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第26話 第一王子と偽聖女の末路
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ノースエンドの城で、私たちが新婚生活の甘い(主にアレクセイ様の過剰なスキンシップによる)日々に浸っていた頃。
遠く離れた地では、かつて私を陥れ、国を傾かせた二人の人物が、それぞれの「新しい人生」を歩み始めていた。
これは、アレクセイ様が放った密偵「影の狼」から送られてきた、詳細な観察報告書に基づく物語である。
* * *
王都から北西へ馬車で十日。
断崖絶壁の上に建つ、古びた石造りの建物があった。
「懺悔の修道院」。
そこは、世俗との関わりを断ち、過酷な労働と祈りによって己の罪を清めるための場所であり、実質的な王族・貴族向けの流刑地だった。
「ふざけるな! なんでこの俺が、こんな泥まみれにならなきゃいかんのだ!」
早朝の畑に、情けない怒鳴り声が響き渡った。
声の主は、かつての第一王子、カイル・サンクチュアリだ。
いや、今の彼はただの「修道士見習いカイル」に過ぎない。
彼の姿は、王都にいた頃の煌びやかな面影を完全に失っていた。
金髪は短く刈り込まれ(シラミ対策だそうだ)、着ているのは肌触りの悪い麻の粗末な修道服。
足元は泥だらけのサンダル履きだ。
「おい、そこの新人! 手が止まっているぞ!」
監視役の屈強な修道士が、容赦なくカイルの背中を竹刀で叩いた。
「いっ、痛い! 無礼者! 俺を誰だと思っている! 元第一王子だぞ!」
「ここでは身分など関係ない。あるのは『働く者』か『食わぬ者』か、それだけだ」
修道士は冷徹に言い放ち、鍬(くわ)をカイルの前に突き刺した。
「今日のノルマは、この荒地を耕し、ジャガイモの植え付けを終わらせることだ。終わらなければ夕食はないと思え」
「なっ……! こ、こんな広大な土地を一人でか!? 魔法を使わせろ! 俺の火魔法なら一瞬で……」
「ここは魔封じの結界内だ。魔法など使えん。己の筋肉と汗で償え」
修道士は鼻で笑い、去っていった。
取り残されたカイルは、呆然と荒れ果てた大地を見つめた。
土は硬く、石ころだらけだ。
王都の王宮庭園のような、手入れされたふかふかの土とは違う。
「くそっ……くそっ……!」
カイルは震える手で鍬を握り、地面に振り下ろした。
カキンッ!
石に当たって火花が散り、衝撃が腕に走る。
彼の白い手には、すでに無数の豆ができ、いくつかは潰れて血が滲んでいた。
「痛い……。なんで俺が……」
涙が滲む。
ほんの数ヶ月前までは、指一本動かすだけで何でも手に入った。
食事は最高級のフルコース、衣服はシルク、寝床は天蓋付きのベッド。
それが今では、カビの生えた黒パンと、薄いスープ、そして藁のベッドだ。
「エミリア……」
ふと、元婚約者の名前が口をついて出た。
彼女は、こんな土を相手に毎日祈っていたのか。
『土が冷たい』『膝が痛い』。
かつて彼女がこぼしていた言葉を、カイルは「甘えだ」と切り捨てていた。
だが、実際に自分が土に向き合ってみて初めて、その過酷さを知った。
「……あいつ、こんなに硬い土を相手にしてたのかよ」
カイルは鍬を振るった。
一度、二度、三度。
全身が悲鳴を上げる。腰が砕けそうだ。
それでも、手を止めれば食事がもらえない。
彼は必死に、無様に、泥にまみれて鍬を振るい続けた。
数時間後。
ようやく一列だけ耕し終えたカイルは、地面に大の字になって倒れ込んだ。
空は青く、雲が流れていく。
「……腹減った」
昼食の時間になり、配給されたのは、塩茹でしただけのジャガイモと水だった。
以前のカイルなら、豚のエサだと皿ごと投げ捨てていただろう。
