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もう一人の山田
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第1章:目覚めと違和感
山田は、いつも通りに目覚めた——はずだった。
しかし、キッチンに立ってコーヒーを淹れていたとき、ふと妙なことに気がついた。
マグカップが、1個だけ多い。
「……こんな柄、うちにあったっけ?」
白地に青い小花が散ったそのカップは、彼の趣味とは明らかに違っていた。記憶を辿るが、誰かを家に招いた覚えはない。引っ越し祝いに誰かからもらった? 否、そんなことはなかったはずだ。
小さな違和感。それだけなら、たまたまの見落としかもしれない。しかし、その“ほころび”は朝の時間が進むにつれて次々と現れ始める。
会社に向かう途中、山田は職場近くのコンビニに立ち寄った。いつものように缶コーヒーとパンを手に取り、レジに並ぶ。
会計の直前、ふと手元の財布の中に、奇妙なレシートが挟まっていることに気づいた。
日付は、昨日。時間は22時14分。場所はこのコンビニ。印字された購入品は、「タバコ」「エナジードリンク」「ビニール紐」——いずれも、買った覚えはない。
さらに裏面には、手書きでこう書かれていた。
「12:45 来る」——そう書かれていた。
山田は戸惑いながらも、会社へと向かった。何かの勘違いであってほしい——そう願いながら。しかし、駅の自動改札に差し込んだICカードの残高が異常に少なくなっていたことが、その希望を打ち砕く。
前日使った覚えは、ない。
山田の一日は、いつの間にか、誰かに「すり替えられた」ような違和感に包まれていた。
そして12時45分、会社の電話が鳴った。
第2章:午後十二時四十五分
電話の呼び出し音は3回で止まった。受話器を取るより早く、内線の表示で「応接室1」と確認できた。
応接室などめったに使われない。特に工場では。来客はほとんどが業者か取引先の営業マンで、事務所の会議机で事足りるのが普通だ。だから山田は、この内線が自分宛である可能性など微塵も疑わなかった。
それでも、誰かが自分を「呼んでいる」と直感的に思ってしまったのは、今朝からの些細な違和感が積み重なっていたからだろう。
机のメモ帳にあった「12:45 来る」の文字。
そして今は、まさに12時45分。
不意に、体温が少しだけ下がったような気がした。
山田は席を立ち、ゆっくりと工場棟の隣にある事務所ビルへと足を向けた。応接室は2階、年季の入った木製ドアの奥。扉の前で一度深呼吸をしてから、ノックを3回。
「失礼します」
開けた瞬間、室内にいた人物が立ち上がった。
——見覚えが、あった。だが思い出せない。
男は、黒いジャケットに白いシャツ。工場には不釣り合いなほど整った身なり。だが、顔だけは山田の記憶のどこかに引っかかっていた。社員でも、業者でもない。しかし、どこかで……。
「お久しぶりです、山田さん。覚えてませんか?」
声は穏やかだが、どこか皮肉を含んでいた。まるで「覚えていないわけがないだろう」とでも言いたげに。
山田は一歩だけ後ずさった。
「……失礼ですが、どちら様でしたか?」
男は笑った。
「そうでしょうね。昨日のあなたなら、そう答えると思ってました」
「……昨日の?」
「ええ。昨日、ここで何があったか、覚えてないんでしょう?」
山田は黙った。なぜこの男が「昨日」に触れるのか。なぜ、核心を突かれたような不快感を抱くのか。記憶は曖昧だった。確かに、昨日の昼以降の出来事が薄く霞がかっている。
男は山田に封筒を差し出した。
「これ、あなたの字です。中を確認してください。——それが、あなたの“本当の昨日”です」
山田は、封筒を受け取った。震える指先で開けると、中から出てきたのは数枚の紙。
書かれていたのは——見覚えのある文字だった。
確かに自分の字。だが、その内容は、到底、自分が書いたとは思えないようなものだった。
第3章:記憶の綻び
紙は3枚。すべて、山田自身の筆跡だった。
ただ、その文字には異様な緊張感が滲んでいた。文字の間隔が乱れ、行も揃っていない。まるで、何かに追い立てられるように書かれたそれは、まさに“訴え”だった。
1枚目には、こう記されていた。
