山田の記憶

とある、山田

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第十四章

言葉

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山田は今日も、6時半に起きる。

目覚ましの音は、鳴らなかった。
光はぼんやりと白く、壁も床も、空も、曖昧な灰色に沈んでいる。時計の針は6:30を指していたが、その“数字”が、どこか読みにくく感じた。

顔を洗い、トースターでパンを焼く。音はない。コーヒーは香らず、苦くも甘くもなかった。

食卓に座る。テレビをつけた。映像は動いているが、字幕も、音声も、何ひとつ頭に入ってこなかった。
日本語なのに――意味が、掴めない。

(……疲れてるのか?)

新聞に手を伸ばす。だが、そこに並ぶ文字列が、まるで知らない言語に見える。

「……え?」

文字が滲んでいく。読むほどに、文脈が崩れていく。
語彙が、意味を失い、文章がただの“記号の列”にしか見えなくなる。

(これは夢か?)

工場の作業着に着替える。ポケットから昨日のメモを取り出す。
手書きのメモには、確かに「染色ライン温度確認」と書いたはずだった。
だがそこには、

【溶フヌ確認ライン色】

と、しか読めなかった。

山田は眉をひそめる。

(読めない……俺が書いたのに?)

玄関を出て、工場へ向かう。誰も話しかけてこない。いや、話しかけられているのかもしれない。
だがその口の動きは、ただ唇が開いて閉じているだけで、言葉になっていない。

門の前で佐藤が手を振ってきた。

「おふれっ、さかんふうでとおまるよ!」

「……え?」

声が聞こえた。でも、意味がわからない。
佐藤は何かを言っているが、それは日本語のようで日本語ではない、音の連なりだった。

「ごま、てさ、はいしゃくおんですから、たぬをとってんです」

「ちょっと待て……佐藤、何言ってる?」

だが佐藤は構わず笑顔でうなずき、通り過ぎていった。

山田は、自分の舌を噛んでみた。痛みはある。

「おはようございます」と口にしてみるが、自分の声が自分の耳に響かない。
音は出ているはずだ。でも、それが“言葉”ではない。

工場内では、誰もが普通に会話しているように見える。
だがその声のすべてが、山田にとっては無意味な音列にしかならなかった。

(俺の脳が、言葉を理解できなくなってる?)

作業開始。染色ラインのモニターには「本日分:サックスブルー」の文字。
……のはずだった。
だが山田の目には、

【本ヒヤ:クサック霧ー】

と読めた。

布の色も、くすんだ何色とも言えない曖昧な色に染まっている。
部下のひとりが何か報告をしてくるが、
「うとせ、つぬけうしょかいもくです」

山田は無言でうなずいた。話すことも、答えることもできなかった。

昼食。食堂で配られたメニュー表も、読めない。

【カるナうい みいんすちゅけ】
【しうょまつのとふあくお】

何もわからない。だが、誰も異変に気づかない。

(俺だけ……?)

休憩室で、同僚たちが笑い合っていた。
山田の耳には、ただの意味のない音の羅列が流れていくだけだった。

言葉が消えていく。
音も、色も、味も、温度も、すべての“感覚”が、すでに遠ざかっていた。

山田は、静かに目を閉じた。

「わたしは、ここにいる……」

そう口にしてみたが、それはもはや、何語でもない音だった。



最後までお読みいただきありがとうございました。
この物語は、「日常のかけらが少しずつ崩れていく恐怖」と「それでも朝はやってくる」という回復をテーマに描いています。
次の章でも、山田の変わらぬ朝に、少しずつ“何か”が混ざっていきます。
ご感想・応援コメント、お気軽にお寄せください。
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