だが、今の彼は、泥だらけの手でジャガイモを掴み、貪るようにかじりついた。
「……ッ」
味がした。
何の変哲もない、ただの芋だ。
バターもソースもかかっていない。
なのに、噛み締めるたびに、素朴な甘みが口いっぱいに広がる。
「……うまい」
カイルは目を見開いた。
王都で食べていた高級料理よりも、何倍も美味しく感じる。
それは、彼が初めて「自分の労働の対価」として得た食事だったからだ。
「そうか……。エミリアが言っていたのは、これか」
『皆さんが一生懸命育ててくれたお野菜は、とても美味しいんです』
彼女の笑顔が脳裏に蘇る。
あの時の自分は、それを「貧乏くさい」と嘲笑った。
だが、今なら分かる。
作物を育てる労力、土の重み、そして収穫の喜び。
それを知らずに、ただ消費するだけだった自分がいかに空虚だったか。
「……俺は、馬鹿だったな」
カイルはジャガイモを握りしめ、ポロポロと涙を流した。
失ったものは戻らない。
王位も、エミリアも、二度と手に入らない。
だが、土の味を知った今の彼は、以前の彼よりも少しだけ、人間らしい顔をしていた。
「おい新人! 休憩は終わりだ! 午後は草むしりだ!」
「……へいへい、今行きますよ」
カイルは涙を拭い、立ち上がった。
その背中はまだ頼りないが、泥にまみれた足取りは、かつてよりもしっかりと地を踏みしめていた。
* * *
一方、王都の貧民街の近くにある「静寂の孤児院」。
ここは、身寄りのない子供たちや、罪を犯した女性たちが更生のために働く施設だ。
かつて「稀代の聖女(自称)」として持て囃されたソフィア・ローゼンバーグは、ここにいた。
「ちょっとソフィア! 洗濯物が溜まってるわよ! 早くしなさい!」
「はいはい、分かってますよ……」
ソフィアは山のようなシーツを抱え、井戸端へと向かっていた。
彼女の姿もまた、劇的に変わっていた。
自慢の銀髪は後ろで無造作に束ねられ、化粧っ気のない顔には疲労の色が濃い。
手は荒れ、爪は短く切られている。
着ているのは、継ぎ接ぎだらけのエプロンドレスだ。
「冷たっ……!」
井戸から汲み上げた水は、骨まで凍みるほど冷たい。
洗濯板にシーツを押し付け、固形石鹸でゴシゴシと擦る。
かつては魔法一つで汚れを落としていた(というか、汚れたら捨てていた)彼女にとって、これは苦行以外の何物でもなかった。
「なんで私がこんなこと……。私の手は、王子様に愛されるための手なのに……」
ブツブツと文句を言いながらも、手は休めない。
休めば、孤児院の寮長である「鬼ババア(ソフィア命名)」から雷が落ちるからだ。
「おーい、魔女おばさーん!」
背後から、子供たちの声がした。
泥だらけのボールを持った男の子たちが、ニヤニヤしながら近づいてくる。
「誰が魔女おばさんよ! 私はまだ十七歳よ! お姉さんと言いなさい!」
「ケッ、元偽聖女のくせにー! 魔法使ってみろよー! キラキラ出してみろよー!」
子供たちは容赦がない。
ソフィアの過去を知っている彼らは、事あるごとに彼女をからかってくる。
ソフィアは唇を噛み締めた。
今の彼女には、もう魔法は使えない。
魔力回路は焼き切れ、あの「原初の種子」事件以来、小さな光一つ灯すことすらできない「ただの人」になってしまったのだ。
「……うるさいわね! あっち行ってなさい!」
「やーい、無能ー! 役立たずー!」
子供たちが石を投げてくる。
小石がソフィアの肩に当たり、鈍い痛みが走る。
「っ……!」
ソフィアはその場にうずくまった。
悔しい。悲しい。
かつては自分がエミリアに向けていた言葉が、今は自分に返ってきている。
因果応報。
その言葉の意味を、嫌というほど味わっていた。
「こら! お前たち、何をしている!」
寮長の怒鳴り声が響き、子供たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
