上 下
57 / 70

第57話

しおりを挟む
「いやいや。佐賀美君の気持ちは良く解っているよ。ただこれからも今まで通り、時々ピンチヒッターを頼まれてくれないか、という意味だよ」
「しかし、お誘いはありがたいのですが、私は現在、大きな工事現場を担当しています。なので、これからはもっと多忙になると思います。そうなると、この子に大きな負担がかかってしまいます。今回も体を壊す寸前まで無理をさせてしまいました」
「ううむ。それは困るし、かわいそうだ。しかしなあ……」
 高瀬教授は腕を組み、首を傾げる。
 この人は佐賀美さんの才能を見込んでいる。だから断られても、ここまで食い下がるのだ。
「あの、佐賀美さん」
 僕は小さな声で後ろから声をかけた。
「何だ」
「もし僕でよかったら、また仕事のお手伝いをします。だから、ぜひ演奏会の舞台に立ってください」
「だめだ。もし倒れたりでもしたらどうするんだ」
「倒れません。大丈夫です」
「だめだ。絶対に、だめだ」
 佐賀美さんは僕を心配するのと、ピアノを弾きたい顔がごちゃ混ぜになった表情をしている。
 優しくて素直な僕の揚羽蝶が、だめだと言いつつ、迷った顔で僕を見つめている。
 よし。決めた。
 こうなったら現場でも舞台でも、思い切り羽ばたかせてあげたい。僕にできる事なら何でもしよう。
 この人は、どんな状況にいてもピアノを弾く運命なのだから。
「任せてください。今回の件で自信もつきましたし、次回はもっと効率の良い仕事の段取りを組みます。もちろん体調管理もしますから」
「……本当に、いいのか?」
 佐賀美さんが、僕の目をじっと見る。
「はい。ピアノ、いっぱい弾いてください。全力で協力します」
「フジ……」
「よしよし。これで決まりだな。では、その時は遠慮なく佐賀美君を借りるよ?」
「はい! 喜んでお貸しします」
「こら、フジ。俺はレンタル品かよ」
 佐賀美さんが目を細め、顔をほころばせながら僕に文句を言う。
「ははは。佐賀美君は幸せ者だねえ。これでめでたく一件落着。今夜の晩酌は最高だよ」
 だが、ご機嫌の高瀬教授の隣で、碓井が僕を睨んでいる。
 僕のせいで大学には戻って来ないし、ヨリも戻せず、目障りでしかたないのだ。
「おや、講義の時間だ。では佐賀美君、藤沢君。ここで失礼するよ。また連絡するからね」
 高瀬教授が席を立つ。
「はい。では改めて、これからも藤沢と共にお世話になります。よろしくお願いします」
 佐賀美さんと僕は並んで深々と頭を下げる。
 今後の佐賀美さんの出演は、僕も絡む事になる。これはまた痩せるほど大変だけど、誇らしいのと同時に、胸がわくわくした。
「こちらこそ頼むよ。じゃ、碓井先生。あとはよろしく。コーヒーを入れて、皆で今いただいたお菓子も食べるといいよ」
「はい。お心づかいに感謝します。いってらっしゃいませ」
 碓井は丁寧な言葉とはうらはらに、感情を押し殺したような抑揚のない声で言う。
 そして高瀬教授が部屋から出て行くと、鬼のような顔を僕達に向けた。
 こっちの方は一件落着ではない。その逆だ。
しおりを挟む

処理中です...