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第14話

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 自分の部屋で練習をすると、やはり上達が早い。
 相変わらず音を色で識別するけれど、教本の音符に色を塗ることも少なくなり、音階もびっしりとは書き込まなくなった。
「譜面が、だんだん白くなっていくね」
 感慨深げに佐賀美さんが言う。
「ですが、まだ、ヘ音記号の読み替えが遅くって」
「じきに慣れるよ。そのうち無意識に切り替えができるようになるから」
 残業を兼ねての深夜レッスンは続き、知らぬ間に本格的な夏が来ていた。
 倉庫にはエアコンなんてものはないから、気温も湿度も外と同じで蒸し暑い。
「今夜は特に暑いな」
 佐賀美さんが、紺色のハンカチで額の汗を拭く。
「ええ、ほんとに」
 僕もワイシャツの下で汗をかいている。
「そういえば来月だっけ? このピアノが回収されるのは」
「はい。詳しい日程は聞いていませんが」
 僕は深く考えず、まるで資材の搬出のような感覚で答えた。
「そうか……これが無くなったら、レッスンができなくなるんだよなあ」
「!」
 すっかり忘れていた。
 ピアノが撤去されるという事は、二人のレッスンの時間も消滅してしまうのだ。  
 途端、気が動転し、身を引き裂かれるような寂しさが全身を襲う。
 背中の汗は急激に冷たくなり、ついには何も考えられなくなった。
「おい。大丈夫か」
「あ……! はい」
 佐賀美さんの声で、僕は我に返った。
「今にも泣きそうな顔をしてるじゃないか。具合が悪いのか。顔色も良くないぞ」
 その言葉に、今度は恥ずかしさで耳と頬が赤くなる。
「いえ、大丈夫です」
 無駄なあがきだが、赤面した顔を隠そうと下を向く。
「……そうですよね。このピアノ、一時保管ですもんね。いつまでもここにあると思い込んでいました」
 手と声を震わせながら、僕は力なく笑った。
「それでは、ピアノが撤去されるまでの間、改めてご指導のほど、よろしくお願いします」
 僕は深く頭を下げる。これからのレッスンは、僕にとっての大切な想い出となるからだ。
「あ? ああ。もちろんだよ」
 佐賀美さんは僕の言動に戸惑いつつ頷く。
「自分の部屋でも……できる限り練習して、進めるところまで……頑張りますので」
 声が震え、視界が涙でぼやける。 
 しっかりしろ。ここまで弾けるようになったのだから、一つの区切りだと思えばいいじゃないか。
 それに、多忙な佐賀美さんの好意に甘えるのも、これ以上は負担となる。
 実際、現場はこれから今よりもっと大変になるのだから。
 でも、とても悲しい。大声で叫んでしまいたいくらい苦しい。
 佐賀美さんとは同じ現場で仕事をしているのに、部署は違えど同じ会社なのだから、いつだって顔を合わせられるのに――けれど、猛烈に寂しい。どうしようもなく辛い。
 僕は両方の拳を膝の上に置き、背中を丸めて黙り込む。
「藤沢君」
「……はい」
「ピアノ、続けたいのかい?」
 涙目でうつむいている僕に、優しく問う。
「はい。続けたいです」
 消え入りそうな声で、僕は答える。
「そうか……」
 しばしの静寂が二人を包む。
 蛍光灯に群がる虫の羽音だけが、蒸し暑い倉庫に響く。

「よし! 決めた。決めたぞっ。藤沢君!」
 唐突に、佐賀美さんが大きな声で言った。
「俺の部屋に、習いに来い!」
「ええーっ?」
 僕は驚きのあまり目を丸くして、佐賀美さんの顔を見上げた。
「実は前から考えてはいたんだ。調律されていないピアノで初心者を教えるのは良くないって」
 一番歪んだ音を出す鍵盤を押しながら、佐賀美さんは続ける。
「俺のも電子ピアノだが、かなりいい音が出る。週末は俺の部屋でレッスンして、ここでも搬出されるまで弾こう。それなら続けられるだろう?」
「でも、よろしいんですか。せっかくのお休みなのに」
「かまわん。藤沢君は思いのほか熱心だ。それにな――」
「何でしょう」
「そんな顔されたら、とてもじゃないがレッスン中止なんて、できないよ」
 そう言って、大輪の薔薇のような笑顔を僕に向けた。
「あ……ありがとうございます!」
 またしても僕の耳と頬が赤くなる。
 でも今度は嬉しいからだ。しかも絶望からの緊張が解けたせいで、額から汗がドッと吹き出してしまう。
 するとそれを見た佐賀美さんは大げさにハンカチで顔を扇ぎ始め、「いやあ、藤沢君! 今夜は熱帯夜だな。な、そうだろう?」と、強引に同意を求める。
 僕の赤面と汗を暑さのせいにして、恥をかかせないようにしてくれているのだ。
「……はい。もう、暑くて汗が止まらなくて」
「だろ? あ、蚊がいるぞ! 今度から虫よけも持ってこなくちゃな。はー、暑い暑いっ!」
 僕は、この人が好きだ――心の底から、大好きだ。 
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