寮長は太った腕を組み、うずくまるソフィアを見下ろした。
「大丈夫かい、ソフィア」
「……平気です。慣れましたから」
「そうかい。……だが、いつまでもメソメソしてんじゃないよ。洗濯が終わったら、次は食堂の床磨きだ」
寮長は厳しく言い放ち、去っていった。
ソフィアはため息をつき、再び洗濯に取り掛かった。
その日の夕方。
食堂の掃除を終えたソフィアは、疲れ果ててベンチに座り込んでいた。
夕食の支度の匂いが漂ってくる。
今日のメニューは、野菜屑と麦のお粥だ。
「……お腹空いた」
ノースエンドで食べた、あの美味しいスープが忘れられない。
エミリアが「泥まみれになって働いた後のご飯は美味しい」と言っていた言葉が、呪いのように頭を回る。
「あのね、おねえちゃん」
不意に、服の裾を引かれた。
見ると、小さな女の子が立っていた。
まだ三歳くらいの、汚れた服を着た孤児だ。
手には、萎れかけたタンポポの花を一輪持っている。
「これ、あげる」
「……は?」
「さっき、おねえちゃんが転んだとき、痛そうだったから。……いたいの、とんでけ」
女の子はタンポポを差し出し、無邪気に笑った。
ソフィアは呆然とした。
今まで、彼女に貢ぎ物を持ってくる人間はたくさんいた。
宝石、ドレス、高級菓子。
それらは全て、彼女の「聖女」という地位や、美貌に対する対価だった。
だが、この薄汚れたタンポポは違う。
何の力もない、ただ掃除をしていただけの自分に向けられた、純粋な気遣いだった。
「……なによ、これ。ゴミじゃない」
ソフィアは悪態をついたが、その声は震えていた。
受け取ったタンポポを持つ手が、微かに温かい。
「ありがとう、おねえちゃん。……おそうじ、きれいにしてくれて」
女の子はニコニコして、走り去っていった。
ソフィアの手元には、黄色い花だけが残された。
「……バカみたい」
ソフィアの目から、ポロリと涙がこぼれた。
宝石よりも価値のない花。
なのに、なぜか胸が締め付けられるほど熱い。
「私、空っぽだったんだ……」
魔法がなくても、着飾っていなくても。
誰かに「ありがとう」と言われることが、こんなに満たされることだなんて知らなかった。
彼女はタンポポをポケットにしまい、涙を袖で乱暴に拭った。
「……ふん。床磨きくらい、完璧にやってやるわよ。元聖女を舐めないでよね」
ソフィアは立ち上がった。
その顔はまだ涙でぐしゃぐしゃだったが、瞳の中の濁りは少しだけ消えていた。
彼女の罪は重く、償いの日々は果てしなく長い。
けれど、彼女もまた、少しずつ前を向いて歩き始めていた。
* * *
ノースエンド城、執務室。
「……と、いうことらしい」
アレクセイ様は報告書を読み終え、テーブルに置いた。
私はそれを聞き、深く息を吐いた。
「そうですか。……二人とも、頑張っているんですね」
「『頑張っている』という表現が正しいかは分からんがな。少なくとも、生きて罪を償ってはいるようだ」
アレクセイ様は意地悪く笑ったが、その目にはかつてのような鋭い殺気はなかった。
彼らを許したわけではないけれど、もう関心を持つ必要もない「過去の人々」として処理したようだ。
「カイルはジャガイモの味に目覚め、ソフィアは掃除のプロになりつつある。……まあ、王族や貴族として生きるより、そっちの方が性に合っていたのかもしれん」
「ふふ、そうかもしれませんね」
私は窓の外を見た。
ノースエンドの空は今日も青く澄み渡っている。
遠く離れた彼らの空も、繋がっているのだろうか。
「エミリア」
「はい」
「彼らのことは、もういい。君は君の幸せだけを考えていればいい」
アレクセイ様が後ろから抱きしめてくる。
彼の体温と、優しい匂い。
「はい。私は今、とっても幸せです」
