山田の記憶

とある、山田

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第十二章

記録

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山田は今日も、6時半に起きる。

目覚ましの音は鳴らない。起きる瞬間、何かに名前を呼ばれたような気がしたが、寝ぼけていたのかもしれない。
窓からの光は、もう白とも灰とも言えないぼやけた色で、天井の模様すら見えにくくなっていた。

洗面所の鏡に映る自分の顔が、どこか知らない人のように感じる。
コーヒーの味は、もうない。ただの色水を飲んでいるようだった。

「……これ、いつからこうなんだ?」

呟いても、自分の声に実感がなかった。

工場へと向かう道すがら、すれ違う人々の顔が、皆どこか平面的だった。
色が抜け落ちたような、誰かが描いた仮面のような顔。

「おはよう」

門の前で佐藤に声をかけたが、佐藤はその場を素通りした。
まるで、山田の声が聞こえていないかのように。

更衣室に入り、ロッカーを開けようとするが
山田の名前札がなかった。

代わりに、ロッカーの扉には「使用不可」の紙が貼られていた。
見間違いかと思い、紙を剥がすと、その裏に自分の字で書かれたメモがあった。

《このロッカー、使えなくなったんだ。山田》

(俺……が書いた? いつ?)


現場に向かう。
今日も機械は止まっていた。モニターは真っ黒で、ランプも灯っていない。

作業日報を取り出そうと事務所に寄った。
日報棚には、他の社員の分だけが整然と並んでいる。山田の名前は、どこにもなかった。

(おかしい。俺、昨日も書いたはずだろ)

記録用紙の束をめくっていく。
そこには「山田」という名前の記録が、数日前を境に、一切存在していなかった。

山田は自分のメモ帳を取り出す。昨日、機械の温度や圧力を手書きで記したはずだ。
しかし、そこに残っていたのは、空白のページだけだった。

書いたはずの記録が、消えている。

いや――書いた記憶も、なんだか曖昧になってきている。

(……本当に、俺はここで何をしてた?)

山田は染色工程のチェック表に目を通す。
そこに記載された担当者の名前は、すべて別の社員のものだった。

“山田”という名前が、どこにも存在していない。

誰かに聞こうと、近くにいた佐藤に声をかけた。

「昨日、俺さ……このライン担当してたよな? 日報、書いたはずなんだけど……」

佐藤は顔を上げたが、曖昧に首をかしげた。

「山田さんって……最近、見てなかったような……?」

「え?」

「ほら、あの……3月くらいから、来てなかったじゃないですか。体調崩してたって……」

「俺、毎日来てただろ。昨日も、一昨日も……!」

佐藤は戸惑った表情を浮かべ、ポケットから自分のメモ帳を取り出す。

「すみません、記録だと、山田さんの名前、ここ最近は……」

そう言って見せられたページには、たしかに「山田」の文字はどこにもなかった。

山田はその場に立ち尽くした。

記録に残らない日々。
存在が、静かに、確実に、塗り替えられていく。

この工場から、自分の痕跡だけが消えている。

山田は、震える手でペンを取り、自分の名前を書こうとした。
だが、紙の上に浮かぶインクは、何も描かなかった。



最後までお読みいただきありがとうございました。
この物語は、「日常のかけらが少しずつ崩れていく恐怖」と「それでも朝はやってくる」という回復をテーマに描いています。
次の章でも、山田の変わらぬ朝に、少しずつ“何か”が混ざっていきます。
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