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第十三章
音
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山田は今日も、6時半に起きる。
目覚ましの音は鳴らない。携帯を確認すると、アラームは確かに設定されていたのに。
窓からの光は、今日も白くぼやけている。色彩という概念が、この世界から抜け落ちてしまったかのように。
洗面所に立つと、水道の蛇口から水が流れ落ちる。しかし――音が、しない。
流れるはずの水音は、ただの映像のように静かだった。
パンをトースターに入れる。タイマーのカチカチという音も、パンが焼けるパチパチという音も、何ひとつ聞こえない。
コーヒーを淹れる。香りはかすかにあるが、味はもう感じられない。
「……無音映画みたいだな」
呟いた言葉すら、自分の耳に届かない。まるで、自分の声が存在していないかのようだった。
作業着に袖を通し、外に出る。朝の空気は冷たいはずなのに、肌に触れる感触が希薄だ。
工場の屋根にかかる霧も、まるで写真のように動かない。
門をくぐると、いつもの同僚たちがすでに朝礼に並んでいる。
工場長が前に立ち、何かを話しているようだが、口は動いているのに音がない。
「……聞こえない?」
山田は隣の佐藤に問いかけたが、佐藤は何も反応しない。
いや――その目には、山田が映っていないようにすら見える。
(俺は、ここにいるのか?)
染色工程に向かう。機械は回っている。布が流れ、染料がかけられ、温度管理のメーターが赤く光る。
けれど、すべてが――無音だった。
いつもは機械音で満ちていたはずのフロア。
うなり声のようなモーター音、布が滑る摩擦音、染料の吹き出す圧縮音――何も、ない。
山田は耳を塞いでみた。塞いだまま、機械に近づく。だが、やはり何も変わらない。
周囲の作業員が、話している。ジェスチャーも交えて何かの確認をしているようだ。
だが、どの声も、まるで録音ミスの映像のように無音だった。
(俺の耳がおかしくなった?)
いや、違う。だって――足音も聞こえない。
自分の靴が床を踏みしめる振動だけが足裏から伝わる。だが、その音は存在しない。
事務所に行くと、電話の赤いランプが点滅している。
だが、着信音が、聞こえない。
電話を取ると、相手の声も――何も、なかった。
「もしもし……?」
自分の声は、もう完全に無音の存在になっていた。
作業日報を書く。ペンの音も、紙をめくる音も、すでにこの世界には存在していない。
他の社員たちは何事もないように業務をこなしているが、その様子すら、どこかスローモーションの映像のように見えた。
山田はふと、工場の片隅にあったスピーカーを見つける。
そこには――**「無音放送中」**という手書きの紙が貼られていた。
(放送中……? 音が……ないのに?)
山田は思わず、笑った。いや、笑った“つもり”だった。
口は動いているのに、声が、出ない。
――世界から音が消えていく。
そして、山田自身の存在もまた、世界から滑り落ちようとしていた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
この物語は、「日常のかけらが少しずつ崩れていく恐怖」と「それでも朝はやってくる」という回復をテーマに描いています。
次の章でも、山田の変わらぬ朝に、少しずつ“何か”が混ざっていきます。
ご感想・応援コメント、お気軽にお寄せください。
目覚ましの音は鳴らない。携帯を確認すると、アラームは確かに設定されていたのに。
窓からの光は、今日も白くぼやけている。色彩という概念が、この世界から抜け落ちてしまったかのように。
洗面所に立つと、水道の蛇口から水が流れ落ちる。しかし――音が、しない。
流れるはずの水音は、ただの映像のように静かだった。
パンをトースターに入れる。タイマーのカチカチという音も、パンが焼けるパチパチという音も、何ひとつ聞こえない。
コーヒーを淹れる。香りはかすかにあるが、味はもう感じられない。
「……無音映画みたいだな」
呟いた言葉すら、自分の耳に届かない。まるで、自分の声が存在していないかのようだった。
作業着に袖を通し、外に出る。朝の空気は冷たいはずなのに、肌に触れる感触が希薄だ。
工場の屋根にかかる霧も、まるで写真のように動かない。
門をくぐると、いつもの同僚たちがすでに朝礼に並んでいる。
工場長が前に立ち、何かを話しているようだが、口は動いているのに音がない。
「……聞こえない?」
山田は隣の佐藤に問いかけたが、佐藤は何も反応しない。
いや――その目には、山田が映っていないようにすら見える。
(俺は、ここにいるのか?)
染色工程に向かう。機械は回っている。布が流れ、染料がかけられ、温度管理のメーターが赤く光る。
けれど、すべてが――無音だった。
いつもは機械音で満ちていたはずのフロア。
うなり声のようなモーター音、布が滑る摩擦音、染料の吹き出す圧縮音――何も、ない。
山田は耳を塞いでみた。塞いだまま、機械に近づく。だが、やはり何も変わらない。
周囲の作業員が、話している。ジェスチャーも交えて何かの確認をしているようだ。
だが、どの声も、まるで録音ミスの映像のように無音だった。
(俺の耳がおかしくなった?)
いや、違う。だって――足音も聞こえない。
自分の靴が床を踏みしめる振動だけが足裏から伝わる。だが、その音は存在しない。
事務所に行くと、電話の赤いランプが点滅している。
だが、着信音が、聞こえない。
電話を取ると、相手の声も――何も、なかった。
「もしもし……?」
自分の声は、もう完全に無音の存在になっていた。
作業日報を書く。ペンの音も、紙をめくる音も、すでにこの世界には存在していない。
他の社員たちは何事もないように業務をこなしているが、その様子すら、どこかスローモーションの映像のように見えた。
山田はふと、工場の片隅にあったスピーカーを見つける。
そこには――**「無音放送中」**という手書きの紙が貼られていた。
(放送中……? 音が……ないのに?)
山田は思わず、笑った。いや、笑った“つもり”だった。
口は動いているのに、声が、出ない。
――世界から音が消えていく。
そして、山田自身の存在もまた、世界から滑り落ちようとしていた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
この物語は、「日常のかけらが少しずつ崩れていく恐怖」と「それでも朝はやってくる」という回復をテーマに描いています。
次の章でも、山田の変わらぬ朝に、少しずつ“何か”が混ざっていきます。
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