「そうか。……なら、もっと幸せになろうか」
彼が私の首筋にキスを落とす。
執務室だというのに、甘い雰囲気が漂い始める。
「あ、アレクセイ様……まだお仕事が……」
「休憩だ。……報告書を読んだら、君に触れたくなった」
「どんな因果関係ですか……」
「元婚約者の不幸な話を聞いたら、現婚約者(私)の優秀さと愛の深さを再確認したくなったんだ」
屁理屈だ。
でも、そんな屁理屈さえも愛おしい。
「分かりました。……少しだけですよ?」
「善処する」
私たちは笑い合い、口づけを交わした。
カイルやソフィアの物語は、彼ら自身が紡いでいくしかない。
そして私の物語は、この最愛の人と共に、これからも続いていくのだ。
報告書は引き出しの奥深くにしまわれた。
もう二度と、取り出すことはないだろう。
それは一つの時代の終わりであり、本当の意味での「ハッピーエンド」の証でもあった。
* * *
その数ヶ月後。
ノースエンドの市場に、珍しい野菜が並んだという噂が流れた。
王都方面から行商人が持ち込んだという、泥付きのジャガイモ。
形は不揃いで武骨だが、味は驚くほど濃厚で美味しいらしい。
その袋には、下手くそな字で『懺悔芋(ざんげいも)』と書かれていたとかいないとか。
私はその話を聞いて、夕食のメニューをポテトサラダにすることに決めた。
もちろん、アレクセイ様には内緒で。
彼が知ったら、「そんな芋は廃棄だ!」と嫉妬して怒り出しそうだから。
でも、遠い空の下で汗を流している誰かに、心の中で小さく「ごちそうさま」と言うくらいは、許されるはずだ。
物語の登場人物たちは、それぞれの場所で、それぞれの花を咲かせようとしていた。
私の花は、ここノースエンドで、大輪の笑顔となって咲き誇っている。
続く
遠く離れた地では、かつて私を陥れ、国を傾かせた二人の人物が、それぞれの「新しい人生」を歩み始めていた。
これは、アレクセイ様が放った密偵「影の狼」から送られてきた、詳細な観察報告書に基づく物語である。
* * *
王都から北西へ馬車で十日。
断崖絶壁の上に建つ、古びた石造りの建物があった。
「懺悔の修道院」。
そこは、世俗との関わりを断ち、過酷な労働と祈りによって己の罪を清めるための場所であり、実質的な王族・貴族向けの流刑地だった。
「ふざけるな! なんでこの俺が、こんな泥まみれにならなきゃいかんのだ!」
早朝の畑に、情けない怒鳴り声が響き渡った。
声の主は、かつての第一王子、カイル・サンクチュアリだ。
いや、今の彼はただの「修道士見習いカイル」に過ぎない。
彼の姿は、王都にいた頃の煌びやかな面影を完全に失っていた。
金髪は短く刈り込まれ(シラミ対策だそうだ)、着ているのは肌触りの悪い麻の粗末な修道服。
足元は泥だらけのサンダル履きだ。
「おい、そこの新人! 手が止まっているぞ!」
監視役の屈強な修道士が、容赦なくカイルの背中を竹刀で叩いた。
「いっ、痛い! 無礼者! 俺を誰だと思っている! 元第一王子だぞ!」
「ここでは身分など関係ない。あるのは『働く者』か『食わぬ者』か、それだけだ」
修道士は冷徹に言い放ち、鍬(くわ)をカイルの前に突き刺した。
「今日のノルマは、この荒地を耕し、ジャガイモの植え付けを終わらせることだ。終わらなければ夕食はないと思え」
「なっ……! こ、こんな広大な土地を一人でか!? 魔法を使わせろ! 俺の火魔法なら一瞬で……」
「ここは魔封じの結界内だ。魔法など使えん。己の筋肉と汗で償え」
修道士は鼻で笑い、去っていった。
取り残されたカイルは、呆然と荒れ果てた大地を見つめた。
土は硬く、石ころだらけだ。
王都の王宮庭園のような、手入れされたふかふかの土とは違う。
「くそっ……くそっ……!」
カイルは震える手で鍬を握り、地面に振り下ろした。
カキンッ!
