「君とは婚約破棄だ」と仰いますが、国の実務は全て私がやっていたのをお忘れですか?~追放された万能令嬢、冷徹辺境伯に才能ごと溺愛される~

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第10話 ほんの少し片付けただけで、神と崇められまして

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ジルヴェスター様と「ドレスを買いに行く」という約束をしたその日の午後。
城の正面玄関には、王家御用達と見紛うばかりの豪奢な馬車が横付けされていた。
漆塗りの車体に、ハイゼンベルク公爵家の紋章である「氷狼」の銀細工が施されている。

「さあ、乗ってくれ、リーゼロット」

エスコートしてくださるジルヴェスター様は、外出用のダークグレーのロングコートを羽織り、首元には私が選んだ紺色のクラバットを巻いている。
その姿は、絵画から抜け出してきたかのように様になっていて、控えているメイドたちが頬を染めて見惚れているのが分かった。

「ありがとうございます」

手を借りて馬車に乗り込むと、内装もまた驚くほど豪華だった。
深紅のベルベットの座席、足元には毛足の長い絨毯。
そして、ほんのりと香る柑橘系の香水。

「街までは三十分ほどだ。雪道だが、この馬車には揺れ防止の魔道具が組み込まれているから、酔うことはないはずだ」
「魔道具まで……! さすがは技術大国シルヴァーナですね」

私が感心していると、ジルヴェスター様は少し誇らしげに、しかし照れくさそうに言った。

「私が開発に出資したんだ。……君が快適なら、投資した甲斐があった」

馬車が滑るように動き出す。
窓の外には、見渡す限りの銀世界が広がっていた。
城下町へ続く街道の両脇には、雪を被った針葉樹林が続き、その美しさに目を奪われる。

「寒くはないか?」
「はい、この馬車の中はとても暖かいので」
「ならいい。……だが、念のため」

ジルヴェスター様はそう言うと、隣に座っている私の手をそっと握り、自身のコートのポケットの中に入れた。
ポケットの中は彼の体温で温められていて、カイロのように心地よい。

「えっ、あの、閣下……?」
「手袋をしていても指先は冷えるだろう。こうしていれば確実だ」

彼は平然と言ってのけ、窓の外を眺め始めた。
握られた手は大きく、力強い。
私は赤くなる顔を隠すように、反対側の窓を見た。
この国の公爵様は、スキンシップのハードルが異常に低いのか、それとも私が免疫がなさすぎるのか。
心臓がうるさくて、景色を楽しむどころではなかった。

   * * *

ハイゼンベルク領の城下町は、活気に満ちていた。
雪国特有の三角屋根の家々が並び、煙突からは白い煙が立ち上っている。
通りは綺麗に除雪され、行き交う人々は厚手のコートに身を包みながらも、笑顔で談笑していた。

「皆さん、楽しそうですね」
「ああ。今年は魔獣の被害も少ないし、何より君が整理してくれた通商条約のおかげで、南方の果物や香辛料が安く入るようになったからな。市場が潤っているんだ」

馬車が高級ブティックが並ぶ通りで止まった。
『ラ・ネージュ』という看板の、洗練された店構えの前だ。

「ここだ。領内で一番腕の良い仕立て屋がいる」

店に入ると、マダムといった風情の女性店主が飛び出してきた。

「まあ! 公爵閣下! 本日はどのようなご用件で……あら?」
店主の視線が、隣に立つ私に向けられた。
「そちらの可愛らしいお嬢様は?」

「私の……大切な客人と、新しい補佐官だ。彼女に似合うドレスを見繕ってほしい。普段着から夜会用まで、一通りな」
「かしこまりました! さあさあ、こちらへどうぞ!」

私は試着室へと連行され、着せ替え人形状態となった。
次々と運ばれてくるドレスたち。
どれも生地が上質で、デザインも洗練されている。
シルヴァーナの流行は、シンプルながらもシルエットの美しさを重視するもののようだ。装飾過多だった祖国の流行よりも、私好みだった。

「どうだ、リーゼロット?」

カーテンを開けると、ジルヴェスター様がソファに座って待っていた。
私が着ているのは、深いモスグリーンのベルベットのドレス。
首元と袖口に白いレースがあしらわれている。