________________________________________
《記録 2025年5月8日 14:20》
この文章を、もし自分が明日読んでいるなら、何かが起きた証拠だ。
俺は記憶を失う準備をしている。
失うのは任意の記憶——おそらく、今日の午後から夜まで。
理由は書けない。安全のために。
ただ、以下のことを覚えておいてくれ。
1. 工場の第4保管室には入るな。
2. 赤いパレットを動かすな。
3. 西沢にだけは話すな。
そして、「あの音」を再び聞いたら、すぐに離れろ。思い出そうとするな。
これは、自分自身への忠告だ。
________________________________________
山田は一行一行、飲み込むように読んだ。読めば読むほど、背中に汗が滲む。
第4保管室。そこは今は使われていない旧棟の一角で、在庫整理の時くらいしか誰も入らない。
赤いパレット。おそらく染料や薬品の輸送台車のことだろうが、特定はできない。
そして、西沢。これは明確だった。社内でもとくに口数の少ない、検反担当の男性社員。仕事は丁寧だが、個人的な話は一切しない。
なぜ「西沢に話すな」なのか。
混乱の中、2枚目に視線を移す。そこには、地図のような図面が手描きされていた。工場敷地内の見取り図。それも、現行の図面ではない。まだ旧棟が機能していたころの配置だ。
その図の一角、第4保管室に赤いペンで小さな円が記され、こう添えられていた。
「床下、空間あり。木製の蓋、外すな」
さらにその横には、殴り書きのような一文があった。
「あれは“入ってくる”音じゃない。“出ようとしている”音だ」
読んだ瞬間、頭の奥に、何かがひっかかるような感覚が走った。
音——確かに何か、思い出せない音を、昨日、どこかで聞いた気がする。
金属がひっかくような、乾いたような……説明できない音。
山田が顔を上げると、あの男が静かに言った。
「思い出しましたか?」
「……まだ、全部は。でも、これは……俺が書いたんですね?」
「ええ。あなたが自分の意思で、記憶を封じた。それでも今日、また“あれ”に近づこうとしているなら——止めるわけにはいきません。あなたには“確認する権利”がある」
「“あれ”って……一体、何なんですか?」
男は答えなかった。答えない代わりに、立ち上がってドアの前に立った。そしてこう言った。
「第4保管室の鍵は、すでに開いていますよ」
第4章:第4保管室
第4保管室は、敷地の最も奥、赤レンガの外壁がまだ残る旧棟の一角にあった。
山田は構内を歩く途中、何人かの同僚にすれ違ったが、誰も彼に声をかけようとはしなかった。目が合ってもすぐに逸らされる。まるで彼が「ここにいてはいけない人間」であるかのように。
——いや、実際、そうなのかもしれない。
思考がぐるぐると渦を巻く。記憶と現実が綱引きしている。
第4保管室のドアは、予告通り、鍵が外れていた。長い間使われていなかったことは、取手の錆びつきと、足元に散らばった砂埃が証明していた。
山田は深く息を吸い、ドアを開けた。
軋む音。空気が変わる。どこか湿った、薬品と鉄と……少し、血のようなにおい。
中は薄暗く、左奥には記憶の中にもある古い棚と、今は使われていない染料の缶が山積みにされていた。そしてその中央——
あった。赤いパレット。
何の変哲もない鉄製の台車。だが、その下に、微かに木が見える。床に似せた板張り。その境目を、何重にも踏み慣らされた痕が囲んでいた。誰かが、ここを頻繁に開け閉めしている。
山田はゆっくりとしゃがみ込み、木の板に手をかけた。重い。だが、確かに“開く”。
中は、空洞だった。
——いや、違う。空洞ではない。
誰かが、いる。
その瞬間、背後で「ギィ」と金属の擦れるような音がした。
飛び上がって振り返る。だが、誰もいない。
音だけが、今も空間に残っている。思い出す——これだ。昨日、聞いた音だ。
その音に誘われるように、山田は床下に身を滑らせた。
内部は、想像以上に広かった。古い工場の床下に、こんな空間があるとは思えないほどに。コンクリ打ちではない、土の匂いが漂っていた。懐中電灯もない中、ポケットのスマホのライトを頼りに進む。
そして——5メートルほど先。何かがあった。
白い布のようなものに包まれた……人影。
凍りついた。
