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ライアルの転機
魔法武闘大会
しおりを挟むファルガス学園は大陸屈指の教育機関であるにも関わらず、身分や年齢問わず幅広く生徒の受け入れを行っている。
どのような科目を選択するかによって授業料は変わってくるが、特に基礎的な知識や簡単な計算、魔法や武術の初歩は非常に良心的な価格で学ぶことができる。
特殊な技術や高度な知識を必要としない平民ならそれで十分なのである。
しかし好きな教科だけを勉強するのでは知識に偏りが出るということで、この学園には必修科目という名の在籍しているなら必ず受けなければならない授業というものが存在する。
大講堂で行われるそれは、今現在、異様な静けさに満ちていた。
多くの生徒が一点を見つめてひそりとも音を立てない。異様な空間だった。
緊張に張り詰めた空気の中、講師の男が眉間に皺を寄せて一人の生徒に厳しい眼差しを送っている。
「今、何と言った?」
怒気を含んだ声に講堂内の緊張感が高まっていく。
数百という視線を一身に受ける生徒の態度は実に堂々たるものだった。
凛とした声が答える。
「退室する。理由はさっき言った」
「嘘に塗れた妄想話に付き合う気はないと⋯⋯まだ魔素の基本的な説明しかしていないが、妄想話とはどういう意味だ?」
「説明してもおまえに理解はできないだろう。時間を無駄にする気はない」
「待て!!」
講師の制止の声を無視し、大勢の生徒達の視線を背に受けながら講堂を後にした彼女は人通りのない廊下を進む。
その確かな足取りは一つの小さな教室の前で立ち止まり、扉を開こうと指を近付けたのだが、その動きがピタリと止まった。
何やら中が騒がしい。異変に気付いた彼女の耳に、よく知った声が届いた。
「やめなさい!」
「なんで?精霊なんて自分じゃ出せないだろ?わざわざ見せに来てやったんだから喜べよ」
「先生の為にこんな薄汚い場所まで足を運んでやったんだぜ」
「頼んでない。早く自分の教室に戻りなさい」
「一介の底辺教師風情が僕に命令できる立場だと思っているのか?お前なんか今日クビにしてやることもできるんだぞ」
「思い上がった愚民を分からせてやるのも高貴な血を持つ者の仕事だな。仕方ない。やれ、フニル」
扉を開けて教室に入ったイシュリアは右手を軽く振る動作だけで、男に攻撃魔法を放とうとしていた精霊を消した。
突然精霊の姿が消えて驚く男子生徒は、現れた第三者に怪訝な目を向けて息を呑んだ。
圧倒的な美貌で彼らの言葉を奪ったイシュリアは硬直する二人につかつかと歩み寄ると、氷のような声で言い放つ。
「目障りだ。去れ」
「なっ⋯⋯僕が誰か知っての狼藉か!」
「知らん」
いくら相手が度肝を抜く美人と言えども、選民意識と特権階級者特有の矜持に凝り固まった彼らにとって侮辱されることは許し難く、今や揶揄って遊んでいた教師のことなどすっかり忘れて二人の意識は完全にこの無礼な少女に向いていた。
「謝るなら今のうちだぞ」
「⋯⋯⋯」
「今更怖気付いても遅い。お前には躾が必要なようだな」
男子生徒の一人が攻撃魔法の呪文詠唱を始める。
彼の手の平の上に炎の灯火が浮かび、みるみるうちに丸く形をつくっていく。
「やめろ!」
教師が止めに入ろうとするが、すかさずもう一人の生徒がさせまいと立ちはだかって邪魔をする。
こんなことで怪我をするような子ではないとライアルは頭では分かってはいたが、それでも肌を焼かれる痛みを知ってるだけに心配が先に立ってしまう。
ついに詠唱を終えた生徒の手から火の玉が放たれた。
しかしそれは少女に触れる前に、彼女の後ろから伸びた黒く大きな手に握り潰された。
ギョッとしたのは生徒だけではない。ライアルですらも言葉を失い、突然現れた巨大な怪物を見上げた。
室内の温度が急激に上がる。口が開けられない。開けたら最後、灼熱が喉を焼くだろう。
二足で身体を支える黒々とした大きな獣は、炎をその身に纏い、マグマのような燃え滾る眼で男子生徒を見下ろしている。
見た事のない怪物だった。こんなものがいるという話も聞いたことがない。
