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第55話

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「棚部君。これからフジと数社、回って来る。資材の荷受けを頼めるかな」
 涼しい風が吹く、日差しも穏やかな水曜日の午後の事。
「戻る時間は分らないが、かなり遅くなると思う」
「分りました。いってらっしゃい」
 棚部が笑顔で頷く。
「よし。フジ、出るぞ」
 佐賀美さんが車の鍵を握って立ち上がる。「はい」 
 僕は内心、戸惑いながら席を立つ。
 なぜ僕を連れて行くのだろう。施工の件なら、現場代理人の棚部の方が僕より把握しているし、打ち合わせも、その方がスムーズに進むだろうに――と。
 そのように助手席であれこれ考えを巡らしているうちに、車は一件目の会社の駐車場に停まる。
「フジはここで待っていろ。すぐに戻る。承諾図を提出するだけだから」
「はい」
 そして、言った通りに数分で帰って来た。
「さて、これで仕事は終了だ。次は菓子折を持って大学へ行くぞ」
「大学? 他の会社は?」
「用事はな、実はこれ一件だけなんだ」「え!」
「棚部には数社って言っておかないと、時間が稼げないからだ。で、大学ってのは俺の母校だ。高瀬教授に話があってな。アポも取ってある。でも碓井の野郎も教授と同室だから、何かと気遣いしなきゃならんのが面倒だ」
 それを聞いた瞬間、全身がこわばる。
 やはり会社を退職し、音楽の世界に帰ってしまうのか。
 勝ち誇った碓井の顔が脳裏をよぎり、悔しさと悲しさで激しく動揺する。
 僕達は、これでお終いなのか。
 悄然としながら、工事現場の砂利で埃っぽくなっている自分の安全靴を見下ろす。
 僕の生きる世界と、佐賀美さんが生きる世界――その境界線を顕著に表す象徴を。
「フジ。そんな顔するな。安心しろ。俺は大学には戻らんし、碓井とヨリを戻す気もない。前にあいつをぶん殴ったの、忘れたのかよ。これから断りに行くんだ。正式にな」
「え……!」
「だからほら、いつものように笑え。キスしてやりたいけど、人目があるからできない」
 指先で優しく、僕の頬を軽く突く。
「よかった……! ずっと不安だったんです」
 安堵して、涙が滲む。
「何だお前、泣いてんのか」
「だって……恐くて聞けなかったんです。もしかしたらって……」
「馬鹿だな。俺はフジと一緒にいる。フジと、いつまでも現場に立つ。技術者としてな」
 運転席の佐賀美さんは、左手で僕の右手を握り、力を込めた。
 途端、鈍い痛みが痕の残る手首に響く。
 でもそれは安心と幸せで、逆に喜びへと変わる。
「さあ、行くぞ」
 佐賀美さんは晴れ晴れとした表情で車を発進させた。
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