布の一部がめくれており、その下から、山田自身の顔が覗いていた。
否。
山田に酷似した人物の“遺体”だった。
—
喉が引き裂かれるように乾く。近づく。見る。
間違いない。**自分だ。**だが、どこか微妙に違う。輪郭、髪の癖、目尻のシワ。双子か、あるいは——
「記憶が、戻ったようですね」
背後から声がした。あの男の声。
「見せたくなかったけど、あなた自身が“望んだ”ことですから」
山田は振り返り、声を震わせて言った。
「……これは誰なんですか?」
男は、ゆっくりと言った。
「昨日、あなたが殺した人間です。」
第5章:二人の山田
「昨日、あなたが殺した人間です。」
その言葉は、音としてはっきり耳に届いたはずなのに、意味だけが頭の中で跳ね返った。山田は、ゆっくりと、しかし確実に後ずさった。
「……違う。俺は、誰も……殺してない……」
「そう思うのは当然です。記憶を“抜いた”んですから。」
あの男——名乗ってもいないその人物は、そう言って足元の遺体を見下ろした。その視線は、まるで“壊れた物”を眺めるようだった。
「じゃあ、これは……誰なんだ。俺に似てるが、違う……俺じゃない……けど、俺だ。」
「その人間は、“あなた”です。もう一人の。」
「……意味がわからない」
男は、ポケットから小さな録音機を取り出した。無骨な黒い本体。再生ボタンを押すと、耳慣れた声が流れた。
「これは、俺が俺自身を“処理”する記録だ。どこまで聞く覚悟があるかわからないが、これは自己の分裂と統合に関する記録。俺は、あの計画に関与しすぎた」
自分の声。間違いなく、山田の声だった。
「“重複現象”は、記憶の複製ではなかった。人格のコピーだ。だが、二つは存在できない。必ずどちらかが、排除される。俺は選んだ。選ばざるを得なかった。あいつの方が“本物”に近づいていたから。」
録音は、そこまでだった。
「……何だこれは」
「説明しましょう」と男は静かに言った。
「あなたは、昨年のある実験に関与していた。それは、長期的記憶を人工的に“転写”し、事故や認知症などに備えるという計画。しかし、途中で発見されたんです。“記憶”ではなく、“人格”まで転写されてしまうことに」
山田の喉が鳴った。
「つまり……これは、俺のクローン? 記憶のコピーか?」
「もっと厄介です。あなたは、分裂したんです。内的な動機によって、自らもう一人の“自分”を作った。生きた、完全な自己の複製。どちらがオリジナルかは、もはや意味を持たない」
「じゃあ、俺は……殺したんじゃない。自己防衛の結果で……」
「ええ。自分自身を統合するために。あなたは、記憶を封じてまで、その選択をしたんです。罪を自覚しないために」
山田はしばらく、何も言えなかった。
目の前の死体は、自分だ。否、自分だった何か。
そこにあるのは、決断の痕跡。あるいは、狂気の断面。
だが——。
「ひとつだけ聞かせてくれ。お前は、誰なんだ。なぜ俺のすべてを知ってる」
男はわずかに笑った。
「私はあなたの“観察者”です。記録と監視を仕事とする者。あなたが再び“分裂”する可能性があるため、こうして来た。それが“契約”ですから」
「契約?」
男は応えず、代わりに録音機を山田の手に握らせた。
「今夜0時に、もう一度、判断してもらいます。“彼”を完全に埋めるか、思い出すか。いずれにせよ、この日常はもう、以前のものではいられません」
そして、男は背を向け、床下の出口へと歩き出した。
「……そうだ、ひとつだけ忠告を」
「……何だ」
「西沢さんに話してはいけないと言ったでしょう? あの人も、“かつて”同じ選択をしたんですよ。今、どうなっているかは……」
その言葉を残し、男は闇に消えた。
山田は、動けなかった。
床下の暗闇にひとり取り残され、まるでそこが自分の心の奥底と繋がっているような気がした。
そして、胸ポケットの中——
メモ帳に、知らぬ間にもう一行、文字が増えていた。
「次は、どちらを選ぶ?」
第6章:0時の選択
工場の時計が、23時30分を指していた。
山田は、更衣室の奥、古いロッカーの前で佇んでいた。
ロッカーNo.13。普段は使われていない番号のロッカーだ。
数時間前——床下から戻ったあと、何気なく手帳を開くと、そこにまた新たな書き込みがあった。
「No.13の中に、“残り”がある」
残り?
