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第70話

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 会社の倉庫に保管していたグランドピアノの撤去日が来た。
 よく晴れた、土曜日の昼下がり。
 会社は休業日だが、倉庫には作業服姿の男性社員が軍手をはめて数多く集まっている。
 ピアノを撤去した後、その空いた場所に資材を移動するためだ。
 僕と棚部は後ろの方にいて、佐賀美さんはピアノの前に立っている。
 
 予定の時間通りに大型のトラックが入口へ横付けし、数人の回収業者が倉庫に入って来た。
「ピアノを引き取りに参りました」
 責任者と思しき年配の男性が挨拶する。
「よろしくお願いします」
 入口近くにいた田上課長が頭を下げる。
 佐賀美さんが目の前にいるからか、余計な事は一切言わず、それきり口は閉じている。
「年季の入ったピアノですね」
 先ほどの責任者が、床や壁周辺を守るための保護材を広げながら言う。
「でも、こんなに綺麗に磨いてもらって、ピアノもきっと喜んでいるでしょう」
 他の回収作業員も、その言葉に笑顔で頷きながら、てきぱきとドアを外し始める。
「やはり、解体でしょうか」
 佐賀美さんが責任者に話しかける。
 それは祈りに近い口調でもあった。
「そうですねえ……」
 責任者は、ぐるりとピアノを一周した後に響板を覗き込み、小さく唸る。
「側板の大きなキズが致命的で、中も汚損が激しいので、多分、残念ですが……」
「そうですか」
 佐賀美さんは寂しそうに目を伏せて、その大きなキズを優しく撫でた。
「それでは搬出作業に入ります」
 責任者が回収作業員達に目で合図し、全員がピアノを取り囲む。
 だが、その時――
「あの……」
 ためらいがちに、佐賀美さんが責任者に声をかけた。
「すみませんが、お時間を少々いただけませんか。十五分程度で終わりますので」
「はい。かまいません」
「ありがとうございます」
 佐賀美さんは、そう礼を言った後、鍵盤蓋を開け、二脚並んだピアノ椅子のうちの一つに座った。
    
 社員達は訝しげに佐賀美さんを見ている。 一体、何を始めるのだろうと。
 でも、僕は理解した。瞬時にこの人の胸中を察した。
 あれほどピアノを弾く事を社内で隠していた人が、今、皆の前で演奏しようとしている。

〈回収されて解体されるまで、俺が弾いてあげようと思った〉

 これは二人で会社の床で寝た夜に、佐賀美さんが言った言葉だ。
 解体される運命のピアノに対する、あの人なりの最後のはなむけ――
 今、鍵盤を見つめるその瞳は、悲しみに溢れている。
 自分のものではないとはいえ、搬出され、解体の末に廃棄されるのが辛くてたまらないのだ。
 学生時代、碓井が部屋を出て行った後、佐賀美さんは廃棄ではないが同様の事をした。
 それをまた繰り返す悲しみに、この人は打ちひしがれているのだ。

〈たとえ、キズだらけで音が変でも?〉
〈かまわない〉

 素人の僕の失礼な質問に、静かに答えてくれた佐賀美さんの、ピアノに対する深い愛情――
    
 僕は軍手を外すと、それを作業服のポケットに突っ込んだ。
 行かなくては。あの人のところへ。
 身を引き裂かれるような思いをしている、愛する人のすぐそばへ。
 あの人を独りぼっちになんて、僕は絶対にさせない。
「お、おい? 藤沢、どこ行くんだ」
 僕は当惑する棚部に目で会釈した後、社員の間をすり抜け、佐賀美さんの横に立った。
「フジ……ピアノが……」
 佐賀美さんが、とても小さな声で言う。そして泣きそうな顔で僕を見た。
「大丈夫です。約束したでしょう? 悲しい時も、嬉しい時も、僕はあなたのそばにいると」
 他の人には聞こえないように、僕は耳元でそう囁く。
 すると佐賀美さんは安心したように瞼を閉じ、それからゆっくりと頷いた。
    
 佐賀美さんの、凄まじく、かつ、繊細なピアノの旋律が倉庫に響き渡る。
 社員は唖然。だが茶化す者は一人もいない。全員が、その演奏に圧倒されていた。
 一方、回収業者の人達は、このような場面を幾度も経験しているようで、全員が神妙な顔つきで姿勢を正し、佐賀美さんとピアノを見つめている。

