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第16話

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 晴天の土曜、昼下がり。佐賀美さんの部屋。
レッスンが終わって一息ついていると、佐賀美さんの携帯電話にメールの着信音が鳴る。
「ん? 誰だ」
 しかしそれを読むにつれ、口はへの字になり、眉間には縦皺が増えていく。
「……無茶を言いやがる」
 佐賀美さんが小さく舌打ちした。
「どうしましたか。現場で何かありましたか」
「いや、現場じゃない。会社関係じゃない」
 プライベートなら口出しは無用。だが、もしや新しくできた彼女からの「今すぐ逢いたいから迎えに来て」メールか。
 けれど佐賀美さんは、勝手な憶測をして勝手に動揺している僕をよそに、すぐそばの大きな本棚へ手を伸ばす。
 そこにはぎっしりと譜面や教本、専門的な音楽理論の本が並んでいる。
 隅の方には建築学の書籍もあるけれど、大半がピアノに関するものだ。
 その中から三冊の分厚い本を引っ張り出すと、ページを広げ、目で追い始めた。
 それは細かい五線譜に小さな音符が密集している譜面。非常に難解な曲と思われる。
「あの……いかがなさいましたか」
 おそるおそる聞く。
「ピンチヒッターの要請が来たんだ。悪く言えば、貧乏くじってやつだ」
「え?」
「来週の日曜、弦楽器演奏会のピアノ伴奏をしてくれって。回りまわって俺んとこまで来た。演奏予定者が急用で、どうしても出られなくなったらしい」
「それって、すごいじゃないですか!」
 彼女じゃなくてひと安心。かつ、突然の華やかな音楽業界的オファーに、つい興奮。
「全然すごくない。練習の時間も、音合わせの時間もない。物理的に無理だ。断る」
「でも、せっかくのご指名なのに」
「現場第一だ。こっちもスケジュールぎっちりだろ。社内検査と安全協議会があるし」
「それはそうですけど」
「こんな入り組んだ曲、一週間で完成できるかよ。高瀬教授は俺がよほど暇だと思っているらしい」
「高瀬教授? もしかして、大学の?」
 家電量販店での会話の中に、その名前を聞いた記憶がある。
 しかも、その教授の娘と碓井は結婚していたはず。
「そうだ。このメールは高瀬教授からだ。俺が卒業した大学の、音楽科の教授さ。なんでも、めぼしい演奏者は予定が合わないし、学生に弾かせるには少々問題があるらしくてな」
 ということは、プロの演奏会か。
 建築科へ転科したのに、今でもこんな話が大学の教授から直接来るなんて、この人、何者なんだろう。
「碓井の野郎が出ればいいのに、あいつは仕事で地方に出張なんだとさ。だから困り果てて、俺の所まで連絡が来たんだ」
「つまり、高瀬教授は佐賀美さんの才能を見抜いているんですね」
「ふふふ。上手い事を言うねえ。でも断る。無理無理っ!」
 そう言いながらも、目は譜面を見つめている。
 本心は、やりたいのではないだろうか。  僕もまた、そんな華やかな場所で演奏する佐賀美さんを見てみたい気持ちになってくる。
「早々に断っておこう。次の人を探してもらわなきゃ、演奏会に間に合わないからな」
 そう言って、メールを打ち始める。
「電話の方が失礼じゃないんだが、今回はメールが得策だ。下手に会話をすると、ドツボにはまって断れなくなるからな」
「あ、あのっ! 佐賀美さんっ」
「ん? 何だ」
 切羽詰まったような僕の声に、怪訝な表情で携帯電話から顔を上げる。
「佐賀美さんが演奏する姿、見てみたいんですけど」
「簡単に言うなよ。今の現場の状況、藤沢君だって知ってるだろう」
「ですが」
「だめだ。こういうのはな、ただ単に譜面通りに弾けばいいってもんじゃないんだ。体に音を入れて、他の楽器と、きっちり合わせるものなんだ。全員で音楽を一枚の完成した絵にするものなんだ。俺達の現場と同じだよ。解るか?」
「……はい」
 一枚の完成した絵。
 その言葉は僕の胸にずしりと響き、浮ついたお祭り気分は瞬時に消えた。
「皆が全身全霊をかけて演奏してるのに、俺だけ魂の抜けたような伴奏なんかできるかよ。夜中に現場から帰った後にチョロチョロ練習したって間に合わない。それは出演者にも観客にも失礼な事なんだ」
 確かに真実だ。けれど何となく、それは僕に対して言っているのと同時に、自分自身へ言い聞かせているようにも思えた。
 その証拠に、指が譜面をなでている。悔しそうな目で、未だ音符を追っている。
「だからもっと早く連絡をくれていれば、どうにかなったのに……くっそーッ!」
 唇を噛み、拳で机をドンと叩く。
 無念さが、全身から溢れ出ている。
「……」 
 そんな佐賀美さんを見て、僕はある決心をした。
 それは、自分が今まで積み重ねてきた技量と技術力への挑戦でもあった。
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