あの床下の死体だけでは、まだ足りないというのか?
——いや、違う。あれは“肉体”だ。だが、“記憶”はどこへ行った?”
山田はロッカーを開けた。
中には、黒い小型の冷却装置が設置されていた。医療用のケースのような外観。
開けると、中には透明なバイアル瓶が一本だけ納められていた。液体は深い藍色をしており、その表面に、微かに膜のようなものが浮かんでいる。
そして、瓶に貼られたラベルにはこう書かれていた。
「山田タカシ 記憶補完体A」
震えた。
これは、自分が自らの人格を“統合”するために——いや、“分離”から逃れるために保存した、“もう一人の自分”の記憶だった。
そのとき、背後で音がした。
振り向くと、西沢が立っていた。
「来たか……」
彼は、相変わらず無表情だった。ただ、その目の奥には、微かに懐かしさのようなものがあった。
「お前も、“した”のか?」
山田の問いに、西沢は一歩近づいて言った。
「俺は、選ばなかった。……いや、選べなかった。あれを見て、踏み出せなかった。それが俺の選択だ。だから、今の俺には、毎日が“空白”なんだ」
「……お前も、もう一人いたのか」
「ああ。……だけど、俺は“消さなかった”。だから今も、毎晩、夢であいつに会う」
西沢は、山田の手元のバイアルを見ると、少しだけ目を細めた。
「それを取り込めば、お前は“全て”を取り戻すだろう。でも代償もある。“自己”はもう一度崩れる。統合か、破綻か、それはわからない」
沈黙。
工場の時計が、23時59分を打った。
山田は、静かに冷却装置からバイアルを取り出した。
「選ぶさ。ここで立ち止まるくらいなら、“もう一人の俺”と一緒に墜ちる」
—
0時、ジャスト。
山田は、藍色の液体を飲み干した。
—
次の瞬間、天井が歪んだ。視界が反転する。
耳の奥で、爆音のような心音が響く。
記憶が、何年分も、一瞬で逆流する。
「最初に分裂したのは、実験じゃない。俺自身の“望み”だった」
「俺は、自分から逃げたかった。仕事の責任も、家庭の崩壊も、人格の歪みも——全部」
「だから“もう一人”に押しつけた。完璧な俺を演じるために、汚れた半身をつくった」
だが——
「その“もう一人”こそが、愛され、信頼され、生きていた。俺以上に、俺だった」
—
山田は、床に倒れ込みながら、嗤った。
「皮肉だな。結局……殺したのは、俺じゃない。奪ったのも、俺じゃない。」
最終章:どちらが本物か
目を覚ましたとき、山田は職場のロッカー室にいた。
夜は明けていた。いつも通りの朝。いつも通りの音、匂い。だが、その「いつも」は、どこかよそよそしい。
鏡の中の自分に違和感を覚える。顔のパーツは同じだ。だが、“表情”がわからない。喜びも、悲しみも、怒りも、何ひとつ感覚として湧いてこない。
コーヒーを口にする。好きだったはずの味が、妙に苦い。いや、“苦すぎる”。
作業着に袖を通しながら、山田は思う。
「今の自分は、どっちだ?」
あの日、自分は“統合”を選んだ。 しかし本当に“統合”されたのか?
記憶は戻っている。だが、それらの記憶に感情が伴わない。
“彼”の記憶か? “俺”の記憶か?