ジルヴェスター様は目を見開き、しばらく言葉を失っていたが、やがてほうっとため息をついた。

「……森の妖精かと思った」
「大袈裟です」
「いや、本当だ。君の銀髪とよく合っている。……店主、これも包んでくれ」
「かしこまりました!」

「あ、あの、値段も見ずに……!」
私が止めようとするが、彼は聞く耳を持たない。

次は、淡いラベンダー色のドレス。
「……雪解けの花のようだ。これもだ」

その次は、シックなボルドー色のドレス。
「……知的で大人っぽいな。君の雰囲気にぴったりだ。これも」

「ちょ、ちょっと待ってください閣下! そんなにたくさん着られません!」
「何を言う。一週間は七日あるんだぞ? 毎日違う色を楽しみたいだろう」
「楽しみません! 制服が一着あれば十分です!」

私が抗議すると、ジルヴェスター様は真剣な顔で首を振った。

「駄目だ。私の補佐官がいつも同じ服では、領の品位に関わる。それに……」
彼は少し声を落とし、私の耳元で囁いた。

「私が、君のいろいろな姿を見たいんだ」

その低音ボイスと甘い言葉のコンボに、私は撃沈した。
結局、外出着を五着、部屋着を三着、さらに靴や鞄、帽子に至るまで、山のような買い物をすることになってしまった。

「お支払いはこちらで」
ジルヴェスター様がサインをする。その金額を見て、私は目眩がした。
「……一生かけてお返しします」
「返す必要はない。その分、私のそばで働いてくれればいい」

彼は満足げに微笑み、店の外へ出た。
大量の荷物は、後で城へ届けられることになった。

「さて、次は甘いものでも食べに行こうか。評判のカフェがあるんだ」
「はい……もう、閣下にお任せします」

私は諦めて、彼のエスコートに身を委ねた。
冷たい風が吹いたが、隣にいる彼の存在が温かくて、寒さを感じることはなかった。

   * * *

夕刻、私たちは城へ戻った。
充実した(そして散財した)半日だった。
カフェで食べた温かいアップルパイの味が、まだ口の中に残っている。

「楽しかったか?」
馬車を降りる際、ジルヴェスター様が尋ねてきた。
「はい、とても。……こんなに穏やかな休日は、生まれて初めてかもしれません」
「そうか。それはよかった」

私たちが玄関ホールに入ると、そこには異様な光景が広がっていた。
セバスチャンを先頭に、数十人の男たちが整列して待ち構えていたのだ。
彼らは皆、文官風の服を着ており、その表情は一様に緊張し、目には涙すら浮かべている者もいる。

「……なんだ? 何かあったのか?」
ジルヴェスター様が訝しげに尋ねる。
私も身構えた。
まさか、アークライト王国から刺客でも来たのか?

すると、文官たちの中心にいた初老の男性――おそらく文官長と思われる人物が、震える足で前に進み出た。
その手には、私が今朝処理した『却下・再提出』のスタンプが押された書類の束が握りしめられている。

「あ、あの……」
文官長が私を見た。
私は冷や汗をかいた。
やっぱり、やりすぎたか。
よそ者が勝手に書類を突き返したことに、腹を立てているのだろう。

「申し訳ありません! 私が勝手な判断で……!」
私が謝罪しようと頭を下げかけた、その時だった。

「おおおお、女神様ぁぁぁーーッ!!」

文官長が叫び、その場に崩れ落ちるように平伏した。
それに続き、後ろにいた数十人の文官たちも、一斉に地面に頭を擦り付けた。

「女神様! 我らが救世主よ!」
「ありがとう……ありがとうございます……!」
「この『神の添削』に、我々は魂を救われました!」

「……は?」
私も、ジルヴェスター様も、ぽかんと口を開けた。

文官長が涙ながらに顔を上げ、訴えた。

「閣下! そしてこちらのリーゼロット様! 我々は長年、苦しんでおりました! 閣下が優しすぎるあまり、どんな無理難題な陳情も『検討する』と仰って引き受けてしまうことに!」