石に当たって火花が散り、衝撃が腕に走る。
彼の白い手には、すでに無数の豆ができ、いくつかは潰れて血が滲んでいた。
「痛い……。なんで俺が……」
涙が滲む。
ほんの数ヶ月前までは、指一本動かすだけで何でも手に入った。
食事は最高級のフルコース、衣服はシルク、寝床は天蓋付きのベッド。
それが今では、カビの生えた黒パンと、薄いスープ、そして藁のベッドだ。
「エミリア……」
ふと、元婚約者の名前が口をついて出た。
彼女は、こんな土を相手に毎日祈っていたのか。
『土が冷たい』『膝が痛い』。
かつて彼女がこぼしていた言葉を、カイルは「甘えだ」と切り捨てていた。
だが、実際に自分が土に向き合ってみて初めて、その過酷さを知った。
「……あいつ、こんなに硬い土を相手にしてたのかよ」
カイルは鍬を振るった。
一度、二度、三度。
全身が悲鳴を上げる。腰が砕けそうだ。
それでも、手を止めれば食事がもらえない。
彼は必死に、無様に、泥にまみれて鍬を振るい続けた。
数時間後。
ようやく一列だけ耕し終えたカイルは、地面に大の字になって倒れ込んだ。
空は青く、雲が流れていく。
「……腹減った」
昼食の時間になり、配給されたのは、塩茹でしただけのジャガイモと水だった。
以前のカイルなら、豚のエサだと皿ごと投げ捨てていただろう。
だが、今の彼は、泥だらけの手でジャガイモを掴み、貪るようにかじりついた。
「……ッ」
味がした。
何の変哲もない、ただの芋だ。
バターもソースもかかっていない。
なのに、噛み締めるたびに、素朴な甘みが口いっぱいに広がる。
「……うまい」
カイルは目を見開いた。
王都で食べていた高級料理よりも、何倍も美味しく感じる。
それは、彼が初めて「自分の労働の対価」として得た食事だったからだ。
「そうか……。エミリアが言っていたのは、これか」
『皆さんが一生懸命育ててくれたお野菜は、とても美味しいんです』
彼女の笑顔が脳裏に蘇る。
あの時の自分は、それを「貧乏くさい」と嘲笑った。
だが、今なら分かる。
作物を育てる労力、土の重み、そして収穫の喜び。
それを知らずに、ただ消費するだけだった自分がいかに空虚だったか。
「……俺は、馬鹿だったな」
カイルはジャガイモを握りしめ、ポロポロと涙を流した。
失ったものは戻らない。
王位も、エミリアも、二度と手に入らない。
だが、土の味を知った今の彼は、以前の彼よりも少しだけ、人間らしい顔をしていた。
「おい新人! 休憩は終わりだ! 午後は草むしりだ!」
「……へいへい、今行きますよ」
カイルは涙を拭い、立ち上がった。
その背中はまだ頼りないが、泥にまみれた足取りは、かつてよりもしっかりと地を踏みしめていた。
* * *
一方、王都の貧民街の近くにある「静寂の孤児院」。
ここは、身寄りのない子供たちや、罪を犯した女性たちが更生のために働く施設だ。
かつて「稀代の聖女(自称)」として持て囃されたソフィア・ローゼンバーグは、ここにいた。
「ちょっとソフィア! 洗濯物が溜まってるわよ! 早くしなさい!」
「はいはい、分かってますよ……」
ソフィアは山のようなシーツを抱え、井戸端へと向かっていた。
彼女の姿もまた、劇的に変わっていた。
自慢の銀髪は後ろで無造作に束ねられ、化粧っ気のない顔には疲労の色が濃い。
手は荒れ、爪は短く切られている。
着ているのは、継ぎ接ぎだらけのエプロンドレスだ。
「冷たっ……!」
井戸から汲み上げた水は、骨まで凍みるほど冷たい。
洗濯板にシーツを押し付け、固形石鹸でゴシゴシと擦る。