タイムカードを押すとき、誰かが背中越しに言った。
「……最近、ちょっと雰囲気変わりましたね」
山田は笑おうとした。だが、頬が引きつった。
そしてポケットの中に、折りたたまれたメモがあった。
「この一日は、繰り返される」
彼はそっと、それを丸めてゴミ箱に投げ入れた。
——もう、“一人の山田”でいい。
この物語は、現実と似て非なる「もしも」の世界を描いたフィクションです。登場する人物や出来事は、すべて想像に基づくものです。
山田は、いつも通りに目覚めた——はずだった。
しかし、キッチンに立ってコーヒーを淹れていたとき、ふと妙なことに気がついた。
マグカップが、1個だけ多い。
「……こんな柄、うちにあったっけ?」
白地に青い小花が散ったそのカップは、彼の趣味とは明らかに違っていた。記憶を辿るが、誰かを家に招いた覚えはない。引っ越し祝いに誰かからもらった? 否、そんなことはなかったはずだ。
小さな違和感。それだけなら、たまたまの見落としかもしれない。しかし、その“ほころび”は朝の時間が進むにつれて次々と現れ始める。
会社に向かう途中、山田は職場近くのコンビニに立ち寄った。いつものように缶コーヒーとパンを手に取り、レジに並ぶ。
会計の直前、ふと手元の財布の中に、奇妙なレシートが挟まっていることに気づいた。
日付は、昨日。時間は22時14分。場所はこのコンビニ。印字された購入品は、「タバコ」「エナジードリンク」「ビニール紐」——いずれも、買った覚えはない。
さらに裏面には、手書きでこう書かれていた。
「12:45 来る」——そう書かれていた。
山田は戸惑いながらも、会社へと向かった。何かの勘違いであってほしい——そう願いながら。しかし、駅の自動改札に差し込んだICカードの残高が異常に少なくなっていたことが、その希望を打ち砕く。
前日使った覚えは、ない。
山田の一日は、いつの間にか、誰かに「すり替えられた」ような違和感に包まれていた。
そして12時45分、会社の電話が鳴った。
第2章:午後十二時四十五分
電話の呼び出し音は3回で止まった。受話器を取るより早く、内線の表示で「応接室1」と確認できた。
応接室などめったに使われない。特に工場では。来客はほとんどが業者か取引先の営業マンで、事務所の会議机で事足りるのが普通だ。だから山田は、この内線が自分宛である可能性など微塵も疑わなかった。
それでも、誰かが自分を「呼んでいる」と直感的に思ってしまったのは、今朝からの些細な違和感が積み重なっていたからだろう。
机のメモ帳にあった「12:45 来る」の文字。
そして今は、まさに12時45分。
不意に、体温が少しだけ下がったような気がした。
山田は席を立ち、ゆっくりと工場棟の隣にある事務所ビルへと足を向けた。応接室は2階、年季の入った木製ドアの奥。扉の前で一度深呼吸をしてから、ノックを3回。
「失礼します」
開けた瞬間、室内にいた人物が立ち上がった。
——見覚えが、あった。だが思い出せない。
男は、黒いジャケットに白いシャツ。工場には不釣り合いなほど整った身なり。だが、顔だけは山田の記憶のどこかに引っかかっていた。社員でも、業者でもない。しかし、どこかで……。
「お久しぶりです、山田さん。覚えてませんか?」
声は穏やかだが、どこか皮肉を含んでいた。まるで「覚えていないわけがないだろう」とでも言いたげに。
山田は一歩だけ後ずさった。
「……失礼ですが、どちら様でしたか?」
男は笑った。
「そうでしょうね。昨日のあなたなら、そう答えると思ってました」
「……昨日の?」
「ええ。昨日、ここで何があったか、覚えてないんでしょう?」
山田は黙った。なぜこの男が「昨日」に触れるのか。なぜ、核心を突かれたような不快感を抱くのか。記憶は曖昧だった。確かに、昨日の昼以降の出来事が薄く霞がかっている。
男は山田に封筒を差し出した。
「これ、あなたの字です。中を確認してください。——それが、あなたの“本当の昨日”です」
山田は、封筒を受け取った。震える指先で開けると、中から出てきたのは数枚の紙。
書かれていたのは——見覚えのある文字だった。
確かに自分の字。だが、その内容は、到底、自分が書いたとは思えないようなものだった。
第3章:記憶の綻び
紙は3枚。すべて、山田自身の筆跡だった。
