日々の欠片

小海音かなた

文字の大きさ
上 下
355 / 366

12/21『とおいおと』

しおりを挟む
 時間でもないのに時を報せる鐘の音が聞こえる。
 人々が見上げると、撞木(しゅもく)から伸びる縄を持った動物が顔を見せた。
 逆行に照らされ、人の目には黒い影にしか見えないその生き物が声をあげた。
『私キツネ! 鐘撞きしたわ!』
「意外や意外」
 喋るキツネを目の当たりにして目を丸くして驚かせる人。
「恋しい、初々しいコ」
 瞳を輝かせる動物好きな人。
 反応は様々だ。
 いたずらっ子のキツネが人間の真似をしたがって鐘撞きしたのだが、事情を知らない働き人たちは正午の鐘と勘違いをし、我も我もと屋外へ出てきた。皆どこかウキウキと嬉しそうな顔付きだ。
 なんてったって今日は……
「昼メシの楽しめる日」
 なのだから。
 一人の声を皮切りに出るわ出るわ、希望の数々。最終的にひとつの店に落ち着いた。
「中崎屋の焼き魚!」
 その声を耳にした人々が楽しそうに会話する。どうやら長崎屋は魚介類が旨いらしい。
「イカ食べたかい?」
 その質問に頷いて、嬉しそうに答える。
「貝食べた貝と、イカ食べたイカ」
 我先にと目的地へ向かう人々を後目に、なにやら揉める人々がたむろしていた。
「しかし、私渡しました。和紙、タワシ、菓子」
「私タワシ渡したわ」
「確かに貸した」
「確かに、この八百屋のコに貸した」
 八百屋の店先で接客している娘を指さした。
 最初はシラを切っていた八百屋のコも、皆からの指摘に肩を落とした。
「私、負けましたわ」
 そうして、貸していた和紙とタワシと菓子を返してもらうと、人々は三々五々散っていった。
 昼飯を食べ終えた働き人たちは職場へ戻り、午後の仕事をこなし始める。しかし正午の鐘の音に時差があったため、いつにも増して“午後”が長い。
 就業の鐘の音を聞く頃には皆、腹ペコだ。
 夕飯は何にしようと、終業後の働き人が提案する。
「夜スキヤキするよ」
 誰かからスキヤキって何肉使うんだっけ? と疑問を投げられた。
「多分、豚?」
 自信なさげな回答に、皆が首を傾げる。どうせ買いに行くのだからと専門家に聞いてみたら、牛でも豚でも鶏でも、好きな肉でいいとのこと。さすが専門家。
「役に立った、肉屋」
 みなはご満悦だ。
 メニューが決まり、食べ終えたあとのシメを何にしようと相談中。
「うどん、パスタ、レンコン、レタス、パン。どう?」
「ん、どうしよう。よし、うどん」
 出汁が出たスキヤキの汁を吸ったうどんはさぞかし旨かろう。
 集まった人間でスキヤキを作りだすと、昼間に鐘を撞いていたキツネも、いい匂いに誘われてやってきた。
 せっかくだからと少し分けてやったら、たいそう喜んで家主に懐いた。
 追い返すのも可哀そうだと、部屋の片隅に座布団を敷き、寝床を作ってやったらキツネはそこへ丸くなって寝てしまった。
「ね。寝つきいいキツネね」
「寝息大きいね」
 フフッと笑いながら、スヤスヤ眠るキツネのコを見守る。
 寒い日は、人も動物も関係なく、暖かな食事と寝床が恋しいものだ。
しおりを挟む

処理中です...