かつては魔法一つで汚れを落としていた(というか、汚れたら捨てていた)彼女にとって、これは苦行以外の何物でもなかった。
「なんで私がこんなこと……。私の手は、王子様に愛されるための手なのに……」
ブツブツと文句を言いながらも、手は休めない。
休めば、孤児院の寮長である「鬼ババア(ソフィア命名)」から雷が落ちるからだ。
「おーい、魔女おばさーん!」
背後から、子供たちの声がした。
泥だらけのボールを持った男の子たちが、ニヤニヤしながら近づいてくる。
「誰が魔女おばさんよ! 私はまだ十七歳よ! お姉さんと言いなさい!」
「ケッ、元偽聖女のくせにー! 魔法使ってみろよー! キラキラ出してみろよー!」
子供たちは容赦がない。
ソフィアの過去を知っている彼らは、事あるごとに彼女をからかってくる。
ソフィアは唇を噛み締めた。
今の彼女には、もう魔法は使えない。
魔力回路は焼き切れ、あの「原初の種子」事件以来、小さな光一つ灯すことすらできない「ただの人」になってしまったのだ。
「……うるさいわね! あっち行ってなさい!」
「やーい、無能ー! 役立たずー!」
子供たちが石を投げてくる。
小石がソフィアの肩に当たり、鈍い痛みが走る。
「っ……!」
ソフィアはその場にうずくまった。
悔しい。悲しい。
かつては自分がエミリアに向けていた言葉が、今は自分に返ってきている。
因果応報。
その言葉の意味を、嫌というほど味わっていた。
「こら! お前たち、何をしている!」
寮長の怒鳴り声が響き、子供たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
寮長は太った腕を組み、うずくまるソフィアを見下ろした。
「大丈夫かい、ソフィア」
「……平気です。慣れましたから」
「そうかい。……だが、いつまでもメソメソしてんじゃないよ。洗濯が終わったら、次は食堂の床磨きだ」
寮長は厳しく言い放ち、去っていった。
ソフィアはため息をつき、再び洗濯に取り掛かった。
その日の夕方。
食堂の掃除を終えたソフィアは、疲れ果ててベンチに座り込んでいた。
夕食の支度の匂いが漂ってくる。
今日のメニューは、野菜屑と麦のお粥だ。
「……お腹空いた」
ノースエンドで食べた、あの美味しいスープが忘れられない。
エミリアが「泥まみれになって働いた後のご飯は美味しい」と言っていた言葉が、呪いのように頭を回る。
「あのね、おねえちゃん」
不意に、服の裾を引かれた。
見ると、小さな女の子が立っていた。
まだ三歳くらいの、汚れた服を着た孤児だ。
手には、萎れかけたタンポポの花を一輪持っている。
「これ、あげる」
「……は?」
「さっき、おねえちゃんが転んだとき、痛そうだったから。……いたいの、とんでけ」
女の子はタンポポを差し出し、無邪気に笑った。
ソフィアは呆然とした。
今まで、彼女に貢ぎ物を持ってくる人間はたくさんいた。
宝石、ドレス、高級菓子。
それらは全て、彼女の「聖女」という地位や、美貌に対する対価だった。
だが、この薄汚れたタンポポは違う。
何の力もない、ただ掃除をしていただけの自分に向けられた、純粋な気遣いだった。
「……なによ、これ。ゴミじゃない」
ソフィアは悪態をついたが、その声は震えていた。
受け取ったタンポポを持つ手が、微かに温かい。
「ありがとう、おねえちゃん。……おそうじ、きれいにしてくれて」
女の子はニコニコして、走り去っていった。
ソフィアの手元には、黄色い花だけが残された。
「……バカみたい」
ソフィアの目から、ポロリと涙がこぼれた。
宝石よりも価値のない花。
なのに、なぜか胸が締め付けられるほど熱い。