先程の威勢はどこへやら男子生徒はぶるぶると震えることしかできない。吐く息は短く喉に引っ掛かり、恐怖によって溢れ出た涙が床に染みを作る。
身動きの取れない彼らの中で、イシュリアだけが平然としていた。
「私は去れと言った。つまみ出されたいか?」
二人は弾かれたように飛び上がると、床を這うようにして扉に駆け込んだ。
彼らが去った直後、炎の怪物は空気に溶けるように消え、後に残されたのは灼熱の余韻だけだった。彼らが落とした涙の粒は既に蒸発して跡もない。
イシュリアはまだ呆然としているライアルに近寄ると、彼の背中に腕を回して胸に顔を埋めた。
「!?お、おい!?」
突然の出来事に混乱しながらもどうにか引き剥がそうと試みるが、その細腕のどこにそんな力があるのかと疑うくらいびくともしない。
「離れろ!聞いてるのか!?ッ頼むから、こんなところ誰かに見られたら⋯⋯!」
「手遅れだぜ。⋯⋯お前らそんな仲だったのかよ」
声のした方を振り向くと、開いた扉に長身の男が立っていた。いつぞや肩の骨を抜いてくれた警備隊隊長のグラビッドである。
絶望的な気分で天を仰いでいると、ようやくイシュリアが動いた。
狼狽極まりないライアルに対して、彼女は普段通りの無表情で何事も無かったかのように離れ、いつもの席に座った。
机の上に置いてあった本を手に取り読み始める。
「⋯⋯この状況に疑問を感じている俺がおかしいのか?」
「安心しな、お前は正常だ」
まだ顔の赤みが引かないライアルが唖然と言うと、警備隊隊長は後ろ手に扉を閉めて悠然とした足取りで教室に入ってきた。
イシュリアは視線すら寄越さなかったが、男の浅黒い手が本を取り上げたことにより強制的に読書を中断された。
そこで初めて少女の目がグラビッドに向いた。
「邪魔をしないでほしい」
「嬢ちゃん、俺はな、できるだけあんたに会いたくなかった。何故だかわかるか?」
「わからない」
「お前が化け物だからだ。人間は化け物には近寄らないものさ」
「おい」
ライアルが低い声を放ち鋭く睨む。
その視線を受けてグラビッドは逞しい肩を竦めた。
「でも、そんな化け物のお前の為に怒ってやるような身の程知らずのお人好しを少しでもこの学園に長く居させてやりたいなら、さっきみたいな過度な接触はやめてやれ」
彼の忠告はイシュリアにはあまりピンとこなかったらしい。
「過度な接触の具体例を教えてくれ」
「抱擁だろ、キスだろ、夜にベッドの上でくんずほぐれつ⋯⋯ああ、これは朝でも昼でもベッドの上じゃなくても問題だな」
「グラビッド!」
怒気を含んだライアルの声が飛ぶ。
イシュリアは何故ライアルが怒っているのかわからず、彼に質問した。
「くんずほぐれつとは?」
「グッ⋯⋯そ、それは⋯⋯お前にはまだ早い!まだ知らなくていい⋯⋯」
グラビッドが呆れた目をしている。
「早すぎるこたァねえだろうが。そいつ、結構頻繁に空き教室やら茂みの中やらに連れ込まれてんだぜ?」
目を見開くライアルが物凄い剣幕で少女に迫った。
「何かされたのか!?」
相変わらず話についていけてない少女に代わり、グラビッドが答えた。
「何かされたのは相手の方だ。見たくない顔が複数人の坊ちゃん達に囲まれて人気のない場所に引っ張りこまれたと思ったら、十秒も経たずして一人で出てくるんだ。そろそろ伸びた野郎の介抱にも飽きてきたぜ」
「連れ込まれる前に助けに入れ!何の為の警備隊だ!」
「相手はお貴族様だぞ。変なことして睨まれるのは勘弁だ。まあ、この嬢ちゃんなら好き勝手されないとわかってるからこっちも気楽に構えていられる」
「構えるな!真面目に仕事しろ!」
グラビッドがやれやれと言わんばかりに首を振って息を吐く。その飄々とした態度にライアルの眉間の皺が深くなる。
「仕事ならしてるぜ?さっきも身なりだけは立派な坊ちゃん達が絶対に寄り付かない薄汚れた教室に入っていくのが見えたもんで、助けに入ろうとしたところだ」
言いたいことをぐっと飲み込んで、ライアルはじとりとした眼を男に向けた。
「結局入って来なかったが?」
「この嬢ちゃんが来たからな。あーやだなーどうすっかなーつって悩んでたところに本職の俺が震え上がるくらいの殺気と威圧感だ。いやほんとマジで何した?」