ただ、その文字には異様な緊張感が滲んでいた。文字の間隔が乱れ、行も揃っていない。まるで、何かに追い立てられるように書かれたそれは、まさに“訴え”だった。
1枚目には、こう記されていた。
________________________________________
《記録 2025年5月8日 14:20》
この文章を、もし自分が明日読んでいるなら、何かが起きた証拠だ。
俺は記憶を失う準備をしている。
失うのは任意の記憶——おそらく、今日の午後から夜まで。
理由は書けない。安全のために。
ただ、以下のことを覚えておいてくれ。
1. 工場の第4保管室には入るな。
2. 赤いパレットを動かすな。
3. 西沢にだけは話すな。
そして、「あの音」を再び聞いたら、すぐに離れろ。思い出そうとするな。
これは、自分自身への忠告だ。
________________________________________
山田は一行一行、飲み込むように読んだ。読めば読むほど、背中に汗が滲む。
第4保管室。そこは今は使われていない旧棟の一角で、在庫整理の時くらいしか誰も入らない。
赤いパレット。おそらく染料や薬品の輸送台車のことだろうが、特定はできない。
そして、西沢。これは明確だった。社内でもとくに口数の少ない、検反担当の男性社員。仕事は丁寧だが、個人的な話は一切しない。
なぜ「西沢に話すな」なのか。
混乱の中、2枚目に視線を移す。そこには、地図のような図面が手描きされていた。工場敷地内の見取り図。それも、現行の図面ではない。まだ旧棟が機能していたころの配置だ。
その図の一角、第4保管室に赤いペンで小さな円が記され、こう添えられていた。
「床下、空間あり。木製の蓋、外すな」
さらにその横には、殴り書きのような一文があった。
「あれは“入ってくる”音じゃない。“出ようとしている”音だ」
読んだ瞬間、頭の奥に、何かがひっかかるような感覚が走った。
音——確かに何か、思い出せない音を、昨日、どこかで聞いた気がする。
金属がひっかくような、乾いたような……説明できない音。
山田が顔を上げると、あの男が静かに言った。
「思い出しましたか?」
「……まだ、全部は。でも、これは……俺が書いたんですね?」
「ええ。あなたが自分の意思で、記憶を封じた。それでも今日、また“あれ”に近づこうとしているなら——止めるわけにはいきません。あなたには“確認する権利”がある」
「“あれ”って……一体、何なんですか?」
男は答えなかった。答えない代わりに、立ち上がってドアの前に立った。そしてこう言った。
「第4保管室の鍵は、すでに開いていますよ」
第4章:第4保管室
第4保管室は、敷地の最も奥、赤レンガの外壁がまだ残る旧棟の一角にあった。
山田は構内を歩く途中、何人かの同僚にすれ違ったが、誰も彼に声をかけようとはしなかった。目が合ってもすぐに逸らされる。まるで彼が「ここにいてはいけない人間」であるかのように。
——いや、実際、そうなのかもしれない。
思考がぐるぐると渦を巻く。記憶と現実が綱引きしている。
第4保管室のドアは、予告通り、鍵が外れていた。長い間使われていなかったことは、取手の錆びつきと、足元に散らばった砂埃が証明していた。
山田は深く息を吸い、ドアを開けた。
軋む音。空気が変わる。どこか湿った、薬品と鉄と……少し、血のようなにおい。
中は薄暗く、左奥には記憶の中にもある古い棚と、今は使われていない染料の缶が山積みにされていた。そしてその中央——
あった。赤いパレット。
何の変哲もない鉄製の台車。だが、その下に、微かに木が見える。床に似せた板張り。その境目を、何重にも踏み慣らされた痕が囲んでいた。誰かが、ここを頻繁に開け閉めしている。
山田はゆっくりとしゃがみ込み、木の板に手をかけた。重い。だが、確かに“開く”。
中は、空洞だった。
——いや、違う。空洞ではない。
誰かが、いる。
その瞬間、背後で「ギィ」と金属の擦れるような音がした。
飛び上がって振り返る。だが、誰もいない。
音だけが、今も空間に残っている。思い出す——これだ。昨日、聞いた音だ。
その音に誘われるように、山田は床下に身を滑らせた。
内部は、想像以上に広かった。古い工場の床下に、こんな空間があるとは思えないほどに。コンクリ打ちではない、土の匂いが漂っていた。懐中電灯もない中、ポケットのスマホのライトを頼りに進む。
そして——5メートルほど先。何かがあった。
