかけらが少しずつ崩れていく恐怖」と「それでも朝はやってくる」という回復をテーマに描いています。
次の章でも、山田の変わらぬ朝に、少しずつ“何か”が混ざっていきます。
ご感想・応援コメント、お気軽にお寄せください。
目覚ましの音が鳴るより少し前に目を覚まし、布団の中で天井を見つめるのが習慣だ。窓の外から差し込む朝の光は、白い。ただの白だ。いつも感じていたはずの青みや温もりが、今日はまるで抜け落ちていた。
壁紙の模様も――見えない。
視界はぼやけていないが、色がない。すべてが、灰色か、無彩色になっているような錯覚。いや、錯覚ではない。
掛け布団も、カーテンも、ベッドフレームも、全部、白と灰色の世界に沈んでいる。
山田は、起き上がる前に深呼吸した。
(今日は……何か……変だ)
洗面所へ行き、顔を洗う。冷たい水は、確かに冷たかった。だが、洗面台に置かれた歯ブラシは、赤でも青でも緑でもなかった。ただの「暗い色」だった。
ケトルで湯を沸かす。トースターに食パンを入れる。焼き上がったパンは香ばしい匂いを立てているのに、見た目は真っ白だった。焦げ目もない。
ペーパードリップでコーヒーを淹れる。
湯が落ちる。蒸気が上がる。だが、カップに注がれた液体は――透明だった。
一口含む。
苦味も香りもない。ただ、喉に落ちていくぬるい水の感触だけが残る。
山田は目を閉じた。
(これは夢だ。そうに違いない)
制服に袖を通す。かつて淡いブルーだった作業服は、今では色が抜け落ちたような白と灰色の布にしか見えなかった。
名札も、文字がかすれて見えない。ただの小さな長方形の板。
ポケットに手を入れると、昨日のメモが出てきた。だが紙ではなかった。触れると指にざらついた金属の冷たさがあった。そこには、何の記号も、文字も刻まれていない。
山田は思わず口にした。
「おかしい……やっぱり……おかしいだろ……」
家を出る。通勤路。空は白かった。雲も太陽も見えない。ただ、明るいという情報だけがそこにある。
周囲の家並みは、白と黒の映像のように無機質だった。車も標識も、花壇の花も、色を持たない。すれ違う人々の顔も――モノクロの仮面のように感じられた。
工場の門をくぐると、佐藤が立っていた。
「おはようございます、山田さん」
その声だけが、唯一現実に感じられた。が、佐藤の作業服も顔も髪も、すべてが白黒写真のようだった。
胸の名札は、無地の紙になっていた。
工場の中。今日の作業は布を染める工程のチェックだ。
染色機の制御盤を確認する。温度は表示されていたが、数値はすべて「0」。反応染料の投入口には液体が流れていたが、その液体には色がなかった。
染色槽に布を入れる。同じく、白い液体の中に沈む白い布。時間が経っても、布の色は何も変わらない。
液から引き上げた布は、ただの白布のままだ。
山田は、染色機に向かって何度も首をかしげたが、誰も何も言わない。
同僚たちは、普段どおりの顔で作業を続けている。
開反機の横を通ると、ベルトコンベアの上を流れる布地も、すべて同じ色――いや、無色だった。
レッド、ブルー、カーキ、グレー。記録にある染色レシピと一致していない。
(なぜ誰も、何も言わないんだ……)
山田の喉の奥に、言葉にならない不安がつっかえた。
そのとき、背後から声がした。
「ヤマダさん、きょうはナニイロですか?」
佐藤の声だった。だが、どこか、平坦で、人工的な抑揚だった。
山田は、答えられなかった。
そもそも「色」とは何だったのか――それすら、思い出せなくなってきていた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
この物語は、「日常のかけらが少しずつ崩れていく恐怖」と「それでも朝はやってくる」という回復をテーマに描いています。
次の章でも、山田の変わらぬ朝に、少しずつ“何か”が混ざっていきます。
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