最後の疑問は少女に投げ掛けられたものだった。
彼女は端的に答えた。
「イフリートを召喚した」
「イフリート?」
グラビッドとライアルの声が重なった。
少女は頷いた。
「精霊だ」
こういう時の彼女はいつもそうだ。勿体ぶるという行為をしない。
「人間は目に見えるものでしか危機的状況を判断できないらしいからな。わかり易く自分より強そうなものが居たら恐れを成して逃げていくだろうと考えた」
「その目論見は成功したようだが、イフリートってのは何だ?そんな精霊がいるなんて聞いたことがないが⋯⋯」
「あれなら広く認知されているはずだが?」
「はん?」
「おまえ達はあれを『地獄の門を護りし炎の魔獣』と呼んでいるだろう」
これを聞いた時の二人の反応は面白かった。眼球が目から飛び出し顎が顔から落っこちそうな有り様と表現すればその驚愕がいかに大きかったか分かってもらえるだろう。
二人の脳内に一つの絵が浮かんだ。それは古より姿形を変えず、人の身では到達できない灼熱の地に君臨せし魔物の姿だった。赤黒い表皮に覆われた禍々しい見た目と全てを焼き尽くす業火は破壊を象徴しているとも言われ、伝説の存在として恐れられている。
「それが⋯⋯そんなものがこの教室に⋯⋯」
「⋯⋯マジで実在してたのかよ」
実際に目にしていない分、グラビッドの方が回復が早かった。
疑わしそうに天井を見上げている。
「しっかし⋯⋯『地獄の魔獣』ってのは結構小さいんだな。この教室に収まっちまうんだから」
「それは私が寸法を調整して顕現させたからそう思うだけだ。実際はもっと大きい」
「⋯⋯⋯本来の大きさは?」
「ちゃんと測ったことはないが、さっきのを二十倍したくらいか」
ライアルは倒れるかと思った。
あの熱量。あの迫力。今思い出しても歯の根が震える猛々しい姿。本能が危険だと必死に叫んでいた。
「⋯⋯あれが精霊?」
「現に召喚してみせただろう。精霊ならともかく私は魔物を呼び寄せることはできない」
「そうか⋯⋯それもそうだな。なんだろう、お前にもできないことがあって安心した」
ライアルはどっと疲れに襲われて教壇の近くにあった椅子に座った。
「お前と出会って早一ヶ月か⋯⋯やれやれ、全く気の休まる時がない」
そう言いながらもライアルの口元は綻んでいた。
その心境をグラビッドがずばり言い当てた。
「学園に未練ができたか?」
「⋯⋯まあ、そうとも言えるな。彼女を放っておいたら何をするかわからん」
「俺としてはお前みたいな超弩級の変人が手網を握っておいてくれると安心なんだがね。二ヶ月後の引き継ぎはちゃんとやっておけよ」
「隊長殿、頼んだぞ」
「やだよ。死んでも御免だ」
男達の会話を黙って聞いていたイシュリアが口を挟んだ。
「二ヶ月後に何があるんだ?」
その質問に驚き、グラビッドがライアルに訊ねる。
「言ってないのか?」
ライアルは不思議そうな顔をしながら言った。
「ああ。言う必要もないだろうと⋯⋯」
「そりゃあ嬢ちゃんが可哀想じゃねえか。こんなに懐いてンだから退職時期くらい教えてやれよ」
「彼女が気にするとは思えんが⋯⋯」
「退職?」
少女の声が二人の会話を中断させた。
「それはライアル、お前がこの学園を去るということか」
静かな少女の迫力に押されつつ、ライアルはぎこちなく頷いた。
「なぜだ?」
「何故って⋯⋯生徒のつかない教師に需要はないだろう」
「生徒なら私がいるだろう」
「有り難いことだが、一人ではな。食堂でも人気のない料理はメニュー表から排除されるだろう。それと同じだ」
「メニュー表から排除するものを決めるのは誰だ?」
「料理長だな」
「おまえの場合は?」
「学園長だな」
その瞬間、二人の見ている前でイシュリアの姿が消えた。
ライアルとグラビッドは互いに引き攣った顔を見合わせた。
先に沈黙を破ったのはグラビッドだった。
「学園長室が跡形もなく消し飛ぶ前に止めに行くべきだぜ、保護者」
「ならお前もついてこい。後任者」
「ぜってぇヤだかんな!?」
二人は言い合いながら教室を飛び出し、廊下を全速力で駆けた。
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