 音が唸る――
 
 歪んだ音の鍵盤も、かろうじて音の出る鍵盤も、一緒になってピアノは歌っていた。
 
 これで最後。もう、誰にも弾いてもらえない――
 
 ピアノは精一杯の声を張り上げ、ビリビリと振動し、泣きながら歌う。
 この世に送り出されてからの、様々な思い出を胸に、佐賀美さんの手を通じて、感謝と別れを告げている。
 
 ありがとう。楽しかった。さようなら――

 これに共鳴して、僕の目からドッと涙が溢れ出す。
 この傷だらけのグランドピアノのお陰で、佐賀美さんと、嘘偽りの無い自分自身に出会えた。
 このピアノのお陰で、僕は音楽の素晴らしさを知り、また、恋する不安と苦しさ、そして愛する喜びを得ることができた。
 ありがとう。本当に、ありがとう……!
 心の中で、僕は何度もピアノに礼を言った。

 佐賀美さんの、鎮魂の演奏が終わった。
 それは同時に、自分が「何者なのか」を社員にカミングアウトした瞬間でもあった。
 数秒の間が空いた後、轟くような拍手が倉庫に響く。
 社員も回収業者の人達も、全員が軍手を外し、力の限りに拍手をしている。
 佐賀美さんは照れくさそうに、皆に向かって深く頭を下げた。
 そして、横で泣いている僕に気づき、微笑みながら人目を気にせず、指で涙を拭ってくれた。

「フジ、座って」
 佐賀美さんは、僕をもう一脚のピアノ椅子へと促す。
 そして戸惑いがちに僕が座ると、次に耳元で「きらきら星」と言った。
 このピアノで弾くのは最後だよ、と。
 そこで一瞬、躊躇した。
 暗譜は完璧で、レッスンのたびに連弾はしているけれど、人前で弾くのは初めてだからだ。
 でも佐賀美さんが隣にいる。だから大丈夫。きっと、大丈夫。
 佐賀美さんに続き、音痴で有名な僕までが鍵盤に向かうのを見て、社員は顔を見合わせている。
 その空気に、つい気圧されそうになる。
 けれどその時、佐賀美さんが僕にウインクした。
 勇気を出せと。俺が隣にいるからと。

 よし、やるぞ。
 棚部、見ていろ。この人が、僕の最愛の、お前の言う「面倒な彼女」だ。
「フジ、準備はいいか」
「はい!」
 いつもの通りに僕が息を吸うと、佐賀美さんも息を吸う。
 僕達は呼吸を合わせ、ぴったりと寄り添った。
 音も、心も、躰も、ひとつになって――

 一台のピアノに、四つの手。
 可愛らしい旋律が窓を通り抜けて、夏の青空に溶けてゆく。
 今、改めて思う。なぜ、このピアノに椅子が二脚あったのか。
 もちろんそれは、愛する人と連弾をするためだ。
「もう一度、初めから繰り返して、リピート記号の所で終わりなさい」
 曲が終わりに近づいた頃、いつものように指示が飛ぶ。
「はい」
 僕も、いつものように返事をする。

 そう、「きらきら星」は僕達の曲。
 ピアノを弾いていた佐賀美さんと遭遇した、あの夜の想い出。
 満天の星空の下、僕達は恋に落ちた。
 道のりは決して平坦ではなかったけれど、僕の隣には今、佐賀美さんがいる。
 美しい揚羽蝶が、僕と一緒にピアノを弾いてくれている。

 この麗人、独占欲が強くて、嫉妬深くて、気性も荒い。
 その反面、脆くて繊細、非常に複雑。扱いにくい。

 それを承知で、僕は愛した。
 それを承知で、僕は全てを受け入れた。
    
 舞台に立つ佐賀美さんは、華やかなスーツ姿の揚羽蝶。
 ピンクのバラの花束が、とても良く似合うピアニスト。

 現場に立つ佐賀美さんは、作業服にヘルメット。
 図面と見積書の山に埋もれて、会社の床に寝る、作業服のピアニスト。

 もちろん両方、愛してる。

 そして僕は確信する。
 連弾は、信頼の上で成り立っているのだと。
 信じているから、二つの曲が一つの曲になるのだと。

 だから、いつまでも連弾を続けよう。
 僕の大切な、愛しいピアニストと共に――
              (完)
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