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第十五章
名前
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山田は今日も、6時半に起きる。
時計の針は、確かに6:30を指していた。
けれど、それが朝なのか夜なのか、自信が持てなかった。窓から差す光は、どこか白く冷たく、時間の輪郭がぼやけて見える。
顔を洗い、パンを焼く。コーヒーを淹れる。
苦くはない。甘くもない。香りも、温度もない。ただ、「そこにある液体」としての存在だけがある。
テレビをつける。音はなく、映像もただ流れているだけ。言葉は、意味を持たない記号だった。
新聞の文字も、相変わらず理解できなかった。
――だが、今日の違和感はそこではなかった。
玄関で工場の作業服に袖を通す。そのとき、胸元に刺繍された名札が目に入る。
「山田 達也」
その瞬間、背筋が冷えた。
(誰だ……?)
胸の名札。見慣れた名前のはずだ。けれど、そこに書かれた文字列が、自分とはまったく関係のない“他人の名前”に見えた。
(俺の……名前?)
思わず声に出してみる。
「や……まだ? たつや?」
響かない。実感がない。
玄関の鏡に映る顔も、どこか他人のように見えた。
目の奥にあるはずの“自分”という確信が、どこにもない。
(おれは……だれだ?)
歩いて工場へ向かう途中、すれ違う顔がみな、こちらをちらりと見る。誰かが手を振る。
「おはようございます、山田さん!」
その声に、一瞬、返事が遅れる。
「……あ、うん……」
自分の名前を呼ばれたのに、それが“自分”だとすぐに理解できなかった。
名札に書かれた名前と、自分の内側の感覚が、どんどん乖離していく。
工場に入ると、佐藤が声をかけてきた。
「山田さん、昨日のライン、確認しておいてもらえますか?」
「……」
返事を忘れる。言葉が理解できないわけじゃない。だが “山田さん”という音が、自分に向けられたものとは思えなかった。
(山田……? 本当に、俺?)
佐藤の目が一瞬、不安そうに揺れたが、すぐに何事もなかったかのように笑った。
「よろしくお願いしますね、山田さん」
……そのたびに、自分という存在が少しずつ削れていくような感覚がする。
作業中、何度も自分の名前が呼ばれるたび、胸がざわつく。
メモには「山田」の文字が書いてある。それを見ていても、まるで他人の業務記録を覗いているようだった。
昼休み。いつもの休憩室。
誰かが話しかけてきた。
「山田くんって、さ、前は営業だったんだっけ?」
山田は答えられなかった。
(山田……? 俺……なのか?)
心の中で何度も反芻する。「山田 達也」――その音は、ただの文字の羅列になりつつあった。
午後、機械の操作中にエラー表示が出る。警報音が鳴り響く。
「山田くん、急いで!」
誰かが叫ぶ。その声が、遠くからの呼び声のように響いた。
(俺のことを……呼んでいるのか?)
足が動かない。心が反応しない。
自分の名前が、自分に届かない。
何かが、はっきりと壊れ始めていた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
この物語は、「日常のかけらが少しずつ崩れていく恐怖」と「それでも朝はやってくる」という回復をテーマに描いています。
次の章でも、山田の変わらぬ朝に、少しずつ“何か”が混ざっていきます。
ご感想・応援コメント、お気軽にお寄せください。
時計の針は、確かに6:30を指していた。
けれど、それが朝なのか夜なのか、自信が持てなかった。窓から差す光は、どこか白く冷たく、時間の輪郭がぼやけて見える。
顔を洗い、パンを焼く。コーヒーを淹れる。
苦くはない。甘くもない。香りも、温度もない。ただ、「そこにある液体」としての存在だけがある。
テレビをつける。音はなく、映像もただ流れているだけ。言葉は、意味を持たない記号だった。
新聞の文字も、相変わらず理解できなかった。
――だが、今日の違和感はそこではなかった。
玄関で工場の作業服に袖を通す。そのとき、胸元に刺繍された名札が目に入る。
「山田 達也」
その瞬間、背筋が冷えた。
(誰だ……?)
胸の名札。見慣れた名前のはずだ。けれど、そこに書かれた文字列が、自分とはまったく関係のない“他人の名前”に見えた。
(俺の……名前?)
思わず声に出してみる。
「や……まだ? たつや?」
響かない。実感がない。
玄関の鏡に映る顔も、どこか他人のように見えた。
目の奥にあるはずの“自分”という確信が、どこにもない。
(おれは……だれだ?)
歩いて工場へ向かう途中、すれ違う顔がみな、こちらをちらりと見る。誰かが手を振る。
「おはようございます、山田さん!」
その声に、一瞬、返事が遅れる。
「……あ、うん……」
自分の名前を呼ばれたのに、それが“自分”だとすぐに理解できなかった。
名札に書かれた名前と、自分の内側の感覚が、どんどん乖離していく。
工場に入ると、佐藤が声をかけてきた。
「山田さん、昨日のライン、確認しておいてもらえますか?」
「……」
返事を忘れる。言葉が理解できないわけじゃない。だが “山田さん”という音が、自分に向けられたものとは思えなかった。
(山田……? 本当に、俺?)
佐藤の目が一瞬、不安そうに揺れたが、すぐに何事もなかったかのように笑った。
「よろしくお願いしますね、山田さん」
……そのたびに、自分という存在が少しずつ削れていくような感覚がする。
作業中、何度も自分の名前が呼ばれるたび、胸がざわつく。
メモには「山田」の文字が書いてある。それを見ていても、まるで他人の業務記録を覗いているようだった。
昼休み。いつもの休憩室。
誰かが話しかけてきた。
「山田くんって、さ、前は営業だったんだっけ?」
山田は答えられなかった。
(山田……? 俺……なのか?)
心の中で何度も反芻する。「山田 達也」――その音は、ただの文字の羅列になりつつあった。
午後、機械の操作中にエラー表示が出る。警報音が鳴り響く。
「山田くん、急いで!」
誰かが叫ぶ。その声が、遠くからの呼び声のように響いた。
(俺のことを……呼んでいるのか?)
足が動かない。心が反応しない。
自分の名前が、自分に届かない。
何かが、はっきりと壊れ始めていた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
この物語は、「日常のかけらが少しずつ崩れていく恐怖」と「それでも朝はやってくる」という回復をテーマに描いています。
次の章でも、山田の変わらぬ朝に、少しずつ“何か”が混ざっていきます。
ご感想・応援コメント、お気軽にお寄せください。
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