「え、あ、うむ……」
ジルヴェスター様が気まずそうに目を逸らす。

「現場からは『予算が足りない』『人員がいない』と悲鳴が上がっておりましたが、閣下の決定を覆すわけにもいかず、我々は徹夜で帳尻合わせをしておりました……! しかし!」

文官長は、私のスタンプが押された書類を高々と掲げた。

「この書類! 『却下:理由・優先順位低、現場判断で処理せよ』! この一言が、どれほど我々の心を軽くしたか! 『断ってもいいんだ』という当たり前の真理を、貴女様は教えてくださいました!」

「そ、そうですか……それはよかったです」

「それだけではありません! こちらの『再提出』のメモ! 『計算ミスあり。3行目の係数が古い』……! こんな細かいミスまで一瞬で見抜かれるとは! 貴女様の眼は千里眼ですか!? それとも鑑定魔法ですか!?」

「いえ、ただの暗算ですが……」

「暗算でこれが!? ひえええ、まさに計算の神……!」

文官たちは興奮のあまり、トランス状態に陥っているようだった。
どうやら、彼らはジルヴェスター様の「無茶振り(善意)」に長年耐え忍んできた社畜戦士たちだったらしい。
そこに現れた私が、バッサバッサと案件を切り捨て、交通整理をしたことで、彼らの業務負担が激減し、感動のあまり崇拝対象になってしまったようだ。

「リーゼロット様! どうか我々をご指導ください!」
「一生ついていきます!」
「私の作成したグラフを見てください!」

ワラワラと集まってくるおじ様たちに、私はたじろいだ。
「あ、あの、落ち着いてください……!」

すると、それまで呆然としていたジルヴェスター様が、咳払いをして前に出た。
「コホン! ……皆の者、静まれ」

主君の一声で、場が静まり返る。
ジルヴェスター様は、私の肩を抱き寄せ、彼らに向かって宣言した。

「皆の気持ちは分かった。……私も反省している。私の至らなさで、皆に苦労をかけていたようだな」
「い、いえ! 閣下の慈悲深さは尊敬しております! ただ、物理的限界が……」

「うむ。そこでだ。……ここにいるリーゼロット嬢を、本日付で私の『筆頭執務補佐官』に任命する」

「おおーッ!」と歓声が上がる。

「彼女は私の全権代理として、内政・財務の監督を行う。彼女の言葉は私の言葉と思え。……そして、彼女の決定に異論がある者は、私を通して申し立てよ。まあ、私が彼女に勝てるとは思わんがな」

ジルヴェスター様が茶目っ気たっぷりに言うと、ドッと笑いが起きた。
城の空気が、一気に明るくなった気がした。

「リーゼロット様、よろしくお願いいたします!」
「我らが女神様、万歳!」

私は胸が熱くなった。
前の職場(王城)では、「可愛げがない」「細かい」「うるさい」と疎まれてきた私の能力。
それがここでは、「神」とまで崇められ、感謝されている。
自分の居場所は、ここにあったのだ。

「……ふつつか者ですが、皆様のお役に立てるよう、全力を尽くします」
私が深々と頭を下げると、割れんばかりの拍手が巻き起こった。

その様子を横目で見ていたジルヴェスター様が、ボソリと呟いた。
「……人気者だな。少し嫉妬する」
「え?」
「いや、なんでもない。……君が受け入れられて、私は嬉しいよ」

彼は優しく私の頭を撫でた。
その手つきは、相変わらず不器用で、とてつもなく温かかった。

   * * *

【一方その頃】
アークライト王国、王城。

第一王子アレクの執務室は、どんよりとした空気に包まれていた。

「くそっ、どうなっているんだ! なんでこんなに書類がある!」

アレク王子は、机の上に積み上がった書類の山を前に叫び声を上げていた。
かつてリーゼロットがいた頃は、朝起きれば綺麗に片付いていた机。
それが今では、雪だるま式に増え続ける未決裁書類で埋もれている。