「私、空っぽだったんだ……」
魔法がなくても、着飾っていなくても。
誰かに「ありがとう」と言われることが、こんなに満たされることだなんて知らなかった。
彼女はタンポポをポケットにしまい、涙を袖で乱暴に拭った。
「……ふん。床磨きくらい、完璧にやってやるわよ。元聖女を舐めないでよね」
ソフィアは立ち上がった。
その顔はまだ涙でぐしゃぐしゃだったが、瞳の中の濁りは少しだけ消えていた。
彼女の罪は重く、償いの日々は果てしなく長い。
けれど、彼女もまた、少しずつ前を向いて歩き始めていた。
* * *
ノースエンド城、執務室。
「……と、いうことらしい」
アレクセイ様は報告書を読み終え、テーブルに置いた。
私はそれを聞き、深く息を吐いた。
「そうですか。……二人とも、頑張っているんですね」
「『頑張っている』という表現が正しいかは分からんがな。少なくとも、生きて罪を償ってはいるようだ」
アレクセイ様は意地悪く笑ったが、その目にはかつてのような鋭い殺気はなかった。
彼らを許したわけではないけれど、もう関心を持つ必要もない「過去の人々」として処理したようだ。
「カイルはジャガイモの味に目覚め、ソフィアは掃除のプロになりつつある。……まあ、王族や貴族として生きるより、そっちの方が性に合っていたのかもしれん」
「ふふ、そうかもしれませんね」
私は窓の外を見た。
ノースエンドの空は今日も青く澄み渡っている。
遠く離れた彼らの空も、繋がっているのだろうか。
「エミリア」
「はい」
「彼らのことは、もういい。君は君の幸せだけを考えていればいい」
アレクセイ様が後ろから抱きしめてくる。
彼の体温と、優しい匂い。
「はい。私は今、とっても幸せです」
「そうか。……なら、もっと幸せになろうか」
彼が私の首筋にキスを落とす。
執務室だというのに、甘い雰囲気が漂い始める。
「あ、アレクセイ様……まだお仕事が……」
「休憩だ。……報告書を読んだら、君に触れたくなった」
「どんな因果関係ですか……」
「元婚約者の不幸な話を聞いたら、現婚約者(私)の優秀さと愛の深さを再確認したくなったんだ」
屁理屈だ。
でも、そんな屁理屈さえも愛おしい。
「分かりました。……少しだけですよ?」
「善処する」
私たちは笑い合い、口づけを交わした。
カイルやソフィアの物語は、彼ら自身が紡いでいくしかない。
そして私の物語は、この最愛の人と共に、これからも続いていくのだ。
報告書は引き出しの奥深くにしまわれた。
もう二度と、取り出すことはないだろう。
それは一つの時代の終わりであり、本当の意味での「ハッピーエンド」の証でもあった。
* * *
その数ヶ月後。
ノースエンドの市場に、珍しい野菜が並んだという噂が流れた。
王都方面から行商人が持ち込んだという、泥付きのジャガイモ。
形は不揃いで武骨だが、味は驚くほど濃厚で美味しいらしい。
その袋には、下手くそな字で『懺悔芋(ざんげいも)』と書かれていたとかいないとか。
私はその話を聞いて、夕食のメニューをポテトサラダにすることに決めた。
もちろん、アレクセイ様には内緒で。
彼が知ったら、「そんな芋は廃棄だ!」と嫉妬して怒り出しそうだから。
でも、遠い空の下で汗を流している誰かに、心の中で小さく「ごちそうさま」と言うくらいは、許されるはずだ。
物語の登場人物たちは、それぞれの場所で、それぞれの花を咲かせようとしていた。
私の花は、ここノースエンドで、大輪の笑顔となって咲き誇っている。
続く
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