白い布のようなものに包まれた……人影。
凍りついた。
布の一部がめくれており、その下から、山田自身の顔が覗いていた。
否。
山田に酷似した人物の“遺体”だった。
—
喉が引き裂かれるように乾く。近づく。見る。
間違いない。**自分だ。**だが、どこか微妙に違う。輪郭、髪の癖、目尻のシワ。双子か、あるいは——
「記憶が、戻ったようですね」
背後から声がした。あの男の声。
「見せたくなかったけど、あなた自身が“望んだ”ことですから」
山田は振り返り、声を震わせて言った。
「……これは誰なんですか?」
男は、ゆっくりと言った。
「昨日、あなたが殺した人間です。」
第5章:二人の山田
「昨日、あなたが殺した人間です。」
その言葉は、音としてはっきり耳に届いたはずなのに、意味だけが頭の中で跳ね返った。山田は、ゆっくりと、しかし確実に後ずさった。
「……違う。俺は、誰も……殺してない……」
「そう思うのは当然です。記憶を“抜いた”んですから。」
あの男——名乗ってもいないその人物は、そう言って足元の遺体を見下ろした。その視線は、まるで“壊れた物”を眺めるようだった。
「じゃあ、これは……誰なんだ。俺に似てるが、違う……俺じゃない……けど、俺だ。」
「その人間は、“あなた”です。もう一人の。」
「……意味がわからない」
男は、ポケットから小さな録音機を取り出した。無骨な黒い本体。再生ボタンを押すと、耳慣れた声が流れた。
「これは、俺が俺自身を“処理”する記録だ。どこまで聞く覚悟があるかわからないが、これは自己の分裂と統合に関する記録。俺は、あの計画に関与しすぎた」
自分の声。間違いなく、山田の声だった。
「“重複現象”は、記憶の複製ではなかった。人格のコピーだ。だが、二つは存在できない。必ずどちらかが、排除される。俺は選んだ。選ばざるを得なかった。あいつの方が“本物”に近づいていたから。」
録音は、そこまでだった。
「……何だこれは」
「説明しましょう」と男は静かに言った。
「あなたは、昨年のある実験に関与していた。それは、長期的記憶を人工的に“転写”し、事故や認知症などに備えるという計画。しかし、途中で発見されたんです。“記憶”ではなく、“人格”まで転写されてしまうことに」
山田の喉が鳴った。
「つまり……これは、俺のクローン? 記憶のコピーか?」
「もっと厄介です。あなたは、分裂したんです。内的な動機によって、自らもう一人の“自分”を作った。生きた、完全な自己の複製。どちらがオリジナルかは、もはや意味を持たない」
「じゃあ、俺は……殺したんじゃない。自己防衛の結果で……」
「ええ。自分自身を統合するために。あなたは、記憶を封じてまで、その選択をしたんです。罪を自覚しないために」
山田はしばらく、何も言えなかった。
目の前の死体は、自分だ。否、自分だった何か。
そこにあるのは、決断の痕跡。あるいは、狂気の断面。
だが——。
「ひとつだけ聞かせてくれ。お前は、誰なんだ。なぜ俺のすべてを知ってる」
男はわずかに笑った。
「私はあなたの“観察者”です。記録と監視を仕事とする者。あなたが再び“分裂”する可能性があるため、こうして来た。それが“契約”ですから」
「契約?」
男は応えず、代わりに録音機を山田の手に握らせた。
「今夜0時に、もう一度、判断してもらいます。“彼”を完全に埋めるか、思い出すか。いずれにせよ、この日常はもう、以前のものではいられません」
そして、男は背を向け、床下の出口へと歩き出した。
「……そうだ、ひとつだけ忠告を」
「……何だ」
「西沢さんに話してはいけないと言ったでしょう? あの人も、“かつて”同じ選択をしたんですよ。今、どうなっているかは……」
その言葉を残し、男は闇に消えた。
山田は、動けなかった。
床下の暗闇にひとり取り残され、まるでそこが自分の心の奥底と繋がっているような気がした。
そして、胸ポケットの中——
メモ帳に、知らぬ間にもう一行、文字が増えていた。
「次は、どちらを選ぶ?」
第6章:0時の選択
工場の時計が、23時30分を指していた。
山田は、更衣室の奥、古いロッカーの前で佇んでいた。
ロッカーNo.13。普段は使われていない番号のロッカーだ。
数時間前——床下から戻ったあと、何気なく手帳を開くと、そこにまた新たな書き込みがあった。
「No.13の中に、“残り”がある」
残り?