「殿下、こちらの治水工事の予算案、期限が過ぎております! 現場監督が怒鳴り込んできています!」
「殿下、隣国の使者との会談ですが、資料が白紙です! 何を話せばいいのですか!?」
「殿下! 王都の地下水路から異臭がすると苦情が殺到しています!」

側近のカイルたちが、次々とトラブルを持ち込んでくる。
しかし、彼らもまた実務能力が低いため、解決策を提示できず、ただ報告するだけだ。

「うるさい! いちいち僕に聞くな! お前たちでなんとかしろ!」
アレクが怒鳴り散らす。

「ですが殿下、決裁印がないと予算が下りません!」
「じゃあ印鑑を貸せ! 僕が押す!」
「いえ、中身を確認しないと……後で責任問題に……」

「ええい、面倒くさい! リーゼロットはどうしたんだ! あいつなら勝手にやっていただろう!」

アレクが叫んだその名前。
部屋が一瞬静まり返る。
彼らは自らの手で、その「勝手にやってくれていた」有能な婚約者を追放してしまったのだ。

「……申し上げます」
カイルが青ざめた顔で進み出た。
「早馬が戻りました。ハイゼンベルク公爵からの返信です」

「おお! やっとか! であの女は? いつ戻る? 泣いて喜んでいただろう?」
アレクが期待に目を輝かせる。

カイルは震える手で、一通の手紙を差し出した。
それは、ハイゼンベルク公爵家の封蝋ではなく、リーゼロット個人の筆跡で書かれた簡素な手紙だった。

「読んでみろ」
「は、はい……」

カイルは喉を鳴らし、読み上げた。

『拝啓、元殿下。
 私は現在、有能で美形な上司の下で、かつてないほど充実した日々を送っております。
 温かい食事、清潔な寝床、そして私の能力を正当に評価してくれる仲間たちに囲まれ、これ以上の幸せはありません。
 よって、貴国への帰還は断固拒否いたします。
 なお、私の私物であった業務効率化マニュアル(青いファイル等)を破棄された件につきましては、深く同情いたします。
 あれがないと、今頃結界の維持や予算管理に支障が出ている頃かと思いますが……まあ、自業自得ですね。
 二度と連絡しないでください。
 
 追伸:ミナ様によろしく。彼女の可愛らしい笑顔で、国が守れるといいですね。
 
 リーゼロット・アークライト(現・ハイゼンベルク公爵家筆頭執務補佐官)』

読み終えたカイルの手から、手紙がハラリと落ちた。

「…………は?」

アレクは呆然としていた。
帰ってこない?
幸せ?
しかも、他国の公爵の「筆頭執務補佐官」だと?

「ふ、ふざけるなああああっ!」

アレクは近くにあった花瓶を壁に投げつけた。
ガシャン! と激しい音が響く。

「あいつは僕の女だぞ! 生意気な口を利くな! 美形な上司だと? あの『氷の辺境伯』がか!? あんな冷血漢のどこがいいんだ!」

「あ、アレク様ぁ……怖いですぅ……」
ソファで退屈そうにしていたミナが、ビクッとして声を上げた。
普段ならすぐに駆け寄って慰めるアレクだが、今はそれどころではなかった。

「殿下……手紙に『青いファイル』とありましたが……まさか、あの日捨てた……?」
カイルがおずおずと尋ねる。

「知らん! ゴミ箱の中なんか覚えてない!」

「そ、それが結界維持のマニュアルだったとしたら……」
側近たちの顔色が土気色に変わっていく。

ドンッ!
その時、地響きのような音が城を揺らした。

「な、なんだ!?」

窓の外を見ると、王都の空にかかっていた薄い光の膜――結界が、バチバチと音を立てて明滅し、一部が黒く染まり始めていた。

「け、結界に穴が!?」
「魔獣が! 下水道から魔獣が這い出してきています!」
警備兵の悲鳴が廊下から聞こえてくる。

「どうするんですか殿下!?」
「僕に聞くな! リーゼロットを呼べ! 今すぐ連れ戻せ!」

パニックに陥る執務室。
しかし、彼らを助ける「神」はもういない。
彼女は遠い北の地で、新しい主君に溺愛されながら、優雅にお茶を飲んでいるのだから。

続く
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