あの床下の死体だけでは、まだ足りないというのか?
——いや、違う。あれは“肉体”だ。だが、“記憶”はどこへ行った?”
山田はロッカーを開けた。
中には、黒い小型の冷却装置が設置されていた。医療用のケースのような外観。
開けると、中には透明なバイアル瓶が一本だけ納められていた。液体は深い藍色をしており、その表面に、微かに膜のようなものが浮かんでいる。
そして、瓶に貼られたラベルにはこう書かれていた。
「山田タカシ 記憶補完体A」
震えた。
これは、自分が自らの人格を“統合”するために——いや、“分離”から逃れるために保存した、“もう一人の自分”の記憶だった。
そのとき、背後で音がした。
振り向くと、西沢が立っていた。
「来たか……」
彼は、相変わらず無表情だった。ただ、その目の奥には、微かに懐かしさのようなものがあった。
「お前も、“した”のか?」
山田の問いに、西沢は一歩近づいて言った。
「俺は、選ばなかった。……いや、選べなかった。あれを見て、踏み出せなかった。それが俺の選択だ。だから、今の俺には、毎日が“空白”なんだ」
「……お前も、もう一人いたのか」
「ああ。……だけど、俺は“消さなかった”。だから今も、毎晩、夢であいつに会う」
西沢は、山田の手元のバイアルを見ると、少しだけ目を細めた。
「それを取り込めば、お前は“全て”を取り戻すだろう。でも代償もある。“自己”はもう一度崩れる。統合か、破綻か、それはわからない」
沈黙。
工場の時計が、23時59分を打った。
山田は、静かに冷却装置からバイアルを取り出した。
「選ぶさ。ここで立ち止まるくらいなら、“もう一人の俺”と一緒に墜ちる」
—
0時、ジャスト。
山田は、藍色の液体を飲み干した。
—
次の瞬間、天井が歪んだ。視界が反転する。
耳の奥で、爆音のような心音が響く。
記憶が、何年分も、一瞬で逆流する。
「最初に分裂したのは、実験じゃない。俺自身の“望み”だった」
「俺は、自分から逃げたかった。仕事の責任も、家庭の崩壊も、人格の歪みも——全部」
「だから“もう一人”に押しつけた。完璧な俺を演じるために、汚れた半身をつくった」
だが——
「その“もう一人”こそが、愛され、信頼され、生きていた。俺以上に、俺だった」
—
山田は、床に倒れ込みながら、嗤った。
「皮肉だな。結局……殺したのは、俺じゃない。奪ったのも、俺じゃない。」
最終章:どちらが本物か
目を覚ましたとき、山田は職場のロッカー室にいた。
夜は明けていた。いつも通りの朝。いつも通りの音、匂い。だが、その「いつも」は、どこかよそよそしい。
鏡の中の自分に違和感を覚える。顔のパーツは同じだ。だが、“表情”がわからない。喜びも、悲しみも、怒りも、何ひとつ感覚として湧いてこない。
コーヒーを口にする。好きだったはずの味が、妙に苦い。いや、“苦すぎる”。
作業着に袖を通しながら、山田は思う。
「今の自分は、どっちだ?」
あの日、自分は“統合”を選んだ。 しかし本当に“統合”されたのか?
記憶は戻っている。だが、それらの記憶に感情が伴わない。
“彼”の記憶か? “俺”の記憶か?
タイムカードを押すとき、誰かが背中越しに言った。
「……最近、ちょっと雰囲気変わりましたね」
山田は笑おうとした。だが、頬が引きつった。
そしてポケットの中に、折りたたまれたメモがあった。
「この一日は、繰り返される」
彼はそっと、それを丸めてゴミ箱に投げ入れた。
——もう、“一人の山田”でいい。
この物語は、現実と似て非なる「もしも」の世界を描いたフィクションです。登場する人物や出来事は、すべて